本格的な釣りというものは釣り座選びから始まる。吟味した場所にどっしり腰を据えるか、あるいはスポットをいくらか見繕っておいて細かく移動しながら釣るか。なにせ相手は野生の魚だ、釣り堀のようにはいかない。まあ諸々、初心者連れなことなども踏まえて……ここら辺かなぁ。ちょと朝早いのでそこまで他の釣り人はおらず、少ないお辞儀と共に私も準備を始めていく。とりあえず、一人分。
もう一人は現地集合だから、今のうちにLANEでメッセージでも送っておくか。
(堤防の先っちょの方にいます……っと)
まだ潮に濡れていないうちにスマホの操作を終え、それを終えたら手早くバケツを海に下ろす。オモリ付きの折り畳み可能な水汲みバケツで、海中に入れると勝手に底がひっくり返って水の中に沈み込む仕組みのもの。なかなか便利で、愛用している。あの人にも同じものを勧めたいくらいだが、釣具ぐらい自分で用意すると言って憚らなかったのでそこは断念。
ほんと、強情ですね。
「……と、さて。……うん、しょっぱいねえ」
バケツについたロープをするすると持ち上げると、海水たっぷりの釣果入れバケツのでき上がり。幅奥行高さすべて22㎝、その標準的サイズの底までたっぷり入った海水に少し指を浸してちろちろと舐めると、当たり前だけど塩辛かった。紛れもなく、潮の味。確認するまでもなく目の前には一面水が広がっているのだけど、それでも毎回これを確かめないと海に来たって感じはしないのだ。泳ぐのは苦手だけど、海は好き。そんな私の一見矛盾した感覚は、殊釣りという趣味によって育てられたものだ。幼い頃から慣れ親しんだ、変わらないものの一つ。
リールにロッドをセットし、金属でできたベールを起こしてナイロン製の釣り糸を引っ張り出す。リールはスピニングリールの2,500番、ロッドは240㎝のサビキ竿。どちらも一般的なサビキ釣り用のセッティングだ。
すなわち、今日はサビキ釣りの日である。秋も深まってきた今日この頃、都内に限らず全国各地は絶好のアジ釣りシーズン。そしてアジといえばサビキに決まっている。ちょっと寒くなって今きたくらいが、魚にとってはちょうどいい水温なのだ。餌を食べたくてたまらない食欲の秋、は人に限らずということか、なんてね。
ロッド先端のガイドに糸を通し終えたら、次は仕掛けのセッティング。解凍しておいたコマセ(小さい餌のこと)をそれ用の小さなカゴに八分ほどまで詰め込み、その下から複数本擬似餌付きの三号サイズの釣り針が垂れているのを確認する。このコマセと疑似餌の混同で針を引っ掛けるのが、サビキ釣りという物の仕組みだ。複雑そうに述べたけど、やってみると案外簡単なはず。うん、初心者を誘うくらいには。
さて、これで仕掛けは完了。あとはもう一人を待つだけ……なんだけど。トレセン学園からそれなりに離れた場所にある海釣り公園はまだ日の出前、始発の電車がようやく出るか出ないかの時間帯。電車もまだなのに朝早くに私が目的地たる釣りスポットに既にいるのは、なんといってもここまで私が走ってきたからだが。普通は周りの釣り人たちみたいに、釣り場の近所に住んでないとこんな時間には来れないだろう。起きれないとか移動手段がないとか、色々な意味で。つまりウマ娘の特権、なのかもね。
さて、私がこれだけ早い時間に到着したのは海釣りが待ちきれなかったというわけ……だけではない。その理由も多分ちょっとはあってしまうのだが、ちゃんと真っ当な理由もある。極めて真っ当な、釣り人らしい理由が。
「よっ……ほっ!」
リールのベールを再び起こし、海面に向かって静かに仕掛けを投げ入れる。仕掛けの深度を目視で確認し、ある程度沈んだらベールを下ろしてラインを固定する。うーん、やっぱりこの瞬間はたまらないね、なんて。サビキ仕掛けのついた竿をくくんとしならせ上下させると、すぐに反応は返ってきた。手応え、あり!
