みんなと一緒に変化と成長を積み重ねた私が、はじまりにたどり着く話。
挫折も苦難も喜びも幸せも全部まとめて、最高のはじまりにたどり着く話。
その、おわりの話だ。
おわりの気持ち
月より暗い電灯が部屋を照らしていた。時間の経った湯船のように生ぬるい空気が閉じた部屋を包んでいた。そんな空気を作る暖房がせっせかと健気に動く音と、いつでも寸分違わず進む時計の針の音が嫌に大きく聞こえた。ぶおん、ぶおん。かっち、こっち、かっち、こっち。
そんな瑣末な雑音が大きく聞こえる理由は簡単で、私もトレーナーさんも誰も口を開かなかったから。私が投げかけた言葉の先に、波紋がまだ浮かび上がってきていないから。
私が作った状況だった。二人の間隔は近く、けれど確かに距離を取って。私とトレーナーさんは、立ちすくんだままだった。少しでも動けば、つながりがちぎれてしまいそうだったから。
「だから、ここまでにしませんか」
私はそう、あなたに問いかけた。私の言葉は提案であり、諦観であり。それでも、あなたに赦しを求めた。頼り、縋り、求めていた。
「もう私は、走れません。引退しましょう、トレーナーさん」
そして、一方的に突き放した。断言であり、断絶であり。
それでも、あなたに答えを求めた。願い、祈り、求めていた。
私は大人になった。結局やはり、諦めることで。
そうして大人になったことで、世界の見え方は今度こそ変わってしまった。
今までで一番、致命的に。
私からは、そう見えた。私の見る世界は、今までとは色合いが違うのだと。
だけど大人になるのなら、私の認識だけでは足りない。
そのための、大人になるための儀式が必要だ。そんなふうに感じた。
これまで子供の私を見守ってきてくれたあなたに、承諾を得ねばならないと感じた。
大人になってもいいよ、と。もう走らなくてもいい、と。
認めてもらわなくては、ならない。
それは残酷な言葉だ。それはすべてを否定する言葉だ。
でも、私はあなたにそう告げてほしいのだ。
だってもう、走るのは怖くなってしまったから。
そう、怖いのだ。あれだけ、あれだけすべてを懸けていた走るという行為が、怖くて怖くてたまらない。走ることに、何の価値も見出せない。私は、ここで終わり。これ以上は、走れない。世界は閉じている。目の前は絶望で塗り潰されている。
それなら、先には進めない。
諦めるしか、ない。
手は尽くした。全力を出した。悔いはない。だから、おしまい。たとえバッドエンドでも、トリックスターは嘲るばかり。自分自身の終わりだって、道化の演目に変えてしまえる。バッドエンドを台無しにするための、最後の策謀を探している。
とはいえ自分の限りにできることはやり尽くして、後は終幕の黄昏を待つしかないのだけど。
トリックスターは大罪人。最後は決まって因果応報。
愚かな終わりを迎えると、そう決まっているのだから。
ならば私にできるのは、もう何もできない私に唯一できるのは、最後の最後まで誰かを頼ることだけだ。走る道にいまだに居座ってしまっている私を、立ち止まらせてほしいのだ。いまだ私が振り払って逃げようとするのなら、抱き止めさえしてもいいから。
過ちを続けてきた私を裁く儀式が、指導者たるトレーナーさんの役割。これ程までに救いようのない愚か者を断罪することができるのは、ずっと私を見ていてくれたあなただけなのだ。
走るのは、怖い。さまざまの理由があるけれど、全部今までの積み重ね。これも、積み重ねた変化と成長。恐れを抱いて未来が見えなくなって、私はこうして大人になる。走るのを、止めるんだ。そして私を止められるのは、あなたしかいない。
止まってもいいと言ってくれるのは、きっとあなたしかいない。
かっち、こっち。なお、鉛のような沈黙は続く。それだけトレーナーさんは悩んでくれているということ、だったのだろう。
私のために、悩んでくれている。そうしてくれるのは嬉しい。そんなふうに時間と思考を割いてもらえるのはどんなにか得難いことだ。
私のトレーナーが、この人でよかった。今まで一緒にいられて、よかった。
だから、それくらいあなたのことを、大事に大事に思うから。
大切に、手放したくないとさえ、離れゆくこの瞬間ですら思うから。
私は、あなたに。
「……スカイ」
「なんですか、トレーナーさん」
私はあなたに、赦されたい。
かけがえのないあなたが、私のことを終わらせて。
沈黙は破られる。
もう空は堕ちている。
今更慌てふためいたところで、どうせすべてが手遅れだ。
