五月の始まり、布団にこもっているとだんだん蒸し暑くなる時期。今日の私は早めに布団を出る。とはいえそれは蒸し暑いからではなく、もっと別の私にしてはちゃんとした理由だ。とりあえず着替えもほどほどに、連絡の電話をぽちぽちと。上のパジャマを肩まで脱いだあたりで、目当ての相手に繋がった。
「おはようございます、トレーナーさん。ばっちり起きましたよ」
「おはよう、スカイ。なんと言っても今日は、天皇賞本番だからな」
そのままスピーカーフォンに変えて、スマホをベッドに放り投げ、着替えを続行しながらトレーナーさんと会話する。元気か、とか頑張れよ、とか、大体予想通りといえば予想通りの言葉。予想通りだけど、ありがたい言葉だ。半分下着姿でいつもみたいに会話するのは、ちょっと落ち着かないけどね。まあ電話越しだし気にしない、気にしない。それにそんな私の貧相な身体より、もっと世の中には見るべきものがある。たとえば今日のレースもそうだし、たとえば。
たとえば今日も窓の外に広がるのは、白い雲の浮かぶキレイな青空だった。うん、悪くない。あれくらいの絶景が出迎えてくれるのなら、今日もきっといい日になるだろう。また、最高が増えるかもしれない。霞はようやく、吹き飛ぶんだ。
「おはよーございます、トレーナーさん。わざわざ私一人のために車を出してもらって、悪いですね」
「そんなことはない。トレーナーとして当然の仕事だ。この前のトップロードの皐月賞と同じだ」
「なるほど。懐かしいですね、皐月賞」
電話を終えてから程なくして、寮の前にトレーナーさんの車がやってきた。流石にというか、何度も誰かを送り迎えするうちに少しは運転にも慣れてきたみたい。ハンドル捌きがちょっと手慣れた感じ。私一人をレース場まで送り届けるくらいならへっちゃらかな、今なら。いやあ、成長してますねえ、トレーナーさん。
閑話休題、そんな感じのあなたから挨拶がてら切り出されたのは、皐月賞についての話題だった。もちろんトップロードさんの皐月賞も記憶に新しいのだけど、私としてはやはり今でも鮮明に残るのは、自らが走った皐月賞の記憶。<アルビレオ>と<デネブ>の間で揺れて、最後の最後、ゲートの前で立ちすくんでしまって。だけどそこで、トレーナーさんの声で我に返れた。今となってはいい思い出かもしれないけど、当時はかなり深刻に悩んでいた。そういった苦いものも含めてこそ、いい思い出なんだろうけど。
……今の悩みも、もしかしたらそういうものかもしれない。一年もすれば懐かしめるような、そんな子供の悩み。子供か大人か曖昧で、今のままでいいのかって。漠然とした、大きさだってはっきりしない悩み。なら今までの苦悩とは別種だけど、乗り越えられないとは限らない。
むしろ大したことない可能性だってある。その程度のもので、大層に考えるのはただの杞憂。どうにせよ、走ればきっとわかることだ。空は、堕ちてこない。
「じゃあとりあえず、お願いします。いやあ、久しぶりに一人で車に乗りますね。広くて大変結構」
「チームのみんなは後で応援に来る。<デネブ>も一緒だ。行きは俺と君だけだが、走る時はみんながいるぞ」
「……それもなかなか、大変結構なことで」
やがてトレーナーさんの車はエンジンが掛かりだし、私たちの目的地へ向かい始める。私の、じゃなくて、私たちの、だ。ゴールラインをみんなで切ることはできないけれど、そのつもりでゴールするくらいならできる。誰かの気持ちを抱えて、一緒の気持ちでゴールすることはできる。少なくとも私は、そう信じている。最後は皆で手を繋げる、ハッピーエンドが待っていると。
そこからしばらく、数時間。京都レース場に着くまで、会話はなかった。
レース場について、出走者用の入り口の前で一言だけ。
「行ってこい、スカイ」
「行ってきます、トレーナーさん」
それだけ。多分、それだけでよかったから。座して向かうは春の楯、堅牢強固にして最強の走者を望む過酷なレース。待ち受ける運命に向けて私とトレーナーさんで尽くすべき言葉は、きっと今までで既に尽くしてある。ならば後はその言葉を束ねた先にある、今の瞬間を維持するだけ。今の私はきっと、最高だから。
まだ朝だ。けれどすぐ時は来る。私の不安を詳らかにする時は、来る。
待ち遠しい時間というものは、得てして疾く訪れるものだから。
控室で昼食を食べて、少し早めに勝負服に着替えて。まあ早めにできることはやっておこう、なんて思っていた時だった。やれる範囲、できること。最善を尽くそうと、そう今日のために全部を費やすくらいの気持ちだった、そんな時だった。「できること」の一つが、向こうからやってきた。かつんかつんと高慢に足音を鳴らし、まるで今日の主役みたいに。
無論そんなつもりはないのだろうけど、そういうふうに見えてしまうのがこのお嬢様の品格というやつなのだろう。そうやってドアを開けて招き入れる前からだいたい来客の見分けが付くのだから、私もずいぶん他人を知ってしまったものだ。みんなが、私に力をくれる。
「ごきげんよう、スカイさん」
「ごきげんよう、キング。なんて、そんなに機嫌は良くないかもしれないけどねー」
「あら、不調? 二番人気のあなたがそれでは、今日はスペシャルウィークさんの独壇場かもしれないわね」
挨拶もそこそこに、部屋の中心へ入ってくるキングヘイロー。私のライバルで、友達。空いていた椅子に座って、いつものように腕を組みながら。今日のキングはそんな軽口を叩いてくれる。私の代わりに、ということかもしれない。いまだ若干悩みと不安に塗れた、私の代わりに。
「別に私とスペちゃんだけが走るわけじゃないし。たとえば三番人気のメジロブライトさん、去年の春の天皇賞を勝ってる。正直、私より強いんじゃないかって思うくらいだよ。一番人気のスペちゃんはもちろん、ね」
人気だけですべてが決まらないことくらい、私は色々な経験でそれを知っているけれど。それでも毎回気にしてしまうのが、下バ評というものだ。たとえばそれを覆し、たとえばそれを覆され。そうやって、私たちの実力はその場で再判定される。一度判断された力の差を、本当の本番でどう塗り替えるか。そういった一進一退の劇的な攻防も、ウマ娘のレースをつくる要素の一つなのだろう。