うねるロッドを持ち上げると、仕掛けの先端には早速アジが三匹。釣果、アリ。
そう、このことがまだ眠いくらいの朝早くに私なりに頑張って走って来た理由。
朝夕の日の出日の入り前後の時間帯は、一般的にもっともよく釣れる時間帯。
なのでわざわざ超早起きして一人でこんなところまで走ってきたわけだけど、その甲斐はあったというものだ。
針から手早く獲物を抜き取り、すべてバケツに放り込む。朝日が昇り切る前に、釣れるうちにさっさと第二陣を投下しよう。
まあ、ここはいつでも釣れるような釣り堀じゃないし。しかも釣ったら釣った分だけお得で、餌がなくなることもないし。
だから、というわけで。
ごめんなさいトレーナーさん、あなたが来る前にあらかた楽しんでおきます。
それだけ虚空に平謝りして、再び仕掛けをセットする。そう、今日はトレーナーさんとの初めての海釣り。もちろん怖がりのトレーナーさんは自分からは勇気が出ないので、私から海釣りに誘ったのだが。確か今までの釣り堀はトレーナーさんからのご褒美やらなんやらを兼ねてだったから、私から釣りに誘うのも初めて。……なんで誘ったんだっけ。
まあいいや、とりあえず今は、今日は釣りを楽しむ日。
私たちが掴んだ未来の先にある、ご褒美みたいな日なんだから。
そんなことを考えながら釣りに勤しむ私の半身を、暖かな朝の日差しが下から照らす。眩しくて眩しくて、目を瞑りたくなってしまうほどの。だけど焼きつく、瞳から私を染め上げる。
今日という日の、夜明けだ。
「おーい、スカイ! すまない、待たせたな」
「本当ですよトレーナーさん、あらかた釣り終えてしまいました」
「……確かに、そんなにたくさん釣れるものなのか。……もう、すぐ帰るか?」
「何言ってるんですかトレーナーさん、あなたが来るのを待ってたのに」
「すまん」
「律儀に謝らないで、ほら横座ってくださいな」
「すまん、失礼する」
「もう、だからさあ」
こちらに近づいて問答を進めるたびに奇妙に歪んでいくトレーナーさんの顔は、なんだかとってもおかしかった。その太眉を意図しない方向に曲げてやるのはいつでも楽しい。
こんなにでかい図体をしているくせして、私の手の上にすっぽり収まってころころ転がるんだから。それが楽しくなきゃおかしい、むしろそうでなきゃ失礼だろう、うん。
「ほら、トレーナーさんのロッド貸してください。準備くらいはやってあげますから」
「それくらい自分でもできる」
「変な意地張らないで、ここは大人しく先輩釣り人に任せなさいって。正直セイちゃん不安なんです、トレーナーさんがちゃんと今日楽しめるか。だから、できるだけのことはしてあげたいのに……」
「すまん! そういうことなら、ぜひお願いする」
「あっはは、そんな深刻に受け取らなくていいのに。本当にトレーナーさんは、心底トレーナーさんですね」
そう言って、大人しくさせたトレーナーさんから彼の用意した釣り具一式を受け取る。とりあえず抜けがないかチェック、抜けがあったらまたからかって貸してあげて……ふむふむ、ちゃんと自分でしっかり揃えては来てるんだ。
こういうところやっぱり真面目で「大人」してるんだね、この人。
流石トレーナーというスケジュール管理やら体調管理やら激務と呼べるだけの仕事をしているだけあるんだけど、そのくせトレーナー業がひと段落した普段は結構抜けているところもあるから、こうやって抜け目ないトレーナーさんの様子も意外と努力の成果なのかも。
それなら私は素直に彼の努力を尊んでやるべきか、はたまた意地悪く努力の穴に崩しを入れてやるべきか、などなど。
そんなことを考えながら、多分トレーナーさんより数段慣れた手つきで、もう一人分の仕掛けの準備をしていく。ロッドにリールをセット、セットしたリールから糸を引いてロッドのガイドに通す。先程もやったばかりのことだから、まあ間違える心配はない。トレーナーさんもサビキ釣りなのは当然と言えば当然だが、私とお揃いであった。いや、釣りに関してはお揃いじゃない方がおかしいのだが、それでもちょっとくすぐったい気持ちがあるのは事実で。アジ釣りだって伝えたらちゃんと揃えてくれるくらいの健気さというか律儀さというか、気持ちが一致したのがむずむずして。だからもしかしたら、そういうだけのくだらない理由で。なんだかんだと、浮かれてしまっていて。浮かれてしまって、いたから。
ちくっ。柔らかくて細い針が、それよりも柔らかい私の指の腹を刺す。
手元が僅かに狂う、音がした。
「……いたっ」
針を触る時は細心の注意を払うべきなのに、私としたことがそんな常識を怠ってしまっていたのか。などと考えながらも、痛みに連動して僅かな時間で思考は目まぐるしく変遷する。血は出てない、ちょっと皮の上から刺さっただけだな、とか、それにしても浮かれ過ぎは良くない、冷静沈着を保たなければ魚に逃げられるぞ、とか。
だから多分色々なことを考えてはいたのだけど、考えてる私を横から見ている人のことなどすっかり忘れていたというか。そこまで反応するなんて、思いもよらなかったというか。鬼気迫ると言っていいほどの大声が、釣り場に響き渡った。
「……大丈夫か、スカイ!!」
そして、そんなに耳元で叫ばれてしまったものだから。
「……きゃっ!?」
