完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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『チーム』

「ほらスカイさん行くわよ、食堂」

「はいはーい。グラスちゃんも行こ~」

「そうですね~、参りましょうか~」

「……相変わらずしゃきっとしないわね、あなたたち……」

 

 そんなふうにすっかり慣れた掛け合いをして、いつもの三人で食堂に向かう午前中の授業のあと。「いつも」とは言ったけど、あの日三人で初めておしゃべりしてから今日まで大体時間にすれば一週間くらいってとこかな。

 キングに引っ張られながらグラスちゃんと一緒にのんびり席を立ちあがるのも、もうお馴染みといった感じ。

 とはいえそうやって新しい環境に放り込まれても、時間をかければそのうち慣れるもの。もちろんそれは私やこの二人だけじゃなくて、この教室にいる全員にそれぞれの新しい日常がある。ちょっとした変化の積み重ねを、すべての人が経験している。

 それは今教室を出て食堂へ向かう瞬間にも、これまでのほんの一週間の間にも何度も思っていたこと。ほんの少しずつ、だけど確実に変わっていく。

 端から端まで一人一人が、そんなありふれた変化と成長を遂げている。当たり前のことだけど、それは何か素敵な気がした。

 急いでいたら見過ごしてしまいそうな、きらきら光る一粒の青春。それをみんなが持っているのだと、そのことは素敵な気がした。我ながら結構なロマンチストだけど、口に出さないぶんには許してほしいな、なんて。

 そんなことを一人こっそり考えながら、今日も三人並んで食堂に行くのだった。それだけでも十二分に学園生活を満喫してしまっているなあ、なんて思いながら。

 いつも通りの日常なのに、いつも通りだからこそ気持ちが上向く気がした。

 それは正午とちょっとの時のこと。まばらに揃う六つの足音が、食堂までの慣れたルートを進んでいた。

 

「そういえばグラスさん、スカイさん」

「何?」

「何でしょう」

 

 そしてこれまたすっかり慣れた三人での食堂。当然食事中の会話くらいあって、今日話題を切り出したのはキングだった。最初に食堂で三人揃ったあの日はあんなにぎこちなかったのに、そんなのすっかり忘れたみたいに話し出す。

 まあそれに今更突っ込まないくらい、そのこともお馴染みだ。そうやって慣れて、そこに親しみが生まれる。慣れ親しむとは文字通りそういうこと。なんかいいなあ、やっぱり。今日のお昼はなんだかどうでもいい感慨にふけりがちかもしれない。

 本当にどうでもいいことだから、こんなことにいちいち喜びを感じていたらきりがないんだろうけど。

 変化が馴染んでいく感覚は、何物にも代えがたい。そう、思った。

 そう、思ったんだけど。次にキングが発した言葉で、哀れ私のしんみりした気持ちはわた雲みたいに吹いて飛ばされることになる。

 そんな話題を切り出しやがって、参るなあ。

 

「二人もそろそろ、どこのチームに入るか決めたのかしら?」

「キングちゃんはそういえば、さっきの休み時間に加入届を書いていましたね」

「そう! 一流は決断の早さも一流なのよ!」

 

 ああ、その話か。……ああ、その話ですかあ……。

 キングが今日切り出したのは、当たり前だけどこれくらいはしっかりしなきゃいけない大切なこと。このトレセン学園での生活には欠かせない、「チーム」というものについてだった。そりゃあセイちゃんだって、その存在と重要性くらいは知ってますよ、ええ。

 私たちトレセン学園のウマ娘は、トゥインクル・シリーズに挑戦するためにチームへの加入を必要とする。トレーナーと呼ばれる指導者の下に、いくらかの担当ウマ娘が所属することで成立するのが、チームだ。チームを代表するトレーナーの元で指導を受けたり、同じチームのウマ娘と合同トレーニングしたり、そういう実践的な練習の中心となるのがチーム。

 なによりトゥインクル・シリーズへの参加条件というのもあるけれど、このトレセン学園という場所で己の走りを鍛えるためにはチームに所属する恩恵は大きいし、それならばなるべく早くその恩恵を享受するために、さっさと自らの所属するチームを決めるに越したことはない。

 それにしてもキングはもう決めたんだ、流石。まあそりゃキングなら引っ張りだこなんだろうというのはあるけれど、そこで決断が速いのはキングらしさだよね。

 そしてグラスちゃんは……どうなんだろう。いやまあ、想像はつくけど。

 

「私は、チーム<リギル>に入ることに決まりました」

 

 グラスちゃんも、チームを決めた。その早さ自体はやっぱり、って感じ。グラスちゃんは私と同じのんびりゆるーい人種だけど、そういう真面目なことに関しての真剣さはキング以上、みたいなところあるし。ということは残るは私だけ。

 私がいやあ日常はいと素晴らしきかな、とか浸っているうちに、ちゃんとこの二人は次のステージに進もうとしている。それはまあ、ちょっと焦りを感じなくもない。

 そんな私の何やらより大事な情報が、今グラスちゃんの口から飛び出したけど。グラスちゃんが自らの加入したチーム名を述べたのには、流石にそれなりに意味があるのだ。

 

「<リギル>って……いいえ、グラスさんなら当然と言うべきかしら」

「ありがとうございます、キングちゃん。<リギル>のトレーナーさんから声をかけていただいたので、運が良かったです」

 

 チーム<リギル>。七冠ウマ娘シンボリルドルフさんを筆頭に、学園の有力ウマ娘が軒並み集う「最強」のチーム。勿論トレーナーさんもそれに見合った優秀な人で、そのトレーニングはとても実践的らしい。私みたいな庶民でもそのことは知ってるくらい、トレセン学園を代表するに相応しい有名なチーム。

 そしてそれはつまりトレーニングがきつかったり背負う期待や見合う実績が非常に重いものだとということで、私にはこれっぽちも縁がないチームということでもある。最強を掲げるという点でも、二重三重それ以上に。

 

「すごいなあ、グラスちゃんは」

「まだスカウトしてもらっただけですから〜。それに期待されるということは、その期待に応えねばならないということ。今まで以上に、日々是鍛錬、ですね」

 

 期待を背負う。過酷な研鑽が待っている。そこで闘志を燃やせるのが、グラスちゃんの本当にすごいところだ。私には期待を背負う感覚すらわからない。その世界は、やっぱり遠い。

 同じ立場に立ったとしたらなんて、そんなもしもを考える意味も感じないくらい。

 じゃあ、私は。私の立つ場所は、いったいどこにあるんだろう。おもむろに、そう思う。

 そしてそんなふうに私のことを気にしているのは、気にしてくれるのは私自身だけじゃないみたい。他人事みたいにばっかり喋ってたのを見抜いてか、キングがちゃんと詰め寄ってきた。

 本当、妙なところで鋭いね、君。

 

「そういうスカイさんは」

「いや〜、私は」

「チームに入らないと、レースにも出られませんよ?」

「それはもちろん、知ってるけどさ」

 

 グラスちゃんにも追撃を食らう。とはいえあくまで真っ当な言いつけ方というか、私がどういうやつかなんてことまでは暴いてはこない。

 チーム選びについてどのチームにするか悩んでいるというより、考えることそのものを避けている、そんな私の本質は。そんな指摘は、飛んでこない。それは友達故の優しさというやつか、あるいはそれくらい言わなくても自分でわかっているだろうという厳しさか。

 でもこの二人に相談しても、真面目な回答しか返ってこない気がする。練習のキツい真面目なチームを選ぼうという回答しか。

 それはまあ、正論ってやつだけどさ。私はあいにくそこまでの覚悟はないのだ。ちゃんと頑張ってちゃんとトゥインクル・シリーズを走って、ちゃんと期待に応えようなんて覚悟は。

 

 やっぱり、怖いから。期待を向けられうる場所に立って、期待を受けるほどの価値がないと断じられるのは、怖いから。

 

「私、セイちゃんと走るの楽しみにしてますから」

「あはは、ありがとー」

「いい、スカイさん。最後に勝つのはこの私、キングヘイローよ! ……だから、ちゃんとレースに出れるようにくらいはしておきなさいな」

「キングもありがとー」

「相変わらず締まらないわね……」

 

 なんとかかわしたけど、二人からの圧を感じる。早くどこかのチームを探さないと絶交されてしまいそう。それならやっぱり、早く私もチームを決めなきゃいけないのかもしれない。

 それはやっぱり友達に置いていかれそうなことへの焦りかもしれないし、とりあえずの逃げかもしれないけど。

 それでも、二人の言葉でまた少し前を向いた。「一緒に走りたい」、そう言われて悪い気はしないから。名家のお嬢様とクラス一番の注目を集める屈指の有望株、そんな活躍を約束されたような二人に、「一緒に走りたい」なんて思われているのなら。

 そんなのは友達だからってだけで、そこにきっとあるはずの才能の差なんて見ていないんだろうけど。それでも、だからこその言葉だった。

 トゥインクル・シリーズで、一緒のレースで走りたい。それはきっとうっすらかけられた、期待に近いものだから。

 だから、ちょっと探してみようかな、チームってやつ。二人と同じように、二人に見合うように。そんなに真剣には選べないけど、同じ場所に立つ準備くらいはしよう。

 まだ曖昧なままの私の気持ちが、いつかまた色合いを変えるかもしれないから。

 二人に負けたくないと、そう心の底から思えるかもしれないから。それは今は思えていないことだけど、いつか。

 いつか、みらいにとべたあと。

 そんないつかの本番の前の仕掛けと思えば、やる気のない私でも少しは頑張ってみれるかもしれない。そう思った。また少し変化を促す、日常の中の一幕だった。日常の枠をはみ出さないからこそ素敵な、私の好きな時間だった。