このやりとりも、必要な儀式ではあっても通過儀礼に過ぎない。
結論は決まっている。
私は終わっている。
そしてきっと、トレーナーさんもそのことをわかっている。
だってあなたはこれまで何度も、私のことをわかってくれたのだから。
そう思っていた。信じていた。
無根拠だとしても、根拠がないからこそ私が持っているのが信頼だと思っていた。
どこにも拠り所がないが故に、互いの存在を拠り所にできるのだと思っていた。
皐月賞でも手放さなかった。
ダービーでも一緒に弱音を分かち合った。
菊花賞でも、私の「最高」を見届けてくれた。
あなたなら、私の本当がわかるはず。
二人で一つ、重なり輝く二重星なのだから。
ねえ、お願い。もう一人じゃどこにも行けない私のことを、死体を墓まで連れてって。
いつもみたいに導いて、私をきちんと終わらせてよ。
あなたは、「私の」トレーナーさん。私はあなたじゃなきゃ、正しく進めない。
今から、今から振り返ったなら。
私という一人の取るに足りないウマ娘は、この正論男のおかげで何度も何度も掬い上げられてきたのかもしれない。
いつも見守っていつも励まして、それでいてたまに私にだけ本心を見せてくれる。面倒だけど不器用すぎるくらいに純粋だった、子供の私を。
最初からトレーナーさんは、私を掬い上げてくれていたのだ。
……でも、一つだけ。
最初からわかっていたことに一つだけ、今一つだけ付け加えるなら。
ありがとう。あなたのおかげで、私は大人になれる。
最後にあなたが、私を受け止めてくれることで。
だから最後に、ありがとう。
これが、すべてのおわりだ。
そう、思っていた。
全部がぼろぼろになった私が出した結論に、未来に続くたった一つの道標に。
あなたなら理解を示すと、そう思っていた。
何度だって私を助けてくれた。
何度だって私のために道を示してくれた。
それくらい、弱さを見せ合ったのだと思っていた。
信頼とは強さだけでは慮れない気持ちだ。
親愛とは弱さを剝き出しにする感情だ。
そこまで深く深くで繋がって、ならば私の弱音も受け止めてくれるはずだって。
いつもみたいに、わたしを認めてくれるはずだって。
……そう、思っていたのに。
「考え直せ、スカイ。君は、まだ走れる」
こうして。最後の最後に残っていたはずの救い手に、こうして私は裏切られた。
本当の私の姿は、誰も見ていなかったのだと私は理解した。
あなたもずっと、わかっていなかった。
信頼、親愛、すべては私が見たいものを見ていただけで、崩れてしまえば薄くて脆い。
私がどれだけの恐れを抱えているのかなんて、彼は一つも理解していなかった。
信じて、いたのに。
「君はまだ走れるんだ。ここで終わりなわけがない」
そう告げられる言葉に対して、おそらく必死に向けられる手のひらの形をした刃に対して、私が抱いた感情は、果たして失望だっただろうか。
誰にも理解されない、その程度の関係だったという失望。
「俺は君に言った。君は『走る』ウマ娘だと。その気持ちは変わっていない。当たり前だろう」
そう述べられる言葉に対して、きっと全身で向き合っている救いの形をした銃弾に対して、私が抱いた感情は、果たして悲嘆だっただろうか。
どこにも私は救われない、報われないという悲嘆。
「今日の結果は残念だった。それはもちろん重く受け止めなければいけない。健闘したなんて言葉で収めるつもりはない。君はもっと走れると、俺は知っているから」
否、だった。どちらでもない。どちらとも違う。
そう、違う。
違う。
「……何が」
切ない終わりを絞り出すように、絶え間ない幕引きを溢れさせるように。
私は震える声で、しかしはっきりと彼の言葉に答える。
違う、違う。
絶対に、違う。
「あなたに私の、何がわかるっていうんですか!」
あなたの告げる精一杯の言葉に対して私が抱いた感情は、そんなものではなかった。失望よりもどす黒く、悲嘆よりも痛みを伴う。
私を渦巻き取り巻きより救えない存在へと貶める、あなたへの初めての感情だった。
空にもあった、果ての果て。おわりの気持ち。最後にあなたが私に語った言葉に対して、きっと想いのすべてを込めている激励の形をした優しさに対して。
それに私が抱いた感情は、紛れもなく憤怒だった。
わかってくれないこと。求めたものが返ってこないこと。理解されるわけのないものへの無理解に対する、きっと自分のための怒りだった。
そこで己をマイナスに奮起させてしまうのは、紛れもなく私のエゴイズム。自分で確立した、大人の意思。ああ、よくない大人になってしまった。
