独りぼっちの控室から出ていくのには、なかなかの時間がかかってしまった。理由は大きく分けて二つあるけれど、どちらも情けない愚か者の言い訳だ。
今の私にお似合いの、最高に「私らしい」逃げ方だ。
外に出るのが怖かった。あれだけこっぴどくトレーナーさんを拒絶しておきながら、もし待っていたらどうしよう、と思ってしまった。たとえ私を待っていなくても、トレーナーさんは私の応援に来てくれたチームのみんなをどうせ待っているはずだろう、と気づくのには少し時間がかかった。あの人は私だけのトレーナーではなく、チーム<アルビレオ>全員を支える大人なのだと、特別ではない当たり前に気づくのには。私は当たり前から外れて特別ではなくなってしまったとしても、他のみんなのために待っているのがあなたの在り様だと気づくのには。
そんな自分の視野の狭さに気づいて情けなくなって、もし私以外を待っているのならなおさら外には出ていけないとみっともなく他人の顔を恐れてしまって。情けなさとみっともなさで、矮小な己にぴったりの縮こまり方をしていた。
トレーナーさんは、私のことを誰かに言ったりしないだろう。そしてチームのみんなは、トレーナーさんの態度から何かを察するとしても決して触れはしないだろう。
私が姿を現さない限り、問題は表面化しないだろう。だから、出ていけなかった。皆を困らせないために、出ていけなかった。今更、他人を慮る。そんなそぶりを見せる私がいた。
いや、正確には違った。正確にはそうやって私を確かに待つみんながいるとしたら、そう考えてしまったからだった。私に向けられる目を見てしまった時に自分がその眼差しに耐えられないのが嫌で、出ていけなかった。結局、自分のため。私という大人は、他人のためには生きられないのだから。
外は広い。大人の世界は今始まった。生まれたばかりの大人には、知らないものがたくさんある。そこに存在する未知に触れるのが、怖い。今の私が過去に作ったつながりにどんな感情を持ってしまうのかが、怖い。
そういう理由で出ていけなかったのが、一つ目。外に出て見知った顔を見つけて、もしかしたら駆け寄られて。そんなふうに誰かから想いを向けられることを、大人の私は受け止められなくて。そして、そのまま。そのままきっと、どうにもならなくて。
寂しくなるのが、怖かったから。今つながりを再確認すれば、わかることはそのつながりが過去のものだということだけ。受け止めてしまっても拒絶してしまっても、必ず私は独りになる。つながりから置いていかれていると、大人になってしまった現実を理解する。
それは怖い。だから逃げている。その選択をしたのが、今の私だ。弱くて情けなくて、でも誰にも頼れない。かけ離れてしまったのなら、せめて緩やかに離れていきたい。
願うことはただ一つ、独りは怖くても独りになりたい。哀れな願いを抱えていたのが、今の私だった。大人の、私だった。
そして、理由はもう一つ。こっちはもっと、くだらない。過ぎ去った愛おしさを悔やむ資格もないと知りながら、それでも無為な時間を過ごす。私にとって過去は終わったものなのに、終わったものに想いを馳せたがる。救いようのない、誰にも見せられないくらいに拙い理由だ。
あのあと。トレーナーさんを拒絶した、あのあと。あのあとなんとか床から立ち上がって、私は着替えることにしたのだ。理由は当たり前のことで、そうしないと帰れないから。勝負服を着ていいのは、華々しいレースの間だけ。終わった私は、あるべき場所に帰らなくてはならないから。帰りたいなんて本当に思っていたかは、わからないけれど。私を出迎えてくれる居場所なんて、もうわからないけれど。
でも私は、控室の隅にある更衣室に入った。ちゃんと帰って、終わるために。人一人しか入れないくらい狭くて、入り口にはカーテンが敷けるようになってあって。中には鏡が置いてある、どこにでもある更衣室だ。今までレースに出る度、何度も入った場所の一つだ。更衣室に入る「何度も」も今日で終わりなのだと思うと、胸の奥で何かが蠢く感覚があったのは事実だろうけれど。けれど、私はそれを無視する。
だって、私は大人だったから。既に過去にしたものを、振り返る資格はないのだから。
一人きりの部屋だったけど、更衣室のカーテンは閉めた。いつも、そうしていたから。たまにトレーナーさんやらチームのみんながいる中で平然と着替えていたから、そんなふうなのが当たり前だったから。だから自然と、そうしてしまった。もう、そうじゃないのに。
汗だくの靴下を脱ぐ。ワンポイントのガーターリングを外す。すっかりくたびれた緑色のショートパンツを脱いで、ふう、と一息を吐く。勝負服のパーツを一つ一つ身体から外していって、何だかまた一つの儀式をしているような気分だった。さっきトレーナーさんに断絶を告げたのと同じような、意味合いのある行為。多分これもきっと、別れの儀式。今までお世話になった勝負服への、ありがとうとさようなら。
自分は酷い人間だと思った。物言わぬ相手には、相手に人格がないのなら何でも言えてしまう。あなたにはありがとうなんて、一言も言わなかったのに。他人を見据えるには冷たすぎて、無機物を無機物と断じるには弱すぎる。せめてあなたの祈りが込められた勝負服への贖罪が、代償行為になってはくれないだろうか。あるいはそんな願いを込めて、雲みたいな純白を抱いたままの勝負服を脱いでいく。無価値な私を、晒け出すために。
「……ごめんね」
そう言って、スカートの裾まで腕を交差させた。錆びた鉄屑のような、硬い芯が残っているだけの何の価値もない腕だった。そのままぐるり、と服をひっくり返すと、鏡には肌色の肢体が映った。薄くて平べったいお腹のあたりにも、肌の下にはしっかり筋肉がついているのが見てとれた。鍛え上げられていて、何度も勝利を重ねて。
