あれだけ寒かった世界は、いつの間にかぽかぽかと陽気に包まれている。ずっと冷たいままなのかと思われた空気は、いつの間にかのどかうららか極まれり。こんなのは生まれてから何度も経験した変遷だけれど、その度に小さく感動してしまう。
春が、来た。今までと同じように、けれど今までとは必ず違う春が。そんな春が、やって来た。
春夏秋冬校内をウマ娘が元気に走り回っているトレセン学園にも、一応春休みくらいはあった。でも私の場合は日経賞に向けてのトレーニングと本番で潰してしまったように、他の子もこの時期にまともに休んだりすることはあまりない。なので三月と四月はトレセン学園のウマ娘にとって限りなく地続きであり、春の訪れという一大イベントであるはずのものを色濃く印象づけてくれるのは、そこにある気候の変化くらいのもの。緩やかで、穏やか。過ごしやすい暖かさと共に校門をくぐるタイミングが、一番春を感じさせてくれるのだ。
まあ、とはいえ冬から時間が経ったのは事実。春が来たのは、事実。たとえば正月やバレンタインは終わったし、たとえばここから先にはファン感謝祭や新しいレースがある。授業のためにトレセン学園に通うのも新学期ならではで、どうしたって今は春なのだ。
そうして時間の流れがあるならば、これまでとこれからの時間にある出来事を振り返ったり向き合ったりすることもできる。去年は弥生賞や皐月賞で色々と考えてしまったなあ、などと懐かしむこともできるし、今年は春の天皇賞かあ、などと未来に想いを馳せることもできる。やっぱり、世界は変わってゆく。変化と成長の積み重ねは、過去と未来を繋いで変えてゆくのだ。
そしてそうやって変わりゆくものの一つが、今繰り広げられている会話の中にもあった。私にスペちゃん、キングにエルにグラスちゃん。
いつもの五人で、いつもの昼食中のお話である。ちなみに誰が話題の中心かでその日の流れが大きく変わるというのはあいも変わらずといった感じなのだが、今日の話題の中心は誰かというと、エルだった。
去年も比類ない戦績を納め、最優秀クラシックウマ娘にも選ばれたエルを、そこで止まらずこれから更に上を目指すエルコンドルパサーを取り巻く話題。「世界最強」を掲げる彼女が、遂にその大それた夢に手を伸ばそうと、今年の大目標として定めた一つの挑戦を実現させんと、ぐるんぐるんと息巻いているという話題。
……それ、すなわち。
「ええ〜っ、エルちゃん海外行くの!?」
と、そんな感じでスペちゃんが驚いた通りの、エルコンドルパサーによる海外遠征の宣言である。ちなみに最初にこの情報を喋ったのはエルではなくて、前々からチームなり寮の部屋なりで個人的に聞いていたグラスちゃん。
よくよくグラスちゃんの話を聞けば、このことはそれなりに前から決まっていたのに、エルときたらすっかり話すのを忘れていたらしい。話の通りなら、もうあと二週間もしないうちに日本を起つというのに。一人の友達が、それで遠くへ行っちゃうのに。
だけど他人に言うより自分自身でいっぱいいっぱいだったってことなら、そういうのもエルらしいというかなんというか。
「はい! アタシが世界最強だってこと、証明してきます! 期待しててください!」
「でもそれならちゃんと、ちゃーんとみんなにお別れの挨拶はしておくんですよ? それまで忘れちゃ駄目ですからね〜?」
「わ、わかりました……。ごめんなさい、グラス」
「いえいえ、エルがおっちょこちょいなのはいつものことですから。ちゃんと反省してるなら、大丈夫ですよ」
「……始まる前からグラスさんにいいようにやられて、先が思いやられるわね」
「それは同感かも」
確かにキングのいう通り、エルが海の向こうで一人でやっていけるのかはなかなか疑問の残るところではある。一時的な遠征で帰ってくるとはいえ、グラスちゃん抜きでやっていけるのか、この子は。だって案外寂しがり屋だし、おっちょこちょい極まれりだし。
無論、能力的には問題ないのだろうけど。先に述べた通り、エルは去年の最優秀クラシックウマ娘。つまり、同世代では文字通りの「最強」。そんなエルコンドルパサーには、これから先でも勝ちつづけられるだけの力があるだろう。慣れない海外の芝だって、思いのままに蹴散らしてしまえるほどの。その点は心配要らないし、純粋に応援しちゃえるところ。
そう思うとやっぱりすごいね、エルは。
そういえば、最優秀クラシックの対抗バは私セイウンスカイだったか。他人事みたいに言っちゃうけど、クラシック二冠はそれなりの偉業だったらしい。まあもちろんエルの方がすごかったから、エルの方が選ばれたわけなんだけど。そこに関しては素直にエルがすごいという話で、私からはそんな大それた場で競わせてもらったくらいでもラッキーな気がする。だってエルとはダービーの一回戦って、それきりだから。
エルと走ったのは、ダービーの一度だけ。あの時よりお互いだいぶん変わってはいるだろうけれど、成長した実力を互いに披露する機会にはまだ恵まれていない。そう、まだ一回きり。今の本気の私たちならどうなるか、その結果はもちろん誰にもわからない。それなのにエルが海外に行ってしまうのは、少しばかり寂しいというか、歯痒いというか。勝ち逃げされたなんて思ってしまうのは、そこまでは烏滸がましいのだろうけど。
