たん、たたん。ステップして、くるりとターン。ウイニングライブの予行演習はばっちり。蹄鉄だけ脱いで勝負服は汗だくでも着たまま、それで準備は完了する。走ったあとの余韻を、これ以上なく楽しむための時間。最初はなんで走った後に踊らなきゃいけないんだろうなんて思っていたけど、今では結構気に入っていた。この時間もまた、特別だと感じられるようになっていた。そのことも私の変化と成長。ここまで積み重ねてきた、育て上げてきた私の気持ちだ。
それにGⅠのウイニングライブともなれば、観客のボルテージも最高潮。手抜きなんて許されないし、三位の私はそれなり以上の位置で歌わせてもらえる。私にとっては、最高の立ち位置。空の果てに、手が届いたあとの。
だから、スポットライトを浴びに行こう。センターに立つのはスペちゃんで、私はそこまでには至れないとしても。私の、最後の晴れ舞台だとしても。晴れ舞台は笑顔を振り撒くもの、とっても楽しくて嬉しいもの。そう決まっていて、たとえば私のトレーナーさんだって、あの場所で舞い踊るウマ娘の姿に魅せられてトレーナーを志したのだ。
さあ、出番だ。元気良く、最後まで晴れやかに行こう。あんなにもキレイに光り輝くステージが断頭台に見えるなんて、きっと私の勘違い、あるいは杞憂なのだから。
それにたとえ、杞憂じゃないとしても。
私の無価値な血でステージを汚してしまうのなら、せめて喜劇にしなくちゃいけない。
どこまでも、ピエロの仮面をつけて。
トリックスターは嗤うだけ。自分自身の、愚かさを。
「ただいま。いやー、負けちゃいました」
レースが終わって控室に帰ってきた時、出迎えてくれた皆の前で私はそう言った。できるだけ、あっけらかんと。何事もなかったかのように。実際、何事もなかったのだから。
何か、異常があったわけじゃない。私には才能が足りなくて、だからもうスペちゃんのライバルにはなれなかった。スペちゃんの歪みを正すには、私には単純な能力が足りなかった。そのことだけで説明ができてしまうような、単純な話。
そしてそんな才能の無さは、悔しいなんて思える話じゃないんだ。そんな前を向く望みを願うには、私はあまりに拙すぎる。
拙いままで、完成するから。まだ未熟なままの誰にも届けないのに、それでも成長しきってしまっているから。どんなに穴だらけでも、これ以上前には進めないから。
「スカイさん、あの」
「そんな顔しないでよフラワー、言った通りちゃんと帰ってきたじゃない。私は私のまま、帰ってきたよ」
深刻な面持ちを崩さない君へ、私はやはりあくまで軽い態度を崩さない。大丈夫だよ、フラワー。すべてが終わっても、私はここにいる。それは確かな事実だ。確かに、帰ってきた。元から、変わっていない。君の心配は、そういう意味では杞憂だった。ずっと前から私の中にあった齟齬が、深い海の底からその姿を現しただけ。だから、変わっていない。わかっていなかったことがわかった、それだけだ。
きっと、それだけ。
無知の罪を断罪されることも、見様によっては変化と呼べるのかもしれないけど。
「……まだ、ウイニングライブがあります。ライブが終わっても、帰ってきてください」
「そりゃもちろん。それも大事な一仕事だからね」
「絶対に、帰ってきてください」
それだけ告げて、フラワーは控室を出て行った。そんなに見ていられないほど、ということなのだろうか。欠落を埋められないと自覚した、今の私は。足りないものには届かないとわかった今の私は。誰にでもあると思っていた未来がないとわかった、今の私は。真っ黒のペンキに塗りつぶされた限界にぶつかって、壊れてしまった、今の私は。
見ていられないほど、哀れなのだろうか。
……いいや、君は哀れになど思わないのだろう。まだ慈しみ、だから信じて送り出す。あるいはそう思い込むために、私を見ない選択肢を選んだ。君も子供だ。子供だった私からばかり影響を受けていたのだから、当然のことかもしれないが。
でもそれなら、今からのウイニングライブは見ていてもいいのかな。ちゃんと帰ってくる、その証明のために。私は変わらなかった。私は変われなかった。私は、ここで止まる。どうにもならない私には、そもそもフラワーが心配するような未来はなかった。残酷な現実でも、そのことを確認してくれるなら。
