トレセン学園のだだっ広い校内には、普段使われていないような教室がいくらかある。誰も来なくて、埃を被っていて、少しも見向きなんかされなくて。けれどそんなか細い存在だからこそ、救えるものもあるのだろう。私がトップロードさんに、その空き教室に呼び出されたように。すべてには意味がある。価値がある。無意味で無価値こそ、ありえない。
南館奥三階の312号教室。今まで一度も行ったことのない、今日初めて向かう場所。もしかしたら呼び出したトップロードさんにとってもそうかもしれないし、あるいは逆にトップロードさんにとっては独りになりたい時のための馴染みの場所なのかもしれない。どちらなのかなんてこと、私にはわからない。まだあなたについては、知らないことがたくさんあるのだから。だから今この関係を途切れさせるわけにはいかないのだろう。あなたの未知を、私の未知を、永遠にわかり合いつづけるのだろう。そう思いながら、たか、たか。歩みを、校舎への歩みをひたすらに進めている。静かに、弾んでいる。
「ちょっとスカイさん、私もついてきてよかったんですか」
「いいよ。私がもし変なことを口走りそうになったら、フラワーに止めてもらわなきゃ。もう二度と、失敗なんてできないんだから」
「……そうですか。それなら、喜んで」
「うん。よろしく、フラワー」
制服に着替えて、弾けるように寮を飛び出して。そしてこうして学園への道をフラワーと共に駆けるまで、そこまで戻るのは一瞬だった。仄かに残った私の残滓を、追いかけ始めるのは一瞬だった。私が私に戻る速度は、歩み始めた瞬間から加速しつづけていた。でも、まだ足りない。今までゼロどころかマイナスに進みつづけていた私が元に戻るには、まだ足りない。
「さて、久しぶりの校門だ」
「緊張しますか、スカイさん」
「ううん、何百回も通ったところだもん」
「それでも、今のあなたにとっては初めてです」
「……そうだね。でも」
「はい」
「でも、怖くないよ。この先に進めばいいって、そのことだけはわかってるからさ」
「はい。行きましょうか」
「うん。もちろん」
だから、まだ足りないから。まだ、前に進む余地があるのだ。私が今から戻るのは、そっくりそのまま過去の同じ場所にじゃない。今の私のために新しく用意された、少し先の未来の居場所なのだから。私はみんなと、先へ進む。
「学園内は静かに走るべし」。久方ぶりに訪れた場所の校則を思い出し、人通りのまばらな廊下をフラワーを連れて走っていく。ここ数日ただの骨と皮だけになっていた脚に、再び新しい血が巡り始めていた。もちろん、全力には程遠い。もう永遠に、全力には届かないかもしれない。それでも、走っていた。私は再び、走り始めていたのだ。静かに、確かに。校則通りに、まだ私はトレセン学園の生徒なのだから。過去から、変わらずに。
階段を一つ登る。また廊下を走る。平べったいリノリウムの感触が、足の裏から全身を静かに揺さぶりかける。無我夢中で脚を回す感覚。少し厚い踵の皮が靴越しに地面と触れる感覚。どれもこれも懐かしくて、どうしようもなく馴染んでしまう。そこにあったのは今まであれだけ否定していても、走り始めれば否定しきれないものだった。
「スカイさん、笑ってますよ」
「えっ、そうかな。見間違いじゃない?」
「少しだけでしたけど、見逃しませんよ」
「……どれくらい笑ってた?」
「ちょっとだけ、口の端っこを二センチくらい。溢れちゃった、って笑みですね」
「……参ったなあ」
そっかあ。フラワーに呼び止められて、私は何も言い返せない。そりゃあほんとに参った。
理屈を積み上げて、一生懸命に大人になろうとしていた。その先が幸せでなくても構わないと思っていた。すべてが私を否定することを心のどこかで望みながら、一方で自分が自分を認められないことにまた心の別のどこかで苦しんでいた。だから色々な酷いことを、心底頑張ってやっていた。頑張れば認められる気がしたから。多分いまだに、努力は報われるのだと思っていたから。過去を否定したつもりでも、そこにある理屈は昔のまま。屈折したまま、結局重ねていたのは愚直な努力だったのだ。
なのに。
なのに、今の私は。
なのに今の私は今まで私が続けてきたものを止めるのを、頑張らないことを嬉しいと思ってしまっている。拒絶、否定、諦め、終わり、死にゆくだけの大人の道のり。
大人になってから今日まで積み上げたそういうものなんか、この数日の全力の努力なんか、無駄になってもいいと思ってしまっている。
だって、そんなの耐えられない。
私は誰かがいないと、生きてはいけないのだから。
私は大人になっても、結局は甘っちょろいセイウンスカイのままだった。
他人に頼り、他人に寄り添い、他人を振り回して誑かす。
トリックスターは独りじゃ立てない。気ままにいられるのは、他の役者の演目があるからこそ。「ここにいていい」と赦されるから、私はみんなのそばで曖昧に生きていられたのだ。フラワーに呼び止められて思ってしまったのは、そんなある種の当たり前だった。当たり前のように、前と変わらない自分がそこで立ち止まっていた。
何も、変わっていなかった。
されど、もう一度冷たい床を踏み締める。少し西日の差してきた校舎の中を、前へ、前へ、前へ。そんなふうに変わらない自分もいて、だけど今みたいに変わってゆける自分もいる。だって物事はなんだってコインの裏表、ひっくり返せば真逆のものがくっついているんだから。
こつ、こつ、こつ。階段を再度、一段一段登りゆく。弾む足音、揺れる世界。視界と身体が揺れ動けば、同じぶんだけ世界も響く。世界の見え方で、私の世界は簡単に変わる。だからあっという間に壊れてしまう時もあるけれど、故にこそ壊れた世界を修復することは不可能ではないのだ。見え方を、もう一度変えればいい。堕ちてきた空だって、きっと元のように張り直せる。……ううん、元のようにじゃない。
「トップロードさん、来ましたよ」
元よりも、キレイな青空にできる。私だけじゃない、私たちならば。
がらがらと、ドアをスライドさせて。
そこに、二人の影を見た。
ひどく見慣れた、形だった。
