完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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中編


天花、綺羅よりも彼方よりも満ち溢れ

 

 

 フラワーとの待ち合わせ場所は、トレセン学園の校門前、要するにトレセン学園の中で一緒に過ごすことになった。ちなみにフラワーからの指定である。つまり普段行かないところに行くような、一般的なお出かけと呼べるものではないけれど、休日なのに学園に行くのならそれはそれでそれなりに特別なイベントだろう。むしろただのお出かけよりその方がずっと特別感があるかもしれない、そんなことを思った。フラワーは美化委員だから休日出勤も慣れてるのかな、だから今日は学園に誘ったのかも、などと。

 寝癖まじりのぼさぼさ頭を手櫛で直す。わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。右手で毛先の跳ねを整えつつ、左手であくびを受け止める。寝相のせいでくしゃくしゃの寝巻きも脱いで、服はいつも通りの制服に着替える。何度も何度も身につけたはずのそれは、今日はなんだか身体に馴染まない感じ。いつも通りの制服だけど、身なりに気をつけなきゃ、みたいな意識が袖を通す時にまで出てきてしまっているのだろうか。ううん、朝から緊張しているな。

 まあ、けれどそんなのも仕方のないこと。

 フラワーから呼ばれたのも、トレーナーさんにチョコを渡すのも。それらのことに今までにないものを感じてしまうのも、今日という日なら、仕方のないことなのだ。

 バレンタイン・デイは、誰もかれもが普段通りではいられない。

 乙女たちが心躍らせてしまう日だと、そう決まっているのだから。

 とん、とん、がちゃり。制服とセットのスニーカーを履いて、大きな玄関から一人寮の扉を開いて。まだ寒い冬空の下へ、朝早くからゆっくりと姿を現した。

 ……うわっ、寒いな。今は冬真っ只中、外に出るなり全身の毛が寒さで逆立つ感じで、外界に触れて早々立ち止まってしまったのだけど。

 まあフラワーもあっちの寮でそんな感じに寒さに耐えながら出てきてくれているわけだろうし、ここは我慢我慢。我慢しなくちゃ、せっかくの約束を破っちゃうからね。というわけで我慢しつつ、すーっとはーっと深呼吸。朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、冷たいはずのそれはなんだか私のことを心から全身まで暖めてくれる気がした。ちょっとだけ既に、いい気分。気持ちに少しスイッチが入る、そんな感覚。

 頭はまだぼんやり、若干眠気は残っている。澄み渡る青空の方を眺めても、まだ太陽は低いまま。つまり、まだ眠くて当たり前の時間帯ってこと。だから少しばかりは眠いなあ、みたいなことを思っても許してほしい。こんな時間のこんな日に学校に呼び出すなんて、フラワーも大概悪い女の子だ。いや、悪いのはまだ眠い私の方か。なんとか直接会うまでに眠気が飛んでいればいいけどな。

 

 とはいえ電話越しでも伝わるフラワーの真剣な態度が、若干普段の朝よりは私の眠気を減らしてくれていた気がした。だから多分、君のおかげで大丈夫。

 日曜に歩む学園への道は、見知ったものなのに知らないもののような気がした。周りには誰もいないから。私だけ、正確には私とフラワーだけが学園に向かう。いつもの道のり、いつもの場所。違うのは、今日という日だということだけ。それに伴う状況の変化、それだけ。

 けれどそれだけあれば、気持ちが浮き立つには充分だった。流石の私でも、今日この日、つまりバレンタインという日にフラワーに呼び出された理由くらいはわかってるつもりだし……多分。そのことだけじゃないかもしれないけど、そういった理由はあるだろうってことくらいはわかっちゃう。本当に純粋無垢なら察することなく驚けるのに、流石に意図を汲み取ってしまう。人を驚かせるのは大変だと、他人についてもそう思ってしまう。

 でも、わかってるならわかってるなりに精一杯をやらないとね。とびっきり喜んで、とびっきり感謝しなきゃならない。口下手な私だけど、それくらいは頑張らなくちゃ。もちろん義務じゃない。これは、私のやりたいこと。

 君のためだけど、私は君にちゃんと気持ちを伝えたいから。

 とくんとくんと心臓を鳴らし、こつんこつんと歩みを進める。今日という日に一歩一歩、一寸先の未来へ向かうために。いつか君がこぼした不安を、いつかの私が受け止めたように。ならば今日の君の気持ちも、私は絶対に受け止めたいんだ。それならやっぱり、向かい合わなきゃ。

 夜の寒さが残る朝はすぐに終わり、冬は徐々に陽の光に照らされていく。日が高くなるにつれて私たちから落ちる影も少しずつ小さくなり、いずれ空までもが明るく見えてくる。てくてく、とくとく。足と心臓を動かして、私は私の道を行く。君と私の、道を行く。休日も変わりなくいつも通り、学園まではあっという間だった。私なりの、予定通りだ。

 たどり着いた学園の門は休みでもしっかり空いていて、けれど誰もフラワーもいなかった。まあ当然休日だし、待ち合わせの時間からは十五分も前だから、こうなるのが当たり前といえば当たり前。それでも一応君を待たせるわけにはいかないしあとほらセイちゃん気まぐれですし。予定時刻もちゃんと守らないものなんですよ、私なんかは……。

 って、おや、あれは。少し遠く、されど近寄ってくるその姿を見つけて、私はそちらへ軽く手を振って。やがて返答のようにその小さくて愛らしい手のひらが控えめに振り返されると、そこから会話は始まって。

 ……なーんだ、君も同じ考えかあ。

 待ち合わせ時刻をお互い守らないんじゃあ、待ち合わせにならないじゃないか。

 

「やあ。おはよ、フラワー」

「おはようございます、スカイさん」

「随分早く来たね、まだ待ち合わせ時間じゃないよ」

「それはスカイさんもじゃないですか」

「そうかもね、なんならフラワーより早かったし」

「そうですよ、他人のこと言えないです」

 

 私よりひと回り小さい華奢なシルエット、全体的に丸くて細くて肉のない幼い身体つき。もちろん私の薄さとは違って、彼女は未成熟だからこそ小さいだけ。そんな発展途上にありながら、精一杯生きているのがいつも通りの彼女だった。

 今日も綺麗に前後の毛先まで整えられた黒鹿毛の髪の毛も、彼女なりの努力の現れ。私みたいなどうしても薄い身体の人間とは違って、彼女はまだまだこれから大きくなるんだもんね。いつかは背だって抜かされるかも。そうやって日々成長するよう、細かいところでも努力を欠かさないのが彼女らしさだ。

 そして何より、その彼女らしさというものが何よりも出ているのは、何気なく立ち振る舞われる一挙一動。たとえば今ゆっくりとこちらへ歩いてくる落ち着いた足並みのような、大人びたしっかりとした振る舞いの中に、また今私の言葉に対してあどけない笑みを顔いっぱいに浮かべるような、負担は隠しがちだけれどついつい滲み出てしまう幼さがある。そんな二面性、コインの裏表をどこかに持っている。