なんて、私に言うことがあるのはフラワーだけじゃないみたい。
みんなが私を待っていて、次は君か。君も、また。
君と私もまた、違うのに。
「スカイさん、あなた」
「何、キングも言いたいことがあるの? モテモテだね、私」
「いえ、一言だけ。……いいレース、だったわよ」
「そう。ありがと」
あくまで軽く、上滑りしそうなくらいに軽く感謝を告げる。それでも多分きっと、彼女の言は正しいのだろうと思った。今回の天皇賞(春)は、全力をぶつけ合ったいいレースだった。そう、今回は。今回、までは。
スペちゃんにはまだ、成長の余地がある。今は周りを見れていないスペちゃんは、多分どこかでその過ちを誰かに突きつけられることになる。スズカさんだけじゃなくて、自分や周りのライバルを見れるようになる。だからまだ、成長できる。まだまだ、彼女は強くなる。いつかの未来で、君は今よりずっと華々しい。
そしてキングも、そちら側だ。もがき苦しみながらでも、着実に積み重ねてゆける側だ。努力すれば、諦めなければ、絶対に向こう岸に手が届く側だ。そう、君にも未来があるんだよ。まだ、この先があるんだ。
けれど、私は。私は今日、気づいてしまったのだ。ここが私のピークで、いやもしかしたらもっと昔に私の最盛期は終わっていたかも知れなくて。みんなと鎬を削れていたのは、ただ早熟だった、きっとそれだけで。そう、それだけだったんだ。「黄金世代」として並び立てていた理由は、早熟さと小賢しい頭の回し方。そんなのはタネが割れれば大したものではなくて、実際私は大したものではなかった。ここまで、だった。
結局、私に才能はない。それが結論。それが答え。それが、わかり切っていたこと。そうだよ、なんでこんなに回り道をしてしまったんだ。私に才能がないなんて、誰の目に留まる価値もないなんて、幼い頃からずっと、ずっとわかっていたことじゃないか。すべてを諦めたあの日から、今までの私がとっくに知っていたことだ。
見ないふりをしていても、こうやって空は堕ちてくるのに。
「私も行くわ。今のあなたは、そうしてほしいみたいだから」
「そうかもね。否定はあんまりできない」
そうして、また一人離れゆく。突き放して、手放して。でも、これでいいのだ。進むべき先を持たない人間の後押しをしても、空まで続く高い壁に阻まれてしまうだけなのだから。君が悪いんじゃない。先のない私が、救えないだけ。
だから、これでいい。きっとキングも同じことを思ったのだと、それならそう考えるのが互いにとっての正解だと。ただ、信じていた。
もう、並び立てない。せめて互いに背中を押せば、突き放すのも前向きだった。
そして、次の一人だって。明るい笑顔を見せたまま、そのまま別れた方が美しいじゃないか。
「……スカイちゃん」
「なんですか、トップロードさんまで神妙な顔しちゃって。一度負けたくらいじゃ、そんなに落ち込みませんって」
「……そんなわけ、ない。GⅠの大舞台は、一番遠くて一番勝ちたい場所。もう、私にもわかります。私もスカイちゃんと同じ、トゥインクルシリーズを走る一人のウマ娘だから」
「そうですね。トップロードさんは、これから先を走っていく人ですよ。まだまだこれから、どんどん強くなっていく人。……だからまあ、私が落ち込んでるとしたら」
「したら、なんですか」
「……秘密です。ここから先は、トップシークレット」
しーっと、人差し指を一本自分の口元に立てる。からかうように振る舞って、絶対に言いたくない言葉を秘める。私があなたに、誰にも言えなかった言葉。飲み込んで、閉じ込めた言葉。それはきっとシンプルなのに、結論として出すのは難しいこと。まだ未来のあるみんなには見えないから、伝わらないだろうこと。
自分は、この地点でゴールだということ。自分の才能は、ライバルの歪みも正せない程度のものしかなかった。だからもう、ライバルにはなれない。誰とも、競い合えない。
格付けは、済んだのだ。
私の競争生命は、ここまでなのだ。