「まあエル、頑張りなよ。くれぐれも、向こうで打ちのめされないように」
「それは、もちろんです。アタシは勝つために、世界最強を証明するために行くんですから。負けてもいいから胸を借りるだなんて、そんな甘っちょろい考えじゃないですよ」
「うん、それならセイちゃんも安心かな、なんて。エルがそういう子なのは前からわかってることだし、だからこそ海外遠征もそんなにみんな驚いてない。そりゃ、少しは寂しくなるけどね」
「……ハイ。実はエルもちょっと、寂しいデス」
周囲の会話の内容も聞こえるほどの喧騒飛び交う食堂の片隅で、けれど透明な壁で私たちの語らいは区切られていて。だから、少しだけ。少しだけ素直に、エルの口からその言葉は漏れた。透明な壁が、私たちにだけそれを聞かせてくれた。今ここに私たちだけの空間が存在するのは、そのつながりをこれまでずっと続けてきたからだ。
それなら少しの弱音から続く決意だって、私たちが支えてあげよう。私たちはきっと、互いを互いに支え合える。もうとっくの昔に、そんなふうになっているのだから。この先だって、つながりは途切れない。
「トレセン学園に編入して、<リギル>に入って。そしてみんなと会えて、みんなと走って。楽しかったデス。楽しいから、もっと先に行きたくなりました。……アタシが世界に宣言するのは、『世界最強』デス。でもそれはアタシだけじゃなくて、アタシたち『黄金世代』が最強だって示したいんです。だから寂しいけど、寂しくないです。フランスでも気持ちはみんなと一緒ですし、それに──」
……なるほど、ねえ。気持ちはみんなと一緒、それはありきたりな言葉かもしれないけど、ありきたりなおかげで強く強く君の支柱になるのなら。しかし、なかなか嬉しいことを言ってくれるね、「黄金世代」が最強だ、なんて。「黄金世代」とは、私たち五人をまとめて指し示す時にニュースやファンが呼んでくれる呼び名だ。それをエルは大切にしてくれていて、だからこそ、より高みを目指そうとしている。だからこそ、繋がっている。離れていても、気持ちは一緒。そう思うのは、君だけじゃない。「黄金世代」全員だ。
……それに、だ。
「──それに、必ず帰ってきます! そうしたら、またみんなと走りたいデス! 絶対に、一緒に走りましょう!」
それに、そこで終わりじゃない。
私たちの未来を見据えて、そのためにエルは挑戦するんだから。
「うん、もちろん。応援してるよ、エル」
「ええ。帰ってきた時は負けないわよ、エルコンドルパサーさん」
「頑張ってね、エルちゃん! また走れるの、楽しみにしてるから!」
「そのためには、こちらも頑張らねばなりませんね〜。エルに負けてはいられませんから」
思い思いのフレーズを、一人旅立つ少女に手向ける。寄せ書きのように、花束のように。言葉ですべては語れないけれど、それでも尽くせる限りを尽くす。そうさえすればきっと、私たちのつながりなら語り切れなかった残りも伝わるはずだから。
声の形にできない想いも、今まで紡いだつながりになら載せられるはずだから。
そして色とりどりの言葉たちを、彼女は笑って受け止めて。いつもとは少し違う照れ臭そうな笑顔だったのは、マスクの上からでも見て取れた。
「……はい! みんな、ありがとう!」
そうしてそれから、あっという間に。寂しがり屋のコンドルは、遥か空へと飛んでいった。もちろんその日までの二週間弱は、みんなでいつも通り、いつも以上にいっぱい遊んだ。これきりじゃないと知っていても、それはそれとして別れは寂しいものだから。けれどこのことをちゃんと寂しいと思えたからこそ、見送る時は笑顔で見送れたのだろう。私たちも、エルも。
……うん、私も。エルの見る方角は、きっと私とは違う。海の外まで見渡すなんて、私には到底できっこない。世界全部を渡り歩く、そこまでの大それた目標なんて。
だけど、それでも。それでも私にだって、しっかりと目の前の目標はある。まだ、先はある。見えない未来に、目を向けている。海の果てが見えないのなら、空の果てまで見渡せばいい。方角は違う。けれど、距離は一緒だ。果てのない道筋をたどるのは、私たち全員が一緒だ。
「黄金世代」は並び立つ。各々の目指す先を見て、時には競いぶつかり合って。目指す夢が違っても、一緒に進むから並び立てる。だから離れ離れになることは、少しは寂しく感じるとしても。
思い思いの道を往き、それでもつながりを持っているのは、ずっとずっとわかっていることなのだから。だから私も、笑顔だった。これも私の大切な人から、元気をもらえた瞬間だったから。私も頑張ろうって、そう思えたから。
まずは天皇賞(春)、期待に応えて褒められたいって、君に比べたらずいぶんと子供っぽい夢だけどね。でも、願うのは同じ。私たちは、同じように生きている。
行ってらっしゃい。また会おう。
次会う時はきっと、世界はもっと華々しい。
我らがエルコンドルパサーがフランスへ旅立ってから、はや数日。教室は騒がしい一人がいなくなったぶん少し静かになったけど、その欠落にもすぐ慣れてきた。そういうと薄情な気もするけど、それだけちゃんと後腐れなくお別れできたってことだ。いつか戻ってきた時、元通りかそれ以上に静かじゃなくなるんだろうしね。