単純な話だ。ごくごく、単純な話だ。
あの日閉ざしたままだった、扉の先を開いたら。
いつもと同じ君とあなたが、あの日と同じように立っていただけ。
私のために、待っていただけ。
それだけあれば。それだけの、みんながいれば。
世界の見え方は、180度変えられる。
堕ちた空を、廻天してみせるんだ。
「久しぶり、スカイさん」
「なんだ、キングもいたの」
「トップロード先輩にお願いされたの。そういうあなたも、付き添いが居るみたいだけど」
「……なんだ、スカイちゃんと考えることは一緒でしたか」
「そう、ですねえ。二人きりで話すのは怖いって、そんなとこまでお互い様でしたか」
午後五時を超えた教室は、誰もいなくて当たり前。私たち以外は、だったけど。教室に入って右側にある真っ新な黒板と、左側に押し込められた机と椅子の山。この時間帯の教室は誰もいなくて当たり前だけど、もとよりこの場所は普段使われていない教室。本当に、私たちだけの空間。キングと、フラワーと、トップロードさんと、私。私たち、みんなのための空間。いつしか花開いた私とみんなのつながりは、ここでようやく。
ここでようやく、一つ大きな実を結ぶ。そういうことかもしれない、そんなふうに思った。
「スカイちゃん」
「はい」
「今日は、来てくれてありがとうございます」
「はい」
「そして、本当にごめんなさい」
「……それは、お互い様ですよ」
「だとしても、です。お互い様なら、こちらだって謝らなきゃいけません。あの日スカイちゃんが、私に謝ったように」
謝罪という言葉のかたち。それは互いに互いを認める限り、受け入れて肯定するしかない。だから、口に出すのには勇気がいる。強い強い、言葉のかたち。
だけど、トップロードさんは口に出せた。あなたも、勇気を振り絞ってくれた。
私のために。あの日と同じように、私のために。
「ごめんなさい。私のわがままで、自分のわがままな気持ちを止めることができなくて。いつだって頼れる先輩で居たかったのに、そうできなくて。……スカイちゃんより、子供です」
「そうですね、そうかもしれません。私は大人になってしまいました。大人になって、みんなのことを傷つける大人になってしまいました。だから、私が大人なら。きっと駄目な大人ですよ、あなたより。……ごめんなさい」
「もう、謝らないでくださいよ」
「ごめんなさい。やっぱり、謝らなきゃって思います」
いざ言葉にしようとすると、私の口からはまた恐れをなしたフレーズばかり。やっぱり私は、独りじゃここまでしか進めないのかもしれない。大人になったら、誰にも頼れず一人なのに。不器用で本音をひた隠しにして、誰にも弱音を吐きたいとは願えないのに。
でも、それでも。誰にも頼れなくても、それでも。
「……スカイさん、落ち着いて。今日はみんな、スカイさんの話を聞きに来たんですから」
それでも私には、大人の私を追いかけてくれる人がいる。追いかけて捕まえて、並び立ってくれる人がいる。今の私と過去の私を、繋ぎ合わせて一つにしてくれる人がいる。捨ててしまった私を、拾って届けてくれる人がいる。
そんなみんながいるってことを実感させてくれるフラワーの言葉で、私はまた支えられて。独りじゃないって、そういう気がして。すーっと息を吸う。ふーっと吐き出す。茜色の差し込む窓際に立つ、二人のウマ娘と。その反対側に立つ、傍らの少女と私自身を見て。
「話しても、いいですか」
ぽつりと、呟いた。無言の肯定が、私の呟きを優しく迎える。傾いた太陽と三人の目が、じっくりと私を見守っていた。……うん、じゃあ。
堰き止めるのは、もうやめよう。
認めてくれるのならば、私を見てほしいとは思ってしまうから。
醜くて、拙くて、弱くて、ちっぽけな。
本当の、私を。
「有マ記念で、グラスちゃんに負けた。多分それが、私にとっての終わりの始まりだった。一番人気に応えられなかった。人気なんて関係ない、私と他のライバルと思ってた子には実力差があるんだって、きっとそこで最初に思っちゃった」
滔々と、言葉を重ねる。限りなく無色に近い、純粋無垢なかたちのもの。
きっと一番、素直になれていた。
今でも過去でもなんでもいい、それは私の言葉だった。
大人でも子供でもいい、「セイウンスカイ」の弱音だった。
「それで、エルが海外に行った。最優秀クラシックウマ娘まで取ったのに、もっと先の夢を見つけて。その時に、自分はどうなんだってことも思ったはず。クラシックの成績で満たされて、そこで終わりなんじゃないかって」
先のある人間。先のない人間。その差が、きっと怖かった。そこにある差の本質は才能であり、誰もの期待を裏打ちする何より残酷な事実。
実力の差が、怖かった。みんなに、置いていかれる気がした。
「そして前の春の天皇賞で、スペちゃんに負けちゃった。あの時のスペちゃんは完璧じゃない。多分私と同じ、不完全な状態だ。それでも、強い子は強いんだよ。そう、わかっちゃったんだよ」
「そうね。グラスさんもエルコンドルパサーさんもスペシャルウィークさんも、憎たらしいくらいに強い。……私も、思うもの。私は並び立てているのか、って」
「……そう、キングの言う通り。でも、キングはまだ頑張ってる。私は逆で、これ以上先には何もないって直感しちゃった。キングとも、並び立てないと思った。だから、先に閉じようとしたんだよ。……うん、ごめん。だから私は、みんなが怖かったんだ。ライバルのようにはなれないって、マイナスの感情を持っちゃった。それも含めて、赦されないことだと自分を定義した。走るのを諦めた、自分は」
「それでスカイちゃんは、あれだけ苦しんでた。……私、スカイちゃんのこと何にもわかってなかったですね。……ごめんなさい」
「いいんです、トップロードさんはやっぱり悪くない。回りくどいことをして、素直に言えなかった私が悪いんです。……でも今度こそ、言いますね」
今度こそ。そう、今だからこそ。
「走るのが怖い。だから、助けて」
今度こそ私は心の底からの願いで、助けを求めなければいけない。
私を、みんなを。
すべてをあの空の向こうへ連れていく、限りない大翼を広げるために。