 

 

 

 

 

 

 放課後学園内を散策すると、そこかしこにチームメイト募集のチラシが貼ってある。ちゃんと私がそういう目で探してみると、あっさりすんなり目に留まるものである。

 ……多すぎるくらいに。一枚一枚の張り紙がどれもこれもやる気に満ち溢れていて、見ているだけで眩しくて目がやられそう。

 しかしここまでたくさん候補があると、それはそれで問題ではある。一つくらいしか私を拾いうる候補なんてないと思っていたから、こんなに(もちろん私を求めているんじゃなくて誰でもいいんだろうけど)募集があるとは思ってもいなかったというか、やっぱり考えてみることを避けていたというか。

 となると本当に想定外で、すなわち何の情報も集めていない。何の情報も集めていないので、何を基準に選べばいいやらわからない。釣り初心者がロッドやらリールやら仕掛けやらの組み合わせの豊富さに右往左往するのと同じである。

 ……と、そこで少し前の記憶に行き当たる。そうだ、あの時はあまりに適当に会話を流すことに精一杯で忘れていた。そのあとのひと悶着も含めて、うっすらと若干嫌な思い出を引っ張り出す。あの正論男から聞き出した、練習が楽なチームがあるじゃないか。

 えーと、確か名前は……。

 

「チーム<アルビレオ>、加入募集してまーすっ!」

 

 溌剌とした声が、校舎の外から私のいる廊下まで聞こえて来る。チーム加入を呼びかけるのにぴったりな元気いっぱいの声に、チームを探している最中の私の耳は条件反射的にピクリと反応する。ただし、本当に何の心当たりもなく耳に留めたわけでもない。

 当然今聞こえたのは知らない声だけど、問題はそのチーム名。

 そう、聞き覚えがあるぞ。チームについて何の情報も仕入れていない私が唯一覚えているチーム名があるとしたら、入学式の日の会話以外に情報源はありえない。

 確かあの男から練習が楽だと聞いたチームの名前はアル……なんとかだったはず。そこまでは確かに覚えていて、<アルビレオ>という名前は初めて聞いた気がしない。

 あいも変わらず曖昧な記憶なのは許してほしいのだが、ちゃんと閉じた記憶をひっくり返すきっかけがあったのだからセーフなのだ。悩んでいた時に私におあつらえ向きのチームの勧誘を見つけるなんて、ああ、これこそ運命かも! 

 善は急げと、入部を呼びかけているウマ娘の方へ向かう。

 グラスちゃんと同じ栗毛だけど、少し明るい髪色かも。そして雰囲気もそんな感じで、明るい。背も高くて背筋がぴしっとしてて、そしてその姿勢の良さがしっかり厚みがあって体格のいいこの人の姿をひときわ大きく見せている。会話すらしていない初対面未満なのだが、頼りがい、みたいなのを感じさせるかも。短すぎず長すぎずでさっぱりとした感じに整えられた、そんな髪の毛の隙間から覗くおでこも眩しい。まだ名前だって聞いていないのに、色んなところで既にちょっとした好感を抱いてしまいそう。

 総じて私が受けた第一印象は、爽やかで朗らかで親しみやすそうな人。まあ、チームの勧誘には適した人材だよね、それにほいほい釣られている私という存在がそのことを実証している。

 というわけでそんなふうにちょっと遠くから観察したあと、私は外で大声を張り上げ続ける彼女に徐々に近づいて話しかける。そりゃ少しは勇気というか思い切りは必要なんだけど、それでもそういう気持ちにはさせられてしまったから。なんとなく、の範疇は出ないけど。

 まあそれにせよなんにせよ、恐る恐るながら第一声をどうするか考えているつもりだった。

 ……つもりだったんだけど。

 

「あ、もしかしてあなた、私たちのチームに興味ありますかっ!?」

「……あ、はい。はい。まあ、一応」

「ありがとうございますっ!」

 

 あちらから先に、若干食い気味に。第一声を待ち構えていたのは向こうと同じというわけか。でも勧誘なんてこれくらいじゃなきゃやっていけないんだろう、きっと。

 この人のやる気の満ち溢れ具合からすると、練習の緩いチームとはいえ、それくらいの気概はあるってことかな。まあやっぱり、私ならそれくらいがいいのかも。練習は緩いけど不真面目を極めたとはいえない、それくらいの曖昧な塩梅が。

 そう、結局私は締めつけられるのを好んでいない。心の底からすべてを情熱に燃やすことを望んでいない。……まだ、その勇気は出ない。あ

 れだけキングとグラスちゃんに感化されてなお、もうすっかり遠くなった気がするあの正論男の言葉を覚えたままで、なお。

 たとえ私の心の奥底にある願望が、あんなふうにいのちを懸けられるようになりたいという羨望だとしても。

 それは羨望だから、私の手には届かない。

 はるか昔に諦めて、僅かスタートラインから半歩ほどで止まったままの、私には。

 だから今のチーム選びも、やっぱり確固とした決断と呼べるものではないのだろう。とりあえずいつもの私で、そんな心持ちで行くならハードなトレーニングなチームは嫌だなあ、くらいの気持ち。今できたばかりの日常をそれなりに大切にしてしまっているから、またここで止まってもいいや、変化はあまり要らないや、そういう甘え。

 私の浅い考えの正体はそんな子供じみた駄々だと思うと、胸の奥がちくりと痛む。だって目の前にいる人は私の存在に、こんなにも嬉しそうで。

 少なくとも今、私を全力で見てくれているのだから。

 

「私は高等部のナリタトップロードといいます。以後よろしくお願いします! よければあなたの名前も聞かせてもらえますか?」

「私は中等部のセイウンスカイです。以後よろしくかは、まだわかんないですけど」

「わわっ、そうですよね。すみません、つい」

「いえいえ。よろしくお願いしますね、ナリタトップロードさん」

 

 しっかりまっすぐ、後輩相手でも礼節は崩さない感じ。まともにトレセン学園の先輩と話したのは初めてだけど、話しやすいしいい人そうだとは思った。もし同じチームに入るとしたら、そういうのも重要だろう。こんなにも真っ直ぐな人の気持ちに、私なんかがちゃんと応えられるのかはわからないけれど。

 まあトレーニングが緩いなら、案外この人もそういう緩さは持ってるのかも。……今のところ、ひたすら真面目そうだけど。あれ、本当にまったり勢チームなんですよね。いやあ、そこはあやふやとはいえ己の記憶を信じるしかないか。……それに、なんというか。

 

「じゃあ、スカイちゃんがよければ、ですけど。チームの部室に案内するから、そこでトレーナーさんから話を聞いてみてください!」

「ぜひぜひ。よろしくお願いします」

「やったっ! と、こちらこそよろしくお願いします!」

 

 とまあこんな感じで、今更この流れを断ち切れる気はしないのもあるし。トップロードさん、しっかり勧誘は上手い。それにちゃんと受け答えしてしまってそれだけ丁寧にチームへの加入に誘い込まれてる気もするけど、歓迎されるのは悪くない気分になってしまうのだ。

 なんやかんやと言いながらそうやってちゃんと乗せられてしまっているのだから、我ながらセイちゃん、ちょろい。

 いやあ、シビアに見ないといけない時はそうしますよ? ただちょっと悩んでたところに偶然お目当ての方向性のチームを見つけて、そこから熱心にこんないい人感丸出しのラブコールを受けたらさあ、嬉しくはなっちゃいますよ、そりゃ。

 だから成り行きという感じで、了承した。

 チームの部屋に行って、そこでトレーナーさんと挨拶というところまで瞬く間に。そりゃあ加入するならなによりそのチームをまとめるトレーナーとの相性が大事だろう、うん。

 トップロードさんの態度からして悪い人ではないんだろうけど、ちゃんと直接話してみるのは大事だよね。

 というわけで、トップロードさんはくるりと踵を返して目的地へ歩き出す。そしてしっかり後ろを向いて私のことを確認してくれるので、ちゃんと望まれる通り着いていく。

 しばらくそのちょっと大きな背中に連れられて、連れられて。トレセン学園の外れまで、ひたひたと二人でレンガや雑草やけもの道の上を歩いて着いたところは。

 

「トレーナーさーん! 加入希望の子、連れてきましたよー!」

 

 薄暗い、小さな、空っぽの部屋。

 ところどころに埃が舞っていて、それなりにワクワクしながら来た私の気分を叩き落とすような、雑多に物の散らばった雰囲気のかけらもない部屋。 

 ここにこのチームのトレーナーが待ってるはずだったんだけど、ただただトップロードさんの声が空しく響いた。

 ……雲行きが怪しくなってきた、かも。いやいや、緩いチームならそれを主導するトレーナーさんの時間感覚も緩いのはむしろ当然?

