現在位置、トレーナー寮前。現在時刻、十四時五十四分……今変わって五十五分のゼロゼロ秒。つまり後五分きっかりでおやつの時間であり、私がトレーナー寮に突撃するタイミングでもある。そんなことをスマホの画面で確認し、それだけの厳密には逐一確認する必要もないような時間確認を理由にしてさっきからスマホをずっと見つづけている私。柄にもなくLANEのトーク画面を開きっぱなしの私。前述の通り、トレーナー寮の目の前の私は、今そういった感じの私。もし誰か通ったら何事かと思われるだろうか、こんな不審なウマ娘。
ちなみになぜ私がこうやって待ち呆けているのかというと、別にトレーナーさんにバレンタインチョコレートを渡すのにドキドキしすぎて動けません、みたいな女子力高めの理由ではない。単にトレーナーさんに部屋行きますよって伝えたら、片づけるから十五時まで待ってくれと連絡が来たからだ。まったく、世話の焼ける。
なんて、いきなりそんな連絡する方も悪いけどね。
いや、ほんとですよ? 約束よりちょっと前な時間に着いたのだって、そうしないと失礼かなって思ったからで。今スマホを見てるのだって、一応また追加で予定時刻を早めたり遅めたりの連絡がトレーナーさんからあるかなって確認しといた方がいいと思っただけで。
……こう理由を並べると、なんだか言い訳がましく聞こえてしまうな。って、誰に言い訳するというのだ。そういう今の私の思考自体が、いつもの私というには正常ではない気がしてきた。気まぐれに沿って誰にも縛られない、そんなのが信条の普段の私とは真逆。もちろん私だってそれだけの人間ではないだろうけど、少なくとも今は考えを切り替えるべきほどの神妙な時間でもない。ただただ待ってるだけ。
でも待ってるだけでおかしいとしたら、つまるところ。私、緊張しているのかも。バレンタインのチョコレートを渡すなんて、ありがちなシチュエーションなのに。
とはいえ、今更逃げ帰るわけにもいかず。現在時刻、十四時五十七分。あと三分。あと三分も待つのかと思うと、そのたった百八十秒がやたらと長く感じられる気がした。なんだかもう十分……は言い過ぎだけど七分くらいは待たされた気がするのに。この寒い寮の前で。部屋にも入れてもらえずに、良妻賢母の如く慎ましやかに言いつけに従ってやっているのに。
……ああもう、じれったい。釣りなら待つのも好きだけど、トレーナーさんを待つのは趣味じゃない。うん、そうに決まってる。あんな正論男に譲歩するなんて、よっぽど変なものでも食べないと私じゃやってやるわけない。そもそも片づけなんて、普段からしてない方が悪いじゃないか。そこに立ち入られる機会がないからって、私には散々言っといて自分はサボってたって悪事の証じゃないか。うん、やはりそうに決まってる。
つまり、だ。
がちゃり。私にとっては未知の領域、伏魔殿たるトレーナー寮の扉を開けて、いざ。スマホはしまったので現在時刻はもう見ていないが、まあトレーナーさんの部屋を探しているうちにちょうどぴったり十五時になるくらいだろう。とりあえず入ってすぐのところに立ち並ぶポストを見て、その中からトレーナーさんの名前を探す。上から見ていったので、目的地が一階の一〇七号室であると気づくのにはほんの少しだけ時間がかかったかも。
大体、一分くらい。
かつ、かつ。そうして玄関口を抜けた先にある、外に面したトレーナー寮一階の廊下をたどる。こうして見ると、同じ寮でも私たちのものとはずいぶん趣が違う。私たちのは共同生活の場所って感じだけど、こちらはなんというかマンションみたいな。みんなで過ごす場所じゃなくて、各々が個人の空間を持つための場所。大人と子供の差、とも言えるのかもしれない。子供に足りないのは他人と過ごす時間で、大人に足りないのは一人の時間だから、みたいな。まあ、これからその一人の時間を潰しに行くわけだけど。きっとたまにはトレーナーさんにもいいだろう、とまあさまざまのことを考えながら目的の場所の前にやってきた。
ここまでで、もう一分。
……後一分は、待たなくていいや。
ぎゅっとドアノブを握りしめ、ぐいっと横に回してみる。当然鍵はかかっているけど、この僅かな音があれば独りで中にいる誰かさんにも伝わるはず。
それでも足りない、もしまだ足りないというのなら。
こんこん。ドアを叩く音。まだ足りないというのなら、ドアをノックしてあなたに届かせる。音は響く。それが強ければ強いほど、どんなに頑固に閉じこもっていても耳に入ってしまう。
「開けてくださいよ、トレーナーさん」
そしてそんな音の中で一番が、声というものだ。人の発する、気持ちを込めた音のかたち。あなたを、呼ぶ声。どれだけ音を立ててもなお扉を開けてくれないのなら、最後には私の声を聞かせてやる。私からあなたに届けるための声なら、いつだって必ず届くと知っているから。
今日の私の気まぐれは、あなたを待つことを良しとしない。だってどうしたって緊張して、こころが熱くなってしまうのだから。待ってなんか、じっとしてなんか、のんびりしてなんか。熱暴走を始める心臓は、私を内側から突き動かす。早く、あなたに。
今日が特別な日だからこそ、あなたに会いたいんだって。