これ以上先の戦いは、すべて結果が見えている。
端的に言えば、無駄なんだ。
その現実を誰よりも私自身が実感しているから、私と皆の認識には乖離が生じていた。
私だけが私の実力を、レースを通して直感してしまったのだ。私には、今が限界だと。大舞台でステージに上がれるのは、今日がギリギリ。もっと上には、何もない。
今日が「最高」で、それ以降は更新されない。少なくとも、私にとっては。
ならもう、私が走る意味なんて。
「……じゃあスカイちゃん、ウイニングライブ頑張ってください。観客席に、みんなで行ってます」
「はい。しっかり見てもらえるのなら、それが何よりです」
だから、今日のライブは忘れられないものになるだろう。たとえセンターに立つ綺羅星には敵わなくとも、私は今日までは、スポットライトを浴びる側だ。期待を受ける側だ。みんなに支えられる側だ。とっても、この上なく。しあわせな、側だ。今日、今日のこの日が、最後だ。
静かにドアを閉じて、トップロードさんも出ていった。残りはあと一人。ずっと控え室の奥に座って、私を見つめるその太眉。少しごつごつした腕を組んで、私の前にどっしり座って。まるでてこでも動かない、そう言わんばかりに。
「どうしたんですかトレーナーさん、トレーナーさんは行かないんですか? セイちゃんの晴れ舞台が見れないですよ」
「晴れ舞台、か。確かにそうなんだろうな。ウイニングライブは、レースの余韻を永遠にするためのものだ。君の今日のレースも、多くの人の記憶に刻まれる」
「はい。それはバレンタインの時、トレーナーさんから聞いたことじゃないですか。ウイニングライブを見て、トレーナーさんはトレーナーさんになった。不器用で根性ばっかりで、困ったら正論をぶちまける難儀な大人に」
「そうだな、俺はスカイのいう通りの面倒な人間だ。それでも俺は、トレーナーになって良かったと思ってる」
「ウイニングライブをまた見れたから、ですか?」
「スカイに、君たちに出会えたからだ」
……本当、この人は食えない。最後の最後まで、愚直に手を伸ばしてくる。諦めないって、そういう真っ直ぐな言葉を投げかける。当人にはそうやって救いの手を伸ばしている意識がなさそうなのがタチが悪い。頭を使わず直感で紡いだ言葉をぶつけてくる、他人の気持ちはわかるくせにそれを取り巻く状況なんて把握してくれない正論ばっかりのあなたは、本当に。
つくづく、私との相性は最悪だ。あるいは出会った時ぶりに、そんなことを思った。
「……そうですか。ならやっぱり、しっかりライブも見てくださいよ。ほら、こんな部屋にずっといないでさ」
「そうだな。そうしよう」
「はい。私の晴れ舞台ですから」
「ああ。期待、している」
そうやって、最後まで期待を投げかけて。意地っ張りの正論男は、やっと私の控室から出ていった。そしてようやく、一人になれた。私は、独りになれた。
いくら一人になったからって、急に泣き出したりはしないけど。ほろほろと、心の膜が上の方から欠け落ち始めていた気がした。欠けて、欠けて、その先にあるのは全体の崩壊。
継ぎ接ぎを一生懸命にやっても補修は間に合わなくて、終わるとわかっていても終わりは止められない。
もうすぐ、空が墜ちてくる。本当に、堕ちてくる。
だから向かおう、空に一番近いところへ。
せめて終わる時くらい、ここまでの努力をできる限りのキレイな場所で舞い散らせたいから。
たん、たたん。ウイニングライブの振り付けを覚えるのも、ウマ娘にとってはやらなきゃいけない大事なことだ。しかもその振り付けというものは、一種類を一通り覚えればいいってものじゃない。同じ歌を歌うからって、自分の立ち位置はレースが終わる瞬間までわからないから。つまりは勝った時のための練習もするし、負けた時のための練習もする。そしてそのうちどれかの努力は報われるけど、どれかの努力は報われない。後ろで踊った経験の少ない私は、才能のないなりには頑張ってきた方なのだろう。
きらきらのステージで踊るウマ娘たちは、さまざまの気持ちを抱えながら皆で一つの歌を奏でる。喜び、悔しさ、そうでなければ、惨めさかもしれない。それを全部混ぜ込んで、美しさも醜さも全部一つにしてしまう。