「走るのが怖くなりました。そうなったらやっぱり、走るのは苦しいです。これ以上走ったら、失望されるだけです。セイウンスカイはこんなものかって、期待を裏切るだけなんです。それなら最初から期待されない方がいい。走らなきゃがっかりはされてしまうかもしれないけど、期待を重荷に感じてしまうよりよっぽどいい」
積み木の山を崩すように、私は弱音を吐きつづける。積み上げた言葉の山を、全部全部吐き出して。私は、ただ一つを願っていた。今度こそ、だった。言葉のかたち自体は先日みんなにぶつけた拒絶と大して変わらないけれど、そこに乗っている色は全く違う。醜悪で穢らわしい、自分自身を痛めつけるための色とはまるで違う。
消えそうで溶けそうで、だけどどこまでも切なく光る。
助けてほしい。そんな、薄くて深い色だった。
「……私は、だから。だから、だから大人にならなきゃいけないって思った! 大人になって、諦めて、割り切って、何とか生きようとした! そうしなきゃ耐えられない、きっと捨てた過去が寂しくなるってわかってたから! ……なのに、みんな優しくて。それでもいいよって、今の私でもいいよって言ってくれて。それなのに私自身が、私のことを赦せなくて。元の場所なんて戻る資格がない、そう自分自身に言い聞かせられてきて」
膨れ上がる感情と共に、涙腺が刺激される感覚がある。つい、涙が溢れそうになる。私に泣く資格、あるのかな。自分のことなんかで泣いて、いいのかな。
ああもう、わかんないや。
溢れちゃった。
「だから、だから! だからみんなのことも嫌いになりたかったのに、嫌いになんかなれなくて! そうしたら嫌われるしか、方法は見つからなくて! でも、嫌ってくれないの。キングもトップロードさんもフラワーも、みんなみんな優しいの」
「スカイさん、それはスカイさんが優しいからですよ」
ぽふり。ぎゅーっ。みっともなく泣き崩れてくしゃくしゃになってしまった私の後ろから、小さくて暖かい体重がのしかかる。
優しく、柔らかく。けれど確かに、私を抱き止めながら。
ニシノフラワーは、言葉を続ける。私を支える、君の言葉だ。
「スカイさんは、スカイさんが思っているより優しい人です。優しくて、強い人です。自身なさげに走っても、いつのまにか勝っちゃう人です。今日も少し走っただけで、嬉しくて顔が綻んじゃう人です」
「……そんな、私はっ……そんなっ……。私はだって、弱いから他人にしか頼れなくて、自分の強さなんてなくって、才能もなくって……ぇ……っ」
……そうなのかな。そう、そんな私でいいのかな。涙交じりの思考は、ただ彼女からの言葉を受け止めることしかできない。これ以上ないくらい、素直にそのまま受け取るだけ。
けれど、そうするだけで十分なのだろう。
私たちのつながりなら、あとは言葉の糸を伝う震えだけで語り合える。
次に会話を引き継いだのは、キングだった。
これはきっと想いのバトン。だから話者が変わっても、そこに込められた色は一つ。それを伝えるために、この空間は私たちだけのために開かれている。
「そうよ、スカイさん。あなたは走るのが怖いと言ったけれど、それならそのあなたに負けている私はなんで諦めてないのか、不思議に思わなかったの? それでも、走るのは楽しいからよ。私は何度か自分の負け戦のリプレイを見るようにしているけど、菊花賞の時のあなたは、最高に幸せそうな顔をしていた。そんなあなたが走るのが怖いなんて、ありえない。何度負けようとも、あなたは走りたいはず」
「でも私はっ、きっともう、変わっちゃってるの! みんなと違うってはっきり思っちゃったの、スペちゃんみたいに才能はない、エルみたいに未来はない、グラスちゃんみたいに努力はできない、キングみたいに誇りは持てない! だから、だから私には走る理由なんて、もうっ……もうどこにもっ……!」
そんな何度も心の外と内に投げつけつづけた否定と拒絶も、今の三人には敵わない。三人がかりの想いの力には、独りきりでは敵わない。私の今までの言葉は、固く閉ざされた門のようなもの。その奥にある私の本当の願いは、今この瞬間に強引に開かれようとしている。
確かに強引だけど、これしか方法はないから。随分と荒療治だとしても、ここにある道のりしかありえないから。みんなの力を借りなきゃ、私は私じゃないから。
最後にバトンを受け取ったのは、トップロードさん。
あの日の怒りより強い想いを、怒声とは真逆の限りなく優しい声音で差し伸べる。
経験したおかげでより強い想いを持てたのなら、過ちだったはずの怒りも無駄じゃなかった。きっと、そういうことでもある。
「ううん。違うんですよ、スカイちゃん。スカイちゃんはまだ、私たちの話を聞いてくれるじゃないですか。あの日私を怒らせたことも、悪いって思ってくれちゃったじゃないですか。それはとっても、とーっても大事なことです。スカイちゃんがスカイちゃんのままだって、その証明です」
「私の、まま……?」
「はい。スカイちゃんも本当は、とっくにわかってるんじゃないですか? 確かに、変わってしまったことはあるんだと思います。あなたにとって大事だったものが、見つからなくなったり。けれど、それならまた探せばいいんです。それが大事だって気持ちは、絶対に変わってないんですから」
「だい、じ。わたしの、だいじな、ことは」
「きっと、探せば見つかります。それを整理するためにも、まずは思いっきり泣いてください。……大丈夫、私たちしか見ていませんから」
それが、本当の赦しだった。
私は、泣いてよかった。
助かりたいって、思ってよかった。
まだ走りたいって、思ってよかった。
そこより先の感情は、今はいらない。赦されたという事実に、浸っていたい。その地点で思考は止まり、後はただただ感極まっていた。静かに、音はなく。
きっとキレイな夕空を映した雫が、柔らかい木の床に溶けてゆく。
そのまま、しばらく。
すべての気持ちが、ほどけてゆくまで。
「落ち着いたかしら」
「うん、なんとか。気持ちの整理ってやつは、多分済ませた」