そうして、少しの沈黙の後。がちゃっと鍵の開く音がして、そのままぎいと扉は開かれる。
そこまでで結局、一分ほど。
結局きっかり十五時まで待ってしまったが、まあそれくらいは譲歩してやろう。予定通り、作戦通り。更に予想を超えてやるのは、これからの時間でいいのだから。私はあくまで、あなたのためにここに来たのだから。
ならばちゃんと配慮してやるのが、女性側の流儀ってものだろう。
「……よく来たな、スカイ」
「はい。お邪魔します、トレーナーさん」
バレンタイン・デイは、誰にとっても平等に。
乙女たちにとって大切な人のためにもあるのだと、そう決まっているのだから。
「うっひゃ、散らかってますねえ」
「いや、だから片づけていたんだが……間に合わなかったな」
「間に合いませんでしたね」
「……すまん」
「なにしおらしくなってるんですか。似合わないですよ、そーいうの」
トレーナーさんの部屋に入るとゴミ屋敷であった、というほどではないのだが、なにやら雑多に物が多いという感じの散らかり方をしていた。片づいて、ない。
まずそもそもの部屋構造の話をすると、玄関からすぐ横にトイレと風呂。ここは綺麗。で、玄関から真っ直ぐ行けばリビングとキッチンが一緒くた。たとえばこの辺りが既に怪しくて、ぱっと見でわかるのはシンクの周りに使った調味料が置きっぱなしとか。おそらくその置きっぱなしに関しては、上にある棚に色々置くべきなのに。……いや、トレーナーさんとしては料理をちゃんとしてはいるってだけで一人前かも。なんて、あなたには失礼な考えを心の中で。だってあなたは大人で、他人なしで生きていける存在なのだから。
ちなみにリビング真ん中のテーブルの上も当然綺麗さっぱりではなくて、さまざまの雑誌が数冊積み重ねて置かれている。釣り雑誌もレース特集も、彼の趣味が何でもかんでも雑多に混ざって置いてある。色々読むのは結構だけど、これじゃ他に何も置けない。読んだらしまえばいいのにね。まあ、私はそもそも雑誌やら本をそんなに読まないから適当言えるだけだけど。
でも、そんな所より。私が「散らかってますなあ」と表現したそんな部分より、更に奥。そこが、何より気になる所。何故ってそこにはトレーナーさんの個室らしき、寝床らしき部屋があったのだから。扉は半開き、さっきまで片づけをしていたんだろうなあ、ここ。はてさて一体どんな惨状なのやら。そりゃあ当然気になるので、そちらに歩を進めようとした瞬間。
「スカイ!」
「なんですか、そんな大声出して。相変わらずと言えば相変わらずですけど」
「そっちは、駄目だ」
「えーなんでですか、絶対もっと散らかってるでしょ。手伝いますよ」
「……それは確かにそうだが。だが、駄目だ」
と、必死に私を否定するトレーナーさん。けれどいつもからすれば珍しく、そこに正論を並べてはこない。強情で頑固で、子供っぽくすらある態度で拒んでくる。これじゃあむしろ、私の方が正論を言えていないか? 掃除を手伝う、そんな正論。もしや勝機あり、というやつか。なら畳み掛けるしかあるまい。
正論なんて趣味じゃないけど、口八丁で勝つのには喜びを感じてしまうタチなので。
「なんでですか、駄目な理由でもあるんですか」
「そりゃそうだろう。だから駄目だと言っている」
「でもトレーナーさん、理由言わないじゃないですか」
「それは、その」
「あーあ、折角片付けを捗らせてあげようって思ったのになー」
「ぐっ、しかし駄目だ! 片付いてないからとかじゃなくて、その」
「その? 言えば我慢してあげますよ」
「……その、良くないだろう。年頃の女の子が、あまり一人暮らしの男の部屋に入るものじゃない」
結局最後にトレーナーさんの告げた「正論」は、いつも通りちゃんとした正論だったのだけど。その言葉は、しっかり通って受け止めてしまうのだけど。なんだかちょっと顔を背けながらの台詞で、私の方だって真っ直ぐあなたの顔を見れなくて。……端的に言えば、お互い照れてしまっていた。特別な時間、二人きりの時間。いくら大人と子供といえど、男女が一つの部屋に二人だけ。
……いや、これはトレーナーさんが悪いはず。急に変な意識をさせるような事をいうから、そんなはずないのに耳までぴこぴこしてきたじゃないか。でも言わせたのは私か、トレーナーさんの耳も心なしか赤くなってるし。
つまり、どっちもどっち。うーん、ここは痛み分けというやつか。
ただまあ、若干驚いたような気もする。トレーナーさんの、その「正論」。いつも通りだけど、いつもそういうふうには扱ってくれていないと思っていたから。だから生まれたばかりの驚きを、できるだけ素直に口にしてみる。照れ隠しも込めて、素直に向き合う理由づけ。赤らむ頬などないように、この空気から逃げ出す意図も込めて。あなたとちゃんと、言葉を繋げるためだ。
「なるほど、一理ありますね。いやでも、ちょっと意外かも。トレーナーさん、そういうの気にするタイプの人間なんですか」
「そりゃ気にするだろう。俺をなんだと思っている」
「うら若き女の子を指導する仕事をしておいて、その可愛さを打ち消すような暑苦しいノリを押し付ける人」
「なんだそれは」
「いや、事実でしょ。ともかく、トレーナーさんに男女の概念があるのは驚きましたね。そんなの気にしたことないと思ってました」