「……あなた今、人気順のこと気にしてたでしょう」
「ええ、なんでわかるのさ」
「それだけ誰が何番人気、だなんて語ってたらわかるわよ」
「ええ、そうかなあ」
まあ確かに、私にしてはわかりやすい態度だったかもしれない。もっともここにはキングの前なら、的な打算があるのだが。存外彼女に甘えてしまっている、ということでもあるかもしれない。我ながら、悪い女だなあ。
「しっかりしなさい。人気の話をするなら、二番人気は有力候補でしょうに。それにあなたにとっては、前評判を裏切るのはお手のものではなくて? これ以上ないくらい、うんざりするくらい気持ち良く、ね」
「あっはは、ひっくり返された人がいうと説得力あるね」
「おばか。……だから、私がわざわざ言ってあげてるのよ」
「そっか。ありがと、キング」
……なるほど、ね。確かにその気持ちは、私が忘れていたことかもしれない。
大舞台をひっくり返す、トリックスターの私。いつもの私。みんなが知ってる、私自身はなんとなくしか知らない、私。私は、自然とそう振舞ってしまうものだから。
自然さを失えば、失ったことにも気づかないものだから。
自分のことは自分自身ではわからないのなら、やっぱりこうやって誰かから聞いて回るしかない。当たり前だと言われても、誰かにとっての当たり前を知らない人間は案外どこにでもいるものだから。そんな当たり前をきちんと言葉にしてくれる仲間がいることは、私にとって幸せなことだ。そんなふうに、思った。
いつもの私、を再確認。ちゃんとそれは、揺るぎない。君のおかげで、気づけたよ。
「……じゃあ、長話もなんだし。最後に二つ、私から言っておくわ」
背もたれのない小さな椅子から立ち上がって、くるりと半回転して。いつものように首を持ち上げて、いつものように高慢に。びしり、とこちらにそのスラリと伸びた人差し指を突き立てて、キングヘイローは私に告げる。
「まず、チームメイトとして。私は、あなたに勝ってほしい。スペシャルウィークさんではなく、あなたに」
いと気高く、されど優しく言葉を紡ぐ。私のよく知る、キングヘイローだ。
「そしてもう一つ、あなたのライバルとして。あなたに勝つのは、この私。それまで負けることなんて、許さない」
そしてやっぱりとんでもなくわがままで、だけど私を引っ張ってくれる。
やっぱり、私のよく知る君だ。
「……後者については、スペちゃんにも言いたいんじゃないの」
「それはそうだけど。今私が喋ってるのはあなたじゃない」
「なにそれ、キングは女の子と見たら誰にでも君が一番とか言っちゃうタイプですか〜?」
「おばか! ……後先考えられないへっぽこなだけよ」
「へっぽこ。なんだかキングの自称で一番しっくり来るかも」
「はあ、それならそれでいいわよ、もう」
キングもきっと、昔とは違う。昔はこんなに弱さを見せてくれなかった。多分ずっと強いんだって、自分のイメージを崩さないようにって思わせようとしていたのだろう。思えば出会った頃は、弱音を私に吐き出すことを避けていた節があったよね。
でも私はいつの間にかその対象から外れて、君自身の弱いところを見せてもいい側に入っていた。そこにあるのは彼女の変化でもあり、私の変化でもある。変化と成長は、時に相互に干渉するものだから。だから、これでいいんだ。弱くても、強いから。
「……じゃあ、今度こそ出ていくけど」
「うん、ありがとう。最後に一つだけ、こちらからも」
「何かしら」
そうお互いに交わす言葉が尽きる頃には、キングはもうこちらに背を向けて、控室のドアを開いていたところだったけど。
「これからもよろしく」
がちゃり。それだけは、言えた。十分だと思った。きっとキングも同じように思ったから、返す言葉もなかったのだろう。
最初は、それで終わり。
待ち望む時まで、時間は限りある。けれどまだ、時間はある。小さな小さなその箱を隅まで埋め尽くさんと、程なくして次なる刺客が私の元にやってくる。こんこんと、規則正しくドアをノックしながら。いつもと同じ正しさに満ち溢れて、やってくる。
「スカイちゃん、いいですか」
「はいどうぞ、トップロードさん」
かち、かち。時計の針よ、一寸も狂わず進みたまえ。時間は進んでほしいけど、そこにある狭間も大切にしたいから。
控室に入っても、トップロードさんは椅子に座ろうとしなかった。どうぞ、と言っても、いやいやいいんです、と返すばかり。まあ、耳と尻尾で大体の理由はわかる。ぴこぴこゆらゆら、どうにもこうにも落ち着かない、ということだろう。
そしてトップロードさんがそんなふうになった理由は、多分。
「皐月賞、まだ引きずってますか」
「ああっ、はい! いやじゃなくてっ、えっと」
「一回『はい』って言ったら、ごまかすのは難しいと思いますよ」
「……はい……」
先の皐月賞、トップロードさんは三着だった。もちろん十分健闘したと言えるのだろうが、そう言うだけでは納得がいかないことくらい私もわかる。ウマ娘の本能は、勝利の一点のみを見据えているのだから。走りたいって気持ちだけじゃなくて、誰だって勝ちたいから。私も同じだから、わかる。
「まあ、だからってトップロードさんのお悩み相談するのもなんですけどね。だって私、むしろお悩み相談したい側ですし」
「はい、それはもちろんです。スカイちゃんの緊張をほぐすために、はるばるやってきました」
「それでそわそわしっぱなしを見せられるんじゃ、全然ほぐれませんけど」
「すみません、座ります……」
「そこまで意気消沈しないでくださいよ、もう」
とはいえトップロードさんの方が緊張してしまうのも、まあ無理はないと言えば無理はないのだが。他人のものでも、レース場が違っても、GⅠの控室というだけで、クラシック初戦の激闘を思い起こさせるものはあるだろう。
それだけで、恐れるものはあるだろう。疼く傷だって、あるだろう。