私はきっと、あなたのようにはなれないのだ。人のことを想える、立派でキレイな大人には。
でも、それでいい。
今となってはそんなもの、私には要らない。
私はもう、どうなってもいい。
「あなたは今日走ったんですか。今までずっと走ってきたんですか。私が肌身で感じたものを、あなたに理解できるんですか」
ならば、私は告げるだけ。最後に伸ばした手が届かないのなら、これ以上ないくらい突き放す。口が回ることだけは、子供の頃から変わらない特技だから。
たとえばウマ娘とトレーナーの絶対的な差。どうやっても、走る感覚はウマ娘にしか得られない。だからこそ、走る私に憧れてくれているのはわかっているのに。自分では得られないとわかっていても、その上で支えてくれたのはわかっているのに。
わかっているから、私はそれを断絶の言葉に選ぶ。理解はそばに寄り添うこと、けれど決して同じにはなれない。だから突き放すのは、この上なく簡単だ。
隣にいるのを、止めるだけ。
「……わからない。だが──」
「ほら、わからない。あなたは何もわかってないんですよ、トレーナーさん。走る人の気持ちや苦悩なんて、わかるはずがない。……わからなくて、正解ですけどね」
「スカイ」
「じゃあ、たとえばですね。たとえば私がスペちゃんに対して、どんな気持ちを抱えてるかわかりますか? 『私の』トレーナーさん」
あなたは私を裁かない。なら、私が私を裁こう。
私が私を裁くなら、決して赦されないとしても。
一つ一つ、罪を並べていこう。誰にも言えない、あなたにも言うべきじゃない、私だって解き放つべきじゃない、救いようのない罪悪の感情を。
「私はスペちゃんのことを、ずっと羨ましく思ってました。どれだけやってもあんなに真っ直ぐな気持ちは持てないし、ひたむきには走れない。だから苦しかった。一緒に走るのは自分の才能の無さを突きつけられてる気がした。ねえトレーナーさん、その気持ちがわかるの? 私なんかに憧れてたあなたに、憧れの先にある苦しみがわかるの?」
「スペシャルウィークは、君のライバルだ。今日だって、そうだった」
……ほら、やっぱり。やっぱり、あなたからは見えていない。キレイな私しか、見えていない。
「残念でした、今日は全然歯が立ちませんでした。しかももう、スペちゃんは私を見てもいませんでした。ライバルなんかじゃ、ありません。ほら、これがトレーナーさんにはわからないことです。側から見たらまだ私たちはライバルで、そうなれないって気づいたのは私だけ。ねえトレーナーさん、やっぱり私のことなんて何にもわかってないじゃないですか。大したことのない、こんなに底の浅い人間なのに。……それで、何がわかるっていうの? 私なんかを、重く重く見ていたくせに」
「君は強い。そのことを疑ってなんか、まだ」
「……一度信じたものを違えない、それがあなたのいつもの正論ですか」
「違う。俺の気持ちだ」
はあ。どっちでもいいよ、そんなの。上っ面の口だけなんて、何の意味もない。
今私がやってるみたいにさ、無価値で無意味で無力だよ。
「じゃあそうですね、私がどれだけくだらないかって話を続けましょうか。『最優秀クラシックウマ娘』、覚えてます? 去年私が選ばれそうって話になって、結局選ばれなかったやつです。……あれを取ったのは、エルでした」
「忘れるわけがないだろう。あれは、残念だった」
少しは、必死に頑張って少しは寄り添おうとしてくれるみたい。でも、無駄だ。
私が告げるのは互いの差異。
私とあなたは、違う人間。
こちらが手を掴む意思がない限り、つながりは決して生まれない。
「残念、でしたねえ。じゃあ、その『残念』がどれだけのものか、私とあなたで同じだと思いますか? 当事者の私と、傍観者のあなたで」
「傍観、か」
「そう、傍観です。あなたは決して、私にはなれない。……私はですね、あの時はっきり思ったんですよ。自分は認められるに値しなかったんだ、って。エルには敵わない、ああはなれないって。そこそこ止まり、私の限界。どれだけ頑張っても、いいところまでしかいけない。その気持ちは、わからないでしょう。わかるわけがない。私みたいなバカで無能な人間にしか、人を羨む醜い感情なんてわかっていいはずがない」
ぽつぽつ、ざあざあ。まばらな雨はスコールの如く、私とトレーナーさんの間に積み重ねたものを洗い流す。積み重ねたものは、間違いだらけだったって。ここに見える小さくて拙い理解が、本質だったんだって。
私たちは、わかり合えてなんかいなかったって。