「本当、俺をなんだと思ってるんだ」
なんて、若干叱られてしまった。言われてみればトレーナーさんのいう通り、私の方こそあんまり男一人住まいの部屋に乗り込むもんでもなかったのだろうけど。と言っても私のこの言動は多分信頼の証みたいなものであって、そういうデリカシーの問題ではない気がする。おそらく、きっと。信頼してるから〜なんて言うのは恥ずかしいし、逆に何か逃げた発言をした上で言い当てられてもそれもまた恥ずかしいので、ここの話題についてはこれ以上は黙っておく。今はトレーナーさんを追い詰める方が先決だ。
……あれ、何を言いに来たんだっけ。まあそんなのは、後でもいいか。なんとなく前触れなく、トレーナーさんのことを聞きたくなった。ちょっとした意地悪。ちょっとした好奇心。
ちょっとだけ、あなたのことがもっと知りたい。
「えー、じゃあトレーナーさんの初恋はいつなんですか」
「なにが『じゃあ』なんだ。このタイミングで聞かれる意味がわからない」
「だってトレーナーさんがそういうことをちゃんと考える人なら、そういう経験もあったでしょう。大人なんですから」
大人。軽口で口にした言葉ではあるけれど、それは少しだけ私の上に重くのしかかる。私にはまだ知らないものがある。初恋もそう、それ以外にもたくさん。だから子供で、だからみんなに頼るしかない。みんなに頼ることができるから、それを支えにして手を伸ばせる。
……けれど、いつかそんな私は終わるかもしれない。フラワーに今日指摘されたばかりのことだ。誰も頼れない、そういう大人になるんじゃないかって。
成長するってことは、どういうことなんだろうって。
それなら、トレーナーさんはどうしているのだろう。そう考えるのは、自然な発想だったと思う。どうしたって大人のトレーナーさんは、どうやって生きているのだろう。
今日私がどんな想いをチョコレートに込めるのか、その想いはまだ決まりきっていない。実は、まだ。考えて考えて、それでもわかるのは一つだけ。私が子供で、あなたが大人だということ。
つまり一方で、まだわからないことがある。大人のあなたに、子供の私からできること。したいこと。今の私だからこそ、あなたのためにできること。そっちの方は、まだわからない。だけど、いつかはわかる。時間が過ぎれば、その時が来ればわかる。空が堕ちてくるよりは、先に。だから今は、今くらいはこんな取り止めのない会話に浸っていよう。時間は待ってはくれないけれど、必要な回り道は許容してくれるから。まだ、大丈夫だから。
「ねえねえ教えてよ、トレーナーさんの初恋ってどんなのさ」
「そんなに気になるか」
「まあ、割と。トレーナーさんが大人になるまでに、どんな失恋を糧にしたのか。気になるじゃないですか」
「なんで失恋前提なんだ」
「え、だって恋人居そうな気配ないじゃないですか」
「あのなあ」
少ししか片づけの終わっていないリビングでお互い椅子にも座らず、なんでもない会話は続く。私の方はさっきから酷いことしか言っていない気もするが、まあ大抵の場合初恋なんて実らないものだろうし。私に経験はないので一般論にしかならないが、常識的に考えれば中高生の恋愛感情なんてうまくいくわけがない。それはあくまで子供の情動で、だから大人ほど上手くは立ち回れない。だからそもそも成立しないし、成立しても長続きはしない。恋は理屈じゃないらしいが、理屈で言えばこんな感じだ。……いや、それでも酷いかな。傷を抉るようなものだ。でもあなたは大人だから、子供の悪事は許してよ、ね。
そうして沈黙、数秒。ため息一つ繰り出して、トレーナーさんはようやく話し出した。観念した、ということである。強情でわがままな子供の私に、初めてのあなたを聞かせてくれる。そのことは、少しばかりくすぐったい。
一番くすぐったいのは、赤裸々な話をさせられるトレーナーさんだろうけどね。
「……中学二年の時だ。部活の先輩のことが好きになった。三年の先輩だ。元気な人で、新入部員の頃からよく話しかけてくれていた」
「なるほど。ちなみに部活は何を」
「剣道部だ。……この情報必要なのか?」
「いや、思い出のリアリティを追求したいじゃないですか。剣道部って言われると、今の大声にも納得がいきますね」
「……まあ、それはともかく。好きになった時にはもう、あと半年で先輩は卒業するってところだったんだ。もちろんそれまで話したことはあるしそれなりに仲は良かったが、あと半年で何ができるのかわからなかった」
「なるほど。半年で告白まで詰め寄れるか、と」
確かに、それは結構難しい問題だ。トレーナーさんのこの感じだと、だいぶ好きだったんだろうなというのはわかるけど。その気持ちだけで突っ走れるものなのかどうかは、私にはわからない。トレーナーさんにしか、わからないことだろう。恋心は、どうしたって一人でしか抱えられない。誰にも共有できない、一人だけの悩み。ある種一番、大人な悩みだ。
けれど次にトレーナーさんは、もう一つの問題を提示する。提示された問題は確かにかつて子供だった頃のトレーナーさんが抱えた、未来への不安。
子供が大人になるための、大切な悩みの一つだった。