そんな私らしくもない叫びと共に、私は心底驚いてしまって、狂い始めた手元がさらに狂う。びくん、と思いっきり全身が跳ねて、十の細っこい指先に乗せていた仕掛けがあらかた地面に落ちてしまう。
落ちなかったのは、針の一本。ぶすり、と先程よりも深く、私の指を傷つけていた。
「いっつー……っ」
「ああすまんスカイ! そんなつもりじゃなかった、本当にすまない、悪かった」
「……年下相手にそんなにびくびくしないでよ、かすり傷ですから」
「しかし、その指」
「えっ? ……ああ」
そう言われて針の刺さった人差し指を見遣ると、今度は僅かに赤い血が根元から流れていた。思ったよりも深く刺してしまったらしい。ちくちく、じくじく。痛いと言わなきゃ、嘘にはなる。
……まあ紛れもなく、トレーナーさんのせい、なんだけど。そのことを指摘してやるのはあまりに可哀想な気がしたのでやめておく。悪気があったわけではないんだし。というか、既に相当申し訳なく思っているみたいだし。
とりあえず指に刺さった針を抜いてみると、新鮮な赤がたらりと抜きとった針の先端から落ちる。結構ぐっさり行きましたね、うん。落ち着いてみると少しばかり痛いし、じんじんとしたものがしばらくは引きそうにない。あーあ、折角の楽しい釣りが台無し……てなことにはならないけどね。それくらいで損なわれるほど釣りは楽しくないものじゃないし、それくらいで損なわれるほど私とトレーナーさんの関係は険悪じゃない。年頃の女の子の柔肌に傷をつけたくらいのことなら、笑って見逃してあげましょうか。私とあなたのつながり、なんだもの。
「こーなったら私のぶんまでどっさり釣ってくださいよ、トレーナーさん」
「……わかった。責任は取る」
「おっ責任ですか、いいですねえ。まあ単に、血が収まるまでは絆創膏貼って大人しくしときます。指先は釣りの命ですからね」
「すまない、本当に」
「今日のトレーナーさん、謝ってばかりじゃないですか。らしくないぞ」
まあ多分、その態度には今日の出来事だけじゃない理由があるのだろうけど。「あの日」以来なかなかトレーナーさんの方でも、悩んできたということだろう。
主に担当ウマ娘への接し方について、だ。そうしてくれるのは担当ウマ娘としては素直に喜ばしいことなので、こちらとしてもストレートに応援したいと思っている。……思っては、いるのだが。
「……すまん、努力はしているつもりなのだが」
「調子狂うなあ、もう」
それはそれとして、弱々しいあなたをみるのはむずむずする。かなり、むずむずする。もちろん普段と違うトレーナーさんでもトレーナーさんだと知っているが、だからこそ一層むずむずするのだ。
広い肩幅、無骨な腕、かくかくした手のひら。どれもなんだか普段より大きく見える。こんなに近くで見たことがないからだろうか? 流石に色々付き合いも長いし、そんなことはない気がするが。でも今真横に座るあなたが近い存在なのは確かなことでもあって、心と身体の近くにあなたがいるという事実がまたきっと私をどきどきさせている。なんでそこまで思うのかって理由まで私の中で言語化することは、結局できなかったのだけど。
硬いコンクリートの地面に座り込み、ぎこちない手つきで仕掛けを水面に投げるトレーナーさん。私はその一部始終を、一応何かあった時に手助けするために眺めていた。投げる、仕掛けが餌をばら撒く、釣れない、しばらくして引き戻す。仕掛けに餌を詰め込んでもう一度投げて、やっぱり釣れない、そんなのの繰り返し。五回ほどそれを繰り返して、三十分が経過した。
釣果、ゼロ。
「……釣れないな」
「釣れないですねえ」
「こんなもんなのか」
「こんなもんですよ、釣り初心者さん」
「そうか。やっぱりスカイはすごいな、もうそんなに釣れている」
「これは時間帯が良かっただけですよ」
微かなさざなみの音を肴にして、なんでもない会話を繰り広げる私とあなた。些細な会話だけど、細部に自分への賞賛が含まれているってだけのことで少しにやけてしまいそうになる。褒められてるって、思ってしまう。
トレーナーさんは、少し変わった。前よりも少しだけ、素直になったのだと思う。褒めて、謝って、きっとここにある変な態度はそういうこと。おそらく彼は少しでも自分が変わるようにと、努力している。
大人になってから何かを変えるのはとても大変なのに、そんな大変で難しいことを成し遂げようとしているのだ。だから私はそれがどんなに拙くても、できるだけ応援したいのだとも。
血は止まった。まだ少しずきずきするけれど、釣りに参戦できないほどじゃない。一人で釣りをするよりは、二人の方が楽しいし。ならば私は、あなたの隣にいよう。
肩を並べて、静かに、一緒に。そうしていたいと、多分私は思っている。そしてあなたも同じ気持ちだったなら、ちょっぴり嬉しいかも。
ざざーん、ざざん。堤防に打ち付ける海水の音。穏やかな波音に混じってあなたの声が、耳もう一個分上から聞こえる。私がウサギだったなら、もっと近くでその声を聞けたかもしれないけど、私にはこの距離が馴染み深い。およそ20㎝ほど離れた、今の高さが親しみ深い。
いつもの場所から聞こえるあなたの声が、どうしようもなく聞き慣れているのだ。
「そういえば、トップロードの菊花賞はすごかったな」
「あれは良かったですねえ。思わず「やった!」って叫んじゃいましたもん」
「スカイもそんなに喜んでいたのか、聞こえていなかったな」