 けれどそのどちらにも言える本質は、一人の少女が持ちうるものに過ぎない。どっちだって、君らしさ。私のよく知る、ニシノフラワーというウマ娘だった。

 

「あの……ありがとうございます、今日は」

「いいっていいって、暇だったし」

 

 まあ本当はあとでトレーナーさんにチョコレートを渡す用事があるけれど、そういう(とりあえず今は)どうでもいいことは後で考えればいい。だから今は暇、これは嘘じゃない。それにそもそも誰かのお願いを断れるほど、私は強くも弱くもないし。そんなのはなあなあの曖昧な気持ちで受けてしまっている、みたいな見方もできてしまうわけですが。とはいえ曖昧なのは昔からだし、それに私はどうにも周りに人が必要だということのは、残念ながらトレセン学園に来てからわかってしまったことだ。

 トレセン学園で色々なつながりを持って、私は前を向けたのだから。

 そう、今だって。

 君との時間は、私をこの先へ導いてくれる。

 

「それでスカイさん、今日はですね」

「はいはいフラワーさま、なんでございましょうか」

「もう、すぐからかうんですから」

 

 くすり、口調に反して私の言動に嬉しそうなフラワー。私がいつもの調子だから、安心して今日お話しできるということだろうか。というわけで今日はフラワーのお願いごとを聞くし、ひょっとしたら逆に私もフラワーになにかお願いごとをするかもしれない。これはバレンタインだからというより、私と君だからって感じだけど。

 私の何かを見つけ出すのが得意な、君だから。それを包んで肯定してくれる、君だから。

 私と君のつながりだからこそ、見つけられるものだから。

 君はいつも、私に何かを見出してくれる。君が見つける私は多分、私には気づけていない私の姿。君にしか引き出せない、私の中の私。我が事ながらくすぐったいけど、彼女が私に見るものを憧れと呼ぶのだろう。そばにいながらも少し遠い、そんな君だから憧れを見つけられるのだろう。

 そして今日のこれも、多分その延長。なんといっても今日はバレンタイン。

 バレンタイン・デイは、憧れ焦がれ普段は遠く祈るばかりの想いでも。

 乙女たちの願い叶う日だと、そう決まっているのだから。

 

「まあでもなんにせよ、呼んでくれたのはむしろこっちがありがとうだよ。せっかくのバレンタインだもの。電話もらってからずっとドキドキしちゃったなー」

「もう、さっきからスカイさんたら、私のことおちょくって」

「ごめんごめん、フラワーを見るとつい。真面目な子を誑かしたくなる悪いトリックスターですので」

「はい、反省してください。さっきから私、何も言いたいこと言えてないじゃないですか」

 

 ……と、そういえばそうだった。そもそもフラワーが私を呼んだのだから話したいのはフラワーの方なのに、私ばかりが話してしまっていたな。ほんの数秒前、待ち合わせ直後の自分は聞くつもりだったのに。まあこれも仕方ないといえば仕方ない。言い訳にもならないけど、なんでも楽しくなってしまうのが君との会話だ。

 ……さて、というわけで一体なんだろうか、フラワーの要件とは。もちろんバレンタインとなれば、先ほどから期待してしまうものはあるのだが。いやそりゃあ普通の庶民派セイちゃんならそんな自意識過剰みたいなことは考えないけど、なにしろ今日は私だって他人に渡すわけだし、呼び出されたとなれば意識してしまうの無理もないだろう。

 って、本当にそうだとして、フラワーから「それ」を貰ったとして、私はどんな顔をすればいいのか? いわゆる友チョコというやつすら縁のない人生を送ってきたセイウンスカイという可哀想な女の子は、ここに来て八方塞がり逃げ場なしである。こんな四面楚歌で受け取るなんてことを避けるためにおべんちゃらを並べていたのか、というくらい。……ちゃんと満足いく反応ができるかなあ、私。まあ貰えるって決まったわけでもないけどさ。

 そんな私の複雑な心境などつゆ知らず、フラワーが私に一つ話しかける。思わず身構えてしまったが、なんてことのない内容だった。

 

「あの、とりあえず校内に入りませんか」

「それは確かに。立ち話もなんだしね」

「はい。とは言っても今日は、落ち着いて座って喋れる場所なんてないかもしれないですけど」

 

 なるほどフラワーのいう通り、休日の校舎は食堂も含めて大体の部屋が施錠されている。

 となればゆったり座れる場所などどこにもなくて、だから休みの日はトレーニング以外では誰もここには来ない。単に授業という学園に来る理由がないというのは大いにありそうだけど、学舎とは学びに時間を使う場所であるというのはある種の真理を言い当ててもいる。すなわち、勉強や練習がトレセン学園の本分であるということ。

 つまりそこにある人間関係は、あくまでそういったやるべきことに付随するものに過ぎない。私たちが休みの日に過ごすべきは一人の時間で、ゆっくり自分のことをするのが正解。私だって、そう思う。本来なら、それが正解。

 ……本来なら、だけど。

 

「それなら、いい場所があるよ。結構たくさん。トレセン学園絶好のサボりポイント」

「……サボり、ですか?」

「そう、だから多分フラワーは知らないようなところ。放課後にのんびり、なんてなかなかやらないでしょ。フラワーは真面目だから、空いてる時間があったら忙しくしちゃうし」

 

 本来なら、それが当たり前のことだろう。つながりなんてなくたって、人にはやるべきことがあって、そのことをやらなきゃいけないはず。

 だけど、人は常に真っ直ぐを歩けるわけじゃない。真っ直ぐやるべき事柄だけやるなんて、そんなふうにしていたらきっと疲れて倒れてしまうのだ。このことは少し前にトップロードさんとキングに気づかされたものだけど、思えば私がいつも尊んでいた考え方だった。明日は明日の風が吹く、人生は苦楽のバランスを取るものだって。気まぐれで一見不必要でも、見え方を変えれば必要なものになるんだって。

 だから多分、今日の私の役目はこうだ。

 やりたいことは、こうなんだ。

 バレンタインという日になにやら気張ってしまっているフラワーに、息抜きの概念を教えてあげること。そうして少し緩められたぶん、気持ちに余裕を作れればいい。それなら言いたいことも残さず言えるだろうと、私は君にそうあってほしいのだ。

 ぐるり。踵を返し、向かうはトレセン学園の中。広い広い校内の中心部ではなく、回り道の先にある小さな木陰。……おっと、もちろん一人で行くのではないのだから。忘れずに、戸惑う君のそばにいるために。

 

「さ、行こうか。大丈夫、フラワーにもおすすめのとっておきの場所があるんだ」

 