だけど、この人は私のところへ来てくれた。脚が竦むのにも、構わず。どこまでも正しくて、眩しいくらいに優しい人だ。思えばずっと、出会った時からずっとそうだった。
本当に、「いい人」だって。
「ありがとうございます、トップロードさん。私がここまで来れたのは、きっとトップロードさんのおかげでもあります」
「そうでしょうか、私は何も」
「何言ってるんですか、<アルビレオ>の勧誘担当やってたくせして。<アルビレオ>に入ってなきゃ、私はきっとここまで来れませんでしたよ。……そうですね、私にとっての皐月賞の時ちょうど、思ったことです」
<アルビレオ>がいいと、あのレースを通して思った。だから私はこれまでそうしていて、だから今もここにいる。そしてそれは、トップロードさんも理由の一つ。あなたがいるから、私はこの場所にいたいんだ。真っ直ぐでひたむきで、どこまでも誰かを想える人。
「奇遇、なんでしょうか。私も皐月賞を終えて、同じことを思いました。スカイちゃんと違って、勝つことはできなかったですけど。<アルビレオ>に居てよかったって、それははっきり思いました。これからも、このチームで戦いつづけたいって」
「なるほど、それはそれは。どちらかと言えば奇遇というより、必然かもしれませんね」
「……必然、ですか」
「はい。やっぱり<アルビレオ>が、いいチームだからですよ。チームリーダーのトップロードさんを筆頭に、です」
「もう、スカイちゃんったら」
結構本気で言ったつもりだけど、冗談めかして捉えられるならまあそれはそれで。トップロードさんの気持ちは真っ直ぐだから、直接正面から受けたら致命傷だ。だから多分、これくらいでもいいんだろう。お互いに照れ臭くなってしまおうが、気持ちはきっと伝わっているし。
「……でも、スカイちゃん。大舞台で走ってみて、初めてわかったことが他にもあります。立つ場所が高ければ高いほど、挑む怖さも大きくなるんだって。……スカイちゃんは今、大丈夫ですか」
……なんて、そう思ったのに。あなたはすぐに、私のための直球を投げてきて。大丈夫か、なんて。ああもう、どうしてみんなこんなに優しいのかな。
わたしなんか、って思う方が、失礼な気がしてくるじゃないか。
「少し、大丈夫になりましたよ。トップロードさんと話したおかげです。……もちろん、怖いと思います。ゲートはすべてを決めてしまう場所で、そこに入るのはいつだって怖いです。今日も間違いなく、結果は出ます。勝者と敗者に、分かれます」
「そう、ですね。私にもわかります、スカイちゃんが言いたいこと」
「でも本当に、少し大丈夫になりました。だから、ゲートに入れます。もしかしたら、勝てるかもしれません」
「はい。私はもちろん、スカイちゃんの勝利を信じてますよ」
そう言って、トップロードさんは席を立った。またこの人とも、短い時間の会話だった。間もなく消えゆく私への、最後の手向けにも思えた。けれどキングとトップロードさんの二人に共通しているのは、私の勝利を信じていること。私が笑顔で帰ってくると、二人は揺るぎなく信じてくれている。ならば送られた言葉は、最後の手向けじゃない。これから先へ進むための、願いのバトンだ。
「じゃ、頑張ってください、スカイちゃん!」
「はい、トップロードさん。そうだ、最後に一つ」
「なんでしょうか、スカイちゃん」
そしてそれを受け止めた上でこそ、私から贈れる言葉は。
「いつか、一緒に走りましょう」
「……はいっ!」
いつかの未来を約束するための、あなたの笑顔の先にある世界を紡ぐための言葉だった。バトンは、受け取った。
また小さくて大きいこの時間が、次なるエール。
ぎい、とドアが閉じられる。かちこちと、時計の針は進む。もう、時間は本当にない。でもここまで来たら、君が来てくれなきゃ嘘だと思う。だから私は、僅かばかり待ち構えて。小さな影が磨りガラスの先に見えて、控えめにドアをノックするのを聞いて。
「入っていいよ、フラワー」
そう、穏やかに言葉を送り出せた。
「あと一時間半くらい……でしょうか」
「そうだね。でも本バ場入場はレース本番より前だから、実際はあと一時間もないくらいかな」
「えっ、すみません。そんなギリギリに来てしまって」
「いいんだよ、私の方だってフラワーに来て欲しかったし」
しんと静まり返った控室には、フラワーと私の二人きり。机も挟まず椅子も小さく、私と君しかいない場所。バレンタインの時とは、また違う二人きり。
座るクッション部分は小さめだけど脚が高めの控室の椅子は、フラワーの足元が少し届かないくらいの高さだ。それは足が落ち着かないんじゃないか、などと無用な心配をしてしまう。けれどそんな私の心配は本当に無用で、フラワーは瞳の奥から落ち着いていた。落ち着いて、言葉を吐き出し始めた。あの日の、続き。今日が、大人になるその時かもしれないから。
「スカイさんは、まだ人に頼れますか」
「うん、頼れる。今日ももうたくさん頼った」
「スカイさんは、まだ悩んでますか」
「うん、悩んでる。友達が海外遠征しちゃってから、なんだかもっと悩んでる。解決しないかもしれない」
「その悩みが解決しないとわかった時、それとも解決してしまった時。その時にもし誰かを頼らなきゃいけないってなったら、誰かを頼れますか」
「それは、やっぱりわからない。変わる前の私には、変わった後のことはわからない」
全身全霊を込めて、栄光のGⅠレースをひた走る。走るということは身体と心を使い果たし、魂まで揺さぶる行為だ。その結果が、私に何かをもたらす可能性はある。一方的に正誤では測れない、何かを。一方ではそれを望んでいるし、一方ではそれを恐れている。勝利だけを目指しながら、敗北の恐怖に怯えるように。子供でいたいと思いながら、大人になりたいと願うように。だからきっとこの矛盾は、誰にでもあることなのだろう。次は私の番というだけだ。
けれど、それでも怖かった。キングとトップロードさんの二人に応援してもらって、それでも私はまだ怖い。二人の力で必死に、力任せに不安を押し潰そうとしている。押しつぶすための力がひっくり返ってこちらに牙を剝いてしまわない保証なんて、どこにも存在しないのに。