かくいう私が今いるのは、もっともっと静かなところだけど。さてさてどこかと言いますと、校舎からだいぶ離れたところにある校門近くの木陰。前フラワーに紹介したところともまた違う、こっそり見つけている私だけの居場所。
まあ、私は何個かこういった場所を持っている。一人になる場所。一人がいい時の場所。誰かの存在を意識するのもいいことだけど、たまにはこういうのんびりした日が必要なのだ。一人きりでゆるーりと、誰にも囚われない日が。誰かを常に追いかけているのは、きっとお互いのためにならないだろうし。というわけで、のんびりしている。
ちなみに私がこう外でふらふらしているのに対して、のんびりするなら自室でいいじゃないかという人もいるかもしれないが(たとえばキングとか言ってきたことある気がする)、個人的には外でだからこそのんびりできるというものなのである。空を見て、雲を見て、流れる人影もわたぐもに重ねて、吹き抜ける青空に私を重ねて。視野を広くして、薄ぼんやりと世界を見渡す。何もかもを雑多にひとまとめにして、それこそ、私の至高の「のんびり」だ。
どこまでも広がって果てのない碧空は、きっと私の憧れの一つ。まさかそれになりたいなんてことは子供でも言わないが、子供の頃から空を眺めるのは好きだった。今の私とは違う人間みたいなものであっても、昔から好きなものはある。たとえば他には釣りとか、昼寝とか。変化と成長を積み重ねても、変わらないものがあるからこそ私は私のままなのだ。
つまりはまあ、昔の私のこともちゃんと大事にするべきなのだろう。はじまりの私、少しばかり苦々しい思い出も含めて、かな。そこから巡り巡って、今の私が存在するから。
まだその時の私の気持ちは、諦め切れていないままだから。諦めたつもりで、最初の願いを捨てていなかった。だから、私は今ここにいる。ここに、いられている。
と、今日はそんなことを考えていた。
こういう一人で過ごす日はなんであれ、ぼんやりとした思考を重ねる日だから。
尻尾を揺らし、耳も揺らし。身体だけは木陰に預けて、思考もゆらゆら、ゆらゆらと。
子供の私。大人の私。今はきっと、その中間。過渡期であり、変化そのもの。故に極めてアンバランスで、こんなに何度も悩み惑う。ぼんやりと、けれど確実に。情熱に焦がれる子供の私から、灰のように積み重なっていく別の何かが。子供から地続きになっている私を、いまだに苦しめているのかもしれない。
まだ、霞の正体は掴めない。頑張ろうと決めたのだから、あとは怯まず走るだけなのだけど。
日経賞は快勝した。次は春の天皇賞だ。
先の勝利から順調にステップアップしているようにも見えるし、有マ以来の「黄金世代」対決に不安が残るとも言える。菊花賞以来の京都レース場で行われる天皇賞(春)。3,200mというトゥインクル・シリーズでも随一の長距離レースで、私は再びライバルと相見える。相手はクラシック三冠を奪い合った優駿、スペシャルウィークだ。
同じレース上、同じ長距離の菊花賞では私が勝った。あのレースは今でも色褪せない、最高のレースだったと思う。それは今でも変わらない気持ちだけど、けれどだからこそ一度では決着は付かない。いつか私が言っていたように、最高は増えてゆくものだから。そしてまたいつか誰かが言っていたように、最高は更新されていくものだから。だから、もうひと勝負。
ここでまた、私と君の勝負はもう一度決着をつけることになる。
それにもちろん、このレースはスペちゃんだけと競うわけではない。クラシックを終えてシニア級に進んだ私たちは、歴戦のウマ娘たちと同じステージに立つことになる。私が逃げ切りを狙うのは、その全員からだ。やっぱり、全員がライバルだから。無謀な野望かもしれないけれど、それに耐えるだけの策謀を練るしかない。本当の勝負は、きっとここからなのだから。私たちの未来は、ここから広がっていくんだから。
……それにしても、いい天気だ。上を見上げれば青空と浮雲、下を見渡せばめくるめくトレセン学園のウマ娘たち。いやいや綺麗な空と可愛い女の子とで目の保養になりますねえ、なんて……おや、あれは。
「やっほー、スペちゃん」
校門まで歩いてきた人影の中に、見知った顔が一つ。というわけで声をかけてみる。……反応はない。無視。まあそれくらいで狼狽える私ではないので、ちゃんと状況確認。よくよく見るとその影は、もう一人のウマ娘と連れ立っていた。なるほど、二人で仲良く喋ってるわけね。ちなみにスペちゃんと話すもう一方にも、見覚えがあった。その姿を直接見るのは、もしかしたら私にとっては初めてかもしれないけれど。
そっか、学園にまで通えるようになったんだ。となれば私はスカートの土を払い、尻尾の揺れも丁重に抑えまして。粗相のないようにだけ身体の細部の寝癖やら耳の動きやらだけ気にしたあと、立ち上がってそちらへ行く。どうも初めまして、と言った感じで。こうなればしっかりお話ししたい、そんなのもいつもの気まぐれかな。
「ちょっとそこのおふたりさん、お時間よろしいですか」
「……えっと、どちら様かしら」
「あっ、セイちゃん! そっか、二人は初めて会うんですね」
そんなふうに私ともう一人の間に立ったのは、先程私が一人で密かに話題にしていた栗毛のウマ娘、スペシャルウィークちゃんあわあわぴこぴこ、耳からは若干の緊張が読み取れる模様?