気づけば太陽は月と入れ替わり、すっかり夜になっていた。教室の時計は大体午後八時。うわ、そんなに話して、あと泣いちゃったのか。なかなか貴重なはずの三人の時間を、私のためだけに使わせてしまった。多分あとで、埋め合わせが必要だ。……あとと言えば、同期のみんなにも、心配をかけて仄暗い気持ちを向けたぶん、何か。とりあえず気持ちがはっきりしてきて、まずはその二つを思ったけど。
でも、もう一つ。
私には、やらなきゃいけないことがある。
今の私だから、できることがあるんだ。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「……トレーナーさんの、ところですか」
「はい。今の時間なら、一人でチーム部屋にいますよね? 会って、話をしてきます」
「大丈夫、ですか」
「大丈夫ですよ、トップロードさん。先程言った通り、気持ちの整理はつきました。それに」
「それに?」
途切れた言葉にしっかり継ぎ足すために、私はようやく立ち上がり。笑った膝をなんとか手で押さえながら、すべてを見据えて宣言した。
「ここから先は、大人の時間。大人二人で、話をしてきます」
「……そうか。スカイちゃんはもう、大人なんでしたね」
「はい。やっと、大人になれました。これは間違いなく、みんなのおかげです」
みんなのおかげで、立ち直れた。みんなのおかげで、元の私に戻れた。そしてみんなのおかげで、元の私より更に先に進むのだ。馴染み切らずに苦しみつづけた大人に、慣れるんだ。ここまではきっととても、とても遠大な回り道。だけど一方で必要な、回らなければいけない第四コーナー。ステイヤー気質の私には、必要な長距離走。
最後の直線は、近い。そんなラストスパートへの行き方も、その果てにあるゴールも、どれもこれも走るのは難しいけれど、今度こそ私は知っているから。
大人の私の、走り方を。
私があの日、本当に言わなきゃいけなかったことを。
私の気持ちの、正体を。
「じゃあみんな、本当にありがとう。特にフラワーを連れてきたのは、私だし」
「いえ、スカイさんの力になれたのなら何よりです。それが嬉しいって、言ったじゃないですか」
「そだね。なら、またいつか頼るかも」
「はい、またいつでも」
「でも今は、一人で行くよ」
「はい、それもきっと大事なことですから」
時間をまたかけてなんとかまともに立てるようになって、少しよろけながら教室の扉をスライドさせる。このざまじゃやっぱり、みんなを不安にさせてしまうかも。そんなふうに思いはしたけれど、もう誰も私の背中を追うそぶりは見せなかった。これもきっと信頼と期待。私なら、うまくやれる。今の私にしか、たどり着けないゴールがある。そうやって信じてくれるのなら、私はそれに応えるだけだ。いつも通り、ね。
「じゃあ、キング」
「行ってらっしゃい」
「トップロードさん」
「頑張って、ください!」
「フラワー」
「とりあえず、今日はさようならですね」
「……うん、みんな。ありがとう、また明日!」
そう、とびっきりの笑顔で言い残して。向けた背中はとても軽くて、まるで大きな羽根が生えたみたいだった。もしかしたら本当に、三人がかりで私に翼を生やしてくれているのかもしれない。そんな突拍子もない考えが浮かんだ。二度と振り向かなかったから、本当に背に翼が生えているのかいないのかなんて感覚でしかわからない。
感覚ははっきりしないから、ここはコインの裏表。
振り向かない私には、確定させる意味なんてない。
でも、もし本当に生えていたのなら。
それはきっと白く大きな、白鳥の翼だろうと思った。
デネブとアルビレオが作るつながりなど、白く瞬くその光しか有り得ないのだから。
さあ、舞い戻れ。
飛翔する先は終わりではなく、最後の星を掴むため。
アルビレオは二重星。
あなたと私で、一つの輝きなのだから。
駆けろ、星の速さで。願い叶えるほうき星を、見失ってしまわないように。今度こそ、あなたに置いていかれないように。校舎の三階からチーム部屋までは100mとちょっと、いつものレースなんかよりとっても短い。だけど、長い長い道のりだった。ここまで来るのが、今日までたどり着くのが、ひどくひどく遠かった。これは回り道かもしれない。他の誰かならもっと効率的に動けたかもしれない。
でも不器用な私たちには、きっとそれくらいの長さが必要だった。だから、無駄じゃない。
校舎を飛び出したところで網膜の隅にまで焼き付いたのは、満天に煌めくキレイな星空だった。この空を、私は生涯忘れることはないだろう。だって今日は運命の日。私が大人に慣れる、本当に大人になれる、大切な日なのだから。
何度も行き来した記憶をたどり、馴染み深い場所に行く。たった数日来ていないだけなのに、幾千幾万の夜を超えたように錯覚する。
それほどまでに親しみ深く、愛おしくさえある小さな場所。抱き締めて、離せない場所。
私の、居場所だ。
僅かに荒れた目的地までの地面は、私たちの日頃の歩みで獣道を仄かに形成していた。その上をなぞる様に軽く脚で擦り付け、また新しく地面に傷跡ができる。この獣道も、私たちの積み上げたものの一つだ。私たちが何度もここに通うことで、道のない場所に道ができていた。おかげで私は今、夜の闇の中でも確かに光るあの場所を見失わずにたどれている。もうほんの少し先、あと30mもないラストスパートもラストスパート。古ぼけた小さな小屋は、今も変わらずそこにあった。うん、灯りもついている。そこで、あなたは待っている。
ゴールのその先に、あなたの姿を見ることができる。
……怖い。きっと、怖い。そうじゃなきゃ、こんなに呼吸は荒れていない。幾多のレースを乗り越えた心臓が、この程度の距離ではち切れそうなくらい苦しくなったりしない。でも、それでもなのだ。それでも、やらなくちゃ。それでも、やりたい。だって、それでも。
ゆっくりと減速する。脚は徐々に回転を緩める。
止まった時には、見慣れた扉が目と鼻の先にある。
それでも、私は。
「入るよ、トレーナーさん」
それでも私は、あなたのために。
あなたと私を救うために、ただ話をするために。