そんなこの上なく残酷な舞台だからこそ、ステージの煌めきはとても綺麗なんだ。
ステップ、ターン。よし、大丈夫。今日の私も、なんの問題もなく踊れそう。負けたのだって初めてじゃない。敗者を踊ったのは何度か経験したことだ。それくらいで舞台に立てなくなるような、笑顔を作れなくなるような人間じゃない。私はそうやって笑えるくらい強いし、あるいは笑顔の仮面を被らなければ顔を見せられないほど弱い。これもコインの裏表。はっきりしているのは、私の笑顔はきちんと顔に張りついているということ。
とはいえ勝利と敗北のどちらにせよ、何度も経験したものだ。決まった順位の通りに、まるで最初からそう踊ると決まっていたかのように。そんなふうに身体を動かすのは造作もない。……ああ、だけど。
最後まで、気持ちの方は慣れなかったな。
負けはやっぱり、飲み込みにくいのかも。
まあそれでも、今まではしっかり糧にしてきた。そうやって、先に進んでいた。けれど敗北を飲み込むことで先に行けるなら、先のない私には敗北という棘を飲み込む意味があるのだろうか。負けたことの意味だって、私にはもうないんじゃないか。今日までは、いい勝負。そういう結論で、私にとってそのこと以上の意味にはならない。
……なら、これもちょっとした変化かな。
負けても、いいか。
別に、私なんかがどうなったって。
どうなったって、変わらない。
世界は回る。
私なしでも、十全に。
こつ、こつ。そうして、まだライトの点かないステージの上へ上る。メジロブライトさんと、スペちゃんと。センターはスペちゃん、下手側にメジロブライトさん。上手側に私。三着でも私は、スポットライトを浴びる側だ。だからやっぱり、晴れやかに笑おう。空っぽで無駄でも、自分なりの決意を込めて歌おう。「この先」があるのだと、今だけは勘違いさせてもらおう。
ネクスト・フロンティア。頂という新天地を、歌うことだけはできるから。どこにも行けない、私でも。「次なる新天地」は、他のみんなにはちゃんとあるんだから。
ギラギラの照明が、ゆっくりとステージ常在効果の私たちを照らす。それに合わせて歓声が僅かに沸き立つけれど、当然その程度の雑音で曲は止まらない。静かなピアノのイントロと共に、私たちは歌い始めた。レースの終わりを告げる、華々しいウイニングライブ。これもきっと、人と人とのつながりを作るもの。応援して期待してくれる人と、込められた期待に応える私たち。本来は、そういうもの。そのことは、わかっていた。
ただ今の私にとっては、今までの感覚すべてが過去だった。遠く遠くに、離れていく。私の歌う歌は、私の言葉になってくれるだろうか。
振り付けは問題なかった。ダイナミックに手脚を振り回し、時には静かに背を向けて歩く。印象的だったのは、人差し指を掲げる振り付け。これはシニア級で比類ない結果を残したウマ娘に向けた歌、だったはず。
だから、その指は「一番」を差している。あるいはもっと上、シニアよりも上のドリーム・シリーズ。そこでさえ頂点を目指すのだと、そういう意図が込められている。
そうやって一つ一つの振り付けや歌詞に込められた意味合いを思ってしまうと、なぜだか無性に心が締めつけられるようで。ウイニングライブというものの意味を、やっぱり大切だと思ってしまって。でもだからこそ、だからこそ今の私には。……ダメだ、ダメなんだよ。まだ、このライブが終わるまでは、まだ。耐えなければ、いけないのに。
私たちは歌う。私たちは踊る。
そこにはどうあっても、無感情ではいられない。歌を歌うことは、普通に話すこととは少し違う。歌詞という形で言葉はメロディに乗り、メロディを際立たせるために言葉がある。そして逆も然りで、言葉はメロディによって際立つ。ならばたとえ思ってもいないことを口にするとしても、実際にメロディに乗せた瞬間、それは。
それは、歌い手の言葉となる。自らの言葉となり、自らの傷を抉る。だから最後の最後に私にとどめを刺すのは、自分自身だった。私の口から私の気持ちとして、どうしてもそのリリックは喉の奥から飛び出してしまっていた。