 半分振り向いて、フラワーに向けて左の手を差し伸べる。まだ君の身体にぴったりくっついて離れないその手から、まずはそこから羽根を伸ばそう。さあ、着いてきて。

 

「……はい。よろしくお願いします、スカイさん」

 

 そうして、小さな柔らかい手のひらに握り返されて。私も広げていた細いけれど君よりは大きい手のひらを、君の指先を一本一本掴むように繋いで。

 ゆっくりと、二人で歩いていく。こつり、こつり。

 二人の足音だけの空間。誰もいない、何もない学園。だからここに在るのは、私と君だけだ。

 私と、君だけ。

 二人きりで、すべては満ち足りるのだ。

 

 

 

 

 

 

 こつこつ、こつこつ。二人ぶんだけの足音が、無人の校内に響く。もちろん校舎内には入らないのに、それでも二人だけの音は確かに聞こえる。この場所にいるのは私たちだけだと、その特別を認識する。これだけでも、今までにない感情が私の中にある気がした。バレンタインならでは、なのだろうか。

 閑話休題そのことはさておき、それなりの大見得を切った私が、フラワーをどこへエスコートするのか。もちろん私のような平々凡々ウマ娘には彼女を大したところには連れていけないが、それなりに気に入りそうなところはある。それなりに驚いて、新しい感情を抱いてくれそうなところはある。誰でも通ったことがあるような、けれど発想を変えなければ見えてこないような場所。そういうのを見つけるのは得意だから、それくらいのことは教えてやれる。私らしいことなら、君に捧げられる。

 こつこつ、こつこつ。足音はやがて石床から、草の上を歩くものに変わっていった。ここが、目的地だ。私なりの、君のための場所。気に入ってくれたら、嬉しいな。

 

「さてと、この辺かな」

「ここは、花壇ですね。私もよく水やりしてます」

「そう、フラワーもよく知ってる場所。でも……あそこ。あそこの木陰、根っこの隙間に人が座るのにちょうどいい。……知ってた?」

「それは、知らなかったです。そもそもそんな隅の方なんて、気にもかけてませんでした……」

「正直でよろしい。まあ、目立たない場所なのはその通りだからね」

 

 これが、私から君に教えられること。私が君に伝えられるのは、今日も今日とて発想の転換。そしてそれに伴う、ちょっとした驚きだけ。だけどそんな驚きこそが誰もに必要なのだと、きっと私はそう思う。予想を超えて期待を超えて、そうしたら今まで見えていなかった世界が見えるから。だから、私は驚きが大切なんだって思う。もちろん、君にとってもだ。

 少しの距離をまた君を連れて歩いて、花畑を通り過ぎた先の木陰、木洩れ日の下へ潜り込む。日差しと影が混じり合う陰陽の渾然は、まさに表裏一体の如し。そこまで歩いてきて、その場所からの景色を二人で眺めて。

 座るのにちょうどいい硬い幹の真上まで二人でたどり着いて、けれど繋いだ手はそのままに。そして、私はまた言葉を紡ぐ。ちょっとした、種明かし。

 

「でも、ほら。ここからなら、花壇全体が見渡せる。ゆっくり、落ち着いて。近くに寄って見るのもいいけど、こういうのも素敵だと思わない?」

「……はい。私、こうやって花壇を見るのは初めてかもしれません。いつも近くで、一つ一つに水をやるので精一杯で」

「それももちろん、悪くない。けど、普段と見方を変えてみるのも悪くないでしょ? たまには休んで、全体を俯瞰して。そういう時間も大事ってこと」

「そう、ですね。……やっぱりスカイさんは、すごいです」

 

 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、私からすれば、フラワーの方がすごいところがたくさんだ。トレーニング中もいつでも休憩なんかしていなくて、何でも一生懸命に頑張っている。私がしてやれるのはそれのメンテナンスみたいなことくらいのもので、君は自力で、自分の頑張りだけでどこまでも行ける子だろうに。

 それでも求められるなら、私はどうしたって喜んでしまうのだけど。君のような立派な花に、ささやかな彩りを添えられるのなら。それならこれ以上はないと、そんなふうに思ってしまうのだけど。私なんかでも、私だからこそできることがあるのなら、って。

 

「さ、じゃあ座ろっか。……今更だけど、地べたでもよかった? 私は慣れっこだから忘れてた」

「それは構わないです。でも、一つだけお願いがあって」

「何かな。まあだいたいは二つ返事だけど」

「……手を、繋いだままでもいいですか」

 

 私の方を見上げて、フラワーは少し静かな口調でそう言った。仄かにその瞳を揺らしていてだけど戸惑いはなく心を込めて。僅かに、手のひらに込められた力が強くなる。短くて意図を読み取るには難しい言葉かもしれないけれど彼女なりの意味が篭っているのはわかった。彼女が今日私に告げたい何かへ繋がる、そんな気持ちが。

 まあどちらにせよ、私の返事は決まっているんだけどね。

 

「もちろん。喜んで、だよ」

 

 そうして、そのまま。手を繋いだまま、距離は保ったまま。体と心を、互いのそばに置いたまま。その時間を続けたまま、私たちはゴツゴツとした幹の根元に腰を下ろす。背中を預けると、硬い木の表面が預けた身体に当たる。目線を上げると、葉っぱの間から光が差し込む。木洩れ日の隙間から、空は十分にこちらを見守ってくれている。目の前に広がる花壇は、隅々まで綺麗な花が咲いていた。日々の丁寧な世話があってこそ、だろう。それを一望してしまうのは、割と贅沢の極みかもしれない。青空と花畑の二つを、私たちは一つの視界に収めていた。

 身体を撫ぜる風はまだ肌寒い。伝わる空気はまだ冷たい。それでも、この時間は暖かい。

 

 やっとフラワーとの会話の準備ができ上がったという感じの状況だけど、なんだか既に気持ちは安らいでいた。落ち込んでいたところから、少し。

 正直、いまだに不安を払拭し切れてはいない。キングとトップロードさんと出かけたあの日、確かに答えのようなものはうっすらと見つけられたかもしれない。

 だけど、うっすら。だけど、答えそのものじゃない。

 理由は単純で、実際走ってみないことには何もわからないから。誰かがあってこその私だと、それならば前に進めると、本当にその通りだとは誰も言い切れないから。霞は消えないままではあるけれど、こればっかりは仕方ない。

 走ることだけが、唯一答えを教えてくれる。私自身の脚で、大地を踏み締める感覚だけが。

 だから私にできるのは、抱えた恐れを何度も落ち着けることなのだろう。みんなと一緒なら大丈夫、みんなと私なら大丈夫。今の私なら、みんなが伸ばしてくれる手を自分から掴み返せる私なら、大丈夫。そうやって、膨らむたびに押さえつけるのが最良なのだろう。