「そりゃもう、大歓声でしたから。私のか細い声なんてかき消されるくらい、トップロードさんにはたくさんのファンがついてるんですよ」
「それもそうか。トレーナーとして誇らしいことだ。だが、スカイも負けてはいられないだろう。実際負けていない、いずれはトップロードとスカイの対決も見れる。俺はそれを楽しみにしている。期待しているぞ、スカイ」
「……もう」
ほんと、隙あらば私を甘やかすようになっちゃって。今までは素直に気持ちを出したりなんか滅多にしてくれなくて四苦八苦していたのに、そんな私の苦労など知らないかのように今のトレーナーさんは自分の気持ちを口にする。これ、前から思ってただけで言わなかったのだろうか。だとしたらなかなか、私のことを高く買ってくれていたんだな。
無論、他のチームのみんなも、だけど。
トレーナーさんが優しくなったのは、私のためでもあるけれど、本質的にはチーム<アルビレオ>のためであるはずだ。
だからこれからは前よりどんどん優しい人になって(前も優しくないわけじゃないと言いたいけど、厳しいの好きすぎたし)、誰にでもその笑顔を見せられるようになる。
つまり逆に言えば、もしかしたら今は私だけ、あなたの褒め言葉のあとの照れ臭そうな笑みを見られているのかもしれない。
私、だけ。……それは、なんだか結構、絆創膏に血が滲んだ右手の人差し指より、よっぽどくすぐったいかもしれない、かもね。
「……指、大丈夫か」
「大丈夫です、そんなにじろじろ見ないでください」
「すまん」
「もう本当、今日何回謝ってるんですかあなた」
「何回だろうか。わからないな」
「そこまで素直に返さなくていいんですよ、トレーナーさんったら」
「すまん」
駄目だ、今日はこの人何かにつけて謝ってくる。そんなに私の指が痛々しいか、目につくのか。
普段は全然私のことなんてじろじろ見ないくせに、見られるぶんだけ落ち着かないじゃないか。でもこれもやっぱり変化、トレーナーさんの積み重ねた成長なのだろうか、そんなことを思った。
今並べてきたみたいに、トレーナーさんは、変わっている。そしてもちろん私も、変わっている。あの日決意したドリーム・シリーズという夢が、きっと二人に変化をもたらした。私たちの夢。私とあなた、二人で一緒に見る夢。
遠く遠く果てしないからこそ、二人がかりでなければ届かないからこそ。
私たち二人の、夢なのだ。
だから、変わっている。二人のために、あなたは変わっている。その事実はほんのり、私の心をぽかぽかさせる。なんでこんなにあったかいんだろう。なんでこんなに胸が高鳴るんだろう。とく、とく、とく、とく。そんな音が聞こえてくる気さえ、した。
「それにしても、釣れませんねえ。トレーナーさんの存在が祟ったかな」
「えっ、そうなのか」
「冗談ですよ、真に受けすぎ」
「よかった」
「夕方になれば釣れますから、それまでのんびり待ちましょうか」
「そうだな、話をしながら待とうか」
「はい」
秋風が服の袖から裾まで吹き抜けるのを感じながら、しばらく二人でずーっと取り止めのない話をしていた。最近どうだみたいな近況の話とか、今まで今日まで何度も重ねた軽口の追加とか。たまに竿を投げながら、たまーに釣果を足しながら。そんななんでもない会話ができるのも、疑いようもなく昔とは変わっている。たとえば出会った時の初めはこんな趣味の一致さえ、思いもよらなかったのだから。けれどお互いに変わっていって、だから今の距離感がある。今だからこその、つながりがある。
そしてつながりの変遷はここで終わりではなく、きっとこれからも変わっていく。私たちが大人だとしても、変化と成長はそこで終わりではないのだから。
大人だって、前に進める。
私たちは、そう示したんだから。
やがて時間は雲より早く過ぎてゆき、夕暮れ間際はあっという間。
日没前後の夕マズメの時間帯は、釣りには絶好のタイミングだ。
ばしっ、ぴちぴち。竿を揺らせばすぐに手応えはあって、生きのいいアジが五匹ほど。
こりゃ、大漁だ。
「おおっ、釣れたぞ、釣れたぞスカイ!」
「そりゃ良かった、こちらも釣れました。……ね? 釣りは待つことが命、時間が変わればこんなにも変わるんですよ」
「……なるほどな、根気が必要というわけだ。チーム<アルビレオ>のトレーナーとしては望むところだな」
「でしょう? ほら、まだ行きますよー。これだけ待ったんだから、私たちにはそれなりのご褒美が必要です」
「よし、釣るぞ!」
いざ釣れ始めるとすっかり元気になってきたトレーナーさんを夕日越しに見て、なんだかくすりとなってしまう。そのまま二人で笑い合いながら、小一時間の夕マズメを堪能した。バケツいっぱいのアジも、止まらない手応えも楽しいものだけど、なにより嬉しかったのは、トレーナーさんの笑い声だった。
……うん、やっぱり。
あなたには、笑っていてほしい。
私のおかげで幸せなら、贅沢すぎるくらいだ。
そう、思った。そう、願った。
まもなく、日没だった。空は闇を呼び、星がその上に光る。そんな、秋の夜だった。
空はずっと、私たちを見守っていてくれている。
朝から夜まで、私とあなたが一緒にいたことを。
「……さて、そろそろ帰るか」
「はい。今日は楽しかったです」