 いやあ、どうだろ。やっぱり不安になってきたのは事実かもしれない。

 

「ご、ごめんなさいスカイちゃん。多分すぐにトレーナーさん帰ってきますから」

「いえいえ、どうせ暇ですしお気遣いなく」

 

 とはいえ必死におろおろしているトップロードさんを見ると、ここで帰ってしまうのはあまりにも酷だ。少し退却も考えたけど、私は鬼にはなりきれないや。だってこの人、いい人だし。

 別に待ってやる義理はなくても、私もなんだかんだで善良な人は見捨てられないくらいのお人よしなので、仕方ない。ああ、しっかりこの短期間で絆されている。

 まあいいか、今のところは問題ないもんね。

 

「えーとそれじゃあ、とりあえず座ってもらって、私が代わりに説明するしか……あ!」

 

 と、そこで。一瞬前まで慌てふためいていたトップロードさんの動きがぴんと止まり、真正面のこちらに向かって大きく手を振る。

 いや、これは私じゃなく、私の後ろに向かってだ。

 その安心したようなぴかぴかの笑顔からしても、そこでトップロードさんの言葉が中断された意図は明らかだった。それはつまり、待人きたりの意。

 このままずっと来なかったら流石に考えものだったけど、すぐにトレーナーさんが来て良かった。これで唯一の問題は解決、他にさしたる問題もないなら適当に話をしてこのままチーム加入まで──。

 

「久しぶりだな。セイウンスカイ」

 

 ──そこで私の思考はフリーズする。振り返らなくてもわかる、聞き覚えのある声。

 そして恐る恐る振り返った瞬間に嫌でも目に入ってくる、あの太い眉と白い歯。

 まあ他にも見覚えがあって、見覚えがあることそのものが私にとっては大問題で。

 そしてなにより、「久しぶり」。

 そう、新たな出会いをそれなりに楽しみにしていた、逆に言えばそれは大前提だったはずのチーム選びだったのに。

 

「歓迎するぞ、セイウンスカイ! チーム<アルビレオ>に!」

 

 ようやく、ようやく忘れてもいい頃だと思っていたのに。

 これ以上ないくらい嫌な形での、再会。

 偶然にしてはできすぎで、運命にしては悪趣味な、受け入れがたい二度目の出会い。

 入学式の日以来の長くて短い猶予を挟んだ、あの正論男との再びの対面だった。

 

 

 

 

 

 

 

「──と、一応<アルビレオ>がどんなところかって説明はこんな感じです。結局トレーナーさんの気まぐれも多いんですけどね」

「あはは、説明ありがとうございます……」

「それにしてもトレーナーさん、スカイちゃんと面識があったんですね! チームメイト集め、トレーナーさんもやる気あったってことですよね?」

「俺は少し話しただけだ。それで来てくれたのなら、セイウンスカイの方にやる気があったってことだろう」

「なるほど! スカイちゃん、これから一緒に頑張りましょう!」

 

 そしてそんな私からすれば本当に嫌で計画ぶち壊しの再会があったのに、そこからやっぱり、今更逃げられなかったのだ。私がトップロードさんの勧誘に誘われて着いてきて、ちゃんと現れたそのチームのトレーナーさんを交えてチームの概要紹介や方針の説明を受ける。

 それはこの男が現れる前からできていた流れだし、むしろまずいことに現れてからより強固になった流れだから。

 しかし、まずい。状況証拠は完璧だ。このチームに興味を持った理由づけとして、こいつがトレーナーなのは自然な流れに過ぎる。

 前にこの正論男と少し話して、それでその方針に興味を持って彼のチームに入ろうとした。誰がどう見たって聞いたって、この状況じゃそれしか考えられない。

 少なくともトップロードさんはそういう思い込みをしている目にしか見えない。

 まったく、私が入りたいのはこんな男のスパルタで暑苦しい真面目通り越してバカ正直を体現してそうなチーム(我ながら散々な言い草だけどそれくらい嫌なのだ)じゃなくて、練習が適度にのんびりしててゆるーいチームなんですよ、そうだと思ってトップロードさんに着いてきて……あれ?

 いや、もしかして。ここに来て、どうしようもなく手遅れになってから、私はとんでもない勘違いに思い至ったみたい。本当に遅いけど、ここがまず致命的なかけ違いなのか。

 トレーニングのほどほどなチームはどこだっけ、みたいなの記憶から引っ張り出す過程、そこからミスがあったのか。もしかして、もしかして。とりあえず、なんとなくを装って聞いてみる。私がその話を聞いた張本人、曰く緩いはずのチーム<アルビレオ>の、なぜかトレーナーを務めているらしい人に。

 ……大体なんとなく、もうこのチームが私の想定通りじゃないことくらいはわかっちゃうけどさ。それでも暫定、私が入ろうとしていたはずのチームの長に。

 

「あのー、トレーナーさん? この前あなたから聞いた練習の緩いチームって、なんて言いましたっけ」

「ああ、それなら<アルゲニブ>だな。ウチとは名前が似てるが、ウチの方がチームとしては上だ! 勝手ながらそう自負している」

「ああ……ありがとうございます」

 

 はい、確定。

 なんとも間抜けな結論で、最後のピースが嵌まる。ジグソーパズルに例えたら最後の一枚が足の裏に貼りついてたのに気づかず何時間も悩んでたみたいに、大間抜け。

 つまり、私がトレーニングのほどほどなチームの名前をアル……というのは覚えていたとおり。けど<アルビレオ>に聞き覚えがあったのはそこで伝えられていたチーム名ではなく、他ならぬこいつの自己紹介があったから。

 こいつがちゃんと自己紹介のタイミングで、チーム<アルビレオ>のトレーナーだと宣言してしまっていたから。とはいえ流石にそんなことに因縁をつけられるほど悪い頭は働かせられないし、こればっかりは私の落ち度。人の話をちゃんと覚えず面倒くさがって聞き流していたから、そこで記憶が簡単に混ざってしまった。

 私らしい曖昧さといえば至極その通りだし、それが生んだ自業自得で返す言葉もないのだが、今回ばっかりは少しくらい嘆かせてほしい。そんな微妙な記憶を頼りにした結果、最悪のルートにたどり着いてしまったのだから。ついついふわふわしてるのは生来の気性とはいえ、これほどの目に遭うほど悪いことだろうか。

 こんな奴ともう一度会うなんて、我が人生に生涯刻むレベルの悲劇的な出来事だ。しくしく、帰ったら泣きわめいてしまおうか。

 なんて嘆きは全く感知してもらえず、チーム<アルビレオ>の二人は意気揚々、私という格好の獲物の前にますます勢いづいていく。

 釣られる寸前の魚って、もしかしてこんな気分かな。

 

「それはそうとセイウンスカイ、よく来てくれた」

「今更、なんですけど。ちょっと喋っただけなのに、名前、覚えてたんですね」

「当然だ。走りそうなウマ娘の名前は覚えておくと言っただろう」

 

 僅かに話を逸らそうとしたのに、すぐさまそう言われて言葉に詰まる。揺るぎない黒々とした瞳は、つい数日前と何も変わらなかった。

 あの日の言葉は嘘じゃなかったんだ、なんて言いそうになる。

 それを直接言うには、まだ私が私を信じ切れていないってわかっているのに。

 そしてこの人がそんな噓を吐くような人じゃないことくらいは、もうわかっているのに。

 何も変わっていない。あの日会った、心底苦手な男のままだ。

 そして私の胸を締めつける、何もわかってないくせに私を捕らえる、そんなままだ。

 大人なんてどんな形でも完成されていて、おいそれとは変わらないものなのかもしれないけれど。でも、変わっていないのはそちらだけじゃない。その言葉を受け止める私の方も、きっとそれほど変わっていない。

 やっぱりこの男の言葉は、私を芯から揺さぶってしまう。無遠慮に、そのまま壊してしまいそうなくらいに。

 ならば、私は私を守らなきゃいけないんじゃないか。私はこの人とは何もかも違うのだ。二度の邂逅で痛いほどわかったんだ。だからこそあちらにとっては何気ない言葉をこちらが限りなく重く捉えてしまうだけで、寄り添われているから心に染み入るわけじゃない。

 むしろ、逆。どこまでも違うから、心無く心を突き刺してしまう。そんなのは互いのためにならない。私のためにも、あなたのためにもならない。

 だからやっぱり、避けるべき。

 この男がそういう選択肢を取れない大人なら、私の方から逃げさせてもらおう。

 ……そのはずだったんだけどなあ。

 

「それじゃあスカイちゃん、これ、加入届です!」

「え。その、まだ入ると決まったわけじゃ」

 

 この場における前回、すなわち入学式の日との差異は、トップロードさんの存在の有無。

 簡単に言えば二対一。そしてもうちょっと難儀な事情を話せば、こんなどうにもそりの合わない男よりは、明るくて優しいトップロードさんの頼みを断るのには罪悪感がある。

 いやでも、流石に「これ、加入届です!」は強引というか最早横暴じゃない? まあよくよく考えればこの男のチームの筆頭なんだから、それくらい押しが強いものか、ううむ。

 

「いいやセイウンスカイ、この部屋に入ったからにはもうチームメイトだ」

「なんですかそれ。流石に横暴でしょそんなの!」

 

 いや、やっぱりこいつの方が数段融通が利かないな。とりあえず両者に真っ当な突っ込みを入れてやったつもりだけど、両者全然堪えてる気配はない。それどころかじりじり詰め寄ってくる。部屋の前と、後ろから、私を完全に挟み撃ちにする体制で。

 部屋の扉、私の背後にはトレーナーさんが。部屋の奥、私の目の前からはトップロードさんが。じり、じり、ざり、ざり。

 私にできるのは最早、前と後ろにいる敵の様子を確認することのみ。

 この男の執念と情熱に燃えた感じの目もどうやってその二つを両立できるのかわからないし、気迫が常人の二倍三倍って感じで怖いし。トップロードさんのただただ期待と懇願を交えて訴えかけるような瞳も、そんな純粋で見てて気持ちのいいくらいの悲痛な視線があるかよって感じで、逃げづらいどころか目を逸らすのにも罪悪感があるレベル。