……奇しくもほんのちょっと、今の私に似ていた。ちょっぴり、心が重なっていた。
「少し、違う。半年で同じ学校じゃなくなるのに、恋人になんかなれるのか、だった。ずっと好きでいられるのか、いてもらえるのか。付き合う前からそんな事を考えるのも馬鹿らしいと今なら言えるが、とにかくそれが怖かった」
「難しい話ですね、それ。少年はそんなことを悩んでいたわけですか」
「そうだな。初恋なんて実るわけないのに、実ったあとのことばかり考えていたんだ」
確かにそれは、子供らしい悩みなのだろう。今なら誰にでも話せる、大人から見れば過去の話なのだろう。だけどその時は、それで胸がいっぱいになるくらいに悩んでいた。誰にも言えずに、誰にも言わなくても、抱えていられた。……あなたにも、子供の時があった。けれど子供の頃のあなたは今の私とは違う子供なのだと、当たり前のことに気がついた。恋というありふれた悩みを抱えて苦悩して、そこで大人を望む子どもがいた。大人と子供の差、人と人の差。どちらもあるから、私たちは皆違う。
私とあなたも重なれど、一つにはならない二重星。
「……で、どうなったんですか」
「結局、告白できなかったよ。卒業式の日まで悩んでた。もちろん断られるのが怖かったのもあるし、今挙げたような理由もある。まあでもどちらにせよ、今はいい思い出だ」
「へーえ、いい思い出ですか。失恋って、悲しいものって聞きましたけど」
「それでも、だな。まあそれ以来そういう縁はないし、トレーナーの職についてからはそれが充実している。我ながら天職だと思っているぞ」
「トレーナー試験って大変なんですよね、確か。なんでトレーナーになろうと思ったんですか」
「そこまで聞くか」
「聞きますよ、そりゃ」
こうやって一つ一つ聞いていくと、やはり私はトレーナーさんのことを何も知らない。そして多分、知りたいと思う。だから根掘り葉掘りの詰問をしているわけだが、考えてみれば結構大事なことも知らなかったのだな、と思った。トレーナーになった理由、なんて。今なら聞けるからこそ、大事なことだということなのかもしれないけど。
「そこまで大した理由ではない。剣道部の頃から、努力が報われる瞬間が好きだった。だから、誰かにそれを教えられたらと思った。そんな事を漠然と考えていた時に君らウマ娘のレースを見て、あれを見たんだよ」
「あれって?」
「ウイニングライブだ」
……ああ、それは。私も何度かセンターに立った経験があるからわかるけど、あれは確かに彼のいう通りの瞬間。努力が報われる、きらきらのステージだ。人に夢を与える、栄光が結実する場所。人と人の想いが、つながりが生まれる未来そのもの。
輝きと煌めきでできている、私たちウマ娘の未来はそこにあるんだ。
「これだ、と思った。だからそこからは猛勉強して、ひたすらに詰め込んだ。根性の勝負だったが、そういうのは得意だからな。……で、今ここにいる」
「トレーナーさんに歴史あり、ですね。今更ですけど、ありがとうございます。そこまで話してくれて」
「話し出したら止まらなくなってしまったな。すまん」
「いや、なんで謝るんですか」
「だって今日は、君が来たいと言った日だ。話したいことは、君の方にあるはずだ」
なるほど、それは確かにトレーナーさんのいう通り。私の話をするはずなのに、トレーナーさんの話ばかりだった。けれど私が思うのは、今の会話は私たちにとって必要な回り道だったということ。迷い惑う私が答えを手繰り寄せるには、多くの手がかりが必要だ。そのためにはきっと、たくさんの回り道を通らなくてはならない。時間は待ってはくれないけれど、欠かせないものはすべて与えてくれるから。すべてを備えて、いつかの瞬間と向き合えるから。
さて、何を話そうか。話したいことはいまだにぼんやりと、もやもやと。だけど次第に形をとって、はっきりとまでは言えないとしても。子供と大人の会話にて、大人の方から伝えられたものは、自分がどうやって大人になったかだった。
ならば大人になれなかった子供の私からあなたに言えることがあるとすれば、それはきっと。
すとん、と近くにあったリビングの椅子に座る。そのまま促すと、トレーナーさんも向かい側の椅子に座る。テーブルの上にはいまだ雑多に物が散らばってはいるけれど、私たちの会話はこれくらいなら越えてゆける。そう、最初から片づける必要なんてなかったのだ。ありのままの部屋も、ありのままの私の言葉も。そのままを、そのまま伝えればいい。だって私とあなたなら、それでもきっと大丈夫なんだから。お互いいつも取り繕いがちだけれど、私とあなたは素直が一番通じ合えるから。
「じゃあ、話を始めましょうか」
午後も中盤、特別な日はやがて終わる。どれだけ今日が甘く美しくても、その余韻は夜までは続かないだろう。夜はまた明日のことを考える時間で、今日のことを考えられるのは今までだから。だからここからがクライマックス。
今日という日の終幕は、私にとっての終わりはここに存在するのだ。
バレンタイン・デイは、止め処なく幸せと熱情が溢れてゆくものだとしても。
最後には一口にすべてを収めてしまうのだと、そう決まっているのだから。