けれどもう、終わった価値しか持っていない。役目を終えた、無駄な努力の集合体。
そんな身体だった。
たとえどんなに謝っても、布を織り交ぜたものでしかない勝負服からは、決して言葉は返ってこない。私を赦すとは、言ってくれない。でもだからこそ、この服には謝罪を述べられたのかもしれない。あなたに赦されないとわかったからこそ、私が赦しを乞うのは届かないとわかっている時だけ。そういう理由で今償いの真似事をするのなら、つくづく私は卑怯者だけれど。私に考えられるのはそういったとめどないマイナスだけだった。終わって閉じて、自分を苛む。独りぼっちの、大人のやり口。
そのまま、下着姿になって。早く服を着ればいいのに、私には鏡に映った自分の肌色塗れの誰にも見せられない姿しか頭になかった。あなたがくれた勝負服を脱いでしまえば、私はこんなにも貧相で、ちっぽけで。何にも、何にも持っていない。大切なものはすべて捨ててしまった。大人になるために、そうしてしまった。大人になったからって前に進めるわけじゃないのに、それでも痛みから逃げるため、私はそういう道を選んでしまった。痛みから逃げて、別の傷を負うために。
伸びているだけの脚、細くて折れそうな二の腕、脆さが剥き出しの丸い肩。
そのどれにだって、やっぱり一つも価値はない。周りに何もない私は、どこまでもみすぼらしくて弱い。着飾った強さを脱いで、強さを支えてくれた周りの人も追い出して。
そんな選択肢を取ったこれからの私は、ずっと弱いままで生きていくのだろう。弱さを隠せるだけの、それだけの役割を果たす薄い布を纏って。そういう服を、勝負服の代わりに身につけた。強さを見せるのではなく、弱さを隠してくれる「大人」のための服。
服を着るまでの僅かな時間、鏡越しの私自身だけが、穴だらけで弱い私を見つめていた。
全部の穴を布切れで隠す瞬間まで、はっきりと。
着替え終われば、勝負服に自然と目が落ちた。思い返せばこの勝負服は、私のトレーナーさんがデザインを考えてくれたものだった。私のために、あなたが願ったものだった。その想いがすべて、込められたものだった。だから私は、今までこれを着て走ってきたのだ。あなたのために、走ってきたのだ。あなたに、私の姿を見せるために。あの皐月賞の時から、ずっとそのつもりだった。最後に懺悔を捧げたのも、あなたの想いを脱ぐ瞬間までは背負っていたから。そう、だったから。
だけど、そうではなくなる。いや、もう既にそうではなくなった。終わってしまった。変わってしまった。私はあなたの期待を背負うことはない。あなたは私に期待することはない。失望を世界から消すために、他のすべての想いも消し去ったのだ。それなら、この勝負服も必要ない。勝負服は、想いを込めて走るためのものだから。想いも、走ることも、どちらももう今の私には怖いんだよ。大人の私には、怖くて怖くてたまらない。
……ならば勝負服をこの控室に置いていってしまうことも、可能だろう。
これからに着る機会はない。見たくもない。何の問題もない。私にはもう、捨てることしかできない。そうだ、そうするべきだ。私はあなたを否定したのだから、勝負服という願いの結晶は私が持つには相応しくない。この晴れ着は私の服だったけど、あなたのためのものでもあったのだから。あなたと私が一緒だと示すための勝負服であるならば、今はもう私にとって必要ない。私たちにとって、過去のものだ。
そんなふうに勝負服を、ただずっと眺めていたこと。かつて私だったそれを、変わってしまった瞳で見遣っていたこと。過ぎた時間に別れを告げられず、停滞するだけの足踏みで大切だった過去を踏み躙っていたこと。長い、長い時間を無為にして。そのことがもう一つの、私が出ていけなかった理由だった。惨めで愚鈍でどうしようもない、そんな理由だった。
けれど、最後の時は訪れる。きっかけはなんだったかわからないけれど、確実に。過去を踏み躙るのに飽きたのか、過去を取り戻すことを諦めたのか。どちらにせよある瞬間に前触れもなく、糸が切れたように手のひらの力は抜けた。固く握りしめてしまっていた手を離すと、ぱさりと勝負服が地面に落ちる。私の手から離れる。ふわふわとした雲みたいなそれが、空から堕ちるみたいに地面に横たわる。本当に、私のものじゃなくなる。そして。
そして、私は。
すっかり陽の落ちた外の空を見つめながら、私は吊り革にぶら下がって電車に揺られていた。びくびくしながら外に出て、トレーナーさんの車がそこになかった時、心底ほっとしたのと同時に、胸の奥がずきりと痛んだのを覚えている。その気持ちは一体、何様なのか。何の権利があって安堵と孤独を感じたのか、そんなふうに己に怒りを覚えたことも、忘れていない。
鞄の中の荷物は、行きと一つも変わらなかった。私は結局、勝負服を持って帰ってきてしまっていた。捨てた想いなのに、残滓にしかならないものを捨て切れなかった。多分、こうしたのも逃げなのだと思った。大切だからとか、やっぱり頑張りたいからとかじゃない。切り離す勇気を持てない、弱い大人というだけだ。大人になったばかりの私には、何も賢しい選択肢を取れない。無知で無能で、過去を捨てるか縋るだけ。
ガコンガコンと私を乗せた電車が揺れる。けれど車体が揺れる音自体は少しも電車の内側には聞こえなくて、代わりに私の耳に入るのは人々の会話。
疲れたとか飲みに行かないかとか、会社帰りの大人の会話。
取り止めもないけれど、聞き馴染んでいない喋り声だった。
そう、今は大人の時間なのだろう。私が今まで触れられなかった、マジックタイムの後の後。夜を生きる人たちの会話は、それはそれで賑やかに聞こえたけれど、私はそこにも溶け込めない。大人になったのに、子供を惜しんでしまっているから。捨てられなかった勝負服が、その証明だった。過去を恐れ、過去を終わらせる。だけど過去にしか、価値を持てない。
