完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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「ステイ・ウィズ・ユー」

 

 

 二日目の眠れない夜は、よりずきずきとした痛みを私に与えてくれていた。相変わらず冷たい床に座り込んで、独りぼっちのがらんどうの部屋の隅っこ、なけなしの安息の地たるベッドとも反対側に位置した部屋の端にうずくまっていた。誰にも邪魔にならない自分の部屋なら、閉じこもっているのなら存在することを赦されていた。

 だけど、存在しているだけ。死んでいないだけ。空っぽの空間に空っぽの私、一分一秒ごとに本当に何もないという事実がおろし金のように心と身体を削っていく。そのことがむしろ今の自分にとっては充足感を与えてくれている気さえした。なら、そのままでよかった。

 自分は自分を粗末に扱っているという実感。だけどそれでいい、自分なんてそれでいいんだという諦観。その二つの感覚だけを寄る辺にして生きていた。

 だって、他の何も受け付けはしなかったのだ。何もかも、誰もかれも。私はすべてを拒絶してしまったのだから。だから己をどうでもいいものとして扱えていることと、そうしていても誰も私を顧みないと感じられる時だけ、いのちの感覚が得られていた。

 死ぬためだけに生きるような、私はそう定義されたいのちなのだと控えめに肯定できていた。

 

 夜の空気は独特の温さと冷たさを持っていて、まだまだその中で起きているのは慣れなかった。大人になれても、まだ大人に慣れていなかった。けれど身体を動かす元気もなく、どこでもない部屋の隅に留まったままでまた小さくなっていた。

 このまま小さくなって誰にも見えなくなったらどんなに楽だろうか、そんなことを一瞬考えて、その後に私のことを探してしまうだろう人達のことまで考えて、止めた。小さくなっても声は聞こえてしまう。どこかに逃げても逃げ出した私を探す姿を見つけてしまう。そうやって伸びてくる手から逃げ出す力さえ、もう残ってはいなかったから。だから、傷つけて遠ざけるしかなかったのだろう。

 トップロードさんは、あのあとちゃんとトレーニングに行けただろうか。あれだけ怒らせて泣かせて、私は最後までずいぶんと迷惑をかけた。だけどずっとドア越しで直接あなたを見なかったから、心無い言葉を投げつづけられた。薄っぺらで掠れた、出涸らしのペンキみたいな色の言葉だった。そしてそんなみっともない声を聞かせつづけて、キングとトップロードさんが帰るまで私は意固地に拒絶を重ねつづけて。私は救いようがないと、心の底から思ったのは事実だった。けれど仕方のないことだったのかもしれないと、残酷だけど、そうも思うのだ。ああするしか、なかったのだと。

 だって、もう変わってしまったから。もうこれ以上、変われないから。

 ここが私の完成形、不自由で不器用な「大人」というものだ。

 

(ねえ、トレーナーさん)

 

 一つ、心の中でか細く。声すら出そうになかったから。声にしたら破裂してしまいそうだったから。だから心の中で、届かないからこそあなたに呼びかける。

 

(大人って、こんなに辛いんですね)

 

 大人。ずっと見ていて、ようやく私もたどり着いたもの。きっと今までの私は、あなたの辛さを半分もわかっていなかったのだろう。大人と子供にはこんなにも開きがあるのだと、大人になって初めてわかったから。そうだったから、今になってやっとわかったのだ。

 寄り添えてなんかいないまま、大人と子供の距離のまま、そのまますべては隔絶された。大人と大人になったのは、全部が終わったあとだから。

 この過去も、罪の一つ。終わって閉じて、永遠に償えない。

 私の終わりは唐突ではあったけど、一方で避けようがないものだった。あんなに覚悟していたつもりだったのに、すべては無駄で空は墜ちた。多分、どうしようもなかったのだけど。

 そう、これはもしかしたらどうしようもない、運命のようなものなのかもしれない。今までの行いに対する報い、そういうものなのかもしれない。

 不相応に期待されたいと願って、でもその通りの期待を受けてしまって。勝ってしまって、認められてしまって。負けても、走っていいと言われてしまって。敷かれた道を間違っていると知らずに歩んでしまった私への、罰というべき帰結なのかもしれない。

 あるいはそんな罰さえ恐れて、より痛い目を見る前に逃げ出そうとしているのかもしれないけれど。怖くて、怖くて、だから閉じこもっているのかもしれないけれど。

 でもそうだとして、それの何がいけないのだろう。たとえ誰も許してくれなくても、許されないことが怖くて何がいけないのだろう。

 判決を待たずに逃げられるなら、九割の犯罪者が罪を認めず逃げ出すはずだ。誰だって怖いだろう。己の罪を認めていても、断罪されるのは嫌に決まっている。

 だって、事情はあったはずだ。

 だって、痛いのは苦しいじゃないか。

 だって、同情の余地はあるじゃないか。

 だって、だって。

 

「……がんばって、きたじゃないかぁ……」

 

 その搾りかすのような言葉は、確かに私の本音だったのだろう。私だけが、私の声を聞いていた。響かないけど、私は聞いていた。

 頑張ってきたじゃないか、と。

 だから逃げ出してもいいじゃないか、と。

 そうだ、私はただ赦されたいだけだったのだ。

 ここまで頑張ってきたのだから、逃げてもいいと認めて欲しかっただけだったのだ。

 ずっとそれだけを願ってきた。ずっとそのために動いてきた。

 終わっていい、諦めていい、よく頑張ったって。頑張りを認めて褒めてほしいことの、一体何がいけないというのだろう。

 ……こんなに、こんなに頑張ってきたじゃないか。

 けれどなお、誰もが私に期待する。まだ頑張れと、無慈悲に言いつづける。かつて喉から手が出るほど欲しかった期待というものが、今は恐怖の象徴だった。だからこそ、私は誰ともわかり合えない。