大切な先輩にふわふわ浮ついたセイちゃんなんかを紹介するのはそんなに覚悟のいる行為ですか、スペちゃんさんや。
しかしやがて意を決したみたいで、いやそこまで意を決するほどのことじゃないと思うんだけど、スペちゃんはおずおずと喋り始めた。まあ憧れの先輩の前では、なんであっても緊張してしまうもの。決してスペちゃんにとって私が他人に紹介しにくい人種というわけではない、ということにしておこう。
「えっと、スズカさん。この子が、セイウンスカイ。セイちゃんって呼んでます。スズカさんと同じ逃げウマで、すっごく強くて」
「ちょっとスペちゃん、そんなに褒めても何も出ないよ? ……まあ、ご紹介に預かった通りです。私はセイウンスカイと申します。初めまして、サイレンススズカさん」
そして私も、やっぱり緊張しているみたい。控えめな表情から窺い知れる物静かな雰囲気は、初対面で私の知らないものだけど。真っ直ぐに揃った毛先まで綺麗にすーっと伸びた栗毛の長髪を見るだけで、テレビで何度か見た彼女のレースが思い起こされる。もちろん、あの秋の天皇賞も。けれどそれを超えて、彼女はここにいる。だから私も、この言葉を送れる。
初めまして、スズカさん。
会えて、よかった。
「……初めまして、サイレンススズカよ。セイウンスカイさんのことは、何度かレースで見させてもらったわ」
「そりゃ、スペちゃんとはクラシック三冠を奪い合った仲ですからねえ。何度かご覧になったりしたでしょう」
「ええ、スペちゃんあなたに負けるたびに泣いてたもの」
「ちょっと、スズカさんったら!」
「あら……言っちゃいけなかった?」
「恥ずかしいですよぅ、そりゃ……」
……これ、スズカさんは相当天然だな。ぱっと見の印象だとスペちゃんがボケ担当だし多分普段もそうなんだけど、いつこっちがボケてもおかしくない。そうなるとスペちゃんがツッコミをやる時もあるのか、今みたいに。
スペちゃんのツッコミは私の知ってるつながりでは見せてくれない顔だから、少し新鮮。なんだか得した気分。それはさておき、この二人に任せていたら会話が進まない気がする、なんとなく。とはいえ私が呼び止めた理由もそれほどないような、あるような。気分屋と天然二人、それでは踊れど進まないんじゃ、とはなる。
それでもまあ多分、話しかけた理由の一つはわかりきっている。私が、二人に話しかけた理由。スペちゃんにも、スズカさんにも。その、二人に。
「ところでおふたりさん、先程も聞きましたがお時間はいかがですか」
「えっと、私は大丈夫だけど。スペちゃんは?」
「私はスズカさんが大丈夫なら、全然! 何かな、セイちゃん」
「それは良かった。いやなに、ちょーっとお二人さんとお話がしたくて」
多分、これだ。一度スズカさんとは話がしてみたかったし、スペちゃんとも話したい。内容も決まっている。話したいのはもちろん、私たちの見据える話。ライバルだから、ね。
「春の天皇賞に向けての話。ちょいとそこの木陰で、ゆっくりと語らってみませんか」
「……構わないけど、私が居ていいのかしら」
「そりゃもちろん。スズカさんにも聞いてほしい話です」
「……私、春の天皇賞は走ったことないわよ?」
「秋のはあるじゃないですか」
「それは、そうだけど」
丸め込みやすすぎるのはいささか心配だけど、スズカさんにも私とスペちゃんの話を聞いてほしいのは、本当だ。まあ、訳は色々と。天皇賞(春)に向けて、色々とスズカさんだから見えるものはあるという、私なりの推察。
それにそもそも今のスズカさんを一人で帰すのは、スペちゃんが絶対許さないだろうし。
最近毎日二人が一緒に帰っているのは、実はなんとなく把握している。主に教室でのスペちゃんの態度から。たとえば最近ぼーっとしてることが多いのは、多分学校に来るようになったスズカさんのことを考えているからだろうなと思っていたし。というかスズカさんがまだ病院にいた頃は毎日早く帰ってリハビリの付き添いに行っているのが側から見てもバレバレだったから、そりゃ今もそんな感じだろう。
まあだから、今のスペちゃんはスズカさんにつきっきりだ。そういう意味でもスペちゃんと話す時にスズカさんを分けることはできないし、私もそうするつもりはない。誰かとのつながりを大切にしているのは、多分私も同じだから。私と君で、同じところだから。寄り添える、つながりを持てるところだから。
だけどその上で、私が君に話すこと。スズカさんを交えた上で、君に話すことがあるとすれば。君にだからこそ、言いたいことは。
木陰に寄って、木洩れ日の下に三人で座って。うん、準備は万端。
そして私は、口を開く。おもむろに、着実に。
「じゃあ早速、話をしましょうか。とりあえず一つ、スペちゃんに聞くね」