ぎこちないノブを回して、軽くて重い扉を開けた。
返事なんて、待たなかった。
大人の私に、あなたの「許し」は必要ない。
部屋の外からでもわかったことだけど、<アルビレオ>のチーム部屋を包む灯りは、トレーナーさん備え付けの机にあるデスクライト一つぶんだけだった。相変わらず埃っぽくて、ごちゃっとした部屋だった。
狭くて、小さくて、なのに誰でも飲み込んでしまう、不思議な場所だった。
でも、これじゃ今日には暗すぎる。ドア近くにあるスイッチを入れると、ギラギラと眩しい蛍光灯が部屋中を照らす。隅の隅まで、闇が消えてしまうまで。
果ての果てまで、光が私たちを暴き出すように。
そうしてやっと、私はあなたの姿を見る。何着同じのを持ってるのかわからない薄手のカッターシャツ。その袖から伸びる骨張った腕。昔の剣道部だかでできただろうタコの消えていない、ゴツゴツとした節のある指先。そんないつも通りの姿形で、必死に書類と向き合っていた。
暑苦しいな、といつもは思っていたけれど、こうして見るとあなたの指先は苦労を重ねた手にも見える。そこについては多分私が考えた通りで、トレーナーさんも大人になるまでにトレーナーさんなりの苦労があったということだろう。そしてようやく大人になったあとも、今日までのように苦労を重ねて来たのだろう。
私が今日までちょっと積み重ねてきたものの、何十何百何千倍だとも。
人は変わる。人は苦労する。
それは大人になってもで、どこまで行っても完成しない。
大人になれば終わるなんてのは幻想で、どこまでも道は続いていく。むしろ他人を安易に頼れなくなった大人の方が、子供の頃より辛い時もある。
ほんの少し前の私のように。
今必死に私を無視する、トレーナーさんのように。
『自分はもう、セイウンスカイには必要ない』
多分、トレーナーさんはこう思っている。私が言った通りに律儀に、愚直に。そう、このことが私の、償えていない本当の罪なのだ。強くて堅い大人の弱みを、一筋に貫いて崩してしまった罪。あの日あなたは私の吐き捨てた言葉を受け止めてしまった。大人だから、あんな拒絶を真っ向から受け止めてしまった。私の身勝手な「正論」。
あなたと私は違うという、当たり前のこと。
その色を、受け入れた。
それは、確かに当然だ。トレーナーとウマ娘は、非対称のパートナー。どれだけ重なり寄り添えど、決して一つにはなり得ない。そんな、当たり前。
だけどだからこそ私には、あなたが。
二重星は双星の輝きから成ることで、初めて世界を照らせるのだから。
だから。だからこそ、だよ。
だからこそ私には、あなたが必要なんだ。
「トレーナーさん」
あなたの目の前に立つ。あなたが目を逸らしても、月の作る二人の影が重なるように。そして影から生まれる光さえ、重なってしまうように。
そうやって、立ち塞がる。闇を覆い、光を共に受けるため。
私は、あなたの一番近くに立つ。
それでもがりがりと黙々と、いつもあんなにうるさいのに押し黙っているトレーナーさんがいて。一向にこっちなんて見る気はなくて、いつにも増して強情で。
大人、大人、大人の対応。確かに子供なら、それで諦めてやるだろうけどさ。
……ああもう、じれったい、なあ!
がしり。ひたすらにインクを走らせるそのざらざらした右の手の甲を、むりやり上から握りしめて。大きくて、掴みきれなくても。ぎゅっと、ぎゅっと捕まえて。すかさず逃げ出す左の手は、その手首の太い骨ごとわっかに閉じ込められるよう全部の指を回して。デスク越しの攻防はあっけなく終わった。まあヒトとウマ娘のパワーの差、ってやつかな。
ほら、捕まえた。こうなればもう、あなたは私の顔を見るしかない。私も、あなたの顔を見るしかない。逃げられない。お互いに。
私もあなたも、一歩だって逃げない。
だから、もう一度。
あの日から、もう一度。
「トレーナー、さん」
あるいは今度こそ初めて、話がしたいんだ。
冷たい沈黙が場を包む。それでも怯まずあなたの方を見つめつづける。こちらに目が向いてくれるまで、ずっとだ。捕まえた両の手も動かさないし、これ以上暴れるならウマ乗りになってでもとっちめてやる。そのつもりだ。
もう金輪際、私たちの間に断絶が生まれないように。どんな静寂も世界を引き裂かないように、私はあなたを待ちつづける。つながりは、二度と途切れさせない。
私がそう決めたのだ。一度はあなたを突き放した、私が。
私はあなたを拒絶した。
私はあなたを壊そうとした。
大人なんだから耐えられるだろうと、甘えた言葉を投げかけた。
でも、そんなわけはなかった。
大人でも辛いことはある。
大人の方が辛い時もある。
大人になった、私ならわかる。
だから。今、今になって話すべきことがあるのだから。
「……なんだ」
だからこれから始まるやりとりは、大人同士の会話なのだ。大人だから言えること、大人と大人だから言えること。
そういう話を、しようよ。私の、トレーナーさん。
ほら、あなたも口を開いた。いつもの暑苦しい言葉が出てきそうにもない、いつも通りのかさついた唇。やっぱり、あなたは変わっていない。もちろん変わったところもあるけれど、それでも変わらないところはある。
「……言いたいことがあって、来ました」
だってこうやって最後には、私の瞳を見据えて話を聞いてくれるのだから。
蛍光灯よりもデスクライトの光よりも、窓の外の星空がキレイだった。
「なあ、腕を離してくれないか」
「それはお断りします。全部聞いてもらうまでは、この態勢です」
「君もしんどいだろう、机に前のめり」
「トレーナーさんほどじゃないですよ、壁に押し付けられて」
「君のせいだ」
「そりゃ、もちろん」
はあ、とため息を吐かれた。ちなみにその顔は常に50㎝くらいの距離を保って見つめてやっているので、ため息のタイミングなどでぷいっと定期的にそっぽを向かれる。そんなに気恥ずかしいか、自分を追い出したウマ娘に見つめられるのは。
まあ、それでも。どんな態度を取ろうと、トレーナーさんはトレーナーさん。あの日私が別れを告げて、今再び取り戻そうとしている人。いつも私を励ましてくれて、そのくせわかりやすく一人で悩むこともある人。