「君は頭も回るし、ちゃんと『走る』ウマ娘だ。羨むのだって、悪いことじゃない」
「まだ、そう言いますか」
まだ、まだ諦めないのか。
これ以上手を伸ばすなよ。
拒絶と拒絶を重ねてよ。
そうする以外に、私たちがわかり合う方法なんてないんだよ。
あなたは諦めてなくても、私はもう諦めたんだよ。
「じゃあ、グラスちゃん。知ってますよね、当然。私の同期をここまで並べてきましたけど、みんなみんなに私は良くない気持ちを持ってます。あっちはそんなことないんですよ。私が一方的に、友達を羨んで僻んでるんです。どうですか? 聞きますか?」
「……聞かせてくれ。俺は、君のトレーナーだ」
失望させるための言葉なのに、あくまで全部聞きたがるのか。全部吐き出したって、何も変わらない。私にとってこの気持ちは、きっと明確に抱えていたものじゃない。今になって見え方が変わって、だから見えてしまった醜い私。でも、見え方が変わっただけ。こんな私も、今までの私と変わらない。世界が変わらないように、私は最初から無能で無価値だったのだ。
幼い頃から、ずっと。
「グラスちゃんはですねえ、すごいんですよ? 才能があって、クラスで一番に期待されていて。それでも努力を忘れなくて、どんな時でも一人で戦えて。……でも、それだけじゃなかったんですよ。怪我もしたし、復帰からの不調もあった。一人で戦えるけれど、必要な時は誰かに助けてもらうことができた。本当に、すごいんです」
「君も、同じじゃないのか。努力した、一人でも頑張った。立ち直れない時は、俺にも手を伸ばしてくれた」
「それが違うんだなあ、トレーナーさん」
残念ながら、全然違う。やっぱり、私は誰のライバルにもなれないんだ。「黄金世代」なんて、まやかしだったんだよ。みんな、私からは届かない。
並び立てると思っていたのは、幻想だった。あなたが見せてくれていた、幸せな夢だったんだ。
「私の努力はせいぜい人並み。時間をかけたことは小細工ばかり。それで誰かを驚かせて、何とか上辺だけで立ち回っていただけ。グラスちゃんみたいな真面目な鍛錬とは、かけ離れてるんですよ」
「そう思うなら、<アルビレオ>のトレーニングが悪かったんだ。俺の責任だ」
「違いますって、トレーナーさんは努力していたでしょう。トレーニングを改善して、チームの提携もして。私はむしろ恵まれた環境にいて、その下駄を履いてここまでなんです。他人を頼ることを自分の強さにできるグラスちゃんとは違って、私は弱さを誤魔化すために他人を使うだけ。そう、私にとっては騙し騙しの道具扱いですよ、チームのみんなもトレーナーさんも。……はっきり言って、最低でしょう」
「それでも、君にとってライバルだった」
「『だった』、かもしれませんね。どちらにせよ、もう違う。グラスちゃんは有マで復活した。でも私にはわかるんです、自分の未来にそんな復活劇はないって。一度勝てなくなったらそれっきり、だって私がやってる勝ち方は実力じゃなくてくだらない手品みたいなものなんですから。タネがバレたら、終わりですよ」
終わり、終わり、終わり。何にせよ私は終わっていて、他のみんなは前に進んでいる。
だから、走るのが怖い。
ここから差がつく前に、幕を引いてしまいたいのは当然の思考だろうに。
ライバルだったとは言ったけれど、そんな言葉に私はいまだに拘泥しているのかもしれない。
だからせめて、キレイなうちに終わりたいと。
空は、墜ちてもキレイだった。
私が最後にずっと好きだったものの終わり方に憧れて、一体何が悪いって言うんだ。
たとえ私が罪人でも、それなら終わるくらいは赦してよ。
「……キングヘイローがこのチームに入った理由の一つは、君だろう。彼女は、君のライバルじゃないのか。他の子だってそうだ。まだ、走れるはずだ。ライバルなんだろう、大切な」
「……まだ、言いますか」
「ああ。まだ、言わせてもらう」
「なるほど。じゃあ、もう一つ。キングと私は、違いますよ。こうしているのが、何よりの証拠。同じには、なれない」
「どういうことだ」
「ライバルのために、なんて思えないことですよ」
最後まで、誰とも釣り合わない。
そう思うことこそがセイウンスカイというウマ娘の、生半可な覚悟なのだ。