 ……少し考えた。

 策士セイウンスカイ、こういう面倒ごとから逃げるチャンスに関しては諦めが悪いので、わりかし脳みそをフル回転させて考えた。

 まさしく前門の虎、後門の狼。一人でも曲者な、しかも目的は同じなのにまるで方向性の違う二人についてどう切り抜ければいいのか、考えた。

 ものの見事に囲まれて、それでも付け入る隙はないかって、考えはした。

 まあだからとにかく、それくらい考えた。

 考えたけど。

 こりゃ、ダメだ。

 

 

 

 

 

 

 ちっちゃい部屋から解放されて、ようやく帰る頃には日が暮れていた。結局私は「晴れて」チーム<アルビレオ>に入ることとなった。そうしないと帰れない状況だったから致し方ない。

 まあ先述の通り何度か押し問答で時間稼ぎはしたんだけど、やっぱり時間稼ぎの逃げにしかなりませんでした、ちゃんちゃん。

 それにしても、入っちゃったなあ、よりによってこのチームに。帰路に着いて校門まで、そこまででも何度もため息を吐いてしまった。そりゃあ、悪いところって決まったわけじゃないけどさあ。

 もう今日私に対して何度も行われた必死の説得で十分わかったけど、トップロードさんはいい人だよ、本当に。ただそれと同時に大いに改めてうんざりするくらい身に沁みたのは、あの男は心底苦手で苦手でたまらないってことだ!

 そしてあの様子じゃトレーニングもキツそうだし、人柄以前にそれもどうしたもんか。

 なにはともあれ上手くやるしかない、そう考え直して寮への歩みを進める。

 まあ、実際その通り。とりあえず、ということにはしておくけれど、チームに入ったからには上手くやるしかない。キングとグラスちゃんに追いつこうと、こんな形でも並び立つことを選んだのは事実なのだから。

 きっとこの脚も明日からは、走ることに使うのだろう。いつかのあの日、諦めることを覚えたあの日以来に。走ることが諦めに繋がるとあの日知ったはずなのに、私はまた走り出す。

 失敗の再現だろうか。

 過去への未練だろうか。

 それとも他の、自分でも気づいていない理由だろうか。

 まあどうであれ私という存在はトレセン学園に入学し、そして走りにそれなりの夢を託すことを選んだのだ。そのことは既に決まっていて、今日の一歩も予想外ではあるけど想定外ではない。だからやっぱり、上手くやるしかない。

 与えられたものをどう活かすか、私が本当に思い悩んでいいのはそれだけだ。

 のんびり、ゆるーり。マイペースで、ほどほどの目立たない生き方。今の私が尊んでいるそういったものとは別に、どこかで私が欲しているものがある。

 認めてほしい、期待してほしい。

 そして、褒めてほしい。

 私自身が諦めて止めてしまった、昔の私の欲求だ。

 そしてそれを抱えている限り、私という存在の裏側はずっと子供のまま。いつか大人にならなくちゃいけない私は、それを表に出してはならない。変化と成長、変わっていく世界の見え方。その積み重ねは子供の私から離れるためのもので、いつかたどり着く場所で私は子供の私を捨てなきゃいけない。裏側からも、消し去らなきゃいけない。

 それなのに今この瞬間の歩みは、どこかで子供の頃の願望を肯定しているのだけど。でも向き合わなければこの痛みと憧れの混じった感情にどう決着をつけるべきかわからないというのなら、やっぱり、上手くやるしかない、かもね。

 コンクリートの上を夜風が吹き抜ける。道沿いの水面が月に照らされる。

 少しの間物思いに耽っているだけで、夕暮れは夜へと変わっていた。

 立ち止まっているのは脚だけで、思考と世界は巡っていた。

 時間の流れの存在は、常に何かが変化しているということを示している。

 五感すべてに、あらゆるものの変化が映る。

 そして私だって、変わってゆく。今日も変わった。明日からの日常には、チームのトレーニングという新しいものが加わる。そしてその変化を実際に私の肌で体感することで、きっとまた変わる。今までどこかに閉じこもっていた私は、産まれたての雛鳥のようにすべてのものから影響を受けていく。そのこと自体が良いか悪いかは、まだわからないけど。

 変化は全ていいことだなんて、言い切れないのはわかっているけれど。

 それでも。それでも変わることは怖くはない、そんな気がした。

 なんとなく、だけど確実に。

 強いて今の時点で、その理由を言語化しようと試みるのなら。

 何も、わからないから。

 それだけでいい。

 想像を超えるものほど、素晴らしいものはないのだ。

 違うこと、同じこと

 

 放課後。それは授業の終わり。放課後。それは学生が苦しみから解放される時。放課後。それはとにかく──とにかく大事な時間だったのだ、殊更私のような自由時間がいくらあっても嬉しい人種にとっては。

 毎日の学園生活の一区切り、安らぎに満ち溢れたそれはそれは幸せな時間だったのに。

 

「それじゃあセイちゃん、また明日ですね」

 

 そんな日も少し落ちて人もまばらになってきた教室で、グラスちゃんが私に今日のぶんのさよならを言う。

 とはいえ、この子は今から自由になるわけではない。授業が終わって、そうしたらそのまま寮に帰るわけじゃない。机から筆箱や教科書を鞄にしまい直すグラスちゃんがこのあとどうするか、それはわかる。 

 なぜって、トレセン学園の生徒の放課後なんて大抵そうなってしまうから。

 なぜって、他ならぬ私もそうだから。

 

「うん、また明日。ところでさ、グラスちゃんはまた今日もトレーニング? 噂のチーム<リギル>の、過酷で壮絶なトレーニング」

「ふふっ、それは言いすぎですよ~。でも、そうですね。今日もこれから、トレーニングです」 

「はあ、ご苦労様だねえ」

「それを言うならセイちゃんも、ですよ。チーム、決まってよかったですね」

「その言葉はありがたく受け取るけどさあ、今日も絶対大変だよ……」

 

 そう、私たちに、いやトレセン学園の生徒ほぼ全員に、放課後の予定は等しい形で存在する。

 座学を終えたあとの、己の肉体を鍛えるためのトレーニング。

 疲労の蓄積度合いという観点では、こっちの方がそれまでの授業より厳しいかもしれない。走って、合間の時間で走るための身体を作って、結局また走って。僭越ながら私もチームというものに入ってしまったので、どういうものなのかは身を以って知った。やっぱり私みたいなぐーたらには似合わない、ずいぶんかなりしんどいもの。

 本当、困った。まだ入って数日だけど、困っている。

 

「セイちゃんのチーム、<アルビレオ>、でしたっけ。それなりにハードなチームだと、小耳に挟んだことはありますね」

「いやあハードなんてもんじゃない……って言ったら絶対<リギル>ほどじゃないんだけどさ。でもまあ、ただハードなのとも違うよ。なんというかね、限界までひたすら追い込まれるの。たとえば同じコースを何周もして、チーム全員が音を上げるまで耐久勝負させるとか。トレーナーさん、人を苦しめるのが趣味なんじゃないかって疑うよ」

「まあ、それはそれは」

 

 口元に手を当ててその裏で少し笑うグラスちゃん。そりゃあグラスちゃんならあれでもしっかりやり遂げられそうだけどさ、私はそんなに気丈じゃないよ……。

 まあそんな感じでやはりというべきか、チーム<アルビレオ>の練習はキツかった。

 それもただきついんじゃなくて、愚直に何度も同じことを繰り返して体力と精神を絞り取ってくるタイプ。

 そう、そこがとにかく合わないところだと思う。私が苦手なものの一つ、ひたすら諦めずに頑張り続けろって根性論でできているところが。

 もちろん私の他にも何人かチームメイトは居るけれど、私含めてみんなトレーニング終わりにはヘトヘトだ。というか、ヘトヘトになるまで終わらせてもらえないのだ。

 <アルビレオ>のトレーニングと無間地獄との差は、日が暮れたあたりで打ち切られることくらいかもしれない。

 

「まあそれでも、いつか慣れるものですよ。身体はだんだん鍛えられるので、最初が一番大変ですから~」

「そういうもの、かなあ。いや多分そうなんだろうけど、今日も気が重いかも」

「心配しなくても、セイちゃんの身体はちょっと前よりだいぶんできあがり始めていると思いますよ。私は今日のトレーニングも楽しみですね~」

「……できあがり始めてる、かあ。それにしても羨ましい。私もちょっとくらい楽しみにしてみたいや」

 

 ちなみにそんな「羨ましい」人は我がチーム<アルビレオ>にもいて、それは誰かといえばトップロードさんのことである。なんというか聞く前から察していて、だから実際そうであると知っても驚きもなかったのだが、他ならぬトップロードさんが<アルビレオ>のリーダーらしい。ということはつまり、あのスパルタトレーニングにほぼ唯一適合できている人ということでもあり。

 毎度練習終わりにトレーナーさんがとびきりの大声でその日の幕引きを宣言するのだが、そこにこれまた負けず劣らずの大声で「お疲れ様です!」と付け加えるのがトップロードさん。もちろんしっかり汗もかいているし大きく肩を切らせて呼吸しながらなんだけど、それでも毎回気持ちよくトレーニングを〆るくらいの元気は残っているらしい。