「あっ、あれセイウンスカイじゃないか」
ふと、そんな声が聞こえた。こんな人混みの中からでも、目ざとく私を見つける声。きっとそれは、私のファンの声なのだと思った。本来なら振り返って、挨拶でもするべきなのだろうとも。今までだって照れ臭くても、そういうふうにしてきたはずだった。だって今と同じく今までずっと、私を見つけてくれる声は、私への期待の表れだったから。子供の私が、心の底から欲しかったものだったから。
(……ごめんなさい)
でも、私は振り向かない。また心の中で、聞こえない中でなら謝罪ができた。ごめんなさい、私はもう私じゃないから。
あなたが呼びかけたセイウンスカイとは、私はもう関係のない人間だから。
トゥインクル・シリーズをひたむきに走っていたセイウンスカイは、私が消し去ってしまったのだから。諦めさせて、しまったのだから。
だから。
だから、ごめんなさい。
そんな声にならない声が、頭の中で反響していた。ごった返す電車の中でも、私の声は誰にも届かなかった。
これが私のミゼラブル。嘆くしかできない不幸の話。けれどどうすればよかったというのだろう? 終わっていた、閉じていた、捨てていた、諦めていた。不幸ではあるけれど、今までの幸福に対する釣り合いを取るためには仕方ない。今までが私の絶頂で、ここから先は下り坂。どんな不幸も、身に受けるには相応しいもの。
結果として潰れてしまっても構わない。
大人の私なんて、壊れてしまって構わない。
閉じて、終われ。
過去の私に価値があったのであって、今の私には価値がないのだから。
ガタン、ゴトン。電車は揺れつづけた。
どこへも行けない私を、無慈悲にどこかへ運んでいた。
「……ただいま」
そうして、帰ってきた。私の帰る場所、一人きりの寮の部屋。誰もいないとわかり切っているその空間に、帰宅を伝えるのも含めて何一つ子供の私と変わらず。大人になったのなら、帰る場所さえ変えてもよかったのかもしれないけど。いっそ夜の街に繰り出して、新しい大人らしい楽しみでも見つければよかったかもしれないけど。やっぱりそんな冒険をする勇気も出なくて、結局私はいつもの通りに帰ってきた。門限という子供の掟を、素直に守ってしまっていた。
まずはさっさと服を脱いで、乱雑に蛇口を捻ってシャワーを浴びた。疲れた身体を癒すためでもあり、何でもいいから温もりが欲しかったからでもあった。独りは痛くて、冷たかった。
じゃあー、とざらついた肌に温水を叩きつける。耳の先っぽから足の指先まで、全身の肌に染み付いた今日のことを洗い流そうとした。
シャワーで済ませたびしょ濡れの肢体にも、やぶれかぶれにタオルで洗剤を身体に擦り付けるくらいはした。なんとかできる限りがそれだった。共同浴場に行く元気も、食事を摂る元気もなかった。もう、限界だったから。何もかもが、限界だったから。
だから多分、眠かった。限界が来ているのだから、眠かったはずだ。眠ってしまいたかった。早く意識ごと自分を手放したいと思った。眠ったら全部が変わってくれるような気がした。今日のこれが夢でいいのになんて、そうは思わないけれど。そんなことだけは、思ってはいけないけれど。天皇賞(春)は、立派なレースだった。スペちゃんは、ちゃんと強かった。私一人のエゴで、あのレースをなかったことにしたいなんて思っちゃいけない。スペちゃんの過ちは、私に正す資格のないものだった。どうすることもできなかった。
そしてそのあとのことはすべて、私だけの問題でしかないのだから。彼女にも向けた仄暗い感情は、数えきれないほどある私が赦されない理由の一つだ。
だけど、眠りたかった。バスタオルだけを巻いた粗雑な格好で、間髪入れずにベッドに倒れ込む。びしょびしょの髪や身体が、涙の代わりに枕を濡らす。
早く、眠りたかった。夢にはできなくても、過去にはしたかった。過去にして、他の過去と同じように捨ててしまいたかった。大人になったことが、当たり前だと思いたかった。まだ、大人に慣れなかった。早く慣れてしまいたかった。いつまでも慣れられないのが、苦痛で苦痛でたまらなかった。逆に子供に戻りたいとは思わなかった。思えなかった。
思っていいわけが、なかった。
子供の私の積み重ねを過去と断じて捨てるなら、すべてが終わって諦めた話なのだから。
けれど、そうやって考えるほどに目は冴えて。深夜一時に冷え切ったバスタオル一枚だけの私の姿は、どうしようもなく滑稽だった。誰かに見せられないのが残念なくらい、嘲笑されるに相応しい存在だった。
まあ、服を着るのは明日の朝でいいだろう。眠るのも、明日の朝でいいだろう。だって、明日からは新しい毎日が始まるのだから。
学園に行く気力も理由もどこかに消え失せた、新しい毎日が始まるのだから。
だから、明日でいいや。
これも、諦めよう。
夜が明けるまで、一人で凍えていた。
朝焼けより先に眠りにつけた。目が覚めれば太陽は一番上まで昇っていた。朝ご飯も昼ご飯もトレセン学園の授業も、何もかもを捨て去っていた。
一日が始まった感覚は、綿のようにふわふわとして捉えきれなかった。
朝が来たって昼が来たって、何も変わっていなかった。
多分、こんな一日も大人だからということなのだろう。私が今までやってきたままごととは違う、本当の意味で時間に縛られない生活だ。
けれどそれでも、世界はちっとも変わらないのだろうけど。私だって、昨日の変化以上にはならない。そこで終わっているから、世界までは変えられない。私が学校をサボる理由が普段と違うからって、その理由が誰かに見えるわけじゃない。放課後に練習に向かわないのだって、昔はたまにやっていたことだった。
だから見た目の上では、やっぱり私はセイウンスカイのままだ。それはきっと他人を安心させ、私にとっても逃げ道になる。本当は逃げてはいけないから、これもよくないことなのかもしれないけれど。……でも、別にいいじゃないか。