私にとってかけがえのない、あなた。
だからこそ、私はあなたに伝えたい。
「まずは天皇賞の日、すみませんでした。……とりあえずこれは言っておかないと、何もいう資格がない気がして」
思えば、最近の私は謝ってばかりだ。拒絶のために、懺悔のために、結び直すために。
それでもそれだけ、罪を謝ることの意味は深い。そこに込められた人の想いを、ありありと映し出す透明な鏡。だから私はきっと、今までそうすることを躊躇してきた。だから私はきっと、今ならその言葉を言えるのだ。
「ごめんなさい」を、形にできるのだ。
「本当に、ごめんなさい。酷いことを言いました。謝って許してもらえることじゃないのもわかります。……それでも、この気持ちは伝えなきゃって思って」
「……君は、悪くないだろう」
そしてやっぱり躊躇いがちに、だけどあなたは私の言葉に言葉を繋げてくれる。
会話とは、細い糸を結び合うようなもの。一度ほどいた会話を再び結び直すのは、散らばった糸屑から目当ての色の糸を探し当てるようなものだ。難しいけれど、不可能じゃない。あなたの言うように努力すればきっと、結果に必ず結びつくもの。
ようやくで、まだ拙くて。けれど、確かに。
大人の時間の、大人の会話。
そこに、二人でたどり着いた。
「悪くない、ですか。まだ、そう言ってくれるんですね」
「そうだ。……あれから、俺も考えた。スカイを追い詰めたのは、俺が君に結果を出させることができなかったから。それなのに、期待を見せつづけていたからだ。それが負担になっていた。そのはずだ」
「確かに、そういう見方もできますね」
「トレーナーの仕事は、ウマ娘の夢を実現させることだ。つまりそれができなかったとしたら、そのことは俺の責任なんだよ。君の才能、なんかじゃなくて。だから、君は悪くない。悪いのは、俺の方だ」
「……はぁ」
「これ見よがしにため息を吐くな」
むう。そうはいうが、そりゃそうだろう。そんなのは綺麗事、まさに正論。それだけじゃないって、大人ならわかるのに。この人は大人だからこそ、また根性論と正論で押し通そうとしている。つくづく、ずるい。ずるいのなんて、私だけでいいのに。
大人の特権じゃない、私だけの特権にさせてくれればいいのに。
「あのですね、トレーナーさん。一つ、教えておきますけど」
「なんだ」
「弱音を吐いたのに否定されるのも、それはそれで辛いんですよ?」
そう、その通り。私の弱音を否定すること、そんな赦しはもう要らない。
罪を否定はしなくていい、大人の私は十分すぎるくらい赦されたから。
つまりあなたに私が求めるのは、私の罪を否定するんじゃなくて。
「……それは、すまん」
「はい。だからもし、私に悪くないって言いたいなら」
「どうすれば、いい」
「認めてください。私のことを、褒めてください。……それだけで、いいから」
罪も含んだ私のすべてを、肯定してほしいのだ。
私はあなたに、褒められたい。
「スカイは良くやっている」
「もっと」
「そうだな、気配りもできるし頭も回る」
「もっと、ください」
「レース運びにはいつも惚れ惚れさせられる。あとはそうだな、ケーキは美味かったし、釣りもうまい。それに、優しい子だ。……それと」
「……あーもういいです、慣れないことを要求するもんじゃないですね」
「そうか。だが、君はよくできたウマ娘だ。偉いぞ、スカイは」
……いっつも褒めないくせに、こんな時だけたっぷりと。ぽつぽつとぎこちないくせに、そのぶん普段よりずっと真っ直ぐな言葉で。慣れないくせして、やると決めたら徹底的で。
ああもうほんとに、心の底から思うけど。
苦手だなあ、この人のことは! 出会った時から、ずーっと!
「もう、わかりましたから。トレーナーさんが、私を買ってくれているのは。……そうですね、それが期待と賞賛というものです。子供の私が欲しくて欲しくてたまらなかった、だけど諦めようとしていたもの。それに気づかせてくれたのが、トレーナーさんでした」
でも、あなたがそうしてくれるのならば。それならば、私もできるだけ素直な言葉を返そうか。そう思って吐き出した言葉は、今まで何度も食んでは出さずに飲み飲んでいたもの。だから多分咀嚼しすぎてどろどろで、きっと他の人には見せられない。
だけど、あなたになら。
「それでも、私は更にそこから変わっていった。だからいつまでも、子供じゃいられなくなった。変わってしまったこともあると、やっぱりみんなと話した結論はそれです。私は、変わっていました」
「聞かせてくれないか。君のいう、結論について」
「……もちろんですとも」
いつのまにか互いの身体の力は緩み、ただ向かい合っているだけ。両の手のひらを繋いで、そのまま向かい合っているだけ。手のひらと手のひら越しに、あなたの熱が伝わって。普段は低い私の平熱を、あなたの存在が暖かく染め上げる。
「私はずっと、あの春の天皇賞で思い知らされたものを勘違いしていました。今の私には才能がなくて、だからどうしても勝てないんだって。有マもそう、天皇賞もそう。そう思うことで、別のものから逃げ出していたんです。走るのが怖い、そう思うことで」
「なら、君は走れるのか。もう一度、夢を見せてくれるのか」
「それは結論が早いですよ、トレーナーさん」
「……すまん」
「謝らなくていいですってば。話をややこしくしてるのは、私が悩みつづけてたからですよ」
「悩むことは必要だ。それで前に進むことができる」
「流石の正論ですね。まあ、今回は同意します。私は悩んだことで、この結論にたどり着きました」
悩まなければ、きっと自分でも気づけなかった。
悩んでこれだけ回り道をして、皆に支えられたから。
そして今あなたが応えてくれたから、私は答えを述べられる。
そう、私は。
私が見つけた、私の本当の気持ちは。
「私は、走るのが怖くなったんじゃない」
最初に閉じたものとは少しだけ、けど確かに違う結論。終わって諦めるしかないゴールじゃなくて、ゴールの先に次のレースを見据えられる結論。
私はまだ、走りたい。
走りたい私が、本当に怖かったものは。