「私は、走るのが怖いんです。そのために、ライバルからだって逃げたいんです。言い換えればその程度のものなんですよ、私にとってのみんなって。自分が変われない、終わってる、そうなってまで付き合う義理を感じられないんですよ。……キングは、どこまでも諦めないじゃないですか。あれだけ苦い思いをして、私があの立場だったらとっくに逃げ出してます。そこまでの気持ちを、走ることに向けられない。自分の走りをこうやって貶して、誇れるものになんかできやしない。だから、私には才能がない。走る能力も、一人で走れる気持ちも、自分の走りに対する自信も、何もかも」
ねえ、わかってよ。
私がここまで辛い思いをしながらも、言葉を連ねる意味をわかってよ。
言いたくなかった大切なみんなへの負の感情を、吐き出してでも耐えられなくなってしまった理由をわかってよ。
才能のなさを改めて自分で噛み締めて、そんなふうに己の傷跡をもう一度こじ開ける自傷行為の本質を、わかってよ。
だけどもう、あとはただただ崩れ落ちるだけ。
深い深い奈落の底まで、積み上げたものを全部捨ててしまおうか。
全部。
あなたとのつながりも、全部。
「もう無理なんです、私が自分で無理ってわかったんです。私の限界は、私が一番よくわかります。当たり前でしょう、あなたに私はわかってなかったんだから。こうやって何一つ、わかってなかったんだから。だからここが一番だってわかるのは、私だけなんですよ。GⅠレースたる天皇賞(春)の三着。これが大舞台で残せる最高の成績。立派じゃないですか、十分じゃないですか」
けれど、だった。崩れ去る限界まで言葉を重ねても、捨てて潰してぐしゃぐしゃにしても。それでも、私にはまだ言えない言葉があった。怒りに任せたふりをして、ただひたすらに最後の本心は隠していた。漏れ出てしまうとしても、必死に。
その気持ちをこぼしてしまったら、もうどうなってしまうかわからないから。
言えない。自分が怖いから。終わった自分が吐き出してしまえば、私が私でいられるかなんてわからないから。そう、わからない。私のことなんて、私にわかるわけがない。
だから、ずっと求めていた。だから、自分を貶めた。だから。だから。
「ここまでなんですよ、私は」
だから。だから、励ましや慰めじゃなくて。
だから私はあなたに、褒めてほしかった。
ここまで頑張ったことを、認めてほしかったんだ。
それが、本当に私が抱えている感情。
すべてを捨てた場所の深層に根づく、本当に本当の。憤怒すら交えた激情に隠れた、最後に残ったおわりの気持ち。
結局、私は子供なのかもしれない。長々と駄々をこねて、真に言いたいことは言わなくて。
この期に及んで褒められたいなんて、子供の願いを抱えたままで。ならばあなたが大人になる儀式を認めてくれないのも、当然かもしれない。私の方が悪いって、子供だってことかもしれない。正論には程遠い、私の方が。
でも、あなたがどれだけ正論で、どれだけ正しくて、どれだけキレイな道を示すとしてもさ。もう、もう私には耐えられないんだよ。自分の限界を見せた、全力を出し切った。それでもあなたがこの先を、私には届かない先を求めるのなら。
私は、褒めてもらえないじゃないか。あなたの期待の先には、失望しか残っていないじゃないか。そんなのは、嫌に決まってるじゃないか。その結末は、残酷すぎやしないか。
たとえ私が為すのがあなたの手を振り払い突き放し、遂には絶縁状を叩きつける行為だとしても、私はそうなるのだけは嫌なんだよ。
終わらないと、私は期待に殺される。
だから。
だから、終わらせて。
「これきりです。私はあなたの期待には、応えられません」
「スカイ。そんなことはない」
まだ、まだあなたはこちらに手を伸ばしてくるのか。もう嬉しくない。もう鬱陶しいだけ。きっと、きっとそんなつながりになってしまったのに。
「聞き分けのない人ですね。あなたに、私の何がわかるんですか。わかってなかったじゃないですか。何も、何も、何も。私はここで限界なんです。あなたの見立てが間違ってたんです。私が『走る』なんて」
喉が掠れる。目頭が熱くなる。けれど、それは表には出さない。
仮面を被るのには慣れている、トリックスター最後の仕事だ。
私の罪は増えてもいい。的外れな糾弾も、偽りの正しさも。
すべてを抱えて、大人に終わろう。
「私の、トレーナーさん。あなたは、私の才能を見抜けなかった。そのくせここまで走らせて、限界を訴えているのにまだ走らせようとする。どうですか? そんなの、トレーナー失格じゃないですか?」
「……そうだとしても、君は」
「まあ、それはどうでもいいことです。それに多分、トレーナーさんは良くやりました。才能のない私がクラシック二冠なんて取れたのは、多分トレーナーさんのおかげです。あなたには才能があります。才能がないのは、私の方です」