 悪い意味じゃない。結局待つしかないってことかもしれないけれど、待った先に希望が見えるのなら、私はそこから逃げ出さない。

 やれること全部を尽くして、私は私の居場所で待っていられる。

 いつか、その日が来るまでは。

 その日が来てしまえば、嫌でもすべてがわかるのだから。

 その日にしか、答えは見つからないのだから。

 杞憂だったか、それとも。

 なら、今は前を向こう。そんなふうに、それなりに前向きに思うのだ。たとえば今はフラワーとの会話で、その後はトレーナーさんへのバレンタインプレゼント。そうやってみんなと一緒に過ごして、不安は全部忘れてしまおう。

 本当に空が墜ちてくるかなんて、誰にもわからないのだから。

 杞憂であって、ほしいけど。

 さて、そういうわけでフラワーとの会話なのだが。先程から何かを言おうか言わまいか、フラワーはどうやらそんな様子。迷っている、悩んでいる? 私に今更言えないことなんて、君にしては珍しいかもね。さあ、果たして何を言われるのやら。それは不安というより純粋な疑問に近いけれど、私がやるべきことは決まっている。何があっても、君の気持ちに応えてやらなければ。それが、私からフラワーにできること。君にだけはついついお互い素直に、少し求めて求め返してしまうのだって、「私らしさ」だからね。

 ……なんて、そのはずだったんだけど。何を聞かれても答える、そのつもりだったんだけど。

 

「あの、スカイさん」

 

 やがて意を決して、小さな少女が発した言葉は。小さな小さな、いつも少し控えめで柔らかい口から告げられた声は。

 

「教えてください。私のこと、どう思ってますか」

 

 流石の私も返答に迷う、そんな大きな言の葉だった。大きな大きな、やはり彼女らしい意志と祈りの込められた、大輪を閉じ込めた蕾のような問いかけだった。いつもの彼女だけれど、いつもの彼女じゃない。いつもの延長にある変化の一つ。

 今日だからこそ私に投げられる、碧空を舞い踊る花束のような。それが今日の、フラワーから私への声遣。今日、だからこそ。

 けれど、これも当然のこと。

 だって今日は特別な日。

 バレンタイン・デイは、姦しくても静まり返っていても。

 乙女たちが覚悟を宿す日だと、そう決まっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 人と人との関係とは、双方向に連なるもの。私が君を受け止めて、君も私を受け止める。その連鎖がつながりになる。そういうものだ。そういう単純で、シンプルなものだ。自然とできあがり、自然と育まれていく。どこにでもある、そういうものだ。

 だけどそんな一見単純な構造に反して、つながりを維持していくことは難しい。人は誰しも一面的ではなく、一度じゃ見えなかったものがあとから見えてくることもある。そしてそんなふうに多面性を持つ人間を理解する側に立ったとしても、理解の方式も一つのやり方だけじゃない。変化して成長して、人それぞれにある理解の方式を変えてゆく。日に日に。常に。

 目まぐるしくさえある相手の変化と成長を受容しなければ、そこにあったはずのつながりはすぐにほどけて途切れてしまう。絶え間なく変わり積み重ねによって形を変える自分自身の世界の見え方だって、つながりを自ずから断ち切る理由になりかねない。

 たとえそれがどんなに強い関係性であっても、互いに変わりゆくのなら、私たちが誓ったはずのつながりが永遠じゃないことだってありえるということ。私たちのつながりはもちろん強固だけど、何かのきっかけがあれば崩れそうなほどに脆い。

 私は、誰かとのつながりがあるからここにいられているのに。子供と大人の狭間に曖昧なままで存在できるのは、みんなとのつながりがあるからなのに。

 だから、多分フラワーの質問もそういうこと。つながりを、再確認すること。たくさんの人が私を支えてくれているけれど、君はそのうちの一人ってだけじゃない。

 

『私のこと、どう思ってますか』

 

 君じゃなきゃ、ダメだって。彼女の問うたのは、私に手を伸ばすため。

 彼女に対して、私が抱く感情。そんなのはずっと前から決まっているかもしれないし、あるいは今この瞬間まで定まらないようなことかもしれない。そしてそれは、フラワーにとってはわからないこと。いつのまにか独りになっているとしたら、その手を掴まなければいけないのだと。そういった決意と恐れの混在が、今日フラワーが抱えてきた不安。私に対して吐き出そうとした、なんとか今消化しようとしている悩み。

 今ここにある十数秒の沈黙の正体は、彼女の変化そのものなのだ。

 だからこそ私も、同じように悩む。私のために。君のために。私と君が、一緒に悩むために。

 

「どう思ってるか、か。なかなか難しい質問だね」

「あのあの、変な意味じゃなくてですね。……だからって、はっきりした意味のある質問でもないんですけど」

「わかってるよ、だから難しい質問。そんなこと、よく聞いてくれたね。ありがと」

 

 曖昧で、言葉にならない。確かにフラワーの問いは、具体性がなくて答えは出せないかもしれない。そんな気持ちを口にすることは、きっととても難しいこと。誰にでも言えるわけじゃない弱音にも似た問いかけだからこそ、勇気がなければ聞けないこと。でも君は、それだけのことを私に聞いてくれたのだ。それは嬉しい。それは得難い。だから私も、君の問いかけに答える必要がある。応えたいと、思う。その小さな手が伸びるのを、決して見失わないように。

 ゆっくりと、まずは一言ずつ。ぐしゃぐしゃに固まってしまった毛玉をもう一度ほぐし直すように、フラワーはまた話し始めた。

 

「前にも、スカイさんに話したことがありましたよね。スカイさんが<デネブ>からいなくなった時。あの時も、私はスカイさんを悩みの原因にしてしまっていました。そのうちまた会えるってわかっていたのに、どうしようもなく不安で。……きっと今回も、頭ではそんな悩みだってわかってるつもりなんです。でも、でも──」

「いいんだよ、そうやって話してくれれば。どんな話でも、私でよければ聞くからさ」

 

 彼女の不安に寄り添いたい。私が思うことは変わらなかった。ゆっくりと、彼女を案じるための言葉だった。手のひらは、優しく握ったまま。

 だけど、だった。彼女のことを慮る、その立場からの発言だったけど。

 

「──それが、心配なんです!」

 

 そう言って、握られた手のひらから伝わる力が強くなる。決して離すまいと、君は私を繋ぎ止める。まるで、消えてしまうのを恐れるかのように。

 彼女自身に、恐れがあるんじゃない。私のことが、不安なのだと。

 硬い木の幹に腰掛けたまま、フラワーはくるりと横を振り向いて。強い意志を込めた口調と眼差しで、深い深い紫の水晶の奥底で私を捉えて離さないで。

 彼女は彼女の悩みの根本を、溢れるように言葉にしていく。

 彼女の悩みを。私への、気持ちを。

 