 皆は私に期待する。

 私は私に期待しない。

 そこには永遠に離れたままの認識の歪みがあり、故にすべては進まない。

 誰も、認めてくれることはない。

 ぎしりと身体の何処かから、骨の髄まで軋む音がして。そこで思考は限界を迎え、私の存在は部屋の隅にあるだけの肉の塊に変わる。

 夜は、まだ長かった。まだ、耐えなきゃいけなかった。

 大人には前より慣れたはずの二日目なのに、やっぱり今日の方が痛かった。

 痛い、痛い夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた時には、すでに日は昇っていた。目をつぶって意識を手放した記憶はなかった。眠れる気もしていなかった。それなのに、眠ってしまっていた。気が付いたら部屋に日光が入ってきていただけで、自分の所在も世界も少しも変わっていなかった。

 単に、意識が飛んでいたのだ。なぜこんな状態で寝ることができてしまったのだろうなどと考えながら少しみじろぎしようとして、すぐにその理由を理解した。

 身体に、力が入らない。肩にも、背にも、脇腹にも、腹筋にも、胸にも、首にも、二の腕にも、手のひらにも、太ももにも、腱にも、どこにも。力を入れてみようとしても、ぴくりぴくりと動かすのが限界。そう、私の身体は限界だったのだ。ほとんど眠らず飲まず食わず、精神も削って削りきって。そんな生活では二日と保たないことなんて、少し考えればわかることだった。ついに、やはり。いつか来たる終わりが、目の前にあった。

 待ち望んだ、すべての終わりが。

 誰もいない部屋。鍵のかかった部屋。その端っこで動けない私。部屋の主たる要素など、小

さくともこの空間を占有しているということだけ。壁に寄りかかったまま全身を投げ出した私は、糸の切れていのちの抜きとられた人形と何ら変わりない。誰にも助けを求められない、独りぼっちの哀れな女の子。そういう閉じ切った状況が、いつの間にやらできあがっていた。あっという間、二日もあれば十分。出来損ないの大人を詰ませるのなんて、たったそれだけあれば十分だ。……これで、終わりかあ。

 そう認識した。そう諦めた。今度こそ、現状が終わりに近いとわかった。

 わかった、つもりだった。なのに、なのに。

 それなのに干からびた脳みそは、止まる寸前で弾けるように回り出す。

 今更、遅いのに。

 ──あれ、私どうなるんだろう。もしかしてこのまま、弱りきって死んじゃうのかな。そうしたら、みんなを心配させちゃうかな。ああでも、その時にはもう私はいないのか。なら、いいのかな。

 このままが、正解なのかな。これが、運命なのかな。私ががんばってきた、けっかなのかな。

 

「……けて」

 

 それなら、こうしているままにしておくべきだよね。わたしなんて、いないほうがいいもんね。それくらいひどいことを、みんなにしちゃったもんね。だからきっと、そうしたらゆるされるよね。そもそもいなくなっちゃうなら、ゆるすしかないもんね。

 そう、そうだよ。だから、こうすればよかったんじゃないか。なんだ、かんたんなことじゃないか。

 そう、だから。

 

「……たす……けて……」

 

 なんでわたしは、そんなことをいっているの。なんでわたしは、たすかりたいなんてのぞんでいるの。なんでわたしは、まださきをみたいとおもっているの。

 なんで、ねえ、なんで。やめてよ、さいごにそれをいっちゃうんじゃ、ぜんぶがうそっぱちになっちゃうじゃないか。

 じぶんがわるいことにしたいのに、そうできなくなっちゃうじゃないか。

 それでまんぞくなはずなのに、あきらめきれてないみたいになっちゃうじゃないか。

 やだ、やだよ。

 おねがいわたし、わたしをさらけださないで──。

 

「──カイさん」

 

 ──そこで。

 そこにあった、最後の最後のタイミングで。

 誰かの声が、私を止めた。

 終わりゆく、私を。

 助けを求めた、私を。

 

「スカイさん、入りますよ。もう一度返事がなかったら、入ります」

 

 ひどく聞き覚えのある、誰かの声。

 懐かしい、君の声。

 その声が、私を止めた。

 

「スカイさーん。……じゃあ、お邪魔します」

 

 そう一方的に告げたのち、がちゃりと、固く閉じたはずの鍵が開く音がして。私が閉じた世界は、あっさりと崩れ去っていて。

 開けて、開けて。

 眼前に、一人の少女の姿を見た。

 

「あっ、スカイさん! 大丈夫ですか、いや大丈夫じゃないですよね。とりあえず、少し待っててください」

 

 まだ、まだ切っていなかったつながり。チーム<アルビレオ>と提携を結んでいる、チーム<デネブ>のリーダー。いつもの通り、柔らかくて幼い笑顔。ぱっつりと綺麗に整えられた黒鹿毛に、薄紫の水晶体。ニシノフラワーの姿が、そこにはあった。

「こっちの寮長のヒシアマゾンさんに頼んで、マスターキーを借りたんです。『私からも頼む』って言われました。部屋からずっと出てこないんじゃ、そりゃ心配されますよ」

 ぱちっ。ニシノフラワーの手によって、部屋の灯りが久しぶりに点いた。太陽より眩しかった。私の牢獄には存在しないはずのものだった。そしてこの灯りの中に居る私以外の人間の存在も、言いようのないくらい眩しくて、思考が眩しさに刺激される。刺激され、目覚めて。どこかからどこかに、思考を通る回路が移る。

 

「スカイさん、ひどい顔してますよ。夜更かしはお肌の天敵なんですから、あとしっかりお風呂も入って」

 

 そういえば、マスターキーか。確かにそれを使えば、強引に開けることはできてしまうな。なんだ、私は閉じこもれてなんかいなかったのか。……なんてふうに、思考は一歩遅れていた。

 今の私が現実を認識するのには、そのくらいのタイムラグが必要だった。ぼんやり、彼女の言葉を聞ききれない。けれど、一つ一つ受け止めようとしていた。遅れても、拙くても。

 助けられようと、していた。

 

「でもとりあえず、何も食べてないのはいけません。ほら、水筒もありますから。まずはお水、飲んでください」

 

 

 