「こちらこそだ。今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう」
「そう言ってもらえるなら、何よりですよ」
ちくり。すっかり流血の止まったはずの傷跡が、なぜだか痛んだ気がした。薄くて白い月明かりの下、テキパキと片付けを始めるあなたの大きな背中を見て。これで今日は終わりか、そう思ってしまった。そう、痛んだ。
「これからもよろしく頼むぞ、スカイ!」
「はあ、今日で一ヵ月ぶんは会ったのに、これからもトレーナーさんと会わなきゃいけないのかあ」
「それはそうだろう」
「それはそうなんですけど。まあ、明日はお休みですけどね」
「そうだな。俺も流石に次の日が休みじゃなきゃ付き合わない」
「とか言って、明日も作業するんでしょう」
「……そうだな」
「本当、心底相変わらずですね。……ともあれ、明日は会わなくてよし」
ちくり。また、どこかが痛む気がした。なんでだろう、そんなふうに不思議に思った。不思議には思ったけれど、考えてみてもわからなかった。私自身の気持ちの変化に、私はまだ着いていけていなかった。混ざり、溶け合い、痛みだけが軸になる。
思考の変遷が、存在した。
「さて、これで……スカイ、片付けないのか」
「え? ……ああ、ほんとですね」
「手伝うよ」
「いいですよ、そんな……ってちょっと」
「スカイを置いていくわけにはいかない」
ずきり。がしゃがしゃと、数センチ先で私の荷物をまとめ始めたトレーナーさんを、瞳に映して。わざわざ私のために、やっぱり私のために行動してくれている、あなたを見て。そこまであなたに近づいて、ようやく私は先程からの痛みの発生源に気づく。指先はちっとも痛くなかった。傷ついていないはずの心臓の奥が、甘い痺れに満たされていた。
「スカイ、これは何処にしまえば……スカイ?」
「……ああ、すみません。それはですね、こっちに」
「わかった」
「すみません、やらせちゃって」
「謝らなくていい。今日は疲れただろう、朝から晩まで俺に付き合ってくれて。ありがとう」
ずきり。あなたの「ありがとう」が、釣り針よりも細く深く心臓に刺さる。トレーナーさんのいう通り、今日はこんなにあなたと一緒にいた。けれど明日になれば、会おうと思えばまた会える。トレーニングは休みだけど、今日はそのぶん遊んだ面もあるけれど。今日も明日もあなたは存在する、どちらもわかりきっていることで、そもそもこんな暑苦しい人と一日一緒にいるだけでも疲れるのはその通りなのに。
……なのに、私はどうして。
「……いいえ、こちらこそありがとうございます」
どうして、その笑顔が目に焼きついてしまっているのだろう。
どうして、無性に寂しいと思っているのだろう。
どうして、まだ。まだ一緒にいたいと、そう感じてしまっているのだろう。
でも、多分この感情を持つのはずっとそうだったのだろう。
今日いきなりじゃない、最初からそういう理由で前の日にあなたを釣りに誘いまでしたのだろう。私自身が私の気持ちに気づいていない、それだけだった。
それだけだから、気づいてしまえば。
気づいて、しまったのだから。
「よし、帰るか」
「……トレーナーさん、わがままを言ってもいいですか」
「なんだ、スカイ」
「電車賃、お貸ししてくれませんか。帰りは、一緒に」
「ああ、貸すと言わずそれくらいは渡していい。夜道を一人はウマ娘でも危険だ。付き合おう」
「はい。ありがとう、ございます」
だから、もう少しだけ。
どんな理由でもいいから、もう少しだけ。
もう少しだけ、一緒がいい。
数多の星明かりの影響で、私たちの影は散らばって重なって見えていた。
まるで二人で一つのいきものみたいだった。
あとほんの少しの時間だけ、夜に影を重ねている間だけそう見間違えていられた。
ずきり。この痛みは、きっとにこやかに帰路に着くあなたにはないものだけど。ずきり。私はあなたに痛みを与えたくはないから、それでいいと思った。今まで何度もあなたが私を慮ったように、私もやっぱりあなたを傷つけたくはない。
今痛む気持ちが傷なのか、本当ははっきりしないけど。
ずきり。夜の闇と共に、痛みは底へと潜っていった。どこまでも甘い、甘くて痛い夜だった。
キャラメルみたいに、溶けてゆく。
そんな、夜だった。
眠い。ねむい。ねむーい! 本当に、眠い! そんなふうに私が叫びそうになっていたのは、トレーナーさんにまた明日を告げてから八時間と二十分後の、およそ午前三時半だった。
誰でもわかる、良い子は寝る時間である。たとえ私は大人なんですと言い張っても、トレセン学園の生徒は消灯時間は守らなければいけない。なので深夜の寮でできることなんて灯りも点けずに徘徊するか、部屋で閉じこもるか、大人しく寝るか。
……まあ、どれも経験済みではある。ダービーの日の夜は深夜にうろうろ誰もいない談話室をうろついてしまったし、春の天皇賞の後しばらく私が部屋に閉じこもっていたことなんて、いまだにたまにキングあたりに引き合いに出されるし。けどだからそういうわけで、初めてではないのだ。眠れない夜を、独りで過ごすのは。悩みに悩んで、そんな誰もいない夜は。私を変えてしまう不思議な夜は、今日もまた形を変えてやってきたというだけ。
もう一度、私に変化を呼ぶために。
だけど、少し違うのは。今までと少し、けれど決定的に違うのは。