私の言葉を否定するなら、その否定に込められた認識の差異をより深くするために肯定して。私の言葉を肯定するなら、その肯定に込められた意味合いを逆転させるためにおのずから否定する。どこまでも、私たちは噛み合わない。最初から、かけ離れた人間だったんだ。
訣別には、言葉を交わさねばならない。これ以上会いたくないと思いながら、会って目を見て話さねばならない。まだ諦めてないって感じの黒々した瞳を。暑苦しいまま萎れてくれない濃くて太い眉を。心底苦手な、あなたの顔を。私はそんな見たくもないものを両の目で見据えたまま、あなたに別れを告げなければならない。まったく、辛い仕事だ。それでもあなたがやってくれないのなら、私がやるしかないだろう。
あなたと私を否定することが、私のやりたいことだから。
何もない今の私にとっては、もう、あなたは。
「間違ってたんです。ぜーんぶ、間違ってたんです。これまでのすべてが、間違ってたんです。トレーナーさんはもっと才能のある子を指導した方がよかったし、私はもっとほどほどの夢を見た方がよかった。あなたには役不足で、私には不相応。だから、今からでも」
ようやく、私は手を差し伸べる。いつかあなたが願いを込めた勝負服のまま、あなたが一番見たかった私の姿で手を伸ばす。でもそう見えるのは身体の動きだけで、行為の裏に込められた意志は明確な拒絶。棒切れより価値のない私の手のひらをあなたが握り返せば、本当にすべてが終わる。終わって、くれる。
「今からでも、終わりにしましょう」
お願い、だから。
本当に、お願いだから。
けれど、なのに。
そこまで、願ったのに。
祈ったのに。頼ったのに。縋ったのに。
先程よりも強い語気で。空気が震えそうなくらいの大声を出して。終わりを、認めない。
私が終わりたいのに、認めてくれない。あなたは私の言葉を、真正面から否定する。
私を、否定する。
「いいや、それは駄目だ。絶対に、駄目だ!」
「どうして、ですか。あなたに私の、何がわかるわけでもないのに。そう、そう言って──」
「わかる。これまでずっとスカイを見てきた分は、少なくともわかる。俺は君のことを、よく知っているつもりだ」
「その言葉に、何の根拠があるんですか」
「根拠は今までの時間だ。ジュニアからクラシック、シニアまで。君を見てきたつもりだ。だから俺は、その上で信じている。君は『走る』と」
どうして。どうしてなの。ねえ、どうして。どうして、どうしてなんだよ。ここまで、ここまで弱さを見せたのに。どうして、あなたは。
「だから、スカイ。絶対に、諦めるな!」
「……本当に、あなたは」
どうして、わかってくれないの。
ゆらり、ゆらり。ずっと立ち止まっていた私の身体を、壊れた人形のようにぎこちなく動かす。きっとその通り、壊れているけど動かしてやる。あなたの方へ、あなたに向かって。ふらふらり、頭からなけなしのネジを落としながら、私はあなたのために軋む全身を動かす。こんなにあなたに近寄ることは、今まであっただろうか。約数㎝のところまで、歩幅を埋めてあなたのそばに。耳の先よりも更に上、首を曲げないと見えないあなたの顔を見上げる。やっぱり、あなたは私より大人だ。
でも、違うんだ。あなたはまだわかってくれないけれど、もう違うんだ。あなたの認識のまま、ずっと子供のままじゃない。人は変化する。人は成長する。最後に、人は終わる。
私も、大人になってしまったんだ。
「……スカイ」
「諦めるな、ですか。前もトレーナーさんはたびたび、私にそう言ってくれました。そして私は多分、その言葉に救われていました。前の、私は」
前の私は。子供の、私は。
「でも、もう変わっちゃったんですよ。今までの私をあなたがどれだけ知っていても、それは子供の私です。あなたのよく知るセイウンスカイは、かつての私です」
「君は今でも、セイウンスカイだろう」
「そうかもしれません。きっとそうでしょう。でも、人は変わるものです。成長するものです。大人になるものです。のんびりしてるくせに、頑張る時は頑張っちゃって。根性論なんか嫌いだったくせに、いつの間にか染み着いちゃって。そんな私はもう、いなくなっちゃったんですよ」
「そんなことはない、君は」
「そんなことは、あるんですよ」
少し苛立ち混じりに、相手の言葉を言葉で潰す。否定と空振り、対話の拒否。また少しずつ、私たちのつながり離れていく。きっと、今までが近づきすぎていただけなのだろうけど。