 そう言ってフラワーは、鞄の中から水筒を取り出しその口を私のかすれた唇に押し付ける。ごく、ごく。力の入らない身体でも、生命の危機に動くくらいの余力は残っているようだった。水筒に入っているのは真水でもお茶でもなくスポーツドリンクで、これは本来フラワーがトレーニングのために用意していたものなんじゃないか、などと思いながら底まで飲み切ってしまって。ぷはぁ、とただただ与えられた水分を摂取して、息継ぎのような呼吸をした。

 ただ、生きようとしてしまっていた。

 彼女の救いの手を払いのける力は、もうなかった。

 そして何事もなかったかのように、私の口元から水筒を離したニシノフラワーは持ってきた荷物をテキパキと二人の目の前に並べてゆく。閉じこもっていた私と鍵をこじ開けた君の間に、ゆっくりと橋渡しをするみたいに。

 教科書、ノート、筆箱に、最後にそれら何の変哲もない荷物の下の目的物たち。一段重ねの弁当箱が、一緒のゴムでくくられて二つ。そう、弁当箱は二つ出てきた。そして当たり前のように、二つのうちの片方を小さくて細い指で包んで持ち上げて。

 

「はい、スカイさんのぶんもありますから。一緒に、食べませんか? もうちょっと、お水がお腹で落ち着いてから」

 

 これまた当たり前のように、私にそれを差し出した。正午を少し、過ぎた頃だった。

 

「今日はちょっとサボりですけど、特例で許してもらえることになるみたいです」

 

 ぱく、ぱく。動けないままの私の横に、フラワーは一緒になって壁にもたれて並んでいた。並んで座るというにはだらしない格好の私の左隣で、行儀よく座って弁当箱をつついていた。私に、合わせて。バレンタインの時と同じ並びだな、などと思った。

 フラワーから手渡された弁当の中身は、可愛らしい包装や盛り付けがなされながらも一つの箱の中にぎっしりと中身が詰まっていた。鰆の照り焼きにふりかけ付きのご飯、そこからブロッコリーやプチトマトやにんじんのきんぴらまで三色揃った栄養満点の、私が何も食べてないのなんかお見通しって感じの詰め込み具合だった。大きめの卵焼きをピンク色の箸で摘みながら、味覚をここ数日働かせていなかった舌先に卵に染み込んだ出汁の味を沁み込ませながら、黙々とフラワーの話を聞いていた。

 素直に、美味しいと思えた。口の動きだってぎこちないけれど、一つ一つ噛み締められていた。普段からそこまで(ウマ娘の中では)よく食べるほうではないのに、そのいつもより更にゆっくりで、黙々と食べているはずなのにフラワーがこちらに話しかけながら食べるのとおかずの消費速度は大して変わらなかったけれど。

 どんなにぎこちなくてもゆっくりでも、久方ぶりの食事は美味しいと思えていた。噛み締めて、味わえていた。そしてそうやって彼女の料理を咀嚼することで、私は彼女の話も受け入れるしかなくなっていた。

 それで、よかった。

 

「そういえば昨日、花壇に植えてる紫陽花の花芽が少し開きそうになってたんです。もう梅雨の季節が近いなって思いました。雨って苦手な人も多いと思うんですけど、花が咲くためには必要だったりして。それでも降り過ぎたら駄目になっちゃうので、難しいんですけど。……美味しい、ですか?」

「……うん」

「なら、良かったです! それでですね、今日は他にもいいことがあって。何でもないことではあるんですけど、授業で当てられた時うまく答えられたんです。勉強した成果が出た瞬間って、努力が報われる気がしますよね。これも苦手な人は多いんでしょうけど、私は勉強が好きです。……それも、美味しいですか?」

「……うん」

 

 取り止めのない彼女の会話に、相槌すら挟めずこくこくと頷きつづけるだけの私。今までだって何度かあったはずの二人並んでの会話は、今までで一番一方的。私の部屋なのに、私が言葉を紡げていない。こんなやつには愛想を尽かせばいいのに、フラワーはそうはしてくれなかった。私と同じ速度でお弁当を食べてくれて、同じ速度で会話を合わせてくれて、同じ速度で過ごしてくれて。終わりに近いはずの私と、同じ速度で生きてくれていて。

 何も入ってなかったであろう空きっ腹に、優しい味と気持ちの沁み込んだ、素朴だけど丁寧に作られたおかずたちが染み渡って。同じように空っぽの胸に、何でもないけど優しい色の会話が埋まっていって。弁当も会話も優しさはすべて、君から私のために作り出されていて。

 つながりが、確かにそこにはあった。まだ途切れていない、私と君のつながりが。

 

「どうですか、どれが一番美味しかったですか」

「……この、鰆かな。やっぱりほら、魚好きだし」

「そうでしょうそうでしょう、そう思って入れたんですよ」

「なんだ、そういう」

「はい、喜んでもらえたなら何よりです」

 

 ぱく、ぱく。もぐ、もぐ。そうやって弁当をすっかり食べ終わる頃には、私もまともな会話が幾分かできるようになっていた。回復したような、回帰したような。失ってしまったあの頃に、今だけは戻ってきたような。過去は捨てたはず、そうしたはずなのに。

 そしてここまで私を連れ戻したのは、紛れもなく横に座る少女、ニシノフラワーなのだろう。何気ないように振る舞っているが、紛れもなく私を目的として彼女はここに来たのだろう。

 私を連れ戻す、そのために。

 だって、彼女は。

 そこまで。そこまでで彼女は会話を一旦区切り、こちらに向き直ってから口を開く。シアンとマゼンタの深く絡み合った、パープルカラーの瞳で私を見据えて。

 私の曇り切った眼から、すべての曇天を払わんと。

 そう、だって。

 

「スカイさん。あの時の約束、覚えてますか」

 

 だって、彼女は私の大切な人。あのバレンタインの日に取り決めた、救いの契約を果たすために来たのだから。

 離さないでと、誓ったのだから。

 