(……私、なんでこんなに元気なんだろ)
落ち着かない。脚を布団の上でじたばたさせて、それが終わればスマホを少し開いて時間を確認しため息を吐く。それも終われば今度はぐるぐるぐるぐると布団の上でしこたま寝返りを打つ。痩せっぽちの身体が、柔らかい布の上で跳ねる、跳ねる、跳ねる。そこまで終わればまた最初に戻り、たまに他の動きが混ざる。そこまでを一連としての繰り返し。
みたいな感じで、どこでも寝れるのが取り柄のはずの私が、あろうことか寝床で落ち着けていないのだ。そしてそうなってしまっているのは多分、私がまだ元気だから。朝から晩まで遊んでいて、絶対そんなことはないはずなのに、元気だから。そりゃあこれまでも走り切ったレース終わりに寝ずに思い悩んでいたのだから、疲れて眠るだけじゃないのは似たようなものかもしれないが、その時は流石に元気じゃなかった。今だから言えるが、ぼろぼろだったから考えすぎて眠れなかったようなものだ。
でも、今日は違う。何を考えろというのか。何を悩めというのか。私は眠りたいはずなのに、身体がいうことを聞いてくれない。明日だって授業はあるし、今元気でもそれじゃ明日困るのに。なのに左右の脚をずっと上下に入れ替えつづけて、私は一体何をしたいのか。
……まあ、確かに今日、少し思い悩んだと言えば思い悩んだのだけど。確かに脳みそにのしかかりつつある弛緩の感覚は、考えていればそのうち寝られるだろう、なんてのんきな予測を私に立てさせた。なら自然と眠くなるまで起きておくというのは、いうほど悪くない選択肢なのかもしれない。なんだかんだでやっぱり、悩みがあるからうまく眠れないのだとしたら。
(一緒にいたい、か)
その気持ちが今日、楽しかった今日に私が思い悩んだ唯一のことだろう。トレーナーさんを、釣りに誘って。朝から晩まで、二人きりで。帰り道は別れるはずだったのに、一緒に帰ろうと言ってしまって。そしてそこまでしてなお、私は満ち足りていない。
また明日と言った時、心臓の裏側がもう一度ずきりと痛んだのを覚えている。痛いくらいに、一緒にいたい。傷つくとしても、隣がいい。
寂しい。多分、多分私はあなたにそう思ったのだ。トレーナーさんがいない時なんてこれまでも何度もあったのに、別にトレーナーさんに四六時中ずっと一緒にいてほしいなんて思わないはずなのに、なぜだか今の私はそれに近いことを求めている。
……でも、無理もないのかもしれない、とも思ってしまう。冷静に考えてみれば、それなりに長い付き合いで。それなりに少しばかり以上、互いに信頼を積み重ねて。そうして今は、二人で見る夢も見つけた。私だけじゃない、二人がかりの夢だ。だからこそ私が二人の夢の実現のために、トレーナーさんのことを前より重く受け止めていても仕方ない、のかもしれない。そういうことなら、なんだかんだで無理もないこと、とは結論づけられてしまった。私が、寂しくなってしまうのは。私が、あなたのことを考えてしまうのは。恥ずかしすぎる結論で、トレーナーさんのの目の前では絶対言ってやらないが。
けれど、そんなことを考えているせいで眠れないのはいかがなものか。眠いってわかっているのに寝られないというの重症だ。あくびも止まらないし、身体はぽかぽか暖かい。頭もほわほわしてきたし、それでもなお目はぱっちりしている。反動で明日は立派な隈ができてるんじゃないか、というくらいに。ともかく、眠れない。
「……はあ……困ったなぁ」
一人の寝室でまた、寝間着のショートパンツ下から伸びる太ももをばたばた布団に叩きつけながら、心底困った声を出した。だけど助けは当然来なくて、私は泣き寝入りするしかない。いや、泣き寝入りでもいいから寝たい。早く寝たい。……まったく、そんなに悩みを解決したいか、自分。寝たい寝たいと喚いてみて、喚きすぎたと少し反省。ちょっとなぜだか、焦っているのかも。とはいえ難しい命題で、本当に今日のところは(昨日からずっとだけど)諦めて眠りにつきたいところではある。
一緒にいたい、そんな気持ち。不思議で曖昧なそれが私の中に湧いた理由を解明しなければ眠れないのだとしたら、そこまでしないと眠れないのはなかなか難儀じゃないか。だって「あれ」と一緒にいたいなんて、滅多に思うことじゃないだろう、我ながら。とりあえず先程一つ例を出した通り、夢を掲げてしまったことはあるかもしれない。やっぱり当人には悩みとして相談できないな、とは思ったが。悩み悩めどその中心人物もわかっていてもはっきりしていることは、今の私が回している思考全部がとてもトレーナーさんには言えないものだということだった。信頼しているとしても、だからこそこの不安は言ってはいけないだろう、子供っぽすぎて。大人同士じゃ、気恥ずかしすぎて。
一緒にいたい。寂しい。そんな甘い痺れが傷跡をなぞり、私の心はまたちくちくずきずきと痛む。薄めの微睡の中にある痛みは、先程よりもより浅く広くなっていた。身体全体に広がるように、全身を剣山で撫ぜるような痛みが奔る。甘くて深い、溶けゆく痛みが。
……はあ、どうしてこうなっちゃったかな。
まあともかく気を取り直して、眠気混じりの思考再開。
なんでこんなに目だけ冴えているのか、本当に不思議だ。早く明日が来てほしいと心も身体も思っているのに、目だけはそれを拒否している。目、目か。ひょっとして、私の今日目にしたものが原因か。だから、目に焼きついた何某かが眠れなくさせている。