「私? 何かな、セイちゃん」
けろりと笑いながら、至って平静を装って。
すべてを雲の影に隠しながら、私の言葉は宙を飛ぶ。
「スペちゃんにとっての、走る目的は何」
それは、遠い昔、出会った日のリフレイン。それは、きっと私も君に返さねばならない言葉。それは、きっと常に変化していくもの。そしてそれは、成長とは限らない。
だって、君の返事は。
「いつか、スズカさんと一緒に走りたいから」
やっぱり、大切なものを忘れていたから。たとえ致命を抱えているところまで、今の私と同じだとしても。私が誰かに救われたように、私も君を掬い上げる。
私がこのままどうにかならなくても、君はどうにかしてやりたい。
なぜなら、私たちはライバルで友達だ。全力でぶつかって、心の底から想いたい。
かけがえのない、仲間なのだから。
うららかな春の昼下がり、日差しはまだまだ翳らない頃。私は君にこう問いかけ、君は私にそう返す。憧れのその人の前で、躊躇いもなくその憧れを口にできる。やっぱり君は、スペシャルウィークだ。そのことは、変わらない。
「……って、スズカさんの目の前でこんなことをいうのはやっぱり気恥ずかしいですけど。でも、それが今の私の目標。私の願いだよ、セイちゃん」
「……ふーん。そりゃ、ご立派なことで」
なるほど確かに、君には目指すものが見えている。どんなに途方もない夢であっても、視界に収めることができる。だから君は強い。どこまでも、その強さは変わらないのだろう。
でも、気づいてないかな。
君の言葉を聞いているスズカさんの表情は、そこに秘められた感情は一種類じゃないって。
私のなんかには気づけなくていいから、君の大切な人の気持ちには気づいてやれないかな。
夢は常に大きい。視界をどこまでも埋め尽くす。一見かけがえのないものであるが故に、時には人を縛るのかもしれない。霞のように先を閉じないまま広がる私の悩みとは、違うかもしれない。それは明確に空を遮っていても、己を照らす太陽と誤認できてしまうから。
だけどそうであるならば、私にも君を助けられるはず。
今の私の恐れは解決できていなくても、君と私がそこで違うなら。
少しだけ違うから、補い合えるはず。
「大事にされてますね、スズカさん。スペちゃんはあなたと走るために頑張ってるらしいです。今度の天皇賞も、きっとそうなんでしょうね」
「……セイウンスカイさん、あなた」
「おっと、私のことはいいんですよ。スズカさんが心配するのは、同じチームの後輩であるべきじゃないですか」
君の矛盾。君の忘却。それは確かに見えていたけれど、私にそれを直接指摘する義理はない。資格もない。誰かに依拠してしまうのは、きっと私も変わらないから。そういう意味では、ひょっとしたら私たちは似たもの同士かもしれない。たとえ他のあらゆる点が、羨望でしか届かなくても。私と君は、やっぱり違う。
確かに、私は君には敵わないと思うところがたくさんある。
その気持ちの強さ、時折見せる鋭さ、純粋に人を想える優しさ、レース中に見せる末脚だって。私には、君になることはできない。だけどそうあるのは、君から私も同じはず。届かないところは、互いにあるはず。ライバルで、友達。重ならないからこそ、私たちは仲間なんだ。
だから、スズカさんには聞いていてもらえればいい。そしてあくまで、スペちゃんのために話してあげてほしい。私にも矛盾や忘却がどこかにあるかもしれないけれど、今大事なのはスペちゃんだ。明確に道を違えているのは、君だ。
「……それは、そうかもしれないけど。でもあなたがスペちゃんの友達なら、私はあなたとも仲良くしたい」
「それは私のためですか? それともスペちゃんのためですか?」
「ちょっと、二人とも」
ああ駄目だ、今日はのんびりとした会話のつもりだったのに。ついつい藪をつつくような、核心を暴き立てるような、そんな言葉ばかりがあぶくのように出てきてしまう。溺れる者は藁をも掴むというが、私も必死にもがいているのだろう。だからスズカさんの私への言葉に、過剰とも言える反応をしてしまう。
まだ、苦しいまま。答えへの道標は見つけた。約束をした。誓いも立てた。だけど、走るまではわからないから。ならば私は、もがき苦しみながら前へと進むしかないのだ。こんな状況でスペちゃんの問題にまで首を突っ込むのは、お人好しを超えて難儀としか言いようがないが。
けれどそう言ってのけてしまった私の上辺だけの薄い言葉にも、真摯に返してくれる人がいて。その度に私は、また人に甘えてしまったと思うのだ。
スズカさんは、少し強い口調で。密やかで透き通るような彼女の声に、仄かな力が籠る。
「私のためよ。目の前で誰かが嫌な思いをしているのは、私が嫌だから」