「バレンタインの時、私はスカイさんにお願いされました。覚えてますか、スカイさん」

「……うん、覚えてるよ」

「スカイさんが、どうしようもなくなっちゃった時。誰にも頼れないくらい、大変になった時。その時は私に任せるって、そう言ってくれましたよね」

「……まぁ、ね」

「私は、あの時の約束のために来ました。今こそスカイさんを離さないべきだと、そう思ったからです」

 

 バレンタインの時のフラワーの予感。大人になった私が、どこかへ行ってしまうんじゃないかという恐れ。彼女の杞憂は、確かに的中してしまった。これ以上、ないほどに。これ以上ないほど明確に、空は堕ちて終わってしまった。私は君の言った通り大人になって、言った通りに誰にも頼れなくなってしまった。捨てて諦めて、全部を過去として変わってしまった。

 どうにもならなく、なってしまった。けれど、そうなる前の約束があった。私がどうにもならなくなった時のセーフティ、最後の最後の命綱がフラワーの存在だと。

 いずれ大人になってしまうとしても、約束の前では子供でいさせてほしいと。あの時結ばれた契りは、そういうものだった。

 けれど。

 けれど、もう。

 

「ありがとう、フラワー。……でもそれをお願いしたのは、やっぱり昔の私なんだよ」

 

 けれど私は、すべてを理解してもなお彼女の伸ばした手を握り返せない。どんなに予見していても、救いようのない悲劇からは救うことができない。たとえ、本当の私が助けを求めていたとしても。「助けて」と、震える声で望んだのが真実の私だとしても。あの声が嘘ではないとしても、それでもやっぱり大人は嘘を吐かなければいけないのだから。一度作った態度は、変えることは許されない。赦されて、いない。

 子供の私の約束など、大人にとっては無意味なもの。

 無価値で無力な、大人には。

 

「大人になるってさ、想像してたよりあっけないよ。多分フラワーが見てる私は、前と変わらないように見えると思う。そんなもの。ひょいっと、越えてしまえる壁なんだ。でもさ、フラワー」

 

 いつかのように、何度も重ねたように。確かに私たち二人は語らうけれど、そこに纏う空気は変わってしまっている。

 でも消えたはずの私を引き戻しに、小さな少女は大きな覚悟を決めてやってきたのだろう。

 それは、わかっている。

 わかっているのに、私はその偉大さをわかっていて踏み躙ろうとする。

 つくづく、最低だ。心底、そう思った。

 

「そこにある壁は越えるのは簡単だけど、戻るのはとっても難しいんだ。だから、私はフラワーの言葉は聞こえない。何を言われても、届かない。……意味が、ないんだよ」

 

 そうだ。だから、諦めてほしい。私に諦めてもいいって、赦してほしい。ああけれど、君もそうではないのだろう。私に何かを期待している。私が昔のように喋り出したのを喜んでいる。そこにある言葉は同じでも、込められた色は変わってしまっているのに。過去の私が、みんなを期待させてしまう。今の私を、認めない。

 

「だからお願い、フラワー。昔の私じゃない、今の私からの、お願い。私のことを思うなら、このまま帰ってほしい。何も、言わずに」

 

 ならば、私はそうしよう。古き契約が君を縛るなら、私はそれを上書きしよう。私みたいな愚か者に、これ以上付き合う必要はない。誰も、だ。皆が求めているのは昔のセイウンスカイで、今の私じゃない。今の私は、誰にも望まれていない。私自身さえ、今の私を変えてほしいと助けを求めてしまうのだから。今更変えられるわけ、ないのに。

 そこまで全部、吐き出して。また、心は黒く染まる。沈んでいく。今度こそもう、引きずり戻せないところまで。深く、深く、奈落の底へ。

 私にぴったりお似合いの、何もない泥の中へ。

 そのはず、だった。

 そうなる私を変えたのは、またフラワーだった。彼女は不意に、言葉を切り出す。

 私のために。君のために。私と君の、つながりのために。

 

「そうですか。ならスカイさん、少しの間黙っててください。私が、勝手に喋ります」

「……え」

「ほら、私語厳禁」

「ああ、ごめん」

「もう、二回目です。……なんて、それくらいの反応はいいですけどね。じゃあ、喋ります。少し、長いお話です」

 

 そんな唐突な切り出しから、フラワーの語りは始まりを告げた。優しく撫でるような、柔らかな声だった。

 醜いはずの私に触れて、少しも躊躇うそぶりはなかった。慈しむような、言の葉だった。

 

 

 

「最初にスカイさんと会った時、覚えてますか? <デネブ>でのトレーニングを始めるってその日に、トレーナーさんに紹介されて挨拶して。その時最初に思ったのは、何だかふわふわした人だってことでした。捉えどころのない、そんな人だって。でもそのふわふわは、誰かを受け止めるためにあるんだって、一緒にトレーニングしていくうちに、何度も会ううちにわかりました。そんなふうに印象は変わったけど、スカイさんはスカイさんでした」

「懐かしい、かもね」

「はい。懐かしいけど、今に続いてるスカイさんの印象です。いつでも助けてくれる人。いつでも、笑いかけてくれる人。たとえ自分が苦しい時でも、それを隠して代わりに他人のことを見ちゃうような、そんな人。……だから実は、嬉しかったんです」

「何が?」

「あのバレンタインの日、私を頼ってくれたことです」

 

 ……それは、少し意外な言葉だった。あの時、背負わせてしまったと思っていた。だから今、私が背負わせたものから解き放とうとしていたのだ。今だって、背負わせたままのはずだ。拒絶して、そのはずなのに離れられないでいる。君はこんなふうに縋られたままでナイフを投げられることを、嬉しいと言ってしまうのか。

 

「スカイさんにも、不安なことがあって。私の知らない、スカイさんがいて。それでも、スカイさんはスカイさんで。だから、やっぱり私はあの時のスカイさんの言葉に応えたいんです」

「それを、今の私が望んでいなくても?」

「……はい。だって今のスカイさんも、その時のスカイさんも。スカイさんは、スカイさんです。だから、そのお願いはまだ生きていると思います。たとえ、スカイさんがスカイさんじゃなくなっても。私は、あなたのそばにいたいんです。どんなあなたでも、いいから」

 