「スカイさんは、いつも私を助けてくれます。たとえばトレーニングの時も、私の計画がうまくいくようにって色々指示を代わりに出してくれたり。……そうやって、いつも私は助けてもらってばかりです」

「それはそんなことないって、前にも言った気がするけどな。フラワーはよくやってるし、私の方こそ助けられてる。それこそ具体例を挙げるなら、トレーニングのメニューなんかは、君が考えてるものだって多いでしょ?」

 

 フラワーの不安は、あの皐月賞の後に話した内容と似たものだった。自分は大人になれなくて、誰にでも助けてばかりの子供だということ。そしてその時も、私は優しく否定をした。そのあと彼女から私の価値を伝えられたのも含めて、しっかり覚えたままでいる。あの時互いに教え合えたことは、きっと今でも息づいている。

 だから、あくまで今彼女が告げる不安には、それなりの答えがすでに示されている。もう、大丈夫なはず。……今話されているまでの話は、だけど。人の関係は変わりゆくもの。人と人との関わりへの不安は、うつろいゆくもの。積み重ねによる変化と成長が生む新しい発見は、決して良いことばかり見つかると決まってはいないのだから。

 

「……ま、それは織り込み済みで話がしたいんだよね、きっと。フラワーの『心配事』は、そこより先にある」

「はい。スカイさんがそういう優しい人なのは、わかってます。……私の方も力になれてるって、今はそう思います。でも、だからこそ、心配なことがあって」

 

 少し、考え込むように間を置いて。しんと静まり返って、想いと願いを巡らせて。やがて彼女の優しい声は、この話の結論にたどり着く。私の瞳のスカイブルーに、アメジストのそれを溶かし合わせて。優しく、柔らかく。けれど強く、揺るがなく。そうして、一つの問いかけが導き出される。吐き出されたのは紛れもなく、彼女自身の不安だったけど。それでもやっぱり、私のための、言葉だった。

 君はずっと、私のことを考えていたんだ。今日呼び出した時から、ずっと。

 

「スカイさん。私はスカイさんにとって、大切な人になれてますか。私が頼めば、あなたはどこにも行ったりしませんか」

「……なに、それ」

「すみません、めちゃくちゃなことを言って。……でも、最近のスカイさんを見ていて。いつもと変わらないはずなのに、不安だったんです。もしかしたら取り返しのつかないことになるんじゃないかって、そんな不安です。それが止まらなくて、怖くて。それでも、私なりに考えました。……スカイさん。私のこと、どう思ってますか」

「それは、どういう」

 

 はっきりとはわからない。わかるのは、彼女が私の抱える不安を見つけていたこと。やっぱり、君も私の力になってくれること。これ以上ないくらい、私に信頼と親愛を示してくれているということ。君はずっと、私のことを慮っていてくれたということ。

 だからこそ、問いたいことがあるということ。君は私を。私は君を。輝きを湛えているはずの未来で、私たちは。

 

「スカイさんがどうしようもなくなった時、繋ぎ止められる存在になれていますか。……いつか少しだけ、スカイさんの弱音を聞かせてもらったことがありましたね。もしこの先何があっても、私はそれを聞いていられますか」

 

 ……正直言って、驚いた。彼女がここまで強く、自らの意志を表現するという行為を取ったことに。その対象が、私の中に埋もれているはずの恐れであることに。そして夜明け前の空のような、霞がかったまま広がる私の感覚の中心にあるものを、言い当てようとさえしていることに。

 彼女はやはり、私を離さない。そうあろうと、していたのだ。つながりが変わりゆく可能性すら知って、それでもなお。私よりも、先にある思考。だから、驚くしかなかった。

 

「そしてもしまだ私にそこまで打ち明けられないのなら、これからもっと仲良くなりたいんです。トレーニングの時だけじゃなく、休み時間や休日だって。だから、今日はこうやってお願いしました。……だいぶ、勇気は要りましたけど」

「確かに、いつものフラワーとは違うかも。びっくりした。でも、ありがとね。そんなに心配してくれたってことだ」

「はい。それが、今日聞きたかったことです。……どう、ですか?」

 

 ……どう、か。どう、どうなんだろう。正直言って、私は他人のはずのフラワーほど自分自身の不安を深刻視していない。できていない。私は私のこの恐れについて、誰かに頼るしかないという結論を出した。誰かに頼って自分で考えて、そうして導かれた先に今の自分なら歩いていけるという結論だった。そして最後の結末は、レースという運命の時が来ないとわからないとも。それでひとまず終わり。

 あとは前を向こうと、そうすることで前に進んだつもりだった。解決とは言わずとも、できる限りをやったつもりだった。

 だけどフラワーの不安は、私のものより一つ先の段階にある結論だった。未来という名の闇の中、本当にすべてがわかる時が来たとして、そこにいる私は今の私じゃない。少し未来の私は、今のように誰かを頼れるのか。誰もが変化と成長をつづけていくのに、いつかの時に私が変わっていない保証があるのか。子供のまま、大人になり切らないまま。そういった弱い私だからこそ誰かを頼れていて、誰かとつながれている。ならば、そのままでなくなってしまうのなら。私が、私がそれより先へ行ってしまうのなら。

 待ち望んでいたはずの未来が、今の私を壊してしまうのなら。

 そこまで、そこまで彼女は問うてきた。「取り返しのつかなくなった時」。「どうしようもなくなった時」。自分と大切な人のつながりが途切れることなんて誰も考えたくないはずなのに、そんな深層の不安を述べてくれた。

 私に、私のために。彼女から与えられる最大限の、私への献身と呼べる問いかけだった。

 そしてその問いが真実を言い当てるものならば、私はそれに答える必要がある。そう私が決意することは、最初からわかりきっていたものだった。

 やっぱり私にとって、君は大切な人なんだから。

 今だからだとしても、今だけになんかしたくない。

 

「なるほど。やっぱり難しいね。こんな難しいことを考えられるフラワーはすごいや」

「スカイさんの悩みでもあります。それならそれを直接抱えているスカイさんの方が、ずっとすごいです」

「そっか。じゃあ私もちゃんと、フラワーの気持ちに答えなきゃね。結構難しいから、ちょっと考る時間がほしいんだけど」

「いえ、それはもちろん。むしろいきなり捲し立てて、それでも聞いてもらえるのは嬉しいです。……あっ、そうだ」

 

 と、そこでふと、フラワーが繋いだ手を離す。離した手をそのままスカートのポケットに突っ込んで、何かをがさごそ、がさごそ。

 程なくして、彼女はそのポケットから一つのものを取り出した。小さな、彼女の両手で包めるほどの赤色の包み紙。包みの口はピンク色のリボンで結びつけられている。

 ……これは、もしかして。

 