私なんか、最初からどうなってもよかったんだから。
もう、<アルビレオ>に戻るつもりはなかった。数日すればただのサボりじゃないと気づかれるかもしれないし、そうすればキングやトップロードさんが動くかもしれないけど。それでも、戻るつもりはなかった。そのことが一つだけ、大人の私に決められたことだった。
私は、トレーナーさんなど必要ないと言ったのだから。今の私になってしまった以上走る意味などどこにもないと、そうあなたに告げたのだから。どれほど意志を通わせようと、どれほど心を重ねようと、そこにある信頼は、担当ウマ娘とトレーナーとしての関係だ。
ならばあなたと私のつながりは、続ける意味も必要性もない。
走る理由と走る価値、どちらも失ってしまったのなら。
チームとは、走るための場所だから。
走りたいと思えなくなった時点で、私の居場所ではなくなるのだ。
大人の私の、居場所では。
「はぁ……」
またため息を吐いた空間は、相変わらず一人で薄暗かった。流石にバスタオルからは着替えた。でも寝巻きだった。外に出る気力もなかった。じっとしていた。すぐに昼間は終わって午後になっていった。それでも、じっとしているだけだった。
何もない時間は酷く長く感じられるのに、一方で瞬く間に過ぎ去っていった。
楽しい時間とは、真逆だ。
これまでの時間は、きっと楽しかった。あの入学式の日、トレーナーさんが私を見つけてくれて。大げさだけど、そこからすべては始まった。そしてトップロードさんに連れられてチームに入って、いつしかレースに出たいと思うようになって。
もちろん楽しい思い出だけじゃなくて、苦い思い出もある。あの日私に脱退届を渡したあの子。……あの子には、悪いことをした。
「セイウンスカイさんには、頑張りつづけてほしいです」
そう言われた忘れられない日の約束を、最後の私は守れなかったわけだから。
ごめんなさい、とまた言葉にせず謝る。どの謝罪も言葉にできないのは、私が大人になってしまったからだった。大人の私の口から響かせられるのは、諦めと断絶だけなのだ。
皐月賞までで、<デネブ>と<アルビレオ>で一悶着あって。結局それは私の取り越し苦労で、次はダービーまで頑張って。ダービーから菊花賞にかけては、キングとずいぶん話をした。高め合うライバルの存在を意識して、それがとっても嬉しくて。
だけどそんな「最高」も過ぎ去って、私は君の横に並べなくなった。
こうして、終わるのだ。
そんなふうに、過去の出来事を並べていく。精算するために。
別れを告げるために。なぜなら過去は過去であり、もう私のものではないのだから。
有マ記念では、一番人気に応えられなかった。あれはもちろんグラスちゃんがすごかったのだけど、思えばその時点で私のピークは過ぎていたのだろう。最終的にこうなることは、あの時のグラスちゃんには既に予見されていたようなものだ。不調の原因が単なる衰えだとは、流石のグラスちゃんにもわからなかったみたいだけど。でもそれだって仕方ないことだ。
だってグラスちゃんは、そこから先がある側の人なのだから。私は君にも、並び立てない。
そして、私の最後のレース。天皇賞(春)。スズカさんの幻影を追いかけるスペちゃんに、私は負けた。そんな致命的な穴を抱えながら、私のことなんか見ていなくても。それでも強い者は強いのだと、その時はっきりわかった。だから、私はここまでなのだと。これから先走っても、大舞台で日の目を見ることなどないのだと。
スペちゃんの誤りを正してあげられなかったのは、今でも少し残念だけど、過ちを正すのは敗者には与えられない権利だと、私はよく知っているから。
敗者こそ間違いで、限界なら走り続けるべきではないのだから。そして走ることを諦めた者には二度と他者に正しさを告げる資格などないのだと、痛いほどにわかっているから。
誰にも、並べない。
なら、やるべきことは一つだけ。どんな思い出だろうと、全部全部過去にしよう。諦めた、過去にしよう。噛み締めて、飲み込んで。飲み込めないなら、吐き捨てて。こうして私は、大人になる。そう、そうすると決めたはずなのだから。
……なのに、どうして。
(どうして、こんなに)
どうして湧き立つ思い出は、楽しいなんて気持ちと紐付けされてしまっているのだろう。こんなにも、愛おしく。愛おしくて、手放したくないなんて。しかもそんな身勝手でしかない切ない感情の揺れを、尊んですらしてしまうのだろう。それでもやっぱり私は、どうしようもなく変わってしまったのに。
もう、何もしたくない。過去を想うことが止められない。未来には何も存在しない。どちらにしたって、私の傷は増えていく。こんなに苦しいなら、進むのも戻るのも嫌だった。
大切だった過去のことを考えても、先のない未来のことを考えても、どんな思考も私を優しく締め上げる。息の根が止まるまで、抱き締めるように締め上げてくる。ならもう、何も。何もかも、嫌だ。
動きたくない。身体も、頭も。のんびり散歩なんてまっぴらだし、作戦会議なんてうんざりだ。今この瞬間何か一つでも頭で考えるタイミングだって、絶え間ない苦しみが私を襲いつづけている。何もなくなればいいのに、と思った。私という存在が消えてなくなればいいのに、と思った。こんなに苦しいなら、生きているだけで辛いなら。そしてそれでも生きている理由も見えてこなくて、辛い気持ちを掘るたびに苦しさは増していって。終いには悩むことそのものに悩み、思考回路もわからなくなって。
私を取り巻くその状況は、泣き出しそうなくらい辛いものだったけど。
やっぱり、涙は出なかった。
だって、私は大人だったから。
部屋の片隅、ベッドの横。そこに一人で、うずくまっているだけだった。