それに今だって身体の距離だけは、これ以上ないくらい近くにある。緩めの長袖のシャツと、ぼろぼろになった後の勝負服。二人の間にある服装の違いも、素敵な噛みあいにさえ思えるけど。でも、違う。結論まで来てしまえば私たちのあらゆる差異は、ただわかり合えないことを示すだけ。違うことさえわかり合う意味だと、今更言うことはできやしない。
「私には、わかったんです。わかったから大人になって、大人になったからわかったんです。自分はここまで。ここが、絶頂。潮時。だから、ここで諦めたほうがいい。大人になったから、諦めがつくんです。今まであなたの言葉で励まされていた私とは、昔の私とは違います」
けれど、ここまでなんだ。どうしようもない才能という現実が、私の空を堕としてしまったから。そうなれば他には諦めるしか、前に進む方法はない。この壁は、越えられない壁なんだ。
「トレーナーさんが私に諦めるなって言えるのは、私が子供だったからです。あなたが知っている子供の私は消えて、今の私は大人の私です。大人の私は、諦めることを肯定できてしまいます。他の大人の理屈に乗らず、自分で判断できてしまいます。だから、あなたの言葉は届きません。もうずっと、響いてきません」
「……そうだと、しても!」
「いい加減にしてください!」
二人の声の残響が、強く痛く耳に残る。言葉は最早交わされず、ぶつけて相手に傷を作るだけ。ならきっと、もうすぐ終わり。正論はない、弱音もない。残ったのは強がりと強情。どちらにせよ、本心は見せかけの強さで隠れていく。
絞り切ったと思っていた声は、再び腹の底から膨れ上がってくるようだった。底なしの沼に捨てたはずのもの全部が、深淵からマイナスになって這い出してくる。湧き出る汚泥は、すべてを沈める。
「私が、私のことを一番よくわかっています。そんなの当たり前じゃないですか、トレーナーさんだってわかってるでしょう。私はここまで、これはもう動かせない事実なんです」
傷を作るために紡がれる言葉は、自分にとっても痛かった。私が私をわかっていなくても、私以上に私を知っている人はいなかった。だから仕方なく、私が私に理解を差し伸べるしかなかった。自分に傷があることはわかっていたから、自らをこれ以上痛めつけないための言葉を紡ぐことだってできたはずだった。それでも溢れ出る気持ちは止まらなくて、私はゼロ距離で諸刃のナイフを刺しつづけていた。目の前の人に傷をつける瞬間には、全身がずたずたになる錯覚が常に伴っていた。
「なのに。私はもう終わりだって言ってるのに、それなのにトレーナーさんは私を走らせたいんですか。それは本当に私のためですか? もうどこにもいなくなった、昔の私を追い求めてるだけじゃないですか?」
壊して、傷つけて、絶って、殺して。ギザギザの刃先を乱雑に振り回し、そこに返される言葉はない。ならば、これで終いだ。ようやく無益な会話が終わる。無益な関係が、終わる。
今までの二年と少し、長く深いつながりが幕を閉じる。
「それは、あなたのエゴ。私のための言葉なんかじゃない。私は私のことを考えてくれないトレーナーなんか要らない。必要ない」
一歩、後ろに踵を引いて。あなたの顔がどんなに苦しそうな表情をしているか、すべてしっかりとこの目で見て。歪む口元も、揺れる瞳も。流れる汗の一筋まで、私はあなたのことを見ていた。
「出てって。もう、顔も見たくない」
……最後に見るあなたの顔は、そんな表情になってしまうのか。けれどそれを悲しむ資格は私にはない。
私が傷つけた。私が終わらせた。自分のために、他人を使った。他者を誑かすことしかできない哀れなトリックスター。滑稽ですらある愚かさも、私が重ねた罪なんだ。どこまでも、誰かのためにはなれないんだ。
トレーナーさんは、相変わらずの行動の速さだった。いつもよりは、少し迷っていたかもしれない。何も言わずに顔を伏せ、まっすぐに私の横を通り過ぎて。がちゃりとドアを閉める時、「すまない」と小さな声が聞こえた。それでも、振り向かなかった。
だって、あなたの罪じゃないから。
夕日より眩い電灯が部屋を照らしていた。暖房は効きすぎているくらいなのに、人一人減ったぶん部屋の空気は涼しく感じられた気がした。独りだから、暖房の音と時計の音もより大きく感じられる気がした。けれどもちろん、何一つとして変わったものがあるわけじゃない。変わったことがあるとすれば、独りになったことだけだ。世界は変わらない。私の世界の見え方が、変わっただけ。