 いや、残ってないとしてもむりやり元気を出せちゃうタイプな気もする。大概この人も、気合と根性が凄まじい。いやあ、やっぱり羨ましい。ただ一方で、そうはなりたくない気もする。

 ちょっと失礼かな。いやでもさあ、あれはどうにも眩しいよ。

 

「そうは言っても、グラスちゃんも大変でしょ、トレーニング。なんたってあの、チーム<リギル>だし」

「そうですね、大変でないと言えば嘘になってしまいますね。トレーニングメニューは綿密で、手を抜いたら必ず結果に響いてきますから」

 

 綿密に、一分の隙もなく練られたトレーニング。なるほど、それは確かに重要だけど大変だ。

たとえば<アルビレオ>のそれとは真逆だから。

 <アルビレオ>のそれには、理論というものが欠けている。たとえば今の私ならちょっとくらい手抜きを挟んでトレーニングを乗り越えているわけだが、<リギル>じゃそれは許されない。大変だなあ、他人事にしかならないけど。

 

「それはまあなんというか、今日も頑張ってね……」

「それはもちろん、です♪ 昨日の自分を常に超えるのが、<リギル>の理念ですからね~」

 

 鞄に最後の荷物を詰めながら、いつも通りのゆるっとした口調でそれに似合わない崇高な理念を述べるグラスちゃん。本当、この子は己を高めることに関しては全然妥協しない。

 改めてだけど、そこはグラスちゃんのいいところ。放課後の休息は今となっては刹那のもので、こんな練習に向かうまでの僅かな時間の語らいしかできない日ばっかりになってしまったけど。それでもその小さな時間で、また少し友達と心を通わせられた気がした。

 ……私のチームへの愚痴みたいなものは共感を得られず頑張ってね、としか言われてない気もするけど。そりゃあそうなんだろうけど、慣れるまでは大変だよ、どうしても。

 いやグラスちゃんも、慣れ切ってはないはず? そうなると努力の差なのか。それこそ私じゃ埋め合わせできない気はするのだが。

 

「じゃあ、私はそろそろ行きますね。セイちゃんも、サボっちゃダメですよ」

「はい、了解しました……。頑張ります、はい。グラスちゃんを見習って」

 

 なにより、今日もあの男に会うのかあ。結局それが一番の悩みの種で、一番慣れないというか、噛みあわないものだ。

 これ、どうにかなるのやら。

 致命的な差があるなら関わらない方がいいってわかっているのに、それなりに関わり始めている今がある。いっそ最低限の会話に絞って関わり合うのを避けた方がいいのかなあ、なんて思わなくもないんだけど。

 

「まあそうですね、私はちゃんとトレーニングは欠かしませんから。セイちゃんもなるべく、そうした方がいいですよ」

「それはわかるんだけどね。……はあ」

「ふふっ、そのうち、そのうちですよ。それに私は、<リギル>のルールに従ってるだけですから」

「へえ、どんなの?」

 

 そう問うと、いよいよ鞄を背負って教室の外へ向かおうとするグラスちゃんが、最後に一つ言葉を置いていく。短くシンプル、さも当たり前みたいに。

 

「トレーナーさんの指示には絶対服従。それが<リギル>の決まりです♪」

 

 そう言われてしまうと、かなり耳が痛くなってしまう。

 はっきり明言していないはずなのに、まるで私が自らのトレーナーに不満たらたらなのを見透かすみたいに、柔らかにぴしゃり。グラスちゃんはそのまま去って行ってしまったので、本当にぴしゃりと会話に結論を言い渡された気がした。

 うん、わかるよ。言いたいことは、わかる。そりゃあ最強チーム<リギル>の方針がしっかりしてないわけないし、それに従うグラスちゃんもまたしっかりしてるんだろうけどさ。着いていけば結果に繋がる、それならそうしない手はないんだろうけどさ。

 それでもそれ、すっごく大変だと思うよ……。

 グラスちゃんは見本としては完璧かもしれないけど、完璧すぎて参考にするには向かないか

もしれない。そんなことはちょっと思った。彼女の弁が正しいのもわかるけど、それはそれとしてそう思った。

 まあでも、トレーナーさんを無視するのは流石にやめようかな、うん。最終的には、そう思うことにした。そうして校舎を出て、ちょっとだけ影の射す青空の下に飛び出した。

 そんなグラスちゃんとのちょっとした会話を胸に秘めながら、今日も今日とてトレーニング。

 それがやっぱり、今の私の日常だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 校内の外れ、道のない道を慣れた足取りで向かった先に、もうすっかりその寂れた外見まで網膜に焼きついてしまったチーム部屋がある。ぎぎっと若干立て付けの悪いドアのノブを回してやると、相も変わらずの薄暗い空間が私を出迎える。

 これまた相変わらず埃っぽくて狭苦しくて、ちょっと苦手なのも否めないままの場所だ。グラスちゃんに釣られる感じで早めに出向いてしまったけど、こんなところにこんなに早く来なくても良かった気がする。なら外で適当に時間をつぶそうか、なんて考えた直後のことだった。

 ぎしり。人の気配と僅かな生活音に反応し、反射的に身体がそちらを向く。ぎこぎこ体重任せの音を鳴らしながら、部屋全体を見渡せる位置にあるパイプ椅子に座っている先客がいた。

 まあ、そんなふうにこの部屋を居心地よさそうに使える人間は一人しかいないので、薄暗い中でも見当はつく。

 このなんともいえない空間を悠々自適に満喫しているのは、他ならぬトレーナーさんだった。

 

「珍しいなスカイ、今日は君が一番乗りだな」

「こんにちはトレーナーさん。確かに珍しいかもね」

 

 それを言うなら、チーム部屋でゆっくりくつろいでいるトレーナーさんも珍しいと思ったけど。いっつも力が有り余ってトレーニング中の大声に全部を懸けてるって感じなのに、今は座って雑誌を読んでいる。じっくり、静かに。

 いつもが"動"なら、今のトレーナーさんは"静"だ。

 しかしそれにしても、トレーナーさんのこの姿は意外だ。その表紙までは角度で見えないけれど、そのサイズからして読んでいるのは雑誌か何か。

 つまり、趣味の本である。この人にも趣味とかあったのか、まずそのことが大いに意外である。いや、考えてみればこの人のプライベートなんてなにも知らないんだけど、あのトレーナーさんに息抜きという概念が存在するとは思いにくいというか。

 まあそれは実際今この瞬間にあるみたいなので、なにも異議を申し立てるつもりはない。むしろ、というか。ついさっきまでこの人とどう関わっていこうかなんて考えていたのに、そんなのとりあえずどうでもいい、というか。今私の中にあるのは、純粋な好奇心だけだった。

 いや、ほんの少しおちょくる隙を見つけた悪戯心もあるかも。

 どちらにせよ、聞かざるをえなかった。

 まあ、一人の世界に入っていたところを邪魔するのは入学式の日以来のお互い様だし、ね。

 

「何読んでるんです?」

「ちょっとした趣味の本だ」

「だから、その趣味を聞いてるんですよ」

 

 ぐいぐい、たまには押してみるのも必要だ。露骨に逃げるなら、そこはちゃーんと逃さない。押しつけはあなたも無意識でやることなんだから、これくらいはいいだろう。

 さてそんなことより、何を読んでるんですか? 無難にスポーツ、それとも意外なところでファッションとか。

 まさか、下世話な芸能ニュースなんかが気になるお年頃だったりして。いやあ大丈夫ですよ、それくらいで幻滅しないというか、そもそもそこまで好感度高くないですから。

 じりじりと詰め寄って返答を待つ。多分この人にこんなに興味を向けたのは、これが初めてだなと思った。もう答える前に表紙を覗き込んでやろうかと顔を動かすと、なんとしっかり私から見えないように隠してくる。それならちゃんと答えてくださいよ、まったく。

 というわけで大人しく待ちの姿勢をとると、しばらくしてようやくトレーナーさんが口を開く。躊躇いがちに恥ずかしそうに、万事休すといった感じで。

 若干そんな態度も楽しんでしまっていた節はあるけど、何とか吐き出させた。

 そしてやっとその口から述べられた、トレーナーさんの趣味は。

 

 

「……釣りだ」

 その短い三音節を聞いた私は、多分信じられないようなものを見る目でトレーナーさんのことを見ていた。釣り。トレーナーさんの口からそんなワードが出てくるとは。ある意味では一番予想外というか、想定からは一番遠い。

 だってだって、とりあえずなんにせよ軽くからかってやろうと思ってたのに。

 それどころじゃ、ないじゃないか。立てていたプランは全部波の先に流れていって、ただただ私の青い視線は驚嘆を浮かべていた。

 ……ほんの少し、喜びを交えて。

 

「なんだその目は。言っておくが、柄じゃないなんてのは聞き飽きて──」

「そんなことありませんよ! それより、こっちで有名なスポットとか教えてくれませんか?」

 

 トレーナーさんの言葉を遮ってまで、ついつい勢いよく食いついてしまう私。それくらいトレーナーさんの趣味が釣りだということにびっくりしたというわけだけど、トレーナーさんの方も私の勢いにびっくりしながらの返答だった。

 不意にとしかいえない形で、今までにない二人の会話が始まった。

 

「いやあそれは本当に初心者で、よく知らないんだが……まさか、君も」

「それはこっちの台詞ですって。トレーナーさんも釣り人だったとは、セイちゃんびっくりしちゃいました」

 