 ……参ったなあ。本当に、参ってしまった。久しぶりに、他人の意志の強さに負けそうになっていた。フラワーが、こんなに頑固だなんて。こんなにも、私を見透かしてしまうなんて。今の私なんかを、見てくれるなんて。過去の私じゃなくて、今の私を。

 赦して、くれるなんて。

 

「だめですか、スカイさん

 言いながら、私の目を見つめて。

 つーっと、そのアメジストのような瞳から、一つ。

 透明な雫が、音もなく垂れていた。空のように、透き通る。

 ああ、また誰かを泣かせてしまった。この短い期間で、二人も。

 今度はその顔を見てしまった。君の泣き顔を、私が泣かせた君を見てしまった。また、私が悪いじゃないか。私は、やっぱり救えないじゃないか。そんなふうに、思いたいのに。

 けれどフラワーは泣きながら、笑っていた。私に向かって、微笑みを投げかけていた。認めていた。赦していた。私のせいで、泣いたんじゃなくて。私のためなら、泣けるのだと。

 そういう感情の込められた涙だと、私にもようやくわかった。みんなが私に向ける、さまざまの感情に込められたものを。

 どうして、そんなに優しいのかな。フラワーだけじゃない、キングも、トップロードさんも、みんなみんな。みんなが私に、優しさを向けていた。最初から、優しかった。認めていた。赦していた。そして前に進もうと、言ってくれていた。

 そうか、違ったんだ。みんなは過去の私を見て、今とは違う過去に期待したんじゃなくて。ちゃんと今の私を見て、その奥に過去の私を見つけていたから期待していたんだ。変化はある、成長はある。けれど、変わらないものもある。過去と未来は、繋がっている。そういう、ことなのかもしれない。

 

「……ごめん、フラワー。まだちょっとよくわからない。泣かせまでしたのに、ごめん。まだ、無理だと思う。ずっと、無理かもしれない」

「それでも、いいです。待ちますよ、ずっと」

「ダメだよ。もう私は、君の憧れにはなれないよ」

「どんな人になっても、スカイさんはスカイさんです。……っとすみません、もうこんな時間だ。トレーニングにも、いつでも来ていいですから。でも来なくても、明日も私は来ますから。今度は鍵、開けてください」

 

 そう言って、荷物をバタバタと慌てるように片づけて。一筋の涙痕を斜めに残しながら、ニシノフラワーは嵐のように去っていった。私だけを、残して。……いや、あれ。

 

「私のぶんの弁当箱、忘れちゃってるじゃん」

 

 私が握りしめたままだったそれだけが、彼女の去った後に残されていた。あーあ、どうしよう、これ。流石にトレーニング場まで返しにいくほどの勇気とかつ利用は、今の私の中にはない。けれど、その代わりにもならないけれど。

 私にも、できることはあって。

 腹に入れたばかりの栄養を使い、ゆっくりとフローリングから立ち上がる。水道のほうに向かい、乾いた手で蛇口を捻る。

 スポンジと洗剤くらいは部屋の中にもあるから、弁当箱に水を垂らすくらいは私にもできた。

 今日、これを洗って。

 明日、返そう。

 明日フラワーが来た時に、返してあげよう。そして今度は弁当箱も約束も忘れてしまわないように、もう少しだけ落ち着いて話せたら。

 ほんのちょっと、そう思った。大人として、落ち着きを与えられればと。君からも、言葉を受け取れたらと。初めて、大人を活かせそうな気がした。大人に、慣れられそうな気がした。今はまだ、でもいつか。前へ進めるかもしれないと、一瞬だけそう思ってしまった。

 一瞬だけ。

 それが終われば、また思考は虚に帰る。

 進めたとしたら、ほんの一瞬だけ。

 だけど、進めた。少しだけなら、進めるのかもしれない。

 君と一緒に、いられるのなら。

 

 

 

 

 

 

 その日の夜は、久方ぶりにベッドの上に寝転がっていた。昔の私が着ていたパジャマは、着てみればすんなり馴染んでしまった。昔と今で、変わらない感覚だった。何の違和感もなく、布団にくるまっていた。

 そうして目を閉じればやはり、ここまでの三日間のことが思い返されてしまった。

 まだ、眠れない。けれど、眠れない理由は僅かに変わっていた。私にこれ以上、変化があるのだろうか。それともこの悩みは、変わっていなかったものが沈んでいた姿を再び現しただけなのだろうか。どちらなのかはわからない。だけどわからないから、考えていた。みんなのこと。つながりを断ち切ったはずの、みんなのことを。

 キングは、いつも通りの態度を貫こうとした。私が元の場所に帰れるように、そのままの距離感を保とうとしていた。私が変わってしまったのなら、変わってしまったぶんを自分で埋め合わせしようとしてくれていたのだ。多分、私のために。

 かつてのセイウンスカイの居場所に、今のセイウンスカイが入り直せるように。ライバルで友達、私がみんなとは違うと断じたはずの仲間たちの空間にもう一度迎え入れるために。

 少し怒っていたのも、あくまで他人のためだった。嗜めるような、私を元の道に正すような。ダービーの時あんなにくしゃくしゃだったお嬢様とは全然違うな、と思った。けれど、それはそれほどおかしなことではないのだろう。人は変化する。成長する。私が変わったように、キングも変わっている。だけどそれでも彼女は、紛れもなくキングヘイローだった。お人好しでどうしても人の悪口が言えない、いつもの優しい王様だった。

 トップロードさんは、いつもとはかけ離れていた。私が、そうさせてしまった。彼女の感情を爆発させたのは、私だ。怒りに打ち震え、悲しみに涙を流して。私のせいで、いつものトップロードさんは崩れてしまった。私のせいで。

 でもその怒りは、私に向いていたはずの彼女の怒りは、同時に私への想いやりにも溢れていた。愛と憎がめちゃくちゃに入り混じった、混沌とした色の言の葉だった。

 

 あの怒鳴り声はきっと、トップロードさんらしくはないぐちゃぐちゃの正しくない言葉なのだろうけど、それでもトップロードさんだからこそ、出てきた言葉なのだろう。変わらなくても変わってしまっても、誰もが自分らしいまま。