「そう、ですか。じゃあ嫌な思いをしてなかったら、その人がどうなってもいいですか? たとえば、今のスペちゃん」
「……私?」
「そう。私が声をかけたのは、スペちゃんの現状の再確認のため。今のスペちゃんは、とっても気持ちが上向いてる。そうでしょ?」
「うん。……今だからスズカさんの前でも言えるけど、スズカさんがあの日故障してから、ずっと私は不安だった。だけど毎日リハビリを頑張るスズカさんを見て、こっちも元気を貰えたの。……だから、スズカさん。私はいつかスズカさんが復帰して、アメリカに行っちゃっても。帰ってくるまでいつまでも待てるって、そう思います」
「なるほど、ね。スズカさん、アメリカに行くんですね」
ふーん、それは初耳。となればスペちゃんの態度も多少腑に落ちる、か。今のスペちゃんは、二つの気持ちに挟まれている。
スズカさんが元に戻った喜びと、スズカさんがどこかへ行ってしまうという焦り。
一度あんなことがあったのだから、きっとその反動とも言える二律背反の感情は相当なものだろう。スズカさんが元気になったからこそ、つきっきり。スズカさんが元気になったからこそ、遠くへ行ってしまう。エルのように、戻ってくるとわかっていても。
そう、言葉と心ではわかっていても。
「……だから、今のスペちゃんはそうなってるんだ」
だから、忘れてしまっている。トレセン学園での生活が、今までの彼女を変えたから。変化と成長を積み重ね、わかっていてもつながりを断ち切れない。
そこに新しく大切なものを見つけたからこそ、新星の眩しさで他のものが見えなくなってしまっている。変えてはいけないはずの、最初に抱えた夢さえも。
そう、今の彼女には夢がない。
ここまで彼女を連れてきた、はじまりの気持ちが存在しない。
どんな時でもスペちゃんがスペちゃんであった、その存在の軸にあるものが。
スペシャルウィークの、幼い頃からの一番の夢。
「日本一のウマ娘」という彼女の根幹が、彼女の中から消えそうになっている。
そのことこそが、今のスペちゃんの矛盾と忘却。大切な夢があったからこそできたつながりが、つながり以外のすべてを彼女の世界から排除してしまっている。深く、慈しむが故に。彼女が強く優しいからこそ、脆くて誰にも手を伸ばせない。
天皇賞(春)を間近に控えて、状況はまさに風前の灯。とはいえやはり、私は直接彼女の過ちを指摘できないのだが。理由は大きく分けて二つ。
「……どういうこと、セイちゃん」
「私から深くは言わないよ。そして多分、スズカさんも深くは言わない。スズカさんはスペちゃんの邪魔をしない、それも立派な考え方だと思うしね」
「……ええ。私にできるのは、スペちゃんを応援することだけ」
一つ。それは、私が踏み入るべき領域じゃない。走る理由はどのウマ娘にとっても大切な、絶対不可侵の心臓部だ。そこに触れるのは慈愛と覚悟を込めての根本的な治療か、あるいは明確な害意を持っての傷害行為か。そのどちらに踏み切る勇気もない私には、立ち入ることのできない場所だ。だから、言えない。弱いから、言えない。
「わからないよ、セイちゃん。セイちゃんは、何が言いたいの」
「私が言いたいこと、か。それはもちろん、今度の春の天皇賞のことかな。京都3,200m、最強のステイヤーを決めるGⅠレース。そこでスペちゃんは、何を願って走るの」
「それは、決まってるよ」
「なら、聞かせてもらおうかな」
「スズカさんと一緒に走れるような、私になること」
「……なるほど、ね」
そして、もう一つ。君のその願いを、星より眩いその願いを私に折ることが許される瞬間があるとしたら、存在するのはレースの中でだけ。走ることでのみ、私たちは対等になれる。羨望の先に、手が届く。私の言葉が、君に届く。君の方も、私と同じ時間を生きられる。
長い長い、永遠にも思えるほどのターフを駆け抜けて。その先でのみ、果ての果てでのみ私は君に言えるのだ。君に勝った私は、間違いなく強いから。
『君の夢は、そんなものじゃないだろう』
そう、優しさを厳しさで包んで告げられる。
君を、掬い上げられるんだ。
……自分の悩みも解消しないうちに、他人の問題に気づいてしまうのままならないことだけど。人は自分じゃ自分のことはわからないものだから、私はチームのみんなやトレーナーさんに頼ったし、同じように君も誰かに頼っていい。願わくば私も君に頼られるうちの一人になれたらと思ってしまうのは、私の傲慢かもしれないが。
「さて、少々お時間をとらせてしまいましたが。おふたりとも、実りある時間を過ごせましたでしょうか。なんて、私がしゃべってばっかりだったけど」