「チョコレート、です。頭を使うなら甘いもの、ですよね。……スカイさん、どうしましたその顔」

「ごめん、思ったよりびっくりしてるかも、私」

 うん、ちょっといざ出されると、ね。予想はしてたけど、それでも、ねえ。そっか。そっかあ。

「えっ、だってバレンタインじゃないですか! 当然ですよ、当然」

「そんなこと言って、フラワーも結構タイミング計ってたでしょ」

「……それは、その。否定、しませんけど」

 

 そんな会話で中和しないと、恥ずかしくてチョコレートもフラワーも直視できない気がする。いや、バレンタインにチョコを貰うのは初めてだから仕方ない。渡すのも今日初めての予定だけど。思ったより嬉しいし、思ったより緊張するな、これ。恋愛感情なんて込めてなくても、親愛を純粋に表すという事実だけで胸がいっぱいになる。人の気持ちという見えないものがはっきり形になるプレゼントという意味合いにおいて、バレンタインのチョコレートほどのものはないだろう。なんというか感覚的に、そう思わざるを得なかった。バレンタインなんて商売上手の考えたイベントだなんだと好き放題言ってたのに、ね。

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄いピンクのリボンをほどいて、包み紙をそーっと開ける。赤い包みはなんとなく、フラワーの気合い、みたいなものを感じなくもない。

 そうして開けてみると中には当然、チョコレートが入っていたのだけど。バレンタインだから、当然。これも袋のサイズと渡す相手的に当然、一口サイズの。

 ……ハート、型の。

 

「あっ、これはですね! あのその、トレーナーさんから借りた型がたまたまこれで」

「うひゃー、愛が篭ってますね。見ただけでわかりますよ、フラワー評論家のセイちゃんが太鼓判を押します」

「もう、ですからたまたま、たまたまで」

「たまたま、手作り?」

「……うぅ。それは、たまたまじゃないですけど」

 

 そう、一目見ればちょっとだけでこぼこした表面でわかる。念を押しておくとそのでこぼこも本当に小さく、丁寧に作られたものなのだろうともわかるけど。だけどそこにあるちょっとした成形の実から、フラワーが私に渡したこれはなんと、出来合いではなく彼女の手作りのチョコレートであるとわかるのだ。しかもあの<デネブ>のトレーナーさんに聞いて作ったということなら、多分結構本格的な。

 

 いや、そんなものをこんな私がもらっていいのだろうか。いやいや受け取らない方が失礼だろう、何を血迷ったことを考えているんだ。……なんて、だいぶん錯乱してるかもな、私。やっぱり柄にもないイベントだからなのか、そうなのか。何度も言う通りバレンタイン慣れしてないモテない女の子なのだ、セイウンスカイという平凡女子は。

 それはそれとして、先程からフラワーの目線が気になる。私はチョコを見ているのに、フラワーはチョコじゃなくて私を見ている。じーっと、見つめられている。あれは早く食べてください、の目に違いない。そして感想を言え、の目に決まっている。そりゃこの流れで食べないなんてあり得ないのだが、そこまで見られると逆に緊張はしてしまうわけで……いや、そんな間すら居心地が悪い。

 ええい、ままよ。と、いうわけで。覚悟を決めましょうか、ヘタレで逃げ腰のセイちゃんや。

 ……ぱくり。

 

「どうですか」

 

 ちょいと待ちなさいなフラワーさん、チョコについてはまだほんのついさっき口の中に入れたばかりですよ。むりやり飲み込んで喋れっていうんですか? それじゃ味わえないし、満足なことも言えないでしょうに。いや、美味しいんだけどね。ちょっと舐めただけで美味しいのはわかるから、ちゃんとその点に関しては安心してほしいんだけどね。私の貧相なコメント力では感じた味わいを君に伝えられるかどうか。

 舌の上でハートの形を転がして、甘いなあ、なんて当たり前の感想しか抱けない貧乏舌の私。そんな私でもわかるのは、このチョコレートには相当な気持ちが込められているということ。甘くて柔らかくて、あっという間にとろけてしまう。こんな刹那に過ぎ去る味わいが、込められた気持ちのぶんこんなにも長く感じられるのだから。

 きっとそれは、とっても素敵なこと。かけがえのない、特別なこと。

 そして君のチョコレートを食べたから、私にもその気持ちが伝わるんだ。この小さなハートに全部を閉じ込めてしまうことが、この日を特別にする一つの理由なんだ。

 バレンタイン・デイは、どれほど言葉を尽くしても伝えられない想いさえ。

 甘い甘い黒に詰め込んで届けてしまえる日だと、そう決まっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どう、ですか」

「うんフラワー、ちょっと待ってね。私今、フラワー関連のタスクを二つも抱えているところだから」

「あっそうでしたね、すみません」

 

 そうやって何度も歯に挟んで、結局全部溶けるまでもったいなくて噛み砕けなくて。数分かけて私はようやく、フラワーからのバレンタインチョコレートを食べ終えた。甘くて、美味しい。カカオの香りと砂糖の甘さ、そしてほんのり混ぜ込まれたミルクの柔らかい味。一つ一つの味わいに深みがあって、舐めればとろけていくのが本当にもったいないくらい。本当に、美味しい。でも、そんな言葉だけで気持ちを伝え切れるだろうか、もう少し何か語彙を尽くすべきだろうか、などと思いながら。もちろんもう一つの議題についても、深く底まで思考を伸ばしながら。君の思いを一つ受け取って、二人ぶんの手ならもっと先まで手を伸ばせるはずだから。

 今はまだ、子供でいられるから。

 陽は少し先ほどより昇っていて、木陰も形を変えていた。影と光のあぜ道の下にいる二人の身体は穴だらけみたいに見えて、それも風流だなと思ったり。

 目線の先の花壇は明るくなる陽射しにより鮮明に照らされ、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな。これも綺麗。そして。そして、何よりも。

 そして隣には、君がいる。私と君が二人きり、この小さな世界に二人だけで存在している。そんな時間。そんな世界。つくづく、私には贅沢すぎる。だけど恐れ多くも、私にしかありえない状況だ。君は私だから手を伸ばしてくれたし、私は君とだからこの場所を選んだ。だから今ここにこうしていられるのは、この場所で君のそばにいられるのは私だけなんだ。それなら、私はその事実を全力で活かさなくちゃ。きっと、そうしなきゃ。絶対に、そうしたい。

 ゆっくりと、けれど確実に。目の前の少女の不安を解くために、私自身の不安を切り払うために。丁寧に一つ一つでいいから、私たちのために言葉を紡ごう。人と人のつながりは、やっぱり最後は言葉でできているのだから。

 さあ、お返ししようか。精一杯、君に負けないくらいの心を込めて。

 私のすべてを、二人で掬い上げよう。

 