 ならもしかして、私も。そう、考えてしまう。諦めたはずのものに、手が届くんじゃないかって。まだ、私らしさはどこかにはあるんじゃないかって。

 けれど、考えるだけ。実際に動いて手を伸ばす勇気は、今の私にはどこにもなかった。だから夜のにおいに包まれながら、柔らかくて暖かい布団に埋まりながら。思考だけを、いまだ進めつづけていた。すべての中でそれだけは、進んでいた。

 フラワーは、きっとずいぶん変わった。出会った日からの印象の差は、ひょっとしたら一番かもしれない。それでも、彼女が私に同じことを、私は私のままだと告げたように、ニシノフラワーは、どこまでもニシノフラワーだった。だから、私を助けに来たのだろう。私の助けを求める声を、聞き届けてしまったのだろう。

 変わったのだ。しっかりしているはずなのにどこか不安そうで、ほっとけないフラワーはもういない。今はむしろ私が、放って置かれていない。まるっきり逆転して、その上でなお私と君の間につながりがあることは変わらない。そう、それは変わらなかったのだ。かつてのフラワーではないとしても、彼女はニシノフラワー以外の何者でもなかった。変化と成長、何度もあった積み重ねをきちんと果たしただけだった。

 私は散々、過去の私はどこにもいないと言っていたのに、彼女の中にはちゃんと、過去の彼女が息づいている。ならば私も、そうなのかもしれない。

 いやきっと、そうなのだろう。少なくともみんなには、そんなふうに信じられていたのだろう。最初から、誰もが知っていた。今の私はおかしくて、過去の私とはかけ離れている。すべてを諦め、捨てている。それくらいのことは、私に触れた全員がわかっていた。わかっていた上で、今の私と昔の私が変わらないのだと言っていた。

 当たり前のことだった。今と昔につながりがあるのだって、当たり前のことだった。変化と成長は、どれほどまでに重ねても過去の上にある。過去との断絶は生まない。どんなに新しいものが積み重なっても、その下にある過去はゼロにはならない。当たり前の、ことだった。

 なら、私は。

 

「……どうしたら、いいのかな」

 

 おもむろに、独り言が漏れ出た。誰かに問いかけるような、けれど誰も聞いていない。そんな行き場のない言葉。独りぼっちの、子供でも大人でも変わらない「私」の言葉。

 ……ああ、でも。でも、かつてはそれを拾ってくれる人がいたな。独り言だったのに、まるで直接聞いてたみたいに掬い上げる人。夜中に電話をかけてきたり、二人きりの帰り道で唐突に私の隠した気持ちを見抜いてきたり。

 そうして暑苦しい正論を私にふっかける、面倒な男の人がいた。

 どうしてるかな、トレーナーさん。私が出会ってきた中で、一番変わらなかったのはトレーナーさんだった。もちろん、見えてなかったところが見えるようになった。見せていなかったものを見せるようにしてくれた。けれどそうしてくれたのはあくまで彼の裁量で、私は多分何も暴き立てていない。トレーナーさんのことを、変えられてはいない。

 きっと、あなたが大人だったから。今なら私はあなたを揺さぶりきれなかった理由がわかる。大人になってしまえば、それは誰しも酷く不器用で。なかなかどうして、変われない。私が何を言われても、変わることができなかったように。

 今の私と同じ辛さを、あなたはずっと抱えていたのか。

 どうしたら、いいのかな。ここまですべてを壊して、それでも皆は手を差し伸べてくれる。罪を償う必要なんてないって言ってくれる。認めようと、してくれる。みんなに酷いことを言ったのに。あなたにも、酷いことを言ったのに。私が一番、私の罪を赦せないのに。みんなは子供のままで夢に溢れていて、変わらず大人の私を救おうとしてくれて。かつて大人のあなたから子供の私が、本当の言葉を引き出そうとしたみたいに。

 そうやって今の私に向き合ってくれるのは、確かに嬉しいはずだけど。きっとあなたにとっての私も、救いだったのだろうけど。

 それでも。

 それでも、私にとっては。

 ねえ、トレーナーさん。

 大人って、苦しいですね。

 そんなあなたに初めて寄り添えたかもしれない言葉は、心の外には出ていかなくて。苦しいけれど楽しいのか、楽しいけれど苦しいのか、軸をどちらに置くべきかなんてわからなくて。やっぱり、大人に慣れられなくて。夜の黒色は、静謐だけを湛えていて。また今日も、誰もいない夜だった。

 それからしばらくして、思考は微睡の闇に落ちた。

 閉じた目が、開かなくなった。全身の筋肉が、ゆっくりと弛緩していった。

 ぐっすりと、眠れた。

 しばらくぶりだった。

 

 

 

 

 

 

 

「ああすみませんスカイさん、昨日弁当箱忘れていっちゃってましたね」

「いいよ。気にしないで」

「でもちゃんと、今日も持ってきましたから。また一緒に食べましょう」

「……なんか、ごめんね」

「いいですから、ほら。食べますよ、スカイさん」

「うん、ありがとう。……いただきます」

「はい、召し上がれ」

 

 ぱく、ぱく、ぱく。今日もフラワーは当たり前のように、私の部屋に来た。今更だけど寮も違うのに、わざわざ。そして私は彼女を招き入れ、今日もこうして一緒に昼の食事をしている。つながりを、保とうとしていた。君の方からだけではなく、私の方からも。

 明確に、変化していた。成長かは、わからない。

 

「──それでその時、トレーナーさんがこっそりお菓子を差し入れてくれて」

「なるほど。やっぱりそれも<デネブ>のトレーナーさんお手製?」

「はい。それがもう美味しくってチームのみんなで美味しい美味しいって言いながら食べて、それで」

「……あのさ、フラワー」

「……はい、なんでしょう」

 

 緩やかに続いていた会話に、一抹の暖かさを感じながらも。ふと、といった感じで、私はフラワーに向き直る。昨日涙を流していたそのアメジストの結晶を、もう一度見つめて。

 