「いいえ。セイウンスカイさんが、スペちゃんのことを大切にしているのは伝わったわ。いい友達を持ったわね、スペちゃん」
「ふふっ、そうですね。セイちゃんは大切な友達です。……今日言ってもらえたことの、全部はわからなかったかもしれないけど。それでも、ありがとう」
「そんな大したことは言ってないよ。まあ後は天皇賞の後に持ち越し、かな」
「……そうだね。負けないよ」
その願いは、誰のために? 自分のためではなくて、スズカさんのために? そんなことは聞けなかった。私を見つめるその瞳は、相変わらず深い輝きを湛えていたから。春の星の海のような、紫炎と綺羅の満ちゆく瞳。曇りはない、迷いはない。なら、それをいたずらに惑わすことはできない。真正面からぶつかって、叩き潰すしか方法はない。
君の夢から「日本一のウマ娘」が、このトレセン学園まで来た原初の願いが消えそうになっていると、私から指し示せる方法は。
天皇賞(春)。そこで君に勝つしか、ないんだ。
僅かに日時計は進み、空の色はほんの少し橙を交えたように見える。けれどまだ青い。まだ青くて、澄んでいるまま。まだ、空は墜ちてこない。どうか、このまま。
たとえ終わるとしても、終わる前に君を助けさせて。
「じゃあ、この辺でお開きで。私はここでもうちょい寝転がってから帰るから、スズカさんもスペちゃんも、先に帰っていいですよ」
「うん、今日はありがとう、セイちゃん!」
「どーいたしまして。何もしてないけどね」
相変わらずスペちゃんは、真っ直ぐに気持ちを伝えてくる。あれだけ煙に巻くような発言ばかりだったのに、そうしてくれる。まったく、照れ臭いったらありゃしない。ちゃんと応えなきゃ、とも思う。君を、導かなきゃって。
けれどスズカさんは、スペちゃんのそれとは少し違った。もちろん二人の性格の差はあるけれど、彼女の言葉は明確に違うものだった。
「セイウンスカイさん、ちょっといいかしら」
「はい? なんでしょうか、スズカさん」
スズカさんは、今までの会話とは違って、初めて私に問いかけてきたのだ。私が詰問していくばかりで終わったはずのお話に、初めて双方向性の関係が生まれる。きっと、スズカさんがいなきゃこうはならなかったこと。だからやっぱりこの人は、スペちゃんが憧れるだけある人なのだろう。私からも、まだ遠い。まだ、頼ってしまう。
私も、誰かに依らなきゃ生きていけない。
「……あなたは、今のままでいいの?」
「なんですか、それ」
「なんとなく、かしら。もちろんあなたとは今会ったばかりだし、頓珍漢なことを言っているかも。無視してもいい」
「言ったそばから無視していいなんて、変ですよ」
「そうかもね。でも本当に、なんとなくだから」
なんとなく、か。それでも私の抱える不安を言い当ててしまえるのだから、物静かで他人に興味が薄そうなふりをしていながらもこの人は鋭い。
感覚型という意味では、スペちゃんとウマが合うのだろうな、とも思う。そのまま去りゆく二人を見送りながら、私は一人少し暗くなった木洩れ日の下で思考を重ねていた。私の告げた言葉と、スペちゃんの返した言葉。そしてスズカさんの最後の言葉を、反芻していた。
私には掴み切れないけれど、やっぱりスズカさんの指摘は正しいのだろう。
今のままでいいのか、ということ。
でも今のままでいいのかと指摘されてしまうなら、私は一体、どうしたいんだろう。そのことがまた、わからない気がした。わかっていなかったのを、わからされた気がした。
スペちゃんが昔の夢を忘れそうになっているのを見て、私はスぺちゃんにそうなってほしくないと思ってしまった。けれど同時に今の私は、多分昔の私からの変化を受け入れている。それにきっと、ただ変化しているだけじゃない。その変化は、さらにもっと昔の、幼い頃諦めた私を掘り起こすような行為だった。一度否定したものを肯定することで、一度目の否定をまた否定する。私は、そうやって生きている。
そんな私が多分、「今」。私が大人に近づくにつれて、より子供の祈りを抱きしめようとしているのが、今。停滞にも似た緩やかな変化を望むのが、今だった。
おそらくスズカさんが言い当てたのは、そのままでいいのか、ということだ。無論、彼女の問いかけに否を突きつけるのは簡単だ。私はこのまま、幸せな仲間に囲まれていたい。認めてくれて、期待してくれる。いつか諦めた、本当は捨てたくなかった願いを、今度こそ手に入れたい。それを望むのは至極簡単。呆気なさすぎるくらいに。
けれど、その逆も簡単だ。私は更なる変化を望まれれば、どんなものでも肯定してしまうだろう。私が変わらなければならないなら、変わりたいと願ってしまうだろう。