「こんなもんじゃない」
そうだ、こんなもんじゃないって思いたかった。でも無理なんだ、駄目なんだ。私じゃ、私なんかじゃこの先には行けない。どんなにひたすらに駆け抜けても、私の道は選ばれた道じゃない。私には最初から、行先なんて存在しなかった。途中までは華やかでも、根本的に断絶している。どうしようもなく、途切れてしまっている。世界はどこへも、進まない。
フレアが焚かれ、会場のボルテージは最高潮。私の歌も振り付けも問題なく、周りの皆と呼吸を合わせられている。当然だ、仮面を被るのは得意だったから。スペちゃんの眼が私に本気でぶつかってはいないとしても、かつて見たそれから違えてしまっているとしても。それでもその夢は、確かに本気だったのだろう。だから私とは違う。何もかもを恐れてしまった、私とは。
「目指す場所があるから」
サビに入り、三人の声が重なる。そこにある思いは、私の分は重なっていないとしても、だった。目指した場所には届かない。頂点に立ちたいなんて、私には言えない。私にとって唯一選べることがあるとしたら、自分の言葉を自分で「言えない」「届かない」と否定したいと欲する事実だ。だって理由は単純で、私には何かを望む資格がない。どこまで走っても、これ以上は何も得られない。才能の有無。走れば走るほど、私の得た期待は去っていく。もう、最高はやってこない。
「力の限り、先へ」
そして、最後の一節を喉の芯から歌い上げて。大きな歓声とペンライトに見送られ、ゆっくりとステージは暗転する。……まあそういう意味合いなら、最後の一言が、それだけは唯一今の私が心の底から歌える歌だった。力の限りは、もう尽くしたのだ。私の場合は、それが皆より早かった。だからここが、私のゴール。私がたどり着いた終着点。春の天皇賞で三着なら、なかなか立派な物だろう。
世界を動かすことは、できなかった。
幕開けを越えて進むことは、できなかった。
何ができて何がしたいのか、もうそれもわからなかった。
諦めないなんて、私には似合わなかった。
理解、してしまったのだ。
素晴らしき未来なんて、存在しなかったのだと。
それで、終わり。私の声で私の言葉で、私は私を貫いた。届かないと思ったもの全部を自分の言葉で吐いたことが、己にとどめを刺すのに等しかった。
子供の私は、褒められたいと思っていた。ライブを終えて控室まで歩く中、私は今までのすべてを思い返していた。褒められたいと思って、余計な心配を周りにかけた。それを諦めるまでが、あるいは大きな回り道。あるいは、大きな成長のために必要な過程。そんなふうに結論づけた昔のことを、今と重ねて思い返していた。なら、いまの私も幼い時のあの日と同じなんじゃないかって。
トレーナーさんに見つかって、<アルビレオ>に入って。紆余曲折あって期待を受ける立場に立って、色んな人とつながりを持てて。トレセン学園にやってきてから今までの私も、回り道か成長の過程。積み重ねたものがこの瞬間、すべてが終わった瞬間結実するのだ。そうやって思い返すのは、遥かな過去から五分前の過去まで連なったものだった。過去を無駄にしない、唯一の方法を見つけた気がした。前に進むための、最後の道標を手に入れようとしていた。
どんな犠牲を、払っても。
ウイニングライブはこれ以上ないくらい明確に、今の自分をはっきりさせてくれていた。そこに歌う言葉の悉くが、今の私とは既に合わなかった。つまり私は、もうこの場所にいられる存在じゃない。いやあるいは最初から、見合ってなんかいなかった。みんなが優しいから、私の居場所を作ってくれていただけ。かつて優しい近所の人たちが、私のために世界を小さく閉じてくれていたように。
けれど実力というどうしようもない差があるのなら、老兵はただ去りゆくのみ。あの頃と同じで、外の世界を知ればわかること。自分はちっぽけで、無力で、脆弱だと。
褒められたい。一度その気持ちを諦めたつもりの私は、結局このトゥインクル・シリーズでまた褒められたいと思ってしまっていた。
子供のままでいたいと、きっとそう願ってしまっていた。不相応な願いだと諦めたのに、今度こそって誤認した。結果的には、同じように間違えていた。