「昨日は、ごめん。本当に、ごめん。迷惑もかけたし、泣かせもした」

「……いいえ。迷惑だなんて、思ってませんよ。言った通り、嬉しかったですから」

「フラワーがそう言っても、私が私を赦せないよ。……そう、そうなんだ。私はどうしようもないくらい、悪い大人なんだよ」

 

 ずっと、赦されたいと思っていた。逃げてもいいって、そう願う罪悪すらを認めてほしいって。

 けれど、赦されないのだと思っていた。だからみんなが私を引き止めようとしているのだと思っていたし、だから私はみんなの手を拒絶しようとしていた。赦される、ために。

 でも、それは逆だったのだ。みんなは最初から私に罪なんか背負わせていなかった。私を私とわかっていて、沈みゆく親愛なる人を救おうとしていただけ。今の私を、しっかり認めていた。

 逆だ。私が罪を重ねたと認識していたのは、認めず赦さず断罪していたのは、他ならぬ自分自身だった。過去のセイウンスカイと今のセイウンスカイを被害者と加害者の関係に置いていたのは、私の方だったのだ。

 私が、私を赦していなかったのだ。

 大切な思い出を過去として捨て去った、今の私を。

 

「悪い大人、ですか」

「そう。そうなったと思った。元の私には戻れないと思った。だから元の私に戻そうとする人は、みんな私の敵だと思った。だから、拒絶しようとして。……ごめんね、フラワー」

 

 また、自然と口から謝罪が述べられる。謝罪という言葉のかたちは、口に出すのが難しい複雑なかたち。丁寧に扱わなければ、すぐにひしゃげて壊れてしまう。

 けれど、だからこそその言葉は特別なかたち。想いがどんな色をつけたとしても、どれほどの色をもしっかり伝えられる特別な言葉。

 謝罪という言葉のかたち。それは互いが互いを認める限り、肯定して受け入れることしかできないもの。だから、私の「ごめんね」は強くて。弱い私でも、強く打ち出せて。

 

「……いいんです。いいんですよ、スカイさん。スカイさんが謝るなら、私はそれを赦します。絶対に、何があっても」

 

 きっと、確かに心を震わせる。君だけじゃなく、私の心も。

 彼女からの赦しを、受け取った。私が本当に欲しかった、救いというものだった。本当に欲しいものを告げて、それを正しく渡してもらえるののなら。

 ようやく、もう一度。わかり合えたのかも、しれない。

 

「そういえば今日は、午後までここにいますから」

「えっ、授業は大丈夫なの?」

「スカイさんだって授業に出てないじゃないですか。お互い様、ですよ」

「それは、そうだけどさ」

 

 数分の間を挟んだあと、再開された会話にて、フラワーによる堂々としたサボり宣言は、前触れもなく行われた。私が他人にとやかく言えないのはその通りなのだが。

 

「嫌なら、スカイさんも授業に出たらどうですか」

「いやあ、私はサボり常習犯だから」

「でも今のは、いつものとは違うでしょう」

「……それ、キングにも言われたよ」

 

 まあきっと、キングとフラワーの言う通りなのだろう。いつものサボりなら、心配はしない。それもある種の信頼。そしていつもと違うなら、その点をめざとく見つけてしまう。それもやっぱり、信頼。私が私であるという、信頼。今の私と過去の私を、しっかり同じだとする気持ち。自分で自分を損ねることは、痛みと弱さであって罪悪と害意ではないということ。みんなは、とっくに私を赦している。

 同じ認識を持てていないのは、自分自身だけ。私だけが、過去を傷つけた今に何の価値もないと言い切っている。私はこの期に及んで、己を赦せていないのだ。だからいまだに私が重ねてしまうのは、私を「肯定」するための行為ばかり。赦されたい私ではなく、赦したくない私をこそ肯定するための、歪な言葉の数々。すべての拒絶も否定も、今度こそ罪を重ねるためにある。大人の私は、そのことだけは決めたから。

 けれど、もし。もしも、そこまで追い詰めようとも誰もが私を赦すなら、私は一体、どうすればいいのだろう。赦されないと願うことが過ちだなんて、そんなことはきっとわかっている。もうそれはわかっていて、それでも一度始めた考えは止まらない。大人の私が飛び立つのは、身を引きちぎる死へと向かって。決して、空へは羽ばたけない。そう定義した、そう諦めた。だからやっぱり私は、道を違えたままなのだ。大人は不器用で苦しいから、変われない。

 結論は違った。みんなは認めていた。私が赦していなかった。だけど道のりは同じ。私は間違っていた。みんなは正しい。そこで、今度こそ終わり。もう一度、閉じる。永遠に、交わらない。

 

「まあでも、ゆっくり待ってますから。そのためなら少しのサボりくらい、きっと大目に見てくれます」

「大目に見るって、授業と関係ない理由じゃ許してなんかもらえないよ」

「私の中では、許されてるんです。……なんて、とんでもない悪い子の発言ですね」

「そうかも。でもそれならフラワーのことは、私も許すよ。自分だけじゃ足りないなら」

「ありがとうございます。でもそれならスカイさんのことも一緒ですよ、きっと」

「……そうかな」

「そうですよ」

 

 赦しが足りないのなら、より多くの人が赦せばいい。そういうものだろうか。けれど確かに自分は、そうやってフラワーを赦そうとしてしまった。自分には自分の吐いた言葉は適用されないなんて、そんな都合のいい話はないのかもしれない。

 私も、赦されうる。あらゆる拒絶の手段を講じてでも、何度それを振り払っても。救いの手は必ず、伸びてくる。私が私を赦せるようになるまでずっと、だ。理屈なんてもはやない、根気の勝負なのだろう。<アルビレオ>にはお似合いだ。

 そしてフラワーが私のそばに居ようとするのも、私を救わんとする大きな道のりの一環でしかない。こちらが道を違えるのなら、共に違えて寄り添ってしまおうという意志。そう、そうすれば確かに道は交わってしまう。