ふと浮かんだこの考え方は鋭そうな気がしたので、軽く記憶をたどってみる。
とはいえショッキングなものは見ていないのだけど。釣り竿、バケツ、コマセ、アジ、サビキ仕掛け、あとは……まさか、やっぱり。
(トレーナーさん、なのかなあ)
確かに今日一番目にした人間ではあるけれど、結局やっぱりその結論かあ。
一体私、トレーナーさんの何がそんなに気になるんだろう。たとえば一緒にいたいということは、目が離せないってことかもしれない。寂しいということは、見えないほど離れるのが嫌だってことかもしれない。
思えば今日は、やけにトレーナーさんが私の視界に入った気がする。ちらちらちらちら、目に映る空間の隅っこに、いつもあの太眉と大きな背中が交互に入ってたような。世界の片隅に、ずっとあなたがいて。……うーん。もしかして私、心配してるのかも。トレーナーさんが心配だから、目を離せない。具体的に何を心配してるのか? さあ?
だけどその理論もなんとなく、割と的を得ている気がした。だってトレーナーさん、今日は特に危なっかしいやつだったし。ぎこちない褒め言葉とか、すぐ謝るところとか、悪い人に騙されてしまいそうで心配になったのは間違いない。いや、詐欺に遭うほど年寄りだとは思っていないけど。けれどそういう理由で、私はあなたから目を離せない。だから、私はあなたと一緒にいたい。だから、私からあなたが離れるのが不安。……筋は通っている、かも。心配というにはやっぱり曖昧で、お節介に近い気もするけれど。
だけど、まだもやもや。思考を何度か答えに導いたつもりで、まだふわふわ。ぼーっと熱を出したみたいに気持ちは昂ったままで、今日の堤防釣りの余韻はいささか長すぎる。いや、確かに楽しかったんだけど、今日。トレーナーさんを指導してやるのも、いつもの真逆なのが結構おかしくて笑えたし。でも今日起こった全部について、どれもまるっきり初めてのことじゃないだろう。こうやって悩んで夜遅くまで起きるのが初めてじゃないように、トレーナーさんと釣りに行くのだって初めてじゃない。むしろ回数を重ねてそろそろ慣れてきたくらいだ。
それなのに、どうして。
どうしてこんなに、後を引くのだろう。気持ちが、痛みが、あなたが。
残滓が残りつづけてしまうしまう理由が、ずっとわからない。
理由の一つは、多分トレーナーさんの変化にあるとは思う。態度が変わって、そうなればその変化が目につく。気になる。もやもや、する。無論成長はいいことだけど、自分も他人も慣れるのには時間がかかるというものだ。だから多分、気になる。私はあなたを、気にしている。
そしてもう一つ、こちらは先の一つよりは確実に。
確実だけど、正体のいまいち掴めないもの。
わかるけど、わからないもの。
夢のように、届かない。
さてとりあえず一つ目を置いておけば、もう一つの理由は紛れもなく、私自身の変化だろう。 二人で夢を追いかけると決めてから、そこそこ時間が経って、おそらく私はようやくやっと、そう決めたということを丁寧に噛んで飲み込み切れた。大きな大きな夢を、私の身体の中に飲み込んだ。大人として、飲み込んだのだ。飲み込んだからこそ、変わり始めた。今になって、大人の私は時間をかけて成長している。じわりと浸透するように、全身に変化が現れていく。未来に向けて、歩んでいく。多分、そんな感じ。
きっとその変化が飲み込んでからすぐに出てきたのが、私の目だったのだろう。
目に焼きついた、トレーナーさんの姿。割と荒れたのをむりやりワックスか何かで整えてる髪の毛、意志の強い暑苦しい眉毛、割と大きめの、私たちには付いてないヒトの耳。そこら辺まで見て今日私が気づいたことと言えば、案外この男は童顔なのだということ。頑固で不器用な大人っぷりからは今まで本当に思いもよらなかったのだが、わりかしまつ毛がしっかり長くて二重なんだよね、あの人。だから目がくりくりしてて、なんだ意外と幼い感じじゃん、という。ほっぺたも意外と丸いし、鼻もそこまでとんがってない。割と、幼い顔立ちだったのだ。
そう、今日はそんなところまで見えたのだ。いつもは見えない、見ようともしていないような場所まで。なぜかははっきりわからないけど、多分距離感が変わったからだとは思う。トレーナーさんの方から、私に近づいている。そして多分私も、トレーナーさんの見え方が変わっている。世界の見え方が、あなたの見え方が、距離感の変化に伴って変わっている。きっと、そういうこと。私の気持ちが、どこかへ変わっている。
世界の見え方を支える、気持ちが。
明確にどこへ行ったのかは、わからないままだけど。
日常の行動を変化させるということは、些細な積み重ねの上にあるイメージを揺らがす行いだ。トレーナーさんが今変えようとしているものは、そういった小さいように見せかけて思ったより大きなもの。だからその大きな変化に釣られて、私のあなたへの印象も揺らいでいる。……のかも、しれない。
もっともこんなのは理屈を長めに並べただけに過ぎなくて、結局わかるのは二点だけ。今日はトレーナーさんのことが、なんだか目に焼きついてしまったのだということ。そしてトレーナーさんと、もっと一緒にいたいと思ってしまったこと。そう、それだけ──。
(……あれ?)