子供のままでいる限り、人は間違えつづけるのだろう。
でも、人はいつか大人になる。子供の頃の大それた夢を諦めることで、大人になる。子供の夢を持ったまま大人になれる人間なんて、本当にほんの一握りだ。才能がある、極一部だけだ。それは私以外の誰かで、私にはなんの才能もない。私の周りがそうだっただけで、近くにいる私には近くにいるってだけの価値しかない。
夢は、叶えるものじゃなくて。現実を知って、諦めるものなんだ。
ウイニングライブを終えて、やっとわかった。願うべき夢と今の自分がどうしようもなくかけ離れていたのを実感して、ついに私は私を見つけた。
これが、本当の私。
幼いあの日に諦めたつもりで諦めきれなかった夢を、今の私はようやく諦められる。長い、長い回り道。あるいはどうしても必要だった、成長の過程。
どちらにせよ、ただ一つの道は見えた。私なりの、私に見合った、ここから先に行く方法。
……ねえ、トレーナーさん。ちゃんと、見ていてくれたよね。
私の、ウイニングライブ。私の、夢の結末。
どんなに長くても遠くても、いつかきっとどこかにはたどり着くって、見ていてくれたよね。
努力や根性は裏切らないって、私が見つけたのもそれを示す結果だよね。
あなたが本当に見たかったものは、見せられなかったかもしれないけれど。
これが私の、精一杯。
だから一つ、お願いがあるんだ。
自らの控室に入る前に、こんこんとドアをノックする。案の定、返事は返ってきた。「入っていいぞ」って。誰の部屋だと思ってるのやら。そもそも年頃の女の子の一人部屋に勝手に入るなんて、デリカシーが欠けているんじゃないか。そんないつもの私みたいな軽い感情を思うことは、きっととっても簡単だったけど。
「じゃ、お言葉に甘えて。入りますね、トレーナーさん」
その時思えていたのは、「嬉しい」。
それだけ。それだけでよかった。トレーナーさんは落ち着かなさそうに部屋の中央で仁王立ちしていて、太眉も口元も真一文字の横一直線になっていて。少し節ばった大人の手のひらは、内側に先程まで握りしめていただろう指先の跡が付いていた。少し青黒い、血の跡だ。
そんなふうに、いつものあなた。先程のウイニングライブで拳に限界まで力をこめてしまっていたくせに、そんな弱さを隠そうとするいつものあなた。そんなあなたは私のなにもかも、見透かしてしまっているのだと。わかってくれているのだと、それだけ思えれば十分だった。
「お疲れさま。ライブ、よかったぞ」
「えへへ、ありがとうございます」
思わず笑みが溢れてしまう。そのちょっとした返事をすることで頭がいっぱいで、部屋に入ったというのに椅子に座るのを忘れてしまっていた。ふわふわ、ふわふわ。ライブの熱にアテられたのだと誤魔化して、私の気持ちは緩やかに宙を舞う。
でもそんなふうに素直に、柄にもなく素直に喜んでしまうくらい。私にとって、あなたの言葉はそれくらいのことなのだろう。些細なことだけど、褒めてくれた。子供と大人の狭間にいる私は、褒められてしまえば素直に喜んでしまう。
特に多分、あなたに褒められたなら。私に「走れる」って言ってくれた、あなたなら。そう思ってしまうのは、今になっても事実みたいだった。
「それで、トレーナーさん」
だけど、マジックタイムはもう終わり。青空を越えて日は沈み、茜空はやがて黒へと変わる。時計は十八時過ぎを指している。
魔法は、ここで解ける。私を包む幸せは、差し引きのバランスを取ってくれる。
空はちゃんと、堕ちてくる。見合わないものを受け取った、その報いとなるために。
「どうした、スカイ」
私からの、お願い。私が告げるのはきっと、あなたへの信頼の証。あなたにだけ、言えること。今でも変わらない、私とあなたの積み重ねの集大成。あなたなら私をわかってくれると、そう信じているから告げられる。トレーナーとしても大人としても、あなたは私を見てくれている。だから、この願いも告げられる。あなたにだから、告げられる。安心して。あなたなら、こうするしかないってわかってくれるはず。先に行けない私が、先に行くためにできること。