 一度自らも間違えてでも手を繋げる距離まで近づけば、繋いだ手を再び正しい方へ引き戻せる。他者を救うために、我が身が傷ついても。

 私が抱える醜い歪みに触れて傷ついても、躊躇いさえしなければ。

 私はずっと、誰かを傷つけたくなかった。

 それなのにみんな、みんな。みんなはどうして、私の方に手を伸ばすの。毒々しい棘だらけの私に手を伸ばせば自分の身体が傷つくと、きっとわかっているのに。

 自らに傷をつけてまで、私を掬い上げようとするの。

 ……ねえ、あなたも。

 ……瞬間。思考をまた暗がりに寄せようとした瞬間になぜか脳裏に浮かんだのは、一人の優しい人の顔だった。なぜだか、ふと。そのまま、呟いてしまうほどに。明るい場所に、また戻る。

 答えのわかりきった気持ちを、述べる。

 

「……トップロードさんも、そうだったのかな」

「トップロードさんが、どうかしましたか」

「ああいや、フラワーには関係は」

「スカイさん」

「……ごめん、話すよ」

「はい。聞きますね」

 

 彼女を傷つけたことは、私一人で背負う罪だと思っていた。泣かせて、怒らせて、憧れを損なわせた。だって、私が悪いのだから。

 けれどその罪すら、一緒に背負ってくれる人はいるみたいだった。

 

「私、トップロードさんを怒らせちゃったんだ。酷いこと言って、『私の知ってるスカイちゃんはそんな子じゃない』って言われちゃった。あんな優しい人を、怒らせた。それは、私が悪いんじゃないのかな」

「……うーん、それは一理ありますけど」

「そうでしょ? だから、私はやっぱり悪いんだよ」

「でも、それだけじゃないと思いますよ」

 

 ぱん、とその幼い両の手を合わせて。これぞ名案、といった感じでフラワーは言葉を広げていく。それは確かに名案だった、かもしれない。一つの発想の転換。これが本当の正解。他人のために罪を背負うのは、フラワーだけじゃないということだった。

 

「怒るのって、怒る方も辛いものじゃないですか」

「そうだよ。だから、私が悪い」

「だけどそれって、怒られた側が辛いってわかるからじゃないですか」

「……えっと、どういう」

「だから多分トップロードさんも、後悔してると思います。それはスカイさんが今しているのと、きっと同じことです。怒られたからって、わかり合えないわけじゃないんですよ」

「……そう、なのかな」

「はい。だって今私、スカイさんにちょっと怒ってますから」

「えっ、そうなの」

 

 フラワーにも怒られてしまったか。けれどそれを伝えることも、きっと信頼と親愛の証。ならトップロードさんの激昂もまた、私に寄り添いたかったから。私のために、辛くても怒った。辛くても、罪を重ねた。私を一人きりにしないって、いつかのトップロードさんの言葉と同じ。私だけで、背負わせたくなかったが故の、過ち。

 道を違えたのは、一人きりじゃない。そういうこと、なのかもしれない。

 

「いつになったら元のスカイさんに戻ってくれるんだろうって、業を煮やしてますよ、私」

「……それなら、無理かもしれないよ。もう、ずっと」

「そんなことないですよ。きっとみんな、そう信じてます。信じてるから、大丈夫です」

「優しいね、フラワーは」

「スカイさんが優しいからですよ」

「それもまたトップロードさんに、同じことを言われたな」

「えへへ、私誰かと同じことばっかり考えちゃってますね」

 

 でもそうやって思考が重なるのは、他の二人の発言を裏打ちするということに相違ない。キングとトップロードさんの気持ちに、フラワーは共感しているということ。この三人は、同じことを考えているということ。

 私に戻ってきてほしいと、みんながそう考えているということ。

 戻る。戻ったとして、多分本当の意味で元の私に戻るわけじゃない。この数日重ねた醜い行為は消せないし、今の私はその上に生きていくしかない。その上を、進んでいくしかない。まだ、進むしかない。けれど、居場所がそこにあるのなら。

 進むことは、できるんだ。

 前に進めるかやその意味なんて、それは問いかけるものではなくて。前に進んでから、進んだ先で考えるものなのだと。時間は止まらない。未来は常に広がっている。だから、進みつづける。

 ならば、真っ直ぐ進めるはず。どんなに彷徨っても進みつづけるのなら、いつかは前へと真っ直ぐ進める。あるいは私は、ようやくそのことに気づくのだ。

 大人の私は、大人に慣れた。

 少しずつ、自分を赦し始めていた。

 みんなが支えてくれたおかげで、羽化したばかりの白鳥はゆっくりと翼を広げていく。

 死への飛翔ではない。

 堕ちた空は、まだ青いと示すため。

 

 

 

 

 

 

 ぴろりろ、とスマホが鳴り響いたのはフラワーが帰るか帰らないかという瀬戸際くらいの時間帯だった。電話をかけてきた相手は、先程まで私が名前を挙げていた人だった。きっとこのことは偶然ではなく、必然。私があなたのことを考えていたように、あなたも私のことを考えていたのだろう。ずっと、ずっと。あの日から、ずっと。

 同じことを、考えていた。

 一瞬、フラワーの方を見る。彼女はにこりと笑って、ただ一言。

 

「大丈夫ですよ、絶対に」

 

 そう言って、ぽんぽんとその柔らかい手のひらが私の肩を叩く。丸くて薄べったくて、一人じゃ前に進めなくなった小さな肩。それを、押してくれる。

 なら、進もう。受信アイコンをスライドさせ、恐る恐る、けれど震えない手で。

 

「今から時間ありますか、スカイちゃん」

「はい、トップロードさん」

 

 いまだ忘れられないあの瞬間、冷たいドアに叩き付けてでも届かせようとした、ずっと固く握られたまま届かなかった彼女の手を。

 ドアを開いて、指までほぐして。

 しっかりと、私は掴み返した。

 再び向けられた拳を、今度こそ手のひらの形で掴んで。

 前へと、進み始めた。

 今度こそ、進もう。君と一緒に。

 みんなと一緒に、いられるのなら。

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