そのままの状況が永遠なら、消えてなくなれるだろうかと思った。それならそれでいいかもしれないと思った。食欲がないのも何もやる気がしないのも、そうすれば肯定できる気がした。
消えてなくなればいい。自分の思考はすべてそんな結論の一点に通ずる気がした。私が消えるのを肯定するために、今の私は生きている気がした。だから必死に気持ちを重ねて、大人なりの進み方はこれなのだと思った。
死への飛翔を遂げることが、今見つけられる唯一の私らしさなのだと。
思考を連ねて自傷を重ねて、なんとか自分なりの光明を見つけて。
最後の希望たる終わりへの願いにすべてを捧げんとする、その寸前だった。
「スカイさん、いるかしら」
こんこんと、この部屋のドアをノックする音がする。
「スカイちゃん、いますか」
見知った、聞き馴染んだ、親しかった、そんな二人の声がする。
私を呼ぶ、声がする。
(……ねえ、どうして)
声にはならない。頭に浮かぶ問いは弱音だから、大人の私には声にはできない。
(どうして、私なんかを)
だとしても、確かにそう思ってしまう。
だからこれから私が述べる言葉は、全部抱えた想いの裏返しだ。
喉は枯れてないだろうか。声は震えないだろうか。
溢れ出てしまう恐怖を振り払い、私はドアの先に言葉を返す。
「帰りなよ、お二人さん」
私にできるのは、心無い拒絶だけなのだから。
大人の私の声は、諦めしか響かせられないから。
扉は、固く閉じられている。
きっと、言葉に色はない。どんなに単純なワンフレーズでも、どんなに浮ついたレトリックでも。いかに賛辞や侮蔑の意味が含まれていようと、それ自体には色はない。辞書をいくら眺めても人の心が揺さぶられないのはそういった理由で、言葉というものは底の底まで透明だ。
しかし、言葉には色がついついる。このことは先程の前提とは一見矛盾しているけれど、そうならない理屈は単純。なぜなら言葉は、人が使うものだから。声や筆に言葉を乗せて、意味合いを持たせるのが人だから。
誰かが言葉を口にした瞬間に、そこには想いという色がつく。故に賛辞には賛辞の色がつくし、侮蔑には侮蔑の色がつく。そうして言葉というものは、人の心に訴えかけるものになる。取り返しのつかない傷をつけてさえしまえるようになるのだ。
私が昨日、トレーナーさんにしたように。
だから、言葉の色は想いに依る。
たとえば賛辞の意味でも侮蔑の意図を込めるのならば、それは毒々しい色の言葉になる。
むしろそうやって表層の意味と深層の意図が一致していない方が、より人を傷つける言葉になりうる。言葉に色はないけれど、色のつけ方でそれぞれのかたちを持つものだから。
その差が歪であればあるほど、棘は醜く捻れていくものだから。
「帰りなよ、お二人さん」
そして、私の言葉はそういうものだった。上辺では気遣うように見せかけて、裏腹に告げているのは拒絶と否定。キングとトップロードさんが伸ばしてきた手を、振り払って取らないという決意。覚悟、なんて言えるほど、格好のいいものではないけれど。
それでも確かに、私の決めた言葉だった。
大人の私は、独りですべてを決めていた。
私の末路に連れ添いなんていらない。私の終わりは私が決める。
ゴルゴダの丘を血染めで濡らすレッドカーペットは、一人で登るものだから。
さあ、羽ばたこう。
その身を裂くのは、私自身の愚かな翼でなくてはならないのだ。
「今日授業に来なかったでしょう、あなた」
決して開かれない冷たい木のドアの先から、聞き馴染んだ声、キングヘイローのそれが聞こえてくる。いつもの声、いつもの色。彼女はいたって平静に、何事もないようにと思って話しかけているのだ。そうすることは私への配慮の形の一つ。寄り添おうとする言の葉、だ。
「まあね、でもそんなに珍しくないでしょ」
そして、私はこう返す。会話は成立しているけれど、私の言葉に込められた色は言葉の意味合いとは違う。彼女の事勿れを是とし肯定する発言。彼女の配慮を無視し否定する発言。どちらにせよ共通して、本当に言いたいことは一つだけ。
『私のことなんか、放っておいて』
この、一つだけ。だけどその断絶を、直接私が言うことはない。直接的ではないようにあえて意図と意味を違えた言葉に、剝き出しの刃のような鈍色をつけて送りつける。
それでできあがるちぐはぐな言葉こそ酷く浅ましく穢らわしく、そしてそんな醜いものこそが今の私には相応しいから。誰も頼れない、大人の私には。
一寸の沈黙が入る。おそらく優しいお嬢様は、私の心無い一言にため息でも吐いているのだろう。手のかかるやつだ、などと。放っておけない、などと。まだ見捨てられない、などと。
まだ、まだ。まだ、ライバルで友達だと。
君がそう思うなら仕方ない。
そう願うなら構わない。
それなら私にできるのは、見切りをつけられるまで拒絶を重ねること。
訣別とは、そういうこと。
私だけが、独りだった。
「最初から全部ほっぽり出して部屋に引きこもるのは、あなたにしてはかなり珍しいと思うわよ」
「そうかな。気分屋の気分が変わっただけじゃない?」
「いいえ、そうなのよ。少なくとも私の知るセイウンスカイは、滅多なことじゃ狭苦しいところには閉じこもらない。あなたが授業をサボるのは、もっと自由を求める時でしょう。それが褒められたこととは言わないけれどね」
狭苦しい、か。確かに私が閉じこもっているこの部屋は、すべてが閉じて開かれていない。そういえば私、狭いところは嫌いだったっけ。今は好き好んで閉じこもっているのに、よくよく思い出せば私は開けた場所を好んでいたはずだった。けれどこれも変化、成長なのだろう。苦手だったものが苦手じゃなくなる、そんなのも大人になった証じゃないかと。だからそれは悪いことじゃない。自由を、求めなくなったのは。