「さて、と。とりあえずチョコレート、美味しかったよ。すっごく、美味しかった。私は幸せ者だなって思った。ありがとう」

「……はい。そう言っていただけて、嬉しいです」

「そしてもう一つ。私を心配してくれたこと。前よりずっと、フラワーは私のことをよく見てるよ。そうじゃなきゃ言えないもん、自分を大切な人と思えているか、なんて」

「そうですね。昔……と言っても一年も経ってませんけど。その頃よりスカイさんのことをもっと近くで見れていたらって、思ってましたから。それなら、よかったです」

「……参ったな。フラワーには弱みはあんまり見せないようにしてたつもりなのに。フラワーもどんどん大人になっていくから、いつまでも子供の私じゃ追いつけなくなるかもね」

「そんな、スカイさんは私よりずっと」

「それはもちろん、その通り。単なる年齢の問題ではあるけど、そりゃあ歳の分知ってることは多いだろうさ。でも、今は違うんだ。ちょっと考えたんだけどさ、今は違う。今の私は、どうしようもないくらい子供なんだよ」

 

 それが、私が届いた帰結の続き。一旦出した結論の先に、ありえるかもしれない未来の話。そしてやっぱり、過去からつながる話。未来は、過去から連なるもの。拭い去れないもの。私がどれだけ進もうと、過去のうちに楔のように打ち込まれたものは一つ。

 子供。私が本当に子供だった頃の話と、今の私も相変わらず子供だって感覚と。

 幼い頃の私は、誰もが自分に期待していると思っていた。誰もが私の周りにいると思っていた。自分が世界の中心にいると疑わなかった。

 だけどあの日を境に一度、すべてを捨てて諦めた。

 その瞬間が、初めて私が前に進んだタイミングだった。

 それでも、だった。捨て去ったはずの、幼い欲求。「褒められたい」って願いを忘れることができていなかったと、どこまで行っても私は子供のままだと。今までのトゥインクル・シリーズは、そんな子供のままの私を肯定してしまうものだった。期待されていい、周りに認められていい、自分がセンターに立っていいと、そういうものだったから。

 だからきっと、今の私は子供だ。そしてそれが極まっているのが、靄のような感覚を抱えたこの瞬間だ。自身の変化に自ずから戸惑い、誰かを頼るしか解決策を思いつかない。

 頼りすぎては己のためにならないとわかって自ら考えようとするけれど、せめて答えだけは自分で出さないといけないとわかっているけれど。それでも私が待ち望み恐れる未来は、いまだに眼前にはやってこない。

 空が墜ちてくるのか墜ちてこないのかは、墜ちてこないとわからない。

 得体の知れない不安に泣き喚き、それは拙く言葉にならないまま。きっとそんな理由があったから、本当は大人になりたかった。

 たとえばトレーナーさんを見て、その態度に呆れつつも、どこかで憧れていた。大人になれば、他人に依らない自分になれるんじゃないかって。そう、思っていた。子供と大人を曖昧なバランスで成り立たせていた自分に歯痒さを感じていたことに、今になってようやく気づいた。

 ……やっぱり、フラワーという他人のおかげ。だから私はまだ、子供なのだろうけど。

 

 

 

 

「子供なんだ。だからこうやってフラワーを頼っちゃうし、他にも誰かを頼ることに抵抗がない。それはもちろんいいことばかりじゃないけど、そうすれば乗り越えられるものもある。だから子供の私はそうして、今まで進んできた。不安を取り払ってきた。……でも、それだけじゃないんだよね。流石だよ、フラワー。私が子供だってこと。そして、大人になりたがってたこと。全部、わかっちゃってたんだ。でも、そこで終わりじゃないってことまでわかってた。なりたかったはずの大人になれた時どうなるかなんて、私が考えてなかったことまで考えてて」

「……ただ、スカイさんが心配だっただけですよ。心配性、杞憂だったらいいことです。ぼんやりした心配で、不安を煽るだけかもしれない。それでも、言いたくて。どうしても、スカイさんと離れ離れになるのだけは嫌で。……やっぱり、私の方が子供です」

「そう思うのも、お互い様かな。私も君と離れたくない。……だから君の不安は、現実にはなってほしくない」

 

 フラワーが不安視したのは、その先の話だった。私の不安が言葉になった、これから先の話。靄と霞を自らの手に捉えて言葉にできるように、私自身が変化と成長を重ねた後の話。誰の力も借りないで、自分で立てるようになった時の話。あるいは自分で立つのだと、伸びてきた手を振り払う時の話。今の悩みを乗り越えて、またそこから更に前へ行けた時の話。未来の話。未来はいつも不確定。進むことが私にとって正解だとしても、誰にとっても正しいとは限らない。だからあくまで、一つの可能性の話。

 私が成長して、誰にも頼らないように成長した後の話。

 幼年期の終わり、かつてのつながりに別れを告げる時の、話。

 私が大人になる時の、話だ。

 そしてその瞬間は、近いのかもしれない。

 

「もしかしたら、フラワーのいう通りかもしれない。誰にも頼れないくらい、私はどうにかなっちゃうかもしれない。未来の話だから、断定はできない。いつかの私自身にしか、わからない。今の私は子供だから。これだけ言ってもらっても、はっきりした答えは返せない。……そこは、ごめん」

「はい。大丈夫です、大丈夫ですよ。」

「ありがと。……でも、でもさ」

 

 もちろんこれまでの話は推定や推測。幼い子供が将来の夢を語るが如し。大人のことなんて、子供の私たちにはわかるわけがない。私の未来なんて、私自身にもわかるわけがない。だからこんなふうに不安だけを積み立てるなんて、すべて杞憂の可能性はある。無意味で無価値で、フラワーの心配事など私には必要ないと切って捨てることはできる。

 でも、それでも。それでも私は、君に伝えたいことがあるんだ。ここまで想って、ここまで願われて、君は暗闇に手を伸ばしている。いまだそこには存在しない、未来の私に向けて。その手を掴み返すことは、今の私にはできないとしても。

 たとえ無情な闇に向かってでも、君が私を信じて手を伸ばすのなら。

 

「でも、もし。もし私が、全部終わったあとの私が何かに苦しんでいるんだったら。誰にも頼れないくせに、頼らないと解決できない悩みを抱えていたら。その時は、フラワーに任せるよ」

「……はい。約束します」

「うん。約束してくれたら嬉しい。……ねえ、フラワー」

「なんでしょうか、スカイさん」

「……今しか。今しか言えないけど、君はずっと覚えていて。ひとつだけ、わがままを言わせて」

「……もちろんですよ。今日は、スカイさんのための一日なんですから。今日から、そうなるための私、なんですから」

「……ありがとう」

 

 そして、少し深呼吸。見つめ合っていた目を、遠く近くの景色に向ける。遠くの碧空。近くの花束。私たちは互いを見遣るのではなく、同じものをそれぞれの世界で共有する。それも一つの、寄り添い方。未来へ伸ばす手は掴めないとしても、今繋がれている手は確かな現実だから。せめて、今の私にできる限りを。