いつでも、気分次第。コインの裏表を確定させない状態は、酷く不安定で未成熟だ。
「フラワー。人生生きてりゃ色んなことがあるけどさ、それって当然いいことばかりじゃないんだよ。楽ありゃ苦ありって感じで、バランスが取られてる。見た目の上では差し引きゼロになるように、多分三女神様がそう定めてる」
「そうですか。その話はきっと、私にはまだわからない話なのでしょうね」
「そうかもね。そう思って、今のうちに教えておきたかったんだ。まあ、私の個人的な感覚でしかないかもだけど。良いことと悪いことはコインの裏表みたいに引っついていて、だから私は何事もほどほどにするように生きてきた。幸せの揺り戻しで傷つかないように、ね」
そのはずだった。少なくともトレセン学園に入る前の私は、手酷いしっぺ返しを幼い頃に食らった後の私はそうだった。だけどそこから、ずいぶん変わってしまった。私は当たり前の幸せを求めるように、変化してしまった。成長、してしまった。
それが今の私。
毎日みんなによくしてもらって、そんな日常をかけがえのないものと感じる私。
「……だから、もしかしたら今日がその時かもしれない。今までの私は、幸せすぎた。トレーナーさんに同期のみんな、トップロードさんにフラワー。みんなに良くしてもらいすぎた。もちろんそれが悪いわけじゃない。けど、揺り戻しは来るんだよ」
どれほど、来たる未来を恐れていても。すべてを覚悟していても、どうしようもない。空が堕ちてくると告げられても、慌てふためくしかないように。私がここまで溜めてしまった不安が杞憂かどうかなど、誰にもわからないのだから。もうすぐ、コインはどちらかに傾く。一つの未来を、確定させる。そんな気がした。大人か子供、どちらかに。このまま変化を続けていくのか、すべてが終わるのか。
そこまで、一息に吐き出して。幕開けの時は近いのに、脚はどうしようもなく震えていて。私とフラワーの間に、数秒の沈黙が流れる。世界が止まったように錯覚する。時計の針は、やっぱり進みつづけていたのに。
その数秒の後、だった。目の前の少女は椅子から飛び降り、すっとこちらに近づいてくる。脚と同じように震える私の手を、暖かくて小さな手のひらで掴んで。
震えが止まるようにって、握りしめてくれて。
私の眼を、薄く透き通る紫の眼で見据えて。じっと、そのまま。そのままで、彼女は口を開く。
「スカイさん。本当は絶対、こんなこと言っちゃいけないんですけど。今から私がいう酷い言葉がスカイさんにとっての揺り戻しになればいいなって思って、言わせてもらいます。いいですか」
「……うん。いいよ」
いいとも。君になら、私を離さないと約束した君になら。君ならどういう意味合いの言葉であっても、私を突き放すものではないだろう。
だから、聞かせて。君の言葉が、欲しい。
そう、許した。君を許した。私を、赦すために。
だから君の言葉がどんなものであったとしても、それは。
「もし今日負けても、スカイさんはスカイさんです」
……それは。
「だから、もし負けても。負けても、帰ってきてください。どうにもならなくても、帰ってくることだけは忘れないでください。……その後は、スカイさんに任された通りにします」
それは、君にしか言えない言葉だ。負けてもいい、とさえ聞こえる台詞なんて。勝ちたいって、勝たなきゃって、そう思うのが当然だって思ってた私に。逃げられないから力いっぱい踏ん張っていた私に、もしもの時の逃げ道を用意できるなんて。……ああ、もう。
「……ずるいなあ、フラワーは」
「私がずるいとしたら、きっとスカイさんに似たんですよ」
「そうかあ。それなら、責任持って聞いてあげなきゃいけませんなあ」
「はい。そうしてもらえるなら、とっても嬉しいです」
君が嬉しいなら、私も嬉しい。それも多分織り込み済みで発言しているのだから、本当にずるい子だ。これも成長、かな。しかも私由来の。だけどそんなふうに私から何かを受け取った子が私を救ってくれるというのなら、その未来はきっと必然なのだろう。確かめられない未知にある、真実なのだろう。
「……っと、そろそろ時間ですね」
「そうだね。ギリギリまで付き合わせちゃったね」
「いえ。私がスカイさんとお話ししたかったんですから」
「それならおあいこだね。じゃ、また後で」
「はい、また後で」
「必ず、帰ってくるから」
また後で。それは、小さな約束ごと。約束とはそもそも、再会を前提としたものだから。帰ってこなければ、約束を果たしたと告げられないから。
最後に交わしたのは、そういう言の葉だった。
それで終わり。それでひと段落。思えば今日の控室では、三者三様の約束ごとをした。
「これからもよろしく」
互いに引っ張ってくれる人と。
「いつか、一緒に走りましょう」
互いに憧れる人と。
「必ず、帰ってくるから」
互いに離さない人と。
どれもがきっと、君とだからできる約束ごと。私は未来に三つも、約束という願いごとを置いてきてしまったのだ。なら、これからやることも決まってくる。未来にあるそれを回収するために、約束を果たすために走らなければならない。そう、これからだ。まだこれから、たくさん走らなければならない。空が墜ちてきてしまっては、困るのだ。
かち、こち、こちん。時計の針は、間もなく定刻を示す。……随分前に勝負服に着替えておいて正解だったかもしれないな、と思った。こんなにみんなと、深く深くまで話し込んでしまうなんて。それぞれは短かったけど、連ねれば長い長い時間になったから。待ち時間なんてなくなるくらいに。こう感じるのもきっと、私のつながりがそれだけ多くなってしまったことを示しているのだろう。私にはみんながいる、何よりの証明なんだ。
そうして席を立ち、ドアノブを握りしめて。今までそれを握った三人の気持ちも、離さない
ように抱きしめて。向かおう。どんな私も、私だと証明するために。
がちゃり。最後に扉を開くのは、私だった。