ひょっとしたらそんな変化のきっかけは、春の天皇賞ですぐに見つかることかもしれない。勝利のためなら、どこまでも自分を捻じ曲げてしまえる気がする。大切なものを大切じゃなくしても、前に進む選択肢を取ってしまう気がする。どこまでも、大人になってしまえる気がする。フラワーには繋ぎ止めてほしいと願ったけれど、実際の私はつながりを捨てるべきタイミングになったら振り払ってしまうのだろうか。
過去のすべてを否定してでも、前に進みたいと思うのだろうか。
人には過去を大切にしろと言っておきながら、自分はこの体たらくだ。誰かを頼らなきゃ生きていけないくせに、いつでもみんなの手を振り払う準備はできている。私は、そういう人間だった。今は、こうしているだけ。
一度すべてを諦めたように、またすべてを捨てることは難しくない。
……落ち着かない。今日はのんびり、のはずだったのに。思えばエルがフランスに起ってから、私はずっと、より落ち着かない。多分、理由はわかっている。けれど一向にその理由を言語化できない。元々あった靄が、一層深くなったような。底のない闇が、より大きな口を開けたような。まあそうなれば、やれることは最初から一つだけなんだけど。
会話を終えたあと座りなおしてやっと木の幹に馴染んできた腰をもう一度持ち上げて、木陰に小さくさよならを告げて。
それだけ終えたら鞄を背負って、私は校門から弾け飛ぶように飛び出した。
泥も払わずに走る、走る。
スパッツが擦れても、風がスカートの中を吹き抜けても気にしない。
ジャージに着替えるのすらめんどくさい。
とにかく、走りたい気分だ。私は走りたいんだって、そう実感したい気分なんだ。
今の私は、やっぱりよくわからない。ここまでみんなに手助けしてもらったのに、結局まだはっきりしない。はっきりしているのは、走りたいって気持ちだけ。けれどその気持ちさえあれば、全力でレースを駆け抜けるには十分かもしれない。ウマ娘たちがそれぞれの理由で走るトゥインクル・シリーズだけど、走りたいという欲求だけは同じだから。
スペちゃんもそうだ。かつてのスペちゃんと、その願いは違うとしても、ひたむきな理由で一生懸命に走る、あのスペちゃんなのは変わらない。私のライバルは、変わらず強力だ。ひゅごうひゅごうと河川敷を駆けながら、浸り揺蕩う私の祈り。変わらず君は強くいてほしいと、私の悩みなど、杞憂であってほしいと。そう、君という流星に望みを託す。
雲を追い越し風を切り、空よりも速く脚は動く。うん、私の調子も悪くない。
私は確かに悩みを抱えている。子供と大人の狭間で揺れ動き、そのどっちに行っても苦しんでしまうんじゃないかって。どちらが停滞でどちらが進展なのか、どちらが正解でどちらが間違いなのか。成長と変化が私の中にあることはわかるけれど、そこにあるはずの正しい道がわからない。あるはずの正解はずっと、わからないまま。これから先にある進展が、楽しいか辛いかさえわからない。
けれど、身体の調子は悪くない。ならば、どんな悩みも走ればようやくわかることかもしれない。この前の日経賞での勝利でわかったのは、私はまだ勝利を望んでいるということ。走る場になったら走りたいのだと、そういうことだったから。
空を見れば、青雲は私より速く飛んでいる。私じゃそれには追いつけない。だけど、いつか追いつけるのかもしれない。いつか私が子供を認められたら。
あるいは、いつか私が大人になれば。どちらかだ。
大人になれない子供の私が、二つのうちどちらかを選ぶ時。どちらにせよ、走れば前に進めるはず。なら、その瞬間だけ待てばいい。
すべての準備があらかた終わって、あとはトレーニングを重ねるだけ。春のシニア級レースでも随一の大一番、天皇賞(春)。幕開けは、近い。
君を救おう。
私も進もう。
たとえ今は互いに虚空でも、いずれ空は星と青で埋め尽くせるのだから。
──そらがおちてくる。
みんながありえないといったから、そらはおちてこないことになった。
そうしんじていたから、きっとおちてこないとおもっていた。
ちいさなできごともおおきなできごとも、そらがおちてくるほどじゃないっておもっていた。
とりかえしがつかなくなるなんて、おもいもしなかった。
もしものはなし。そらがおちてくるとこわがったひとのほうが、ただしかったときのはなし。
もしも、そうだとしても。
もし、そらがおちてくるとしんじていても。
そんなのをどうにかすることなんて、だれにも できやしなかった。
──空が堕ちてくる。
不安を抱えていても、不安を捨て去っていても。
平等に絶望は堕ちてくるのだと、どうしようもないのだと。
どうしようもない現実は、否定も肯定もできやしない。
ただ目の前を塗り潰し、世界はそこで終わりを告げる。
それを、私に知らせるために。