 本当にまさかまさかである。

 そう、私は釣りを嗜んでいるのだ。そしてトレーナーさんも、初心者ではあるらしいけど釣りを嗜んでいるらしいのだ。

 つまりここにいる二人は、どうやら同じ趣味を持っているみたいなのだ。不俱戴天の仇とすら考えていたはずのトレーナーさんと、初めて話が通じた。

 噛みあわないとばかり思っていたけど、何があるかわからないものだ。

 

「──ふーむ、なるほど……」

「そうなんですよ、釣りには作戦ってものが必要なんです。もちろん場所や天候や狙いに応じて臨機応変に、それが醍醐味なんですから」

「参考になるな……スカイの教え方が上手い」

「指導者たるトレーナーさんに褒めてもらえるとは、光栄でございますなあ」

 

 そんな感じで小一時間、初めての会話で盛り上がってしまった。今までどうしても消極的な私にトレーナーさんが会話を押しつける、みたいなのが常だったから、こんなふうに私から、私の方から言葉を重ねるなんてことは初めてのものだったのだ。

 もちろんレースとはまるで関係のない趣味の会話だけれど、そこから人間関係が発展した、というか。会話の内容より、会話の態度が重要、というか。

 あとからトップロードさんがこの部屋に来て言ったのは、私たちが二人きりで楽しそうにしているのは初めて見たということだった。「スカイちゃん、すごくいい笑顔でしたよ」なんて。

 それを見られてしまったのは結構恥ずかしいけど、トップロードさんが言うのなら間違いはないだろうとも思った。トレーナーさんに対するとびっきりの苦手意識が、この日以降少し薄れたのも事実だったから。

 もちろんやっぱり、性格は合わないけどね。

 ほんとに少しだけ見直したというか、もっとも意外な人と通じる話題を持てたのが嬉しかったというか、それくらいの変化だ。

 トレーニングが始まったら、頭の中に恨み節が湧いてくるのには変わらなかったのだけど。

 けれど、そうやって。やっぱりなんの驚きもなく、なんだかんだという感じではあるんだけど。今の生活、今のチーム、それらに対する私の感覚はまた変わっていった。

 どうしても憂鬱ではあるけれど、そこにあるつながりには微かな暖かさを感じていた。

 完璧じゃなくても、そう悪くはない。全部肯定できるほど熱心ではないけど、曖昧なりに前向きに取り組める。私と性格のまるで違う人との関わりも、さっぱり理解できない根性論たっぷりのトレーニングも、なんとなく抵抗が薄くなっていった。

 それらはきっと変わっていないけど、私の捉え方が少し変わったから。

 世界の見え方が、また色合いを変えたから。

 だから、これからもやっていけるかも。その日意外なつながりを見つけたことから始まって、その日から積み重ねた気持ちはそういうもの。少しずつ、日常に溶け込んでゆく。

 新しい日常から、「新しい」の形容詞が外れていく。

 なんてことを思い始めた。またこれも前に進んでいるんだ、そう思い始めた。思い始めただけで、確証なんて持てないけれど。

 果てない空が端の方から青に染まり始める、そんな予兆に近かった。

 やっぱり、未来はあるのかもしれない。立ち止まらなければ、その先になにかを見つけらるのかもしれない。私のこの先に何があるかはわからないけれど、目の前の道の存在くらいは信じていいのかもしれない。そう、思い始めていた。

 私は、そう変化していた。

 ──だけど、ここに一つ当然の事実がある。

 時間をかけて変わるのは私だけじゃなく、誰しもそれを経験しうるということ。

 近づいていくだけが、変化ではないということ。

 最初の印象から変わりゆくものがあるとしたら、それは彩りを増すだけではないということ。

 私はその日、それを知ることになる。

 そしてそれまでそのことに気づかなかった私は、やっぱり子供だった。

 本当はとうの昔に、同じことを経験していたはずなのに。

 他人のそれを見てしまうのはきっと初めてだったから、私はまだ子供だった。

 

 その気持ちは特別なものでもなんでもなくて、どれほど当人に傷をつけるとしても、どれほど人には負わせたくない想いだとしても、私だけのものじゃない。

 諦める、ということは。

 

 

 

 

 

 

 今日も何事もなく過ぎ去った授業のあと、だった。

 放課後、ルーティンと化したトレーニングに向かおうとした時、だった。

 もうすっかり慣れてしまって、どちらにも苦戦すれど苦悩はしなくなった、その実感すら身体に馴染んで見えなくなった頃、だった。

 若干整理されていない机の中から荷物を取り出し鞄に詰め込んでいる最中の私を、不意にキングが呼び止めた。

 でも、本当に私を呼んでいたのはキングじゃなくて。

 

「スカイさん、隣のクラスからお呼ばれよ」

「え、何かしたかな私」

「知らないわよ……あなたのチームメイトらしいから、チームの話じゃないかしら」

 

 そう言われて、扉際の私の席から廊下の方に目を向ける。……確かにそうだ。教室の前に待っているあの子は、チーム<アルビレオ>のチームメイトの一人。黒鹿毛の毛先を若干不揃いに伸ばしたショートヘアの、数度話したくらいには面識のある子だってことは知っている。

 とても真面目な子で、いつも一生懸命トレーナーさんの無茶な掛け声に応えていたのを覚えている。特別親しいというほどじゃないけれど、たとえば水分補給用のミネラルウォーターを手渡したら「ありがとうございます!」って気合の入った感謝を述べてくれる子。

 それなのに今日の彼女は、少し遠くのここから見るぶんにもなんだか元気がない感じ。

 それでそれほど親しくないはずの私に用があるというのは

 、ちょっと不穏だ。とはいえ無視するわけにもいかない。

 理由はまだわからないけど、頼られているわけだし、さ。

 

「教えてくれてありがとキング。ちょっと話してくるよ」

「今更だけど、あなたチームに入って変わったわね」

「ああそれ、グラスちゃんにも言われた。身体ができあがっていくって、正直不気味だよね」

「身体じゃなくて……まあいいわ、とりあえずいってらっしゃいな」

 

 思わせぶりに途中で言うのを止めて、気がかりだけ増やすなんて悪質だなあ。

 とはいえそれもそうだと思い、ゆっくりと椅子を立って教室の外へ向かう。私を待つ、チームメイトの方へ。立ち上がるのがちょっとだけゆっくりだったのは、あまり話したことのない相手との会話に少し緊張していたのかもしれない。

 あるいはこれから告げられる言の葉を、仄かに予感していたのか。

 人通りの多い放課後の廊下で向き合って、だけど互いに相手の瞳を見据えられるほどの関係性はなくて。それでも、彼女は絞り出すように。

 その間にあったものを沈黙の二文字で片づけるのはあまりに酷だと思うほど、耳から視線から指先まで全身で思い悩んでいて。

 だけどそれでも、それでも彼女から言い渡された言葉はこうだった。

 決意を込めた、選択は。

 

「わたし、<アルビレオ>を抜けることにしたんです」

 

 そしてそれを聞いた時の私の表情は、果たしてどんなものだったのだろう。

 その決断を、彼女が孕んだ苦しみと痛みを、どれほど推し量れていただろう。

 

「わたしじゃ、練習についていけなくて。もう無理です、限界です。しんどい、です」

「……そっか」

「だけどトレーナーさんにも、トップロード先輩にも言える勇気は、なくて。直接は、無理、で。卑怯だと思います。でもどうしようもなくて、どうしても、もう無理で」

「うん。それで、か」

「それで、私には。私には、セイウンスカイさんにお願いするしか、思いつきませんでした」

 

 あのトレーニングについていけない。無理だ。限界だ。もう、やめたい。

 わからなくもない話だ。あの練習はどうしたって厳しいもので、体力より気力を削られる。チームを引っ張るトレーナーさんとトップロードさんの熱量で、それに引っ張ってもらうことで成り立つものだろう。

 そしてそれなら、その情熱に着いていけない子がいるのはわかっていたことだろう。最初はあの情熱に惹かれて<アルビレオ>に入ったとしても、いつか自分がただ太陽に焦がれているだけだったのだとわかる。

 遥か天頂にあるそれを目指して翼を広げても、己の限界では眩い光に指先すら触れられずに焼け落ちるだけだということも、やがて。

 だから今日私にこの話題が回ってきたのも、きっと時間の問題だった。

 いくら憧れが強くても、そんな憧れの方から向けられる応援や期待が間近にあったとしても。あの人たちは眩しくて、自分とは違うって思ってしまう。

 そういうのはよくあること。

 いつかの昔にそうして諦めた一人が、他ならぬ私だから。

 けれど私にわかっていなかったことがあるとすれば、他の誰かも諦めうるということ。

 そしてなにより、私がその時真っ先に諦める側に立っていなかったこと、だった。

 

「わたしの代わりに、わたしの脱退届をお願いできませんか」

 

 そう言って彼女は、くしゃくしゃの脱退届をこちらに差し出す。

 捻じれてよれたその端に、乾いた涙の跡が付いていた。その気持ちに気づいてしまってから昨日までずっと、大いに悩んで泣いたのだろう。そして今日も、その決意の証を何度も何度も手のひらの中で咀嚼したのだろう。