世界は変わらない。
結果は変わらない。
けれど、方位は変わる。
「私は、負けるのが怖かったんです」
未来は、変わるのだ。
終にあった結論を、喉の奥から吐き出して。
私はようやく、前に進んだ。
「それは当たり前のことだ。何も恥じることじゃない」
「そうですね。でも、多分今までの私は恥じていました。そう思えば期待に応えられないのだと、恐れていました。だから知らず知らずのうちに、考え方を変えていました」
それがおそらく、グラスちゃんが本当に言いたかったこと。スズカさんにも気づかれたこと。私の欠落は、実力じゃない。無論実力差はあるかもしれないけれど、まだ他に詰めれる弱点があったのだ。未完成だった。閉じていなかった。私には、一つ足りなかったから。
「私は負けて、悔しいって思うのを忘れるようにしたんです」
そのことが本当に、私に足りなかったものだった。悔しいと思う気持ちを忘れていたぶん、私は伸び代を失っていた。この感情を見つけたことが私にとってどれほどの意味を持つのかはわからないけど、少なくともこれは隠れていた傷跡。
本当に恐れていたのは、敗北への悔しさだった。
「悔しい、か」
「はい。だって悔しいって思っても、私はこれ以上伸びはしない。多分有マの時から既に、『才能』に縛られていたんですよね」
悔しいことを忘れてしまえば、常にすべてを出し切ったことになる。負けても悔いはないと、強制的に思考を止めることで、私は失望への恐怖を堰き止めることができる。だから、そうしていた。期待を裏切らないいい勝負だったと、敗戦をむりやり美化することで。
才能がないせいで至らなかった、無念の敗北としないことで。
私は誰の期待も、裏切りたくなかったのだ。
「才能がないと、失望されるのが怖かった。惨めに負けて、次がないのが怖かった。だったらこれが全力だと、健闘したって認めてもらえればいいんだって。そう思わないと、怖くて耐えられなかった」
「君は勝てる。これからも、だ」
「優しいですね、トレーナーさん。でもあの時の私は、その言葉が一番怖かったんです」
「……それは」
私の言葉に反応して、トレーナーさんの墨色の瞳がぱちくりと見開かれる。そう、多分驚くと思ったのだ。だから多分、これこそが一番言わなきゃいけないこと。私とあなたの会話は、この一つを言うために再開されたのだ。
「トレーナーさんの期待が、一番嬉しかったです。だから一番、裏切りたくなかったんです。だから、あの時。あの時私は、諦めようとしたんです。……もうこれ以上、あなたの担当ウマ娘の負け戦を見せないために」
「……俺の、ため」
「まあ、私のエゴですけどね」
誰よりもあなたに、負けた姿を見せるのが怖かった。次があるって言ってくれるあなたの、次がなくなるのが怖かった。
いつか数多の敗戦の先にある、あなたを諦めさせる瞬間が、たまらなくたまらなく怖かった。
だから、あなたより先に諦めようとしたのだ。私が勝手に、諦めればいい。引退という残酷な手引きを告げさせる役割を、あなたに負わせる必要はない。私が代わりに諦めれば、あなたは諦めなくていい。傷つかなくていい。
あなたが挫折を経験する必要は、私のためにそこまでして貰う必要はないんだから。
そんな醜い思いやりから、この堂々巡りは始まった。あの日の私の怒りの正体は、あなたへの想いをあなた自身に否定されたことから生まれたものだった。身勝手で間違いだらけで、でもああいうやり方しか浮かばなかった。
大人とは、不器用なものだから。
とても哀れでちっぽけだけど、私という大人にとって初めての、大人同士の気配り。そしてそれを意図せず蔑ろにされたのが、すべての始まりだったのだろう。拒絶と否定を重ねる回り道の最初にあった、はじまりの気持ち。今となっては笑うこともできない、間の抜けた話だ。
だけど、トレーナーさんはそうは言わなくて。優しく、やさしく受け止めてくれて。受け入れて、くれて。
「やっぱり君は優しい。俺はそこまで考えが及ばなかった。……すまん」
「なんで、なんで謝るんですかぁ……」
謝られたら、肯定して受け止めるしかないのに。
あなたは悪くないって、そう言いたかったのに。謝られたら、あなたの罪を認めるしかないじゃないか。……本当に、困るなあ……。
「やっぱり、俺の責任だ。これは本心だ。君の悩みに気づけなかった。君の配慮に気が回らなかった。君の否定を受け入れることが、せめてもの償いになると思っていた。……だが、そうじゃなかった」
「……はいっ、はいっ……! そうじゃっ、ないんだよ……。私は、わたし、はっ……!」
また、泣いてしまっていた。今日二度目だ。頬を拭うべき手のひらはあなたの手のひらをぎゅっと握りしめていて、涙はそのまま机までかさかさの肌の上をぽろぽろと伝い落ちる。
でも、いいや。
泣きながらの言葉だけど、私は今の涙がすべてを取り払ってくれる気がして。一度目に零し切れなかった感情を、積もり過ぎていたものすべてを今度こそ押し流してくれる気がして。
大人と大人の、今だから。
さっきとは違う、涙を流せていて。
「私はやっぱり、走りたくて……っ! 負けるのは怖いけどっ、才能だってやっぱりないんじゃないかって思うけどっ……! それでも、それでも期待されたくて、褒められたくて」
「いいんだ、それでいいんだよスカイ」
「……いいんですよね、私が自信を持っても」
「もちろんだ。それを保証するのがトレーナーの仕事だ」
「いいんだよね、私が夢を持っても」
「当然だ、俺はそのためにいる」
「ならっ、ならっ……!」
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃで、きっととってもみっともない、見ていられないだろう。それなのにあなたは私を逃してはくれなくて、ずっとこちらを見つめている。私を、認めてくれている。
一度だけ、吸って、吐いて。やっぱりもう一度、すーっと吸ってふーっと吐いて。うん、最後くらい。最後の一言くらいは、しっかり言いたいから。
僅かに逸らしていた首が向き直る。また目が合う。迷いは、もうない。
涙ももう、大丈夫。