あれから小一時間が経ったけれど、私は控室から動けないままだった。ドアが閉じられてすぐ、その場にへたり込んでしまったから。
勝負服はくしゃくしゃになっていた。私の気持ちと同じだった。今日で着るのは最後になるのだろうと思うと、やっぱりなかなか着替える気にはなれなかった。これで、引退なのに。
だけど強引に願って心の底から望んだはずの引退以上に、心に空いた穴が私から行動する気力と体力を奪っていた。初めての、気持ち。初めての、経験。
終わりを告げることが、こんなにも、こんなにも辛いだなんて。
つながりを断つことは、達成感とは無縁すぎたのだ。
私はあなたを拒絶した。断じた。ありもしない罪さえ被せた。そして歯向かう言葉もすべて言いくるめて、あなたを完全に打ち負かした。「すまない」と、謝罪の言葉を引き出してしまった。私は、あなたを説き伏せてしまった。
心底、下劣な方法だったと思う。差し伸べられた手を振り払えば、傷つけるのは簡単だ。信じてくれる気持ちを蔑ろにすれば、踏み躙るのはいとも容易い。本当に、反吐が出そうなほど酷いやり方だ。そういう言葉を使って、私はそれでもあなたの言葉を討ってしまった。
そう、それでもだった。
それでも、だったのだ。どんなに残酷でも卑怯でも、無情で最低のやり方でも。それでも大人のあなたを真正面から倒せてしまった、私は。
やっぱり、大人になってしまったのだろう。そう、思う他なかった。事実として、大人になってしまったのだ。ここが、そのタイミングだった。変化と成長、積み重ねの一つの結実。未来のない私が、前に進むための一つだけの方法。あなたのような、素敵で優しい大人にはなれなかったけど。どんな大人になるかだって、きっと才能で決まることだ。私は人に優しくするとか、寄り添うのには向いていないのだろう。いつの間にか好いてしまった他者とつながる行為を、大人の私は向いてないのだと捨てていく。また一つ、終わらせた。捨てて、諦めた。
走ることも、語らうことも、かつて好きだったはずの色んなことがある。
でもその何もかもを諦めるのが、私が大人になるということだ。そうして、完成する。そうして、空の果てに手が届いてしまう。墜ちたから、届いてしまう。これから先は、私にはない。
幼年期が終わった後、更なる段階へ進めるのは限られた人だけなのだろう。私は選ばれた存在ではなかった、それだけなのだろう。幼い頃と同じ結論なら、二度目の今度こそ正しいはずだ。
平凡な人間が成長するには、子供の自分と別れを告げるしかない。この先にはない。大人はまた別の道だ。今までの私とは、芯からすべて変わっていく。どうなるのか、私にはわからない。わかるのは、こうすれば成長できるということだけ。
私の成長は、諦めと共にあった。あの日幼い私は、諦めることで成長できた。回り道を回り道と理解し、今までの私を捨てることで。そして、今の私もまた幼い頃と同じようにしている。長い長いトゥインクル・シリーズにどれほどの価値を感じながらも、それが回り道だったと理解できた。だから、諦めるのだ。
期待されたい、仲間と走りたい、褒められたい。そんな子供の私の願いは、全部、全部、全部。
全部大人の私によって、名前のないゴミ箱に捨てられた。愛おしんだあらゆるものを、諦めた。だから私は、今ここにいられている。そうしなきゃ、生きてはいけない。
ならば諦めることは私にとって、必要な対価なのだ。捨てて、終わらせて、諦めて。ようやく、先に行ける。
大人に、なれる。
──すべてが、予定調和。最後の日はこうなって、わかりきっていた違いがどうにもならない歪みを生んでいた。忌々しい正論男のせいで、心が掻き乱されてしまったのも当然の流れ。だけどそうやって対立したせいで、最終的な気持ちは何もないよりは方向のズレたものになっていた。より深く沈むか、あるいは再び上を見るのか。どちらかは、わからない。終わりを告げる瞬間に、不安でもない、期待でもない、未知の感覚は残っていたということ。
そこにある変化は今まで抱えてきたものを崩すには大きすぎて、今の私はこの時間の意味を捉えきれていなかったのだろう。
けれど確かに、密やかに、それはこれまでの積み重ねの先の一段目。おわりの気持ち。私から、あなたに向けた初めての願いだと、振り返れる今なら思うのだ。
大人になった、今なら。
不器用な大人になってしまった、一人の少女がいて。
大人として導くことを諦めてしまった、一人の男がいて。
そんな二重星は、巻き込んだ数多の星を繋ぎ合わせて。
白鳥となり、舞い戻るのだ。墜ちた空は、まだ青いと示すため。