 今、彼女は私に想いを吐き出した。ある程度誰かを選べる中、私に。

 ならここで私がかけるべき言葉は、どういったものなんだろう。

 むしろ何も言わずに受け取って、それで終わりにしてしまうべきかもしれない。

 あるいはそんなこと言わないでよ、と彼女の気持ちを鎮めて脱退を撤回させるべきかもしれない。この状況に対してはっきりした正解があるとすれば、そのどちらかを示すことだろう。

 下手なことは言うべき状況じゃない。その選択を尊重するなら慰めなんて無意味だし、否定するなら逆に心の限りを尽くすべきだ。どちらかが、真摯な対応。

 だって、諦めることは閉ざすこと。彼女がこの先を諦めるのなら、こちらからも閉じるかむりやりにでもこじ開けるかがきっと正しい。

 ……だけど。

 

「お疲れ様。私もわかるよ、その気持ち。非効率的な練習だなーって思うもん」

「そ、それは」

「ああいいよ、気を遣わなくて。気を遣わなくていいから、私に頼む理由が知りたいなって」

「……それは」

「練習に不満を持ってて、脱退届を出しても自分のことを止めたり怒ったりはしなさそう。それでも私自身は釣られて辞めそうにない、そう見えたから。だから私に頼みに来たんでしょ?」

 

 だけど、だった。私の正直な気持ちを話すとすれば、こうなるのだろう。気持ちはとてもよくわかるけど、私はなんとなく同じじゃないや、と。

 そんなどこまでもはっきりしなくて、真摯と呼ぶにはほど遠いだろう言葉。

 だけど嘘偽らざる、私の本心。

 やっぱり私には、正論より曖昧が似合っている。

 

「……すみません」

「謝らなくていいよ。もちろんトレーナーさん達にも。こういうのは誰が正しいとかじゃないんだから」

「私は、正しくないです。セイウンスカイさんのこと、都合よく使おうとして」

「それも含めて、謝らなくていいの。誰だってそういうのはあるからさ。なんで辞めそうにないと思ったのかは、ちょっと気になるけどね」

 

 それが私の、私なりに彼女にかけられる言葉だった。

 揺るがない正しさなんて、誰かを悪者にする必要なんて、ない。

 これは多分、経験則のようなもの。

 かつて私が諦めることを選んだ時、誰も悪くなかったから。

 善意で構成された世界だったから、自分が諦めるしかなかったのだから。

 そう思う気持ちは伝えたかった。伝えることが彼女にいい影響を与えるのかもまたわからないけれど、ちゃんと本心を伝えたかった。

 それが一番、彼女の勇気に報いることだから。

 けれど、最後に問うたのは確かに気になることだった。私をメッセンジャーに選んだ理由として、私が辞めそうにないと感じたからだと彼女は認めた。

 そう、確かにそれは自分自身でも不思議なことだった。あのチームを辞める人間がいるとしても、そんなのはやる気のない私からだと思っていた。

 私が諦めない側だと思われているなんて、予想外だった。

 そしてそんな私の素朴な疑問に対して、彼女はおずおずと口を開く。先程までより、少し落ち着いた口調で。飛び出したのは、また予想外の発言だった。

 

「セイウンスカイさん、頑張ってましたから。しんどくても、頑張りつづけてて」

「私より君の方が、ずっと真面目だったと思うけど」

「上手く説明できないんですけど、違うんです。何か、しっかりした芯があるというか。だから、その」

「いまいちしっくり来ないけど。なにかな」

 

 芯、かあ。私にそんなものあるのかな?

 でもそれが彼女の感じた、何にも取り柄のないはずの私にあるもの。私を彼女なりに見てくれて、だからこそ見つけてくれたもの。

 それなら、その言葉は受け取るべきだ。そう思いながら、次の言葉を促す。 

 そうして、彼女は自らの瞳の震えを押し留める。確かに、私の両の目を見据えて。

 

「セイウンスカイさんには、頑張りつづけてほしいです」

 

 そうか。……そう、なんだ。彼女の思いのたけは、拙くとも伝わった。少し離れた他者だからこそ、きっとその見え方は正しいものの一つだった。

 私、頑張ってたように見えたのか。いやいややっているつもりで、自分では上手く手を抜いていただけのつもりだった。

 真面目な練習なんてしてなくて、どこかで逃げを挟んでいるつもりだった。これからももちろん、そのつもりだった。

 変化と成長はあるとしても、私の軸はそういうところに置いたままだと思っていた。

 けれど、彼女は私に頑張ってほしいと言っている。

 頑張りつづけてほしい、と。

 私は頑張っていて、これからも頑張れると。

 私の軸は、そんなひたむきで伸びやかなものなのだと。

 そんなふうに、私を見ている。紛れもなく私に、期待、している。

 

「……わかった。うん、覚えておく」

「はい。もういなくなっちゃう、そんなに話したことのない人間の言葉ですけど」

「それでも、だよ。じゃあ、そろそろ大丈夫かな」

「はい。……その、本当にごめんなさい」

「いいのいいの、任された。上手く説明しとくから、気にしちゃダメだよ」

「……ありがとう、ございます」

 

 そうして、去ってゆく。その足取りが軽やかなはずがない。その歩みはどうしても重いだろう。

 だけど君の背中の荷物を、少しでも減らせていたなら。

 どんな形でも頼られたのだから、せめて後ろ髪を引く何かくらいは取り払えてやれたら。

 そう、思った。そう、祈った。

 空から落ちても、地上から星を見上げることはできますように。

 だってそれが、彼女が私に重ねた期待なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

「そう、ですか……ありがとうございます、スカイちゃん」

「いえいえ、私はお伝えしただけですから」

 

 トレーニング前の小さな部屋。若干薄汚れた窓から入る一筋の光だけが照らす静かな場所で、トップロードさんに彼女のことを伝えた。彼女から託されたくしゃくしゃの脱退届も、一緒に。

 できるだけ手短に、それでもその選択に込められた想いが無碍にはならないように、なんて二重に気を遣いながら説明をしたのだけど、やっぱりトップロードさんはそれなりにショックを受けているみたいだった。この人はそういう人だとわかっていたけど、こうわかりやすい反応をされるとちょっと罪悪感はある。

 無論誰も悪くなくて、だからこれはすべて受け入れるしかないのだけど。私の罪悪感の矛先も、己の口下手さを恥じるくらいにしか使えない。

 なにもかもが、どうにもならない終わったこと。

 そんな私に強いて祈れることがあるとしたら、誰も悪くないとだけは思ってほしい。

 トップロードさんもあの子も、自分に罪を被せないでほしい。

 それくらいの祈りなら、私でも届かせられるだろうか。

 

「あっ、ごめんなさい! こんなことじゃダメですよね、トレーナーさんには私が伝えておきます」

「トップロードさんがやりづらかったら、別に私が伝えますけど」

「スカイちゃん、ありがとうございます。でも──」

 

 そう言って、トップロードさんは私の手を取る。少し汗ばんだ、私よりも大きな手。

 だけど汗が滲んでいたのは、どちらの手も同じだった。

 他者に触れられて、ようやく気づいたことだった。

 私の心も、揺れていた。

 他者の苦悩を受け止めて、他者に祈りを捧げても。

 それでも、あるいはだからこそ、私自身も平静ではいられない。

 

「辛いことを一人に閉じ込めさせてしまうのは、嫌なんです」

「……そうですね。思ったより、私も辛かったかもしれないです」

「だから分担しましょう。そんな大層なことじゃないかもしれませんが、だからこそです」

 

 分担。分け合うこと。独りで抱えるものを、二人で抱えなおすこと。

 自分の荷物を他者に渡すことができれば、もちろんそのぶん己の負担は減るだろう。だけどそのぶん、誰かに重さを背負わせる。つまりそれは利己のために他者に負担を強いる行為で、私のように他人と距離を取ろうとする人間にはきっと実行の難しいことだろう。

 でも、誰かの方からそうやって手を伸ばしてもらえるのなら。

 優しさと親愛の込められたその手のひらを、私に握り返す権利があるのなら。

 手を繋ぐことを、望まれているのなら。

 

「トップロードさんって、いい人ですね」

 

 純粋な賞賛が口から漏れる。ただ純粋に、感謝さえ込めて。

 きっとこの人は、心の底から正しさを実行できる人なのだろう。踏み出すときも見守るときも傷つくときも、その人にとってもっとも正しいことをしてあげられる人。それは時に眩しすぎて、今日のように誰かの眼を焼いてしまうかもしれない。そのことが、彼女自身の信じるものがその身を苦しめることがあるのかもしれない。

 だけどそれでも、トップロードさんにはトップロードさんの正しさを諦めてほしくないと思った。正しいからこそ悩むとしても、正しいことを過ちとしてほしくはないと思った。曖昧さを尊ぶ私にそんなことを直に言う権利は多分ないから、心の中に留めておくのだけれど。

 

「いい人、ですか。そうだったらいいな、とは思いますけど」

「いい人ですよ。自信持ってください」

「ありがとうございます、スカイちゃん」

 

 そんな少しのやり取りで、僅かに互いの声が明るさを取り戻す。

 多分トップロードさんにも、トップロードさんなりの悩みがあって。そう、思った。

 あの子が言うほど、憧れとは眩しいだけの存在じゃない。そう、今更気づいた。

 あの子もいつか、そんな当たり前に気づけたらな。それが、最後に思うことだった。

 一つ、誰かが決断した。

 それは波紋どころか荒波さえ起こすのだけれど、誰もがそれを乗り越えられる。

 きっと思うことは人それぞれだけれど、だからこそそれぞれの未来があるから。

 