それは、これだけ。
……でも、フラワーには謝らなきゃいけないな。結局私はこうなって、結局君を頼らずになんとかしようとしている。ああまで言ってくれたのに、ああまで言ってしまったのに。結局私は変わってしまって、君の助けも多分届かない。
変化のためなら、大切な人さえ切り捨ててしまえる。そうしないと耐えられないほどに、苦しくて痛いから。一刻も早く、息をしたいから。
そこまで追い詰められてしまうのだから、どれだけ準備をしても、空が墜ちてくるのなら無駄だったのだ。どうしたって、つながりは一つずつほつれていくから。
「今回の天皇賞(春)、結構頑張ったと思います。全力で。だから、この結果なんだと思います」
そしてトップロードさんにも、ごめんなさい。私はあなたのように、期待に応えつづける勇気が足りませんでした。負けてもそれを糧にして、そんなのは私には無理でした。
私は負けを活かすことどころか、勝ちを活かすこともできない。最初から、そうでした。
……一緒に走ろうって約束も、果たせない。そのことは多分、許されないことだと思います。
けれど、空は墜ちてきてしまうから。どうしようもなく、つながりは脆いものだから。
「思えばメイクデビューから、皐月賞から菊花賞まで。だいぶ昔に思えますけど、つい先日のことのようにも思えるくらい鮮烈な思い出で。大切な、かけがえのない思い出で。走ってきて、よかったなって思います」
キングも、ごめんね。クラシックは、とっても楽しかった。君はそれからもライバルだって、私に対して言ってくれた。けど、私はそうはなれないみたい。けれど構わず、君は君の道を行けばいい。君らしく進めば、きっと栄光をその手に掴める。友達として、かつてのライバルとして、応援してる。絶対に、振り返らないでいい。
大切な仲間だから、君の足を引っ張りたくはないんだ。
空が墜ちてすべてが終わってしまっても、そうだったことは忘れないつもりだよ。どうなっても、つながりがあったことだけは永遠だから。
「楽しかったです。悔いはないです。だから、です」
「……スカイ」
ここまで前振り、本題を言うにはもう少し時間がいるのかも。
だけどトレーナーさんもなんとなく、私の言いたいことを察してくれたみたい。
やっぱりこの人は、私のことをよくわかっている。
少しの沈黙。時間も必要だし、何より勇気も要る。
想いを告げることは、臆病な私には難しいことだ。
たとえ、きっとわかってくれるとしても。そうあなたのことを信じていても、あるいは私が私の考えを信じ切れていないのかもしれない。誰かを信じられるのに、どこかで自分は信じられない。そういう意味では、まだ私は子供だ。
でもだからこそ、こうしなくちゃいけない。
子供のままじゃ、前には進めないのだから。
くるり。沈黙を破る一回転。勝負服のレースがひらひらと舞い、私の最期を華やかに巡る。
すとん。儚さを隠すように少し跳ねると、ふわふわのスカートが内側までふわりと浮いた。
にこり。そして少しだけ、笑みを浮かべた顔をあなたの方に突き出して。薄くて柔らかな、多分自然な笑顔。私の心の底からの、ギロチンを待つ剥き出しの笑顔。
そうやって、それだけ勿体ぶって。
その後、また沈黙を挟んで。
それでもなけなしの決意と共に、やっと口から断末魔は出ていく。
「だから、ここまでにしませんか」
今日も、空はキレイだった。キレイなまま、墜ちてきた。
堕ちても、空はキレイだった。ぐしゃぐしゃでも、キレイだった。
だから、できるだけ私も晴れやかに。キレイなままで、大人になるのだ。
ここまでが、いい。ここで諦めるのが、今が一番のタイミング。今だと決めたからこそ私は、なんとかキレイな大人になれる。大人になって、前に進める。
これが私の、杞憂を受け止めての
終わった未来の堕ちた空、それでも進むための、答えの先だ。
「もう私は、走れません。引退しましょう、トレーナーさん」
こうして私は、大人になった。
めでたし、めでたし。
第三章 杞憂とデクレタム 完結です
幕間を挟み、最終章へ移行します
この物語は努力と再生のための心持ちの話です