「さて、何から話しましょうかねえ。トレーナーさんの赤裸々な話も聞いちゃいましたし、私もそれくらい恥ずかしい話をするべきか」
昼下がりのトレーナー寮の一室で、テーブルを囲んで私とトレーナーさんで二人。私の会話の切り出しは、積もり積もった想いをどこから切り崩すか悩むようなふうだった。その言い草はまるで他人事みたいだけど、過去は得てして今の自分からは他人のようなものだとも思う。そして私が今から始めるのは、そういう話。積もり積もったままのものを、傍観したまま垂れ流してしまう話。何を話すべきか悩んで悩んで、全部まとめてしまえばいいやという話。そういう結論。今日のフラワーが話してくれたみたいに、言葉をまとめないからこそ伝わるものもあるはずだから。そこに信頼があるのなら、そうすることが一番だ。
トレーナーさんは黙って私が口を開くのを待ってくれていて、私はそのまま何を話してもいいみたい。こういう時だけ全部察してしまうのだから、つくづく大人とはずるいものだ。
……やっぱり、大人は憧れだ。不安を抱える先だとしても、それでも。
でも、とりあえず。今日あなたにする話は、今までの話。
「そういえば、トレーナーさんに言ってなかったなと思って。トレーナーさんと初めて出会った日、私が何を考えながらサボってたか、なんて。まずは、そこから話しましょうか。ファーストコンタクトのおさらいです」
子供の私が積み重ねた、すべてだ。
「随分懐かしく思えるな。スカイが入学式をサボっていて、俺がそれを見つけた」
「はい。正直あの時は、随分と鬱陶しい人に見つかったと思いました。声もうるさいしなんだか雰囲気が暑苦しいし」
「それは何事も、根性と努力だからな。それが<アルビレオ>のセールスポイントだと自負している」
「そうですそうです、その悪びれない感じも。開き直った正論が、はっきり言って苦手でした。第一印象は最悪でしたよ、トレーナーさん」
「……そうか」
「がっかりしました?」
「いや、それでいい。君が今このチームを選んでくれている事実は変わらない」
うん、きっとそう言うのだろう。そうわかってしまうくらいにはもう信じていたから、私はそんなことを言えてしまった。ずっと隠していた仄かな罪悪を、大人のあなたに赦してもらう。きっとそうすることが今日、私にとってやりたいこと。
バレンタインにかける、ひとひらの祈りなのだろう。
赦しを乞うことは、救いを願うことだから。
私が霞がかった恐れと不安に包まれているのなら、あなたにすべて赦してほしい。全部大丈夫だって、私が一番よく知る大人らしさで靄を切り払ってほしい。お願い、だから。
「……ありがとうございます。もちろん今は気に入ってますよ、このチーム」
「それならこちらこそ、ありがとうだな。それにしても、なぜ気に入らないトレーナーのチームに入ったんだ?」
ああ、そのことは聞かれるか。思い返せば結構間抜けな理由で、恥ずかしさもなくはない。当時は取り返しのつかない失敗だと思ったが、今なら笑って話せるか。それくらいには、もう<アルビレオ>にいるのが当たり前。そこまで言うのは、恥ずかしいけどさ。
「それはですね、いや結構言うの恥ずかしいんですけど」
「そう言われると気になるな」
「うわトレーナーさん、ずるい言い回しが上手くなりましたね」
「君ほどじゃないだろう」
「それは私もそう思います。……まあ、そのことはさておき。本当に笑い話として聞いてほしいんですけど、チーム名を取り違えたんですよ。トレーナーさんが言ってた緩めのチーム、<アルゲニブ>と」
「ああ、そう言えばそのチームのことは伝えたな。そっちに入りたかったのか」
「そりゃもう、ってほどじゃないですけど。結局そっちも名前覚えてない程度でしたし。多分どちらかというと、なんでもよかったんでしょうね」
なんでもよかった。夢を抱いてトレセン学園に来たはずの私は、その夢を肯定できていなかった。ほどほどのチームでほどほどのトレーニング、そしてほどほどの結果。それでよかった。だからなんでもよくて、だから<アルビレオ>も受け入れてしまった。
……けれど、なんだ。それは、かつての私。今までにあった私。それを越えたあとの私は、やっぱり成長していて。
「けど、今はここがいいです。たとえばトップロードさんがいっつも頑張って大声出してて、たとえばキングがいきなり私と併走したいなんていきなり言い出して。たまにフラワーが私のことを気遣ってくれるけど、基本ゴリゴリのスパルタな。そんなトレーナーさんの指導してくれる、ここがいいです」
「……そうか。そう言ってもらえるのなら、トレーナーとしてはありがたいな」
「でしょう? たまにはちゃんと気持ちを伝えないと、私の頭じゃすぐ忘れちゃう気がしますし」
今の私は、<アルビレオ>がいい。やっぱり、このチームしかありえない。あの皐月賞の時に初めて思って、今でも思いつづけていることだ。なりゆき任せで入った場所なのに、いつの間にか私にとってのかけがえのない居場所になっていた。
私から見える世界には、大きく羽ばたく白鳥が共にある。もう、そうなってしまったんだ。
……改めてその感情を噛み締めると、奥歯の奥の方が少しくすぐったい気がした。そんなに私、あの場所が好きなんだな、なんて。周りが応援してくれて、あなたが期待してくれるあの場所が。幼い私が求めていたものを、きっと今更見つけたのだろう。