一緒に抱えた不安ごと、綺麗に雨は降り終えた。
雨空のあとにあるのは、いつだってキレイな虹のかかる青空だ。
「私は走る。まだ、もっと、更に。トゥインクル・シリーズの歴史に名を残せるくらい、その先のドリーム・シリーズに行けるくらい。そうすれば、もっと走れるから。それくらい、走るのが好きだから」
「それは、いい夢だな」
「はい、これが私の夢です。今までの色んなこと、楽しいこと、苦しいこと、全部を束ねた夢です。いい夢、でしょう」
「ああ。だが大変だ。ドリーム・シリーズに認められるには、相当な成績が必要らしい。俺も詳しくは知らないくらいに、だ。まさに、夢の舞台」
「なるほど。じゃあ、頑張り甲斐がありますね」
「……強くなったな、スカイ」
「トレーナーさんのおかげですよ、それは」
そう。私の弱さがあなたのせいなら、私の強さはあなたのおかげ。
あなたがいなければ、私は走ることなんてできないんだから。
そう、そうなんだ。
私にとっての夢が、もっと走ることなら。
そんな私の夢には、きっと。
「トレーナーさん」
「なんだ、スカイ」
「私と一緒に、走ってくれますか」
きっと、あなたが必要だ。
あなたじゃなきゃ、ありえない。
「私の、ゆめを……っ、ささえて、くれますか……?」
「また泣いてるぞ、スカイ」
「……うるさい、この正論男」
「なんだそれは」
「ずーっと思ってたことですよ。これから先も、ずーっと」
「ああ。これからもずっとサポートするつもりだ。俺は君を信じているからな。君は『走る』ウマ娘だと」
「……もう、このばか」
そのまま私は項垂れるしかなくて、残ったのは繋ぎっぱなしの手のひらだった。
もうこちらからはほとんど力は抜けているのに、今度は逆にあちらから強く離すまいと握られた手のひらだった。ごつごつして硬くて、けれどずっと握っていられるような手だった。
そんな、大人の手だった。
大人と大人の、つながりだった。
涙の海に映る、私とあなたが二人。
透明な青空に光り輝く、決して離れない二重星。
「一番人気セイウンスカイ、軽やかにゲートに入ります」
軽やかに、か。まるでなんの苦労もないみたいな顔をしてみせてゲートに入ったのは確かだけど、軽やかにとわざわざ言われると大ごとみたい。まあ、私がゲートを嫌がらないのは大ごとかな。そんなの以外にもここに至るまでの私の苦労が色々ありはしたけれど、そのことは限られた人間しか知らないことだ。そして、知らなくていいことだ。私にできるのは、期待に応えて褒められるってことだけなんだから。夢と期待を背負う、そうありたいんだから。
レース前の地下バ場で、いの一番スペちゃんに謝られた。春の時はごめんって、それでも勝ったんだから誇ればいいのに。それに私だって謝らなきゃいけないような気持ちを抱えていた事実はあって、隠しっぱなしだったそれについてはまだタイミングを図っているからちゃんと謝られると耳が痛い。まあ確かにスペちゃんの歪みは結構気にはしていたから、今復活していたならよかったと思う。遠慮なく、叩き潰せる。
叩き潰せると言えば、キングの目標は今日私を悔しがらせることらしい。「あなたが大人だか知らないけど、私にとっては倒すべきライバルの一人でしかないわ」なんてことを練習復帰初日に言ってのけるのだから、まったく優しいお嬢様だことで。でもそうしてライバルでいてくれるのは嬉しい。私たちは、永遠不変の「黄金世代」だから。並び立たせてもらえるなら、こちらについても遠慮なく、ってね。
きっとあの一幕を超えて、私は子供から大人に成長した。
けれど変わらず、今だって今日だって青く広がるターフを走れている。
飛翔した先には、死ではなく未来が待っていたのだ。
堕ちた空さえ、ひっくり返した。
壊れたる天はぐるりと廻り、青く果てしなくより一層鮮やかに頭上を彩る。
もちろんこの先も走ることは永遠に続けられるとはいかないかもしれないけれど、それは努力で長く積み重ねることができるものだ。
そしてあの時も努力があったから世界は途切れなかったのだろうけど、道を続けてゆけたのは、当然私だけの努力ではない。キングにフラワー、トップロードさんにトレーナーさん。
みんなに支えられて引っ張りあって、私は今ここにいる。
私は、ここにいるんだ。
「楯の栄誉を賭けて、今」
おっと、アナウンスによればスタートはいよいよだ。ここから一歩踏み出した先には、未知のゴールが待っている。
誰が勝つかなんて決まってない、だからこそ私たちは走るのが楽しいって思える。
だってスターティングゲートの向こうにあるものは、煌めきを湛える未来だから。
未来が怖いなんて杞憂は、もう誰も思いやしないんだ。
相変わらず、ゲートは狭い。すべてを決めてしまう。入ったら、終わりが始まる。
だからやっぱりちょっぴり苦手だけど、前よりは少しマシになった。
そこで終わりじゃないと知っているから。
私の努力は、私を裏切らないから。
いつか必ずあらゆる形をとって、今までの自分は助けてくれる。
過去の私と未来の私は繋がっていることを、今の私は知っているから。
紡いだ努力と結んだつながりは、きっと永遠に続きうる。だから今日はゴールまで駆け抜けることだけ考えて、最高の私を見せればいい。たとえまた未来で恐れがあったとしても、積み重ねは必ず助けてくれるから。
私の一番の変化。一番の成長。
それは今日は今日の風が吹くって、とっても私らしい結論を再確認できたこと。
こうして私は、大人になった。
めでたし、じゃない。
ここからまた、ゴールに向けてのスタートだ。
「天皇賞(秋)。スタートしました!」
がこん。そうして開けた視界に広がるのは、やっぱりキレイな青空だった。
最高に、キレイだった。
──ウマ娘。
彼女たちは、走るために生まれてきた。
時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。
それが、彼女たちの運命。
──この世界に生きる彼女たちの、未来のレース結果は、まだ誰にもわからない。
彼女たちは走りつづける。
瞳の先にある、ゴールだけを目指して──。