まだ、こんなところで終わりじゃない。まだ、空は堕ちてこない。水晶体から脳髄まで染み渡る青空は、きっとまだ、まだ果てまで見えていない。地下バ道をくぐり抜け、あと一歩で本バ場入場。一歩先にある芝のにおいを身体に貫かせながら、半歩先で湧き上がる歓声を一身に受けながら。私は今、ここに立っている。
「阪神レース場、本日のメインレースは天皇賞(春)! 春の楯を取るのは一体どのウマ娘なのか、場内の盛り上がりは早くも最高潮といったところであります!」
また一つ光の方へ脚を踏み出すたびに、湧き上がる声は大きく、より大きく聞こえていた。だから今この瞬間、眼前に光あふれるターフの目の前ではなお一層。
万雷の喝采が、芝の上に現れ出でるウマ娘たちを出迎える。
ここにある盛り上がりは少なからず、私にかけられた期待でもある。それは嬉しい。そしてもちろん期待を向けられるのは、私だけじゃない、今日走る全員に対してだ。それには負けない。どちらにせよ観客が求めるものは、各々の気持ちの差を含めても一つだけ。たった一つ、果たされればいい。
この場に集まるすべてのウマ娘に、「最高」のレースを創り上げることが期待されている。そんな大きな果てしない期待に応え、その先へと続く夢と希望を見せるもの。それこそが私たち、ウマ娘という存在だ。
ざくり。そうして、最後の一歩を踏み出した。
「さあやってきました二番人気、盤上を支配するトリックスター! 先の日経賞でも圧倒的な勝利を見せてくれたクラシック二冠ウマ娘、セイウンスカイの登場です!」
実況さんの紹介を皮切りに、私の登場を一際の大歓声が出迎える。ファンの声、というやつだ。私の抱える不安なんて心配ないぞ、と言ってくれる声だ。私の受ける、期待だ。なら、今日も応えなくっちゃね。期待してくれる人と、私自身のために。
それにしても、なんだか大仰な紹介だ。いや、GⅠの出走者にはこれくらいの謳い文句が相応しいってことなのかもしれないけど。実際、嘘は言っていない。日経賞で勝ったのも、クラシック二冠を取ったのも、事実。
私は、勝利の味を知っている。無論敗北も知った上で、それでも勝利を掴めている。それは昔のことじゃなく、今だって。負けるのもきっと大事だけど、勝ったほうがやっぱり嬉しい。
認められる、褒められる。そんな私の願いは、勝たなきゃ果たされないものだから。
だから、まだ走れるはずなんだ。
確かに私は変わった。けれど、強さは変わっていないはずだから。
みんなが、私の強さを保証してくれているから。
みんなと私自身の信じる私の強さを証明するのが、今日、この日だ。
「──そして、このウマ娘もやってきました! 本日の大本命、注目の一番人気!」
……おっと、君も来たか。私のライバル。いまだ星の輝きは増すばかり、だけどその光には綻びが仄かに見えている。なら私はその穴を容赦なく暴き立てて君に勝利し、その矛盾を君に突きつける。すべて、勝利の後で。それが私から送ることのできる君へのエール。
残酷だと罵られても構わない。絶望に一度落とすとしても躊躇わない。それでも君は、私にとってライバルだから。クラシック三冠を争ったあの時から、私たちには甘さは必要ないはずだから。そんな私だからこそ、救えるはずだから。
「一番人気、スペシャルウィーク! ジャパンカップの雪辱の後、重賞二連勝でまさに破竹の勢い! ダービーウマ娘はシニア級でも強い! 今日もそれを証明してくれるのか!」
風に光る流星と栗毛、空に燃ゆる煌めきの瞳。少しだけ私より小柄な、だけど私より大きな夢を持つ少女。私のライバルスペシャルウィークが、この戦場へとやってきた。
そして真っ直ぐ、私の方を見ていた。私も君を、見ていた。
そのはずだった。そのはず、なんだ。
「今日はよろしく、スペちゃん」
「うん、セイちゃん。私は今日、負けるつもりはないよ。スズカさんに、追いつくために」
「……そっか。それが、君の目標」
だから、私は今の君の願いを否定できない。「スズカさん」という目標に向けて走る君が、君自身の「日本一のウマ娘」という道から外れてしまっているとしても。私の祈りに君が気づかないのなら、むりやり目を向けさせるだけ。夢を違えた上でも君が私に立ち向かってくるのなら、私にできるのは説き伏せることではない。力の限りねじ伏せること、これだけだ。
「いいレースにしよう。お互いに」
「うん。もちろん、だよ」
手を伸ばせば、その手は握り返される。全力を出せば、全霊が返ってくる。それがライバル。それが友達。それが、「黄金世代」という仲間。私が君に伝えたいことがあるように、きっと君も今日、私に何かを教えてくれるのだ。迷い惑いて彷徨う私は、それでもそう信じている。
君のことを、信じている。
だから、今は言葉は要らない。お互いを見据えた語らいは、すべてが終わったあとでいい。
だから、今考えるのは一つだけ。レースを走り切ったあと、君の綻びを結び直してやるために。そして、私が私であるために。
そのために、勝つことだけ。
負けないよ、誰にもね。
「さあいよいよ各ウマ娘、ゲートに入っていきます! クラシックを競い合った『黄金世代』同士の対決、勝つのはスペシャルウィークかセイウンスカイか、はたまた他のウマ娘か!? クラシックを競い合った優駿がシニア級にも通用するのか、全国が注目する一戦です!」
そう告げる実況さんの声と共に、私たちはゲートに入る。
すべての運命をごちゃ混ぜにして閉じ込めて結論を出してしまう、無常極まりないスターティングゲートに。何回やってもこれには慣れないし怖いけど、それでも踏み出す勇気をもらっているから。トレーナーさんに、フラワーに、トップロードさんに、キングに。
他にもたくさんの人たちに背中を押されてゲートに入るのだから、それを嫌と言えるわけがない。嫌なわけが、ないんだ。
ゲートは怖い。だけどその先の未来は、もう怖くないんだから。
……だから。
「さあいよいよです、天皇賞(春)!」
だから、絶対に。
「今一斉に、スタートしました!」
絶対に、期待に応えたい!