 未来のために、君と私に一つ誓おう。

 掴み返すと約束することだけなら、子供の私にもできる。

 だから、その拙くてたどたどしい約束だけは。

 未来は不確定で空さえ堕ちる可能性を孕むとしても、今の私にできる限りは。

 もう一度、一呼吸。ここから先の言葉は、私から君へのお願い。

 今の私が、未来の私に約束するためのお願い。

 いざその時が来たら、どうにもならないかもしれない。

 本当に空が墜ちてきたら、私は人を頼ることすらできなくなるのかもしれない。

 閉じて終わって、そうなるのかもしれない。

 それでも、今だけは。大人になる前の、今だけは。

 この一瞬だけだとしても、構わないから。

 

「──私を、離さないでください。お願い、私の大切な人」

 

 君の前でも、子供でいさせて。

 返答はなかった。君の問いにはやっと答えを返せたから。もう言葉は要らなかったから。

 繋いだ手は離さなかった。相手の熱さえあれば確かめられたから。私と君だけ、今つながりがあるのはわかりきっていたから。

 互いを見てはいなかった。視界を一致させるだけでよかったから。限りなく重なり、ゼロ距離になればよかったから。

 花と空だけ見えていた。

 それだけで、満ち足りたから。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、今日はありがとうございました。スカイさんに、チョコレートも食べてもらえましたし」

「こちらこそ、ありがと。いや、お昼前から食べる甘味は罪の味だね」

 

 十二時を回った頃、私とフラワーは二人で校舎を出た。太陽が寒空ごと私たちの身体を暖めてはいたけれど、やっぱり制服のスカートというものは少し肌寒い。まあ朝から地べたに座っていたのだから、当然といえば当然だけど。私はもちろん慣れ親しんだ感覚だが、フラワーには初めての経験だったかもしれない。

 そのことは少し、私から君に教えてあげられたこと。君を未来に連れていったこと。君の言う通り時に未来は恐ろしいかもしれないけれど、それでも君にはちゃんと進んでほしい。

 私も君の不安を杞憂にするために、立ち止まることはしないから。

 

 校門を出て、別れ際。冬の風がびゅうと私たちの間に吹き込み、それを合図に繋いでいた手を離す。ここで、お別れだ。少しの時間、だけど想いを尽くした時間。私と君だけの、特別なバレンタイン。その終わり。最後はいつも通り、「さようなら」を言うタイミング。やっぱりどんな時間でも終わりを告げて、いつもの日常に戻るのだ。

 けれどそんな別れの挨拶の代わりに、フラワーはまた一つ言葉を切り出す。丁寧に、大切に。彼女らしく。いつもに戻る、「さようなら」じゃなくて。

 

「……あの、スカイさん」

「何かな、この際だし何でも」

「また、一緒に。今日みたいに、今日じゃなくても。……なんでもない時でも、スカイさんと会っていいですか」

「もちろん。私はどこでも寝てるから、どこにいても会えるよ、きっと」

 

 特別をいつもにしたい、それだけ、それだけの小さなお願いことだった。これからもっと、仲良くしたい。そんな気持ちは今日のフラワーが私に頼んだことの一つだ。もっともその願いは彼女が求めるだけではなく、私のためでもあるのだけど。私とフラワーは、ずっとどこにも離れていかない。そこにある祈りはきっと、お互いに抱えた望みなのだけど。子供っぽく永遠を祈ってしまうのは、私も君も幼い証。でもすぐに未来に不安と願いばかりを見てしまう子供たちだからこそ、私たちはつながりを持つ。

 フラワーがそうやって他者を想うことに自分の願いを込めてしまうことも、幼さ故だとしても素敵なところの一つ。確かに君の幼く繊細な優しさには危うさだってあるけれど、道を踏み外しそうになったら私が守って導いてあげればいい。いくら子供の私でも、大切な人に向けられた気持ちのぶんくらいは、きちんと責任は取らなきゃいけないからね。

 

「はい、ありがとうございます。……では、また」

「うん、またね。ばいばい、フラワー」

 

 だって君は、私の大切な人だから。君が私を見遣るように、私も君を見遣るのだ。

 そうして、私とフラワーのバレンタインは終わった。最後まで「さようなら」はなくて、互いに告げたのは「またね」だった。この時間がまたありますように、そんな祈りだった。私と君のバレンタイン。そこにあったかけがえのないものが、今だけの特別じゃありませんように。特別だとしたら、特別な時間がいつものものになりますように。そこにあった自体はやはりあっという間で、やっぱり物足りないと思ってしまうくらいで。だからお互いに名残惜しんで、見えなくなるまで手を振り合いながら去っていって。そこまで途切れるのを惜しみながらも、それでもちゃんと特別な時間は終わった。だけど特別で終わらなければいいなと、「またね」を互いに交わしながら。

 だから、今日で終わりじゃない。「またね」を言えるのは、限りあるはずの特別な時間さえ積み重ねて思い出として残るから。人と人との関係は、変化を繰り返しつながりつづけるもの。

 維持するのは難しくても、切り離すのもまた難しい。難儀で厄介な、けれど手放したくない大切な。だから、いつかの時だって独りにはならない。空が墜ちてきたとしても、今日の約束はその瞬間に花開く。つながりは、そう簡単には途切れないはず。私がつながりを求めなくなっても。来たるべき日が来て、大人になっても。

 つまり私は、今日を終えられる。明日があるから、今日を終えられるのだ。明日が、あるから。明日は私を待っていて、未来は果てのない空のように開けているのだから。今は、そう見える。うっすらとかかる靄が、青空の綻びを隠しているだけだとしても。

 ……まあ特別な日は終わったとは言ったが、実のところ私の今日はまだ終わっていないのだけど。バレンタインの後半戦、私の役はチョコレートを貰う側から、渡す側に切り替わる。あれだけ気持ちを込めたものを渡した彼女のように自分ができるかは、いささかかなり自信はないのだが。……いやあ、お互い照れてたもんなあ。二度も照れさせられることになるのか。ポーカーフェイスが信条の私には向いてないんじゃないか? などなど。

 さて、どうしてやろうか。おやつどきにでもトレーナー寮に行って、さくっと渡してしまおうか。パッと思いつくようなそんなお手軽気楽なやり方は、普段の私なら喜んで取ってしまいそうな選択肢だったけど、なぜだか今日はそれで済ませる気分にはならなかった。何か別の特別なやり方で驚かせたいな、なんて思ってしまっていた。

 

 まあ、私は気分屋だから。だから単に、いつも通りの気まぐれなだけだ。

 むしろこれが普段の私。決して今日という日に浮かれて緊張してしまっているのではないのだと、そういうことにしておこう。

 バレンタイン・デイは、華やかに彩られた特別な時間ではあるけれど。

 日常から連なる想いだから伝わるのだと、そう決まっているのだから。

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