会話を続けるうち、刻一刻と時間は過ぎてゆく。窓から部屋に入る日差しはどんどんと角度を変えてゆく。けれど、まだ暗くはない。
まだ、バレンタインは終わらない。
まだ、私たちは特別だ。
現在時刻、十五時四十七分。もう少し、このまま。
「さて、ここまで話しましたね。あの日の私から、今までの私。そこまで。トレセン学園に来てから、の話」
「そうだな。……きっと、まだ話すことがあるんだろう?」
「ご名答。私が今日、トレーナーさんに言いたかったこと。多分色々あるけれど、その多くを結びつけるもの。その前置き、って感じで、その後の今から本題です。……だけど、その前に一つ」
そう、一つ。細くて色気もない人差し指を口元に添えて、私は私の言葉を止める。密やかに、艶やかに。妖しく空気を彩って、この瞬間だけ私は大人に近づく。色を帯びた、想いを込める。言葉が空に浮かぶものなら、今から私が差し出すものは。
「ハッピーバレンタイン、トレーナーさん」
形あるものはきっと、その下の地面を作るのだ。空が堕ちてしまわないよう、それを支えて引き上げるために。渡される側だけではなく、渡す側にとっても。私たちのつながりは、ここにある小さなチョコレートによっても保証されているんだ。
「なんですかその顔、早く受け取ってくださいよ。要らないとか言われたら、流石にショックなんですけど」
「いやそんなことはない! ただその、驚いただけだ。なんだ、経験がないからな」
「初恋の人とは、義理チョコを貰うところまでもいけなかったんですか〜?」
「……悪かったな」
「もう、拗ねないでくださいよ。そこはいつまでも自分のプライベートをつつき回すなって怒るところですよ、トレーナーさん」
なんだか今日のトレーナーさんは弱々しい。素直だ。自分の部屋にいて、それで心なしかリラックスしているからだろうか。そしてそんなトレーナーさん安住の地に強襲する悪いウマ娘が、このセイちゃんというやつである。いやあけしからんですね、まったく。ずっと他人をおちょくるのを楽しんでしまっている。思えばフラワーにもこんな感じだったが、我ながらバレンタインにテンションが上がっているということか。やっぱり、という感じだけど。今更ながら、認めよう。今日は特別な日で、私だって舞い上がる。普段は言えない気持ちを、言える。
「というか、チョコならトップロードさんとキングから貰ったんじゃないんですか。二つ目なら反応できるでしょう、普通に」
「それは朝もらった。だがチームの部屋で、二人がかりだ。チームを代表して、とも言われた。君のとは違う」
「えーなんですかトレーナーさん、セイちゃんをそんな特別に見てくれちゃってますか」
「寮の部屋まで押しかけて、勿体ぶった渡し方をして。……そうなれば、特別にはなってしまうだろう。というかスカイ、君も年頃の女の子なんだからな」
うげっ、急に正論がぶり返してきた。諸々の行動にからかう意図があったのは否定しないけど、説教はごめんだ。そりゃあ私はあなたのいう通り年頃の女の子ですが、あいにくとそんな縁はありませんったら、ねえ? だからトレーナーさんをからかうためにその年頃要素を使うしかないのであって、そこのところを真面目に捉えられると困る。
それに対して真面目に返すのは、こちらの方が恥ずかしい。逃げウマはきつでも先手必勝であって、しっかり受け止められてからのカウンターには弱いのだ。
というわけで、雰囲気を強引に方向転換。無言でチョコを目の前に突き出し、突き出し。四角い箱にチェック柄のプレゼントラッピング、この前のルアーの時とやってることは似たようなものなのだけど。きっと、少し違う。少しだけ、違う。心の在りようが、違う。私とあなたの、二人の気持ちが。
「その、トレーナーさん」
あのクリスマスの時はきっと、いつもの私といつもじゃないあなた。だから、あなたを導けた。そして今日は多分、その逆。いつもじゃない私と、いつものあなた。だから。
「私の、気持ち。受け取って、くれませんか……?」
だから、私を導いて。もう一度両手で差し出して、いつもじゃないからこその乙女の態度を取って。いつものあなたに届くように、私は攻めの構えをとった。いつものあなたはこれ以上ないくらい頑固だけど、とっても愚直に受け入れてくれるのだから。
「……義理チョコだろう」
「それでも、特別ですよ。ナントカいうブランドの、三色チョコレートです。青、白、緑。ほら、私のカラーリング。特別、ですよ?」
そう言って包み紙を解いて箱を開いてやると、中に入っているのは宝石のような三つのチョコレート。そんな甘い黒が私の、あなたへの気持ち。いつもじゃ買わない、特別な気持ちのかたち。……三つで三千円かあ、と買った時に思ったのは内緒だ。
「それにしても、思わせぶりな態度を取るのは良くないな。人をからかうのは良くない」
「トレーナーさんのためだけの私の気持ち、受け取ってくれないんですか……?」
「ああいや、それはありがたく受け取るがだな」
「やっと認めた。今日はこれくらいで勘弁してあげます」