がこん。何度聞いても耳に残る独特な音と共に、すべてのウマ娘が自らの足を踏み出す。一歩、二歩、三歩。それらはこの駆け足の中では目まぐるしくて、誰が誰の脚なのか見分けはつかない。まあ最初はいつもペースメイクのために、皆様方のお手並み拝見。今日の私も気まぐれ気分、せいぜい細工は流々に、あとは仕上げを御覧じろ……っと、なるほどね。
「さあまずは激しい先頭争い! おっとスペシャルウィーク、今日は先頭に付けます! 今日のスペシャルウィークは先行策か!?」
なるほど、なるほど。記憶の限りでは、スペちゃんが先行していくのは結構珍しいはずだ。
それも先頭、逃げウマの私を差し置いてハナを進む。理由は多分、ハナを譲らないため。
以前のダービーのキングと同じような作戦だけど、多分スペちゃんのやり口はもっと狡猾かつストレート。勝てるタイミングを作るため、逃げウマ筆頭の私から少しでもリードのチャンスを奪うため。そう来るのは、逃げに対する対抗策としては上等だ。
なら、私はこうしようか!
「一方普段は逃げを打つセイウンスカイは、後方に控えて様子を見守っています! これは序盤から面白い展開だ!」
君が珍しく策を弄するなら、私が対抗するのはいたってシンプルなやり方。私が逃げやすくなるまで、待つ。
あいも変わらず逃げしか能のない私だけど、これくらいの小手先なら慣れたもの。
さあスペちゃん、次はどう出るのかな?
ここは君と私の勝負、最後まで付き合ってあげるよ。
だんだだんと蹄鉄の音が鳴り響く京都レース場、我らが肢体すべては勝利のために。
ここにいる全員に、観客も駆ける私たちも含めてこのレース場にいる全員に見えているのは、誰か一人の勝利だけだ。レースとはそういうもの、だからすべてを変えてしまう。
勝者と敗者を、くっきりと明確に分けてしまうことで。
風を切り、大地を蹴る。
息を吸って、吐きながら駆ける。
勝負は既に一週目の三コーナー、長いレースだとしても着実に終わりは近づいている。
そこで、前の方に変化があった。
「ここでスペシャルウィーク、先頭を譲ります! 長丁場の序盤を前目に押し上げ、仕事は終わったと判断したか」
……そう来たか。なら。
なら私も、ここからが本番だ!
「おっとセイウンスカイ、ここでスペシャルウィークに並びます! 徐々に前方へ進出!」
君が後ろに下がるなら、私は君の前に出る。いつも通り、逃げの態勢。君は私を追いかけれど届かない、菊花賞の再現。このまま行けば私が勝つ。そのつもりだ。
いや、もっとだとも。私が目指すのは前の菊花賞より、鮮やかに劇的に勝つこと。
シニア級になって更に強くなった君に、幻影を晴らすほどの勝利を叩きつけること。
「そして三番人気メジロブライトは中団の位置から、スペシャルウィークとセイウンスカイをマークする格好となりました」
……なんて、もちろん他の人も忘れちゃいけない。
勝つということは全員に勝つこと、それは私がよく知っていることだ。
トリックスターが誑かす相手は、立ち向かう全員でなければいけない。
全員から、逃げ切らなくてはいけない。
なかなか骨の折れる仕事だけど、そこは私の本領というものを見せてあげよう。
勝負は三コーナーを抜けて四コーナー、一周目の直線に入るところだ。ちらりと横を見ると、すぐそこにスペちゃんが走っていた。
ひたむきに前を見て、こちらになんか目もくれず。うん、それでいい。そのままでいい。走りに真剣なぶんには、こっちを見なくても構わない。
そのままでも私は、君の前に立ち塞がるから!
「おっと一周目の直線で、セイウンスカイ抜け出してきた! スペシャルウィークよりもさらに前、集団の先頭に躍り出ました!」
さあ、ここからだ。私が逃げるのは、ここから。随分逃げにくいレースメイクを序盤からされてしまったけど、ここからは私がレースを作る。
ここからが、本当の勝負だよ。
「スペシャルウィークは四番手、セイウンスカイが行っても依然前目につけています! メジロブライトはその後ろ、未だ上位人気二人をマークするか!」
なるほど、これは確かにやりにくい。スペちゃんが先行策で前目につけているから、私との差は菊花賞の時より開きにくい。それにもう一つ要注意なのが、メジロブライトさん。京都大賞典で私が勝ったのはあるかもしれないけれど、ずっとマークされてて動きにくい。こうなると私に求められるのは、小手先じゃなくて実力だ。追手なんてお構いなしに振り切って逃げつづけられる、いつか見たスズカさんのように。
……それを私にやらせるのは、なかなか難しいと思うけどね。
まあ、やるっきゃないよね!
走るのはだって、こんなに楽しいじゃないか!