「よし! 練習を始めるぞ!」

 

 しばらくあとにトップロードさんが呼んできたトレーナーさんは、びっくりするほどいつもと変わらなかった。多分トップロードさんから脱退の話は聞いてるはずなんだけど、それくらいでは動じないということか、はたまた。

 この人はやっぱりわからない。この前の釣りの話をした時は、あんなに遊びがいのある人だったのにね。

 もちろんというべきか、トレーニングもいつも通り。いや、人数が少なくなった分キツくなった。ひいひい言いながらコースを走って、階段ダッシュして。相変わらずの根性トレーニングだけど、本当にこれしか知らないのだろうか。

 とはいえまったくメニューをいじらなかった心底いつも通りのスパルタなぶん、チームの中で脱退した子の話題が必要以上に盛り上がることはなかった。その余裕を奪ったということなら、この人は案外策士? いや、それは絶対ないな。

 それでも時折耳に挟んでしまうものはあったんだけど。辞めちゃったんだ、残念、とか。せっかく仲良くなれたのにな、とか。

 ……まあ、これもきっと彼女にとっての救いになるはず。聞こえるはずは、届くはずはないけれど、君のことは認められていたんだよ。

 だから、そこに軌跡は残るはず。忘れ去られてしまいは、しないはず。

 少なくとも一人、私は君を忘れない。

 ともあれ今日もトレーニングは終わり。トレーナーさんとトップロードさんの挨拶も済んでこれでお開き、となったところで。

 

「みんなお疲れ様! 俺は今日部屋でやることがあるから、みんなは着替えたらそのまま帰っていいぞ。荷物は先に取っといてくれ」

 

 チームのみんなが散らばり始める前に、夕日をバックにトレーナーさんが忠告めいたことを言う。トレーナーさん、やることってなんだろう?

 とはいえそんなことを気にするより、まずはシャワーを浴びたかった。まあいつも通り汗だくだし、今日は色々あったから落ち着くタイミングが欲しかった。

 つまり、チームの部屋より更衣室にしか目がなかった。だから私がシャワーを浴び終えたあとになってバスタオルで身体を拭いてる辺りで、一応言われた通りに先に荷物を回収したはずだったチーム部屋に忘れ物があることに気づいたのも、まあ仕方のないことだったといえるだろう。

 はあ、仕方ない。

 

(トレーナーさん、もう帰ったかな)

 

 少なくとも窓の外からは灯りの見えない、照らす太陽ももう浮かんでいないチーム部屋の前まで戻ってきて、そんなことを一人気にする私。部屋の壁に向けて聞き耳を立てるべきか迷ったが、もしそんなところを誰かに見られたら恥ずかしいので止めておく。普通に入って、まだ帰ってなかったら一言断って、忘れ物だけ取らせてもらおう。そんな感じで。

 ……いや、もしもうトレーナーさんが帰ってたら部屋の鍵は閉まってるんじゃないか? いや、その時はその時にしよう。とりあえず

 。

「失礼しまーす……」

 

 返事はない。灯りもついてない。人がいるのかいないのかもわからない。まさかあの男、鍵を閉め忘れてたりして。まあそれならそれでよし(ほんとはよくないけど)さっさと忘れ物を取って、明日何食わぬ顔でえー鍵締め忘れたんですかみたいな感じで──。

 どしん。そう思ってすぐに目的だけ果たして帰ろうとドアの前から少し動いたら、目の前の何かにぶつかった。いやこの感触は、何かというより誰か──人の身体の感触。

 まあもっと言うなら、答えは、人影の正体は一つなんだけど。

 

「おお、スカイか」

「トレーナーさん、灯りくらいつけましょうよ」

「すまない、忘れていた」

「忘れてたって、何してたんですか?」

「ちょっとな」

 

 そうやって肝心っぽいところで答えを濁すのは、なんとなく親近感。やること、なんて嘘っぱちなのも含めて。こんなところにも、私と同じところが。

 だからそこは問い詰めないでおく。情けというより、同類のよしみだ。

 

「トレーナーさん。理由がなんにせよ、暗いところに一人でいるのはよくないですよ?」

「俺は大人だからいいんだ」

「大人ですかあ。私とは違いますね」

 

 大人と子供。トレーナーと担当ウマ娘。その差は私とあなたでわかりやすく違うことで、他にもたくさん違うところがある。

 だけどそれだけではなくて、同じところもある。たとえば釣り好きなところとか、困ったら誤魔化すところとか。そして、今日あった出来事を深く深く受け止めてしまうことも。

 灯りもないような部屋の中だけど、ちょっと顔が近いからその表情くらいは読み取れた。一人で抱え込もうとしてしまっているだけで、この男の人は今日ずっと思い悩んでいたのだ。自らのチームからの、脱退者。それをやっぱりこの人らしく真摯に捉えて、こんな小さな暗い場所に閉じこもって。

 ……そんなふうについつい他人事にできないのも、私と同じこと。

 

「セイウンスカイ」

「なんですか?」

 

 前触れなく名前を呼ばれて、ちょっと尻尾がぴんとなる。

 続く言葉はもっと前触れのない、唐突なものだったけど。

 

「頑張れ。努力は無駄にはならない」

「なんですか、急に」

「諦めるなってことだ」

 

 またいつもの根性論。頑張ればできるから諦めるな、そんな正論。

 けれど今なら思うのは、彼もまた正しくあろうとしてるだけかもしれない、ということ。

 だって今日、彼のその信念とも呼べるものは揺らいだのだから。

 愚直な努力をさせていたことこそ誰かの心を折ってしまった、そう思ってもおかしくないことがあったのだから。

 けれどそれでもなお、私にそうあれと告げるのなら。

 それは正しくあろうとする、この人自身の願いの結晶で。

 そしてその正しさを証明してほしいという、私への祈りと期待なのかもしれない。

 その両面。コインの裏表ほどかけ離れた二つではないけれど、素直に二重の気持ちを込められるのも、悪くない。

 

「トレーナーさんは、大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。心配要らない」

「そっか。それなら私も、心配は止める」

「心配してくれてたのか?」

 

 その言い回しはずるい。心配してました、なんて素直に言うのは照れ臭いじゃないか、柄でもないし。だからそれを引き出そうみたいな台詞は、意図してなくてもずるい。

 

「まあ、ご想像にお任せします。それよりそろそろ帰りましょ」

「……そうだな」

 

 ずるかったので、誤魔化してやった。まあ私たちの関係は、まだそれくらいでいいだろう。

 やっぱり苦手で違うことばかりで、けれどだからこそ同じことを見つけたらちょっと寄り添ってやる。支える手は伸ばさないけど、察するくらいはしてあげる。今は、それでいいのだ。

 

 

 そうして二人で、真っ暗だった部屋を出る。

 澄んだ夜空が、私たちを出迎えた。

 真っ暗な空間から、同じく真っ暗な空間へ。

 

 それでも二つの場所で確かに違うのは、そこに見えている世界の広さなのだ。

 

「トレーナーさん、何処まで着いてくるんですか?」

「暗いところに一人でいるのはよくないからな。寮までは着いていく」

「なるほど」

 

 校門を出てしばらくしてもトレーナーさんが着いてくるままなので疑問を呈すと、さっきの意趣返しみたいな返答が返ってきた。まあそういう軽口を言えるくらいまで、あなたの元気が戻ったのならなによりだ。トレーナーさんはいつも暑苦しいのだから、たまには暗いのもいいかもしれないけど。

 

「トレーナーさん」

「なんだ」

「私、頑張りますよ」

「そうか。努力は裏切らないぞ!」

 

 それでもやっぱり、その元気な返事に安心感を覚える。そうやっていつも通り、私の嫌いな根性と正論ばかりのあなたに。

 常にそう正しくあろうとする彼の言葉は、きっと分厚く本心を覆い隠しているのだろう。肝心な答えは濁すし、いつも自分が言いたいことじゃなくて言うべきことを言おうとしているのだろう。そしてそうだとすればそれはきっと、どこかの芦毛のウマ娘と同じ。

 尊んでいるのは正論じゃなくて平穏だけど、私たちは似たもの同士だと。

 同じものが、あるのだと。改めて、そう思う。また一つ、世界の見え方が変わるのだ。

 

「それじゃ、見送りありがとうございました」

「ああ。明日も頑張るぞ、スカイ」

「もう明日の話ですか? 明日の話は明日でいいじゃないですか」

 

 気が早いというか、休むことも考えないくらい活力にあふれているというか。そこはやっぱり違うことかも。

 でも、だからこそなのだろう。違うこと、同じこと。その二つの交わりが、人のつながりに意味を持たせてくれるのだから。

 

「それもそうだな。じゃ、また明日」

「はい、また明日」

 

 結局トレーナーさんは私の寮の目の前まで着いてきて、ここからトレーナー寮まで一人で帰るのは大変そう。まあでも、「また明日」。

 それを互いに言えたことも、今日の一つの価値かもしれない。

 決して前向きなことだけではない日々だけど、それでもこうして進んでゆくのだ。

 来た道を帰る彼がこちらを振り返らなくなるまでずっと、私は手を振っていた。

 そして多分その時、互いに微かな笑みを浮かべていた。薄い薄い、三日月よりも微かで透明な。

 だけどきっと、初めての。あなたが笑顔を浮かべたとき、応えるように笑顔を向けたのは。

 同じ。鏡で映したように、同じ。

 二人で同じ表情を交わすのは、疑いようもなく初めてだ。




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