……うん、成功。いい加減この可愛さ満点みたいなやつ、私の方も限界だし。しかし思った数倍むずむずするな、これ。さっさと真面目な話に戻さないと、顔が平静を保てない。攻撃しすぎて反動を喰らいかねない状態だ。
と、いうわけで。少し姿勢を正して、箱の中のチョコレートを二人で見ながら。私は先程の続きを、緩やかに話し始める。今日の本題に、深く遠くへと入っていく。
「さて、ここにチョコレートがあります。三つあって、どれもチョコレートです。見た目は違うけど、きっと似た味がします。けれど、深くにある味わいは違います。……チョコレート売り場で悩んだ時、私なりにまず考えたことはそれでした。全部チョコなのに、何が違うんだろうって。でもそれって、簡単なことだったんですよね」
トレーナーさんは先程までとの押し問答とは一転して、また無言で私の言葉を聞いてくれていた。しっかり、受け止めてくれていた。いつものように、大人として。
まとまりも何もない子供の私の言葉を、全部残さず拾い集めるために。きっとあなたにとって大切な、私のために。
「たとえばこのチョコは、他に比べてちょっと甘い。たとえばこのチョコは反対に、少しビターな味わい。そうやってベースが同じでも、混ぜ方とかの工程で変わるんです。周りの環境で。そう気づいた時、思ったんです。これは私のことだ、って」
「スカイのこと、か」
「はい。正確には、誰にでも当てはまることでしょうけど。私もそうってだけで。幼少期から、影響されやすい子供でしたから」
「幼少期、か。スカイは要領がいいから、昔から出来が良かったんだろうな」
「それがですねえ、話せば長くなるんですけど」
残念ながらトレーナーさん、大不正解。まあ確かに言い当てられないのが当然と思うくらいには、今の私とはかけ離れているのかもしれない。けれど、それは環境が違うだけ。かつてあった子供の私と、子供から大人になろうとする今の私と、いつかどこかの大人の私。三色三様のチョコレートのように、三者三様の私がある。あなたの知らない昔の私も、あなたを知っていた未来の私も、きっとどこかには存在するのだろう。
願わくば未来でも、現在のつながりを忘れたくはないけれど。
「昔の私って、結構元気でやんちゃな子だったんです。近所の人みんなに優しくされてて、得意げになってました。何かするたびに褒められるのが嬉しくて、どこにでも遊びに行ってました」
何度も何度も反芻した過去を、久方ぶりに口にする。声にするのはいつかキングに話した時以来、だった。あの時よりも更に前に進んだはずの私は、どこかであの時よりも後ろに引っ張られている気がする。不安を一人で抱えられず、方々に吐き出してまで耐えている。子供のまま。だけど時間は無常に進み、大人の私は近づいている。
「でも、ある日ちょっと遠出して。そしたら私と同じウマ娘なんて、結構どこにでもいて。私なんか、なんでもない存在で。河川敷を何周も何周もして、それでも当然誰も見てなんかくれなくて、それで」
「……スカイ。辛いなら、喋らなくてもいい」
「いえ、いいんです。これは今、今の私がトレーナーさんに言っておかなきゃいけないことなんです」
今の私。子供の私。そんな私がここまでずっと楔のように引きずって、古傷のように大切にしてきた気持ち。そこから私は始まって、今もその先にいる。
その先にしか、いられない。
「だから私はこうなりました。できるだけ人に手をかけさせないようにって。誰かに深入りしすぎないようにって。そのつもりでした。……でも、こうなっちゃいました。<アルビレオ>に入って、スペちゃんにグラスちゃん、キングにエル。そんなみんなが周りにいて、私は期待もされてます。忘れかけてた子供の頃に、逆戻りしちゃってます」
そしてもしかしたら、いつか私は大人になるのかもしれない。今までの道の先にはない未来へ、光か闇かもわからないこれからの先へ進むかもしれない。何もかもが、わからない。今が正解なのか、別の場所に正解があるのか。ここにある不安は、過去も今も未来も何もわからないという不安。そのことだけは、ようやくわかった。とめどなく吐き出して、わからないということだけはわかった。
前進だと断言できるのは、このことだけだった。
また、数刻の間。現在時刻、十六時〇七分。目線を目の前の人からずらしてみれば、窓の外にはまだキレイな青空が広がっていた。そう空の果てがないことを想えば、同じように永遠になれる気がした。ずっと走れると。子供のままだと。それが正しいことかどうかすら、誰も保証してくれないのに。子供のままじゃなきゃ進めない。子供のままじゃ人に頼るしかない。いつかは大人になりたい。大人になれば、つながりを失って独りになるかもしれない。なら、なら。なら、どうしたら。私にとっての正しい方角は、どこへ──。
「そうか。けれど、それはいいことだろう」
──そう思った時だった。トレーナーさんが口を開く。
いつもの白い歯を、少しだけ覗かせながら。
私に向かって、言葉を吐いた。
今の私を、過去の私を、未来の私を、「いいこと」だって。
「いいこと、ですか?」
「ああ。スカイはまだ子供だ。だから、子供の頃の望みを忘れる必要はない。それに、俺は言っただろう。君は『走る』ウマ娘だと。トレーナーとして、そんな才能を棒に振らせるわけにはいかないな」