「……まあキングがどう言おうと、私がサボり魔なのなんて、いつも通りと言えばいつも通りだし。多分そのうち元に戻るんじゃない? だって授業に出なさすぎたら、色んな人に怒られちゃうし。キングとか」
そうやって私への心配を、他人事のように語ってしまう私がいた。でもきっと、心配されている私とは本当に他人だからなのだろう。
いつもの私。今までの私。君たちが見ていた私は、もういない。今ここにいるのは、セイウンスカイという名前だけが一緒の別人だ。他ならぬ本人が一番今と過去が違うと思っているのだから、未来に進展や救いなどあるはずがない。自分で言ったようにそのうち元に戻ることなんて、過去に戻ることが未来にあるなんてありえないのだ。
出来の悪い子供の私は、大人の私が殺してしまったのだから。子供を殺める大人こそ、一番出来が悪いに決まっているのに。
「……あなたねえ。言っておくけど、みんながどれだけ心配してると思って」
「それはありがとう、感謝し尽くしてるよー。まあでも、そういうことだから。心配してくれたのは結構だけど、大したことじゃないよ。ご苦労様、なんてね。やっぱりそのうち、元に戻るよ」
殺した子供の皮を被って、子供らしく振る舞ってみる。永遠に終わらない罪滅ぼしのために、大人の私は子供のふりをする必要があるのだろう。
たとえば、今も。決して赦されない罪を濯ぐために、今の私は消えていない。
生きたまま、苦しみつづける義務がある。
皆の大切な「セイウンスカイ」は、他ならぬ私が奪ってしまったのだから。
……みんながって、みんなに合わせる顔なんてあるわけないじゃないか。
君にも告げていない昏い羨望が、私の中には存在するのに。
君たちの横にいることも、今の私にとっては肉を裂くような痛みを伴うんだ。
再度挟まる沈黙。ドアで区切られた会話はまばらだ。キャッチボールすら一苦労だし、実のところ私はしっかり投げ返してはいない。その度にあちらが新しいボールを投げてきて、必死に言葉の応酬に見せかけているだけ。
私の言葉についている色は、拒絶なのだから。
けれどやがて、また新しいボールが投げられる。
新しい色が見える。
それは私の心に揺さぶりをかけ、私は必死に私を守る。大人の私は、弱くて脆くて、すべてを敵にしなければ、粉々になってしまうから。
新しい色の言葉を振りまいて来たのは、新しい人だった。
今日はここまで押し黙って、多分ずっと何かを考えていた人。
いつも優しくて、きっと今も優しい人。
そしていつも正しくて、だから今の私が触れてはいけない人。
そんなトレセン学園の先輩で、トゥインクル・シリーズの後輩。
ナリタトップロードさん、だった。
「<アルビレオ>には、帰ってこないんですか」
……わかっていた。わかっていたけれど、だった。わかっていた通り、やっぱり彼女の言葉はどこまでも真っ直ぐで。<アルビレオ>への勧誘をしていた、初めて会ったあの日と何も変わらなくて。真っ直ぐに、心を突き刺そうとして来て。
けれど、もう一つわかることがある。私の心は既にそこにはないのだ。あなたが手を伸ばした場所は、過去の私の居場所なのだ。あなたは決して、私を捉えられない。たとえあなたは変わらず、私に寄り添おうとするのだとしても。
「それは、わかりませんね」
私の方はもう、変わってしまったのだから。
「なんでですか、スカイちゃん」
「そりゃ流石にもう聞いたか、そうでなきゃ察したかしたんじゃないですか? トップロードさんは、他人の心を察せれる人でしょう」
「……トレーナーさんの様子が変でした。そしてスカイちゃんのことを、昨日は待ちませんでした。置き去りにして、帰っちゃいました」
「そうですね、それが答えです。トレーナーさんが酷いんじゃないですよ? 私が酷いことを言って、それで喧嘩になっちゃったんです。そしてそのまま、今に至ると」
また嘘を吐いた。喧嘩。本当にそうだったらどれだけ楽だっただろうか。幸せ、だっただろうか。あなたの言葉に付いた色が敵意だったなら、どれほど私は救われただろうか。実際は一方的に、私が傷をつけていた。トレーナーさんにも、自分自身にも。そうして、何もかもをめちゃくちゃにした。できてしまった。私の色は、どこまでもどこまでも汚かったから。大人の私はそうやって、否定と拒絶を紡ぐだけ。先端にほんの少し触れさせるだけで酷く汚してしまうのだから、私の言葉の深層など誰も見ない方がいいに決まっている。
「喧嘩別れ、ですか。なら、もう一回話してみませんか。勇気は要るかもしれませんけど、スカイちゃんとトレーナーさんなら絶対に話せばわかります。気まずければ間は取り持ちますし、だから」
だんだんと、トップロードさんの舌の回る速度は増していく。言葉の調子は変えないように、そう意識している上で変わっていくのがわかった。
堰を切ったように、溢れて、溢れて。
いつものままから勢いだけを増して、私という汚泥を洗い流そうとしてしまう。
「だから、開けてください。今から一緒に、私たちと一緒に。トレーナーさんのところに、私たちが連れて行ってあげますから」
だから、そうやって。
致命的なくらい深々とした言葉で、あなたは私の心の中心を抉ってしまう。
既に私が過去と同じ地点にはいないとわかったのなら、別の場所に逃げた私を探す。
今の私の心まで、もう手が届いてしまう。
それは。
「それは、嫌です」
それは絶対に、止めなければならない。
「なんで、ですか」
「トップロードさん達とも、もう会いたくないからです」
「それは、なんでですか」
「聞いちゃうんですね、あなたにとって酷いことをいうに決まっているのに」
「いいから聞かせてくださいよ」
「そんなの、簡単ですよ」
理由は一つ。けれど決して直接は言わない。今まで通り醜い私の輪郭に乗った要素を並べて、決してあなたそのものには私を触れさせない。汚すことはしない。理解できないと、拒絶してくれればいい。