走って、走って。
抱える不安が最高潮に達するはずの今、私は不思議と冷静だった。
結局理屈は簡単で、走ってみればわかること。
走るのは楽しいって、そう思えているからかもしれないと思った。
ライバルと、競い合うすべての人と、走るのはやっぱり楽しい。
それが私の、この瞬間だから見つけられたもの。
私の杞憂への、答えなのかもしれない。
「さあ二周目を回って二コーナー、前目前目のレース展開になっています! おっとここでセイウンスカイ、少しペースを落としたか?」
とりあえず、私の魔法の杖は振らせてもらう。
一旦ペースを落として、翻弄し尽くすトリックスター。多分、上手くはいかないけど。
「……と、ここでスペシャルウィーク、セイウンスカイへの距離をぐんぐん詰めていきます! その差僅か二バ身といったところ!」
ほら、思った通り上手くいかない。でもそれだけ徹底的にスペちゃんにマークされてるってわかっただけで、十分だ。スペちゃんは、私に勝とうとしている。「スズカさん」には、囚われていないはず。
だけどスペちゃん、それだけじゃダメだよ。勝負は一人とするものじゃない、私を潰すだけじゃ勝てない。さあ、どうする?
「ここでもう一人、セイウンスカイに並んでいきます! 若干あがってしまっているか?」
……おっと、他人を気にしなきゃいけないのは私もか。リードを保たなきゃいけないのに、こんなところで並ばれてしまった。それなら、もっと踏み込まないと。ここまで来たっていまだなお、私は走れるんだから。こんなところで、終わりじゃないんだから。
どうしたって、私は怖い。このレースが終わった時、私がどうなってしまうのか。今は楽しいけれど、結末がどうなるかは終わってみなければわからないから。けれど同時に、レースというものは私にとって限りなく楽しみなことで。そんな終わりと最中の板挟みにありながら、苦しみながらでも、走ることは楽しい。これからも先はある。私たちの空は、果てしなく広がっている。そう信じて、また一歩踏み込む。大地を抉り、青空を切り裂いて。
さあ、最後の直線はすぐそこだ。そこで、すべてが決まる。
「スペシャルウィーク、外から上がってきた! 間もなくラストスパートの直線です! さあ直線はもう言葉が要らないのか! セイウンスカイ、持ち堪えるか! メジロブライトも後方からどんどん上がってくる!」
まだ私の脚は動いている。
まだ走れる。
まだ未来がある。
私の未来はようやく、もうすぐ存在が証明されるのだ。
終わらないと、空は堕ちないと、みんなのところへ帰れるんだ。
……正直、息は切れかけている。脚は軋み、限界のギリギリまで体力と身体は追い詰められている。止まってしまいたいと一瞬でも思えば、そこですべてが終わるだろう。
だから私は、終わらせない。
絶対に、そんなことは思わない。
なら、最後にものをいうのは。
(根っ、性、だあぁぁぁぁーー!!!)
我がチーム<アルビレオ>で散々仕込まれた、色々な思い出の詰まった根性論。
かつては苦手だなんだと言っていた、今はしっかり染みついた。
雲の一筋のような、真っ直ぐに伸びる気持ちを込めた走り。
私だけのじゃない。
私と支えてくれるみんなの、走りだった。
「さあ三強の闘いになった! スペシャルウィークか、セイウンスカイか、メジロブライトか!」
残り、200m。私が僅かに先頭。
ねえ、このまま。どうか、このまま。
きっと、私の走りはそういうもの。
誰とも競り合わず、最後はひたすらに一瞬たりとも並ばないことを祈るだけ。
見ようによっては情けない、みっともないものかもしれない。
けれど私にとっては、これは紛れもない誇り。策謀をめぐらせギリギリまで引きつけ、本来不利と言われる長距離でさえ逃げ切って勝つ。
それができるのは、私の、私だけの。
最後に考えていたのは、そんなことだった。
最後の瞬間に、私は私を大切に思えていて。
「スペシャルウィーク、ここでスペシャルウィークか! セイウンスカイを抜き去りました、スペシャルウィーク!」
だから本当に最後の最後、それが粉々に砕かれても。
なぜだか不思議と、心は落ち着いていた。負けたことがわかっても、爽やかな気分だった。ようやく、不安から解き放たれていた。
全力の君相手なら、悔いはない。つまり多分、これでよかったんだろう。
いい勝負、最高のレースだった。
「スペシャルウィークか、メジロブライトか! 懸命にメジロブライト追い立てる、しかしスペシャルウィーク、スペシャルウィークです! 天皇賞(春)、勝ったのはスペシャルウィーク! 二着は半バ身差でメジロブライトです!」
私は、そこからニバ身後ろ。完敗、だった。
青い青いターフに寝転がり、青い青い空を見上げる。ひらひらの勝負服の上からでも薄い背中をちくちくと刺す芝の感触は、私がまだ生きているということを示している。まだ、この先があるということがわかる気がする。天皇賞(春)、そのすべてが終わってみて、私は何か変わったのだろうか。少し考えてみたけれど、案外何も変わっていない気がする。清々しいまでの敗北を迎えた。それは多分、悔いはない。
爽やかに、全力をぶつけ合えた。お互いに、問題はなかった。お互いに、これからも走れる。
だから、大丈夫。すべては、杞憂だった。それが、走り切った結論だ。
うん、楽しかったよ。
薄く笑みを浮かべながらそんなふうにぼーっと緑のベッドを堪能していると、寝っ転がっている私を覗き込んでくる顔があった。見慣れた顔、先程までもずっと意識していた顔。私のライバルで、友達でもある君の顔。
「おつかれさま、セイちゃん」
「そちらこそおめでとう、スペちゃん」
立ち上がって、泥を払って挨拶をする。今日の勝者、私のライバルに。
そう、私のライバルだ。君は今日、私に勝った。私は今日、君に勝ちたかった。だけど勝てるのはどちらかだけ。その権利を、君は得た。