なんで。なんで、この人は。
「スカイは走れる。この先も、だ。俺でよければ保証する。大丈夫だ、これまでの努力が裏切ることはない」
なんで。なんで、そうやってずっと。
「だから頑張れ、スカイ!」
なんで、いつもすべてを見透かして。私のことを、期待してくれてしまうんだろう。
私の全部を見た上で、その上に期待を重ねてしまえるんだろう。こんなに弱いって、わかってるはずなのに。それでも私だけの強さを、私らしさを見つけてくれるんだろう。
思考は混ざり、暴嵐の如く渦を巻く。私は、私が、私のために。
この数日、いやずっと。誰かが私を、ずっと支えてくれていた。キングが、トップロードさんが、フラワーが、トレーナーさんが。子供の私が大人になりそうでも、変化の途中にあってもみんなは変わらなかった。
変わっていても、つながりは途切れさせようとはしなかった。ここ数日の、今までのすべての上に積み重なった記憶が脳髄の芯まで流れ込み、言葉は何も出てこなくて。
……なんとか一つだけ、本当に一つだけ絞り出せた。ぎりぎり頬に滴を伝わせないままで、私はその想いを紡ぎ出す。
「……トレーナーさん」
「なんだ、スカイ」
「頑張ってたら、褒めてくれますか」
はじまりの気持ち。私はあなたに、褒められたい。期待してくれたあなたに。いつも支えてくれたあなたに。褒められたなら、応えられる。そうであれば、きっと走りつづけられる。どこまでも、いつまでも。そんな気がした。曇天を祓う、これが最後の手がかりだ。
「もちろんだ。当然、努力したらだがな」
「それはなかなか、私にとっては難題ですけど。まあそれなら、頑張りますよ」
「ああ。期待している」
そこまで。私とあなたの会話は、そこまで。あらかた言いたいことも言われたいことも出てしまったので、それ以上は必要なかった。言い尽くして、満ち足りた。だから、十二分に幸せだった。これが私とあなたの、特別な一日の過ごし方だった。
二人だけの、バレンタインだった。
ちなみに会話が途切れたタイミングでトレーナーさんの部屋に入り込もうとしたら、やっぱり固く拒否されてしまった。それは譲れないらしい。というわけで、私にできる最後のおちょくりはこれくらいしかなかった。
「はいトレーナーさん、あーん」
「本気で言ってるのか」
「そりゃチョコ食べてほしいのは本気ですよ。ほら、あーん」
三つあるチョコレートを一つ人差し指と親指で取って、あーん。
指先で摘みやすい一口サイズなので、こんなことができる。
トレーナーさんの口元にぐいぐい、ぐいぐいと。あらら、もう少しでそのカサカサの唇に可愛い女の子の指が当たっちゃいますよ?
そんなので責任取れるんですか、トレーナーさんったら。
ほら、覚悟を決めてください。
あーん。
あーん。
「あーん」
「なあ、スカイ」
「あーん」
「わかった。俺が悪かった」
「別に何も悪くないですよ。ほら、あーん」
そこまで押して、押しまくって。我ながら酷いやり方だが、なんとなくそうしたい気分なので仕方ない。そろそろチョコが溶け始めるんじゃないかというくらいの時間が経った後で、ようやく。
ぱくり、と。私の指先から、丁寧にチョコがもぎ取られた。……これもし指と口が触れてたら、こっちも処理というか、扱いに困ってたな。そんな若干慌てて指先に感覚を奔らせているなんてのはおくびにも出さずに、とりあえずお高いチョコの感想を聞いてみる。
「どうですか、お味は」
「美味い。いや、よくはわからないが、美味いぞ。ありがとう」
「そりゃ良かった。何しろ私もよくわかりませんからね。……では、二つ目いきましょうか」
「おい、まさか」
「はい、あーん」
そんなこんなで、たっぷりとトレーナーさんをからかって。けれど貰った言葉はしっかり忘れずに、伝えた願いもきっと叶うように。そのために、今日という日はあったのだから。
私とあなたは、そういう時間を過ごしたのだから。
特別な一日、バレンタインの幕はようやく降りる。
そこまで自分の全部を誰かに尽くして、じっくりととろけるまで甘く黒く想いを繋げて。
普段はしないような話をして、普段は伝えられない気持ちを伝えあう時間を過ごして。
そして最後はチョコレートを食べて終えるのも、どれもが今日という日だからこそ。
特別な、バレンタインだからこそ。
バレンタイン・デイは、さまざまの想いが交錯し、特別でどこにもない非日常だとしても。
乙女たちが最後には幸福になる日だと、そう決まっているのだから。
「──セイウンスカイ先頭! セイウンスカイ先頭です! セイウンスカイ、五バ身離して今ゴールイン! 日経賞を制したのはセイウンスカイです!」
そうして、私たちの春が来る。
春の幕開け、今年の初戦。
すべての不安の払拭を賭けた一戦の結果は、これ以上ないくらいのものだった。
スタンドに向けて晴れやかに手を振る。
きっと見ているチームのみんなや、いずれまた鎬を削る同期のみんなへも。
私は負けない。
私は走る。
私はまだ、ここにいる。
私の存在を証明し、未来はまた一つ光の先へと開けていくのがわかった。
これから先も、続いていく。
空が、墜ちてこない限り。