そのつもりで、また言葉を吐く。誰にも繋がらないフレーズを、淡々と。
「もう、元には戻れないからです」
だからそんな人間に構うべきじゃないと、最後の本音は言えなかった。哀れな自分への救いを求めるような言葉は、この色と混ぜて伝えてはいけないから。
「私はもう、走れないんですよ。デビューしたばかりのトップロードさんと違って、私はそれなりの期間走りました。そして、わかったんです。……ほら、酷い言葉でしょう? 夢に溢れたウマ娘に、残酷な現実を叩きつけるなんて」
「続けてください。私への気遣いなんて要りません。そんな気遣いなら、要りません」
「優しいんですね」
「スカイちゃんが優しいからですよ」
優しいと言われたのもきっと、過去の私。今の私は冷たく、誰もかれもを触れもせずにあしらっている。過去の私と今の私は、決してつながりを持たないのだ。死体と同じ声、死体と同じ姿形。思考に連続性があるだけのスワンプマン。だからその手はどれほど生者と見た目や感触が変わらなくても、泥に塗れて死肉が本質で、見るに堪えないほどに腐っている。
触れさせるわけには、いかない。
「……まあ、そういうわけで。わかったんですよ、無駄だって。これから先どんなに走っても、私には無駄」
「そう、ですか」
「はい。大舞台に立つことができるとしても、立つことができるだけ。私のためには、その舞台は存在しない。そんなところで走っても、何も楽しくなんかない。……トップロードさんにはわからないかもしれませんね、私のことなんて何も知らないあなたには」
最後につけ足した一言は、明確な断絶の色をつけるためのものだった。わかりようもないと言い切れば、それを否定することは難しい。強い口調はそれだけ言葉に色をつける。
深く、深く色をつける。取り返しのつかない、色を。
思わず、だったのだろう。私が僅かに見せた拒絶に強く反応したのは、会話に割り込んできたのは、キングだった。
……これが今の私だから、受け入れられないのが正解だよ。
「スカイさん、あなたねえ……!」
「そーやって声を荒げたって、キングにもわかる気持ちでしょう。そしてトップロードさんにはわからない。事実を述べたまでだよ」
「それでも、その言い方はないでしょう」
「ないと思うならそれでいい。軽蔑して、帰ってよ。その方がお互いのためだって、そろそろわかってきたんじゃないかな」
お嬢様の激情に呼応して、私の口からも今までにない色が漏れる。
諦めてほしい、そんな嘆願。今の私はなりふり構わず、むりやりにでも断絶を告げようとしていた。だって、これ以上つながりを再確認したくない。
過去だ、終わった、捨てた、諦めた。
私の全部はゴミ箱に綺麗に収まったんだから、拾い上げてこないでよ。
「これからどれだけ頑張っても、何も得られない。だから、私はもう走りたくない。それだけです。……お二人とも、もうすぐトレーニングの時間じゃないですか」
時計を見れば、会話の始まりからはしばらくの時間が経っていた。時間は進む。無慈悲に、冷徹に。そこまで会話を途切れさせつづければ、私の「逃げ切り勝ち」だ。
そのつもりだった。ドアのむこうの様子なんて、私には当然わかっていなかった。他人を拒絶しつづければ何も変化なく終わると、どこかで軽くたかを括っていた。私は終わっている。私は誰の心にも届かない。冷たい死体には、何も動かせる心配なんてない。そう、この期に及んでまだ甘えていたのだ。
どれほど拳を握り込めていたのだろう。どれほどの激情を顔に浮かべていたのだろう。どれほどの想いが、彼女の言葉を色づけたのだろう。
だん、とドアの外から強い打撃音がした。鈍くて痛くて、重苦しい響きが聞こえた。
行き場のない力を、気持ちを叩きつける音だった。
私にずっとずっと向けられていたあなたの優しさが、ついに捨てられた音だった。
「ふざけないで、くださいよ」
抑えきれない怒りを、トップロードさんが発露させた音だった。
私が、怒らせた。
彼女の感情を、私が傷つけた瞬間だった。
「ちょっと、トップロード先輩」
「なにをふざけたこと言ってるんだって、そう聞いてるんですよ!」
だん。またドアが揺れ、暗い昏い音がする。
トップロードさんの拳が傷つき、私の心にも傷ができる。拒絶して、断絶して、廃絶して。すべてから見捨てられようとしたのに、いざ敵意を向けられるとそれは思っていた数倍痛くて。だからやっぱり、私は甘かったのだ。
つながりの重さがわからない、愚かな大人になってしまっていた。
私は、あんなに優しい人を怒らせてしまった。その罪は私の癒えない傷の上に、新しい傷をつけ足していく。きっとこの傷も、癒えない。
償えない罪悪が、また一つ積み重ねられていく。
「なんでそんなことを言うんですか。全部無駄だって、意味なんかないって。私にはあなたの気持ちは、わからないって。なんで、なんで! わかりますよ、少しくらいなら。スカイちゃんが<アルビレオ>に入って頑張ってきたのを、私はずっと見てました。だからそのことは知ってるし、その姿に憧れだってしました。私の、私の憧れだったのに!」
「……そう、ですか」
「なのに、なのに、なのに! その頑張りを否定するんですか!? 今まで私が憧れて来たものは、無価値だったっていうんですか!? そんなの、ふざけてます。絶対に、許せないです」
そして、もう一つわかること。この怒りについた色は、私への敵意だけじゃない。なんであなたは、変わってしまったと告げるんだ。あなたは、私の憧れだったんだ。今までも今でも大事な、大切な存在だったんだ。そうやっていまだ私を慈しむ、そこにある語気とはかけ離れた優しい色がついている。だからその言葉は、意味と意図の捻れたその言葉は。私が散々やってきたものと同じように、他人の心をグロテスクに抉るのだ。
「……それに、約束したじゃないですか。いつか、一緒に走ろうって。それも、嘘だっていうんですか」