……だから、言葉を伝えられるのは君の方。君から私に、何かを伝えることだけが許されている。私から今更、君の願いは間違っているとは言えない。だって君は、それでもしっかりと強かったんだから。レースの場では全力で、私に向かってきていたんだから。もし君の誤りが正される時があるとすれば、それは君が負ける時。その時までは、君が正しい。きっと君は、まだまだ磨けば光る原石なんだ。
挫折も苦悩も、これから先直面すればいい。君には、未来があるんだから。
全力で走ってわかった、スペちゃんはちゃんとスペちゃんだ。ただ今はまだ、その誤りが綻びを生むには早すぎた。今から学んでお互い先へ行って、その先でいつか丁寧に道を正せばいい。この勝敗はそういうもの。今日の結果なら私の方こそ、君から道を正されなくちゃね。もちろん、私も前に進むため。だってお互いに、ライバルと走るのは楽しかったはずなんだから。
私は、そう考えた。晴れやかに思考を結んだつもりだった。それが、私の出した答えだった。今日の結論、ゴールを潜り抜けたあとの私の成長だと思った。
だけどなぜか、光は遠くなっている気がした。
私の進む方角は、暗がりに向かっている気がした。
真っ暗闇の奈落の底へ、ずっと、ずーっと。
うっすらと。
この期に及んで、霞は消えていなかった。
……だから。
「うん、ありがとう! これでまた、スズカさんに近づけた気がする。スズカさんのために、私はもっと強くならなくちゃいけないから」
だから、彼女のその言葉を聞いて。私から君への、勝者からのメッセージを受けて。
「スズカさんの、ため」
だから、すべてが終わって。私はさこに最初からあった歪みに、ようやく気がつく。
走ってみても、わからなかったこと。走ったあとの語らいで、本当の終わりは訪れるから。
「うん。スズカさんが、私の目標だもん!」
彼女の願いが、憧れに曇った彼女の瞳が。
その瞳が映しているものは、私なんかではなかったということに。
「……そっか。じゃあ、またライブで。記者会見もあるでしょ、スペちゃん」
「うん、また後で!」
──やっと、わかった。グラスちゃんが言っていた、私に足りないもの。スズカさんが言っていた、私が今のままでいいのかってこと。簡単なことだ。今のスペちゃんが私を見ていないのなら、そこから導き出される結論は、どうしようもなく残酷で絶望的。
だけどこの答えしかない、わかりやすいことだった。
今のスペちゃんは、「日本一のウマ娘」を忘れたスペちゃんは、当然その目をすべてスズカさんに向けていた。スズカさん、一人に。
私のことなんて、一瞬たりとも見てもいなかった。今日逃げウマの私を意識していたと思っていた彼女が追いかけていたのは、同じ逃げウマの「スズカさん」。
ずっと最初から、違う世界で走っていた。走ることでようやく互いを見据えられたと思っていたのに、彼女の世界はもうこれ以上なく歪んでいた。
まだ彼女の過ちを正すには早いなんて、私の思い込み。
既に、スペちゃんの世界の見え方は歪に捩れている。
間違っている。おかしい。
こんなの、スペちゃんじゃない。
けれど私を見てくれていないのは、やはり彼女の罪悪ではない。それは、敗者の責任だ。私に、足りないものがあったから。最初から、致命的に、永遠に足りないものがあったから。
こんなことなんてずっと前からわかっててもおかしくなかったのに、見えるはずの綻びを私は見ないようにしていた。もしかすると私が見て見ぬ振りをしていたのは、そこに私に足りないものの答えがあるってわかっていたからかもしれない。
スペちゃんが私を見ていなかったこと。私がスペちゃんを正せなかったこと。その二つを繋ぐものが、私を包んでいた霞の正体だ。
……グラスちゃんもスズカさんも、はっきり言ってくれればよかったのに。そのままじゃ、とか、今のままじゃ、とか。いつか未来で手が届きそうなことを言って。
そんなわけないのは、私じゃ手が届かないのは、とっくの昔から知っているんだから。
私に足りないもの。
私に欠けているもの。
私に届かないもの。
私が、諦めるべきもの。
(私に足りないのは、才能だったんじゃないか)
それだけ。それだけのことだ。
私には最初から、才能がなかった。何とか策を弄して走ってみるだけで、根本的な能力がなかった。だから私の変化は止まっている。成長は終わっている。積み重ねはこれ以上には増えていかない。世界は隅まで閉じている。
もう、私は誰かのライバルにはなれない。スペちゃんが今日示したように、私は誰とも並び立てない。私がもっと強くなると信じてくれたグラスちゃんにも、いつか帰ってきてまた走ろうと言ってくれたエルにも、何度も何度でも私を引っ張ってくれたキングにも。
「黄金世代」はこれで終わり。「もっと」も「いつか」も「何度でも」も、私を前へと動かすことはもうできない。私は、みんなから置いていかれる。
やっぱり、勝者のスペちゃんは正しい。君がどれほど道を違えていても、私には勝ててしまったのだから。気持ちの問題なんて、実力と才能の前では無意味だ。それでも勝てた、その結果だけ。それで勝てる程度の相手は、これからずっとライバルにはなれない。
そう私が思い知らされたのが、今日のレースの本当の意味。
この敗北が、焼印のように痛みと共に私に刻み込んだ答え。
私の空には果てがあるから。天井に、手が届いてしまっているから。
今より先の未来は、存在しないから。伸び代はない、成長はない。なら、もう。
ここで、終わりだ。
──空が堕ちてくる。
無根拠に信じた永遠など、愚かな民には無用とばかりに。
その理不尽を恐れていようといなくとも、結局平等に空は墜ちてくる。
すべての悩みの時間など、最後の瞬間には無意味だった。
そんな無慈悲で冷酷な現実。
それを、私に教えるために。
ああ、でも。
杞憂であって、ほしかった。
今見ると落としまくりですねこれ
ここからが本番