「……そうかも、しれませんね」
「他人事みたいに言って!」
だん。また痛々しい打撃音が、限界に近づいたトップロードさんから発せられる。私はそれほどまでに、この人を痛めつけてしまったのだろう。触れさせない、それだけでよかったはずなのに。そのつもりだったのに、汚らわしい私に触れさせてしまったのだろうか。それとも触れないことが、あなたを傷つけてしまっただろうか。無知な私には、わからない。
「スカイちゃんが、私の走る理由の一つでした。スカイちゃんと一緒に走るのが、私の夢の一つでした。……なのにそんな大切なものを、あなたと私の約束をっ……!」
嗚咽が混じる。涙の声がする。そうなれば、崩壊は止まらない。そんなつもりじゃ、なかったのに。ただ私だけ傷つけば、それで良かったのに。
……やっぱり私は、最低だ。
「ひぐっ……うぇぇ……ぐすっ……。そんなっ、そんなスカイちゃんとの宝物をっ、ひっくっ、そんなふうに他人事、他人事みたいに私から奪い去るんですかっ……」
こん。もう一度、弱々しく拳を叩きつける音がする。先程よりも低い位置から、柔らかい拳が決して私を赦さないと告げるために。どうしようもないくらい泣き崩れているのだと、それでわかってしまった。
「ふざけないでくださいよぉ……っ! 私のっ、私の憧れたセイウンスカイはっ、そんな、そんな子じゃ、なくてっ……ひぐっ……ううっ……やだ、やですよぉ……」
それからしばらくずっと、ドアの先からはトップロードさんの啼泣する音だけが聞こえていた。私はそこにある色だけしか残っていない音を、一つ一つ聞いていた。トップロードさんの心を激しく掻き乱して、そのぶん自分も掻き乱されて。彼女を傷つけたことの埋め合わせにも何にもならないけれど、すべてを余さず受け止めていた。
何か言葉を返さなくちゃいけないとは思った。拒絶したはずなのに、そうすれば傷つかないはずだと思ったのに。それでも、私は他人を傷つけてしまった。取ることのできない責任に、手を触れてやらねばならないと思ってしまった。
散々拒絶して、伸ばされた手を払いのけてきたというのに。
触れないことが傷つけるのなら、触れ合うしかないのだろうか。触れ合うことも傷つけることだとするなら、私にも傷がつくぶん釣り合いが取れているのだろうか。悩んで、悩んで、悩み尽くして。大人の私にとって、初めての悩みだった。
その間も嗚咽は止まらなかった。さめざめと、鼻水を啜る音が聞こえた。
そうして。
そうして、あなたの全部を聞いてから。
「ごめんなさい」
そうして、私は言葉を口にする。大人になってから初めて口にできた謝罪が、あなたへの言葉だった。初めて、懺悔を声にした。
そんな、そんな初めての言葉に私がつける色は、一体どんなものだっただろうか。
「トップロードさんの大切な夢を奪っちゃって、ごめんなさい。憧れの人のままでいられなくて、ごめんなさい。ずっと一緒に居れなくて、ごめんなさい」
謝りたかった。はっきりと、そういう気持ちを心の中に感じた。謝罪と償いを交えた、この会話で私からつけた初めての色だった。だけどそれでも、私の色には確かに拒絶が混じっていた。ただひたすらに罪を並べて己を矮小だと改めて断じることで、あなたの言う憧れから自分自身を遠くに置いた。
全く違う色の絵の具を混ぜるように、私の言葉は濁りきった汚い色合いだった。もう傷つけたくないのに、どうすれば傷つかないのかわからなかった。拒絶しても触れても、きっとそれはあなたの綺麗な肌に傷をつくる。私がいなくなることさえ、決して許されるわけがない。
なら私にできるのは、剥き出しの心を伝えるだけ。せめて敬意を払おうと、そうしていた。
あるいはただ、弱すぎて。
強いあなたのように怒りにすら思いやりを込めるなど、他人のためには在れなかっただけ。
「ごめんなさい。それでも、出て行くのは怖いんです。もう怖くて、一歩だって動けないんです。走るのが、怖いんです」
いつのまにか啜り泣く声は聞こえなくなっていた。代わりに私の声が届いていた。まだ、つながりが断ち切れていなかった。私が、再び繋いでしまっていた。
「ごめんなさい。こんな私になっちゃって、ごめんなさい」
だけどそのつながりは、しっかりと丁寧に断ち切り直すためのもの。今度こそ後腐れなく、別れを告げられるように。ここまで並び立ててようやく、私は謝罪という言葉のかたちの力に気づく。言葉に色はない。けれどかたちはある。だから色をつける言葉を、人は慎重に選び取る。もっとも己の想いを伝えやすい、言葉のかたちを。
そうすることを、今の私はできていた。
想いを伝えるための、言葉の選び方というものを。
遠ざかる足音が、二人分。密やかに、だけど確かに聞こえた。私が、終わらせたのだ。
謝罪という言葉のかたち。それは互いが互いを認める限り、肯定して受け入れることしかできないものだということ。赦すことしか、できないということ。私とあの二人が確かに繋がっていたから、これまでみんなで積み上げて来た関係があったから。だからこそ私の「ごめんなさい」は、決定的な訣別の言葉となり得たのだ。
ああ、ごめんなさい。
また、ふと。去りゆきすべてが終わったあとでまたふと、謝罪のフレーズが頭に浮かんだけれど。何のために謝りたかったのかは、もうわからなかった。
その日の夜も、眠れなかった。
私はまだ、大人の自分に慣れられなかった。
──きっと大人に慣れた時が、私が翼を広げられる時。
身体が固まり、本当に完成する時。
羽化した先には、飛翔がある。
死への、飛翔が。
管で繋がれた私の身体は、大地から飛び立つ瞬間に引きちぎられるのだ。
だって、私は大人だから。
どれほど惑い迷っても、大人にはなってしまったのだから。
あとは、羽ばたくだけ。
終わりに向けて、羽ばたくだけだ。