それだけ。「だけ」? そんな自分で弾き出した思考に、自分で疑問符を投げかける。
妙に、引っかかったから。ちくり、また痛んだから。
……いや、この二つなのは間違いない。少し考え直してみても、やっぱりそうだ。なら、そうじゃ、それ「だけ」じゃないのは。私の気持ちに引っかかった、痛みを呼ぶ心臓に刺さった針の正体は。
そうして私は少しだけ、私の気持ちの形を知る。短く狭い先の結論に対して、私の本質が投げかけた反論も同じく単純なものだった。
(「思ってしまった」とか、「それだけ」とか、そう思う自分が多分、嫌なんだ)
なぜかは、やっぱりわからなかった。
(否定すべき気持ちだと、決めてしまうのが嫌なんだ)
けれど、見つけたものは確実に思ったことで。
(取るに足りない気持ちだなんて、あしらわれるのが嫌なんだ)
だから私は、私の変化を見る。
大人の私の、子供との差を一つ知る。
(……ああ、私)
自分に自信が持てなくて、褒められたいと願っていた少女は。
期待を望みながら、期待を裏切る自分が怖かった少女は。
(私、そんなに自分の気持ちが大切なんだ)
自分を自分で認められる、そんな大人になったのだ。
ちゃんと大人になったから、私は大人の私の抱いた気持ちを無碍にしたくなかったんだ。
そこまで考えれば、やっとすべてに筋が通る。あなたを見た目が閉じることを否定しつづけるのも、あなたと一緒にいたいという気持ちを何度も咀嚼しているのも、すべて。
いつのまにかぶらんぶらんと動いていた脚は止まり、全身はゆらゆらと蠢くだけになっていた。目はかすみ、思考は睡魔に落ちようとしていた。……ああ、悔しいな。ようやく、ようやく眠れない理由がわかったのに。私の行動は、全部が一つの理由に通じるとわかったのに。
ここに、私の小さいけどしっかりと動いている心臓の中心にある、答えは。
「私、今日が本当に楽しかったんだなぁ……」
そんな最初からわかりきった、当たり前のことだった。
今日が本当に楽しかった。永遠にしたいくらいに。
だから私は、今日という日を手放したくなかったんだ。そう、眠れないのではなく、眠りたくなかったのだ。明日を迎えれば記憶は薄れる。明日が来なければ、記憶は薄れない。永遠にできる。だから多分、そうしようとしてしまった。忘れたくない、手放したくない想いだと。
子供でさえ誰でも永遠に起きるなんて無理だってわかってるくせに、大人の私がありえない永遠を願ってしまった。過去にしたくない、思い出にもしたくないと思ってしまった。
なかなかどうして、大人はうまくいかないものだ。
私も変わっていくのだから、そのうちこんな大人にも慣れるのかもしれないけど。それでも慣れてしまう前のこの儚く切ない感覚は、得難くて大切にしなくちゃいけないものだ。
今の感情も、きっと数え切れない変化の一つだった。私が信じて疑わない通り、誰かの変化は波紋を作り他者に伝わるから。トレーナーさんの変化が、私をこうやって変えているように。そしてそれならば私の変化も同じように、誰かに干渉していくのだろう。
些細な変化だ。だけど私のあなたへの態度は、きっとこれから変わる。
既に、変わり始めている。そして私があなたのために変わるならば、その変化は間違いなく他の誰より早くあなたに伝わる。あなたに、私の気持ちが伝わる。あなたが、一番。
そうだったら、いいな。
ずきり。そこまで考えると、また針が心に血溜まりを作る幻が見えた。この傷の正体までは、そのことまでは今日はわからなかった。
今日わかったのは、たった一つ。けれど紛れもなく、大きな一歩。かけがえのない、私の変化。
私は、私を認めている。
自分自身を、褒められている。
それが、私の変化。私にとっては、やっぱり大きくて今までになかった進歩。今まで期待を他者に頼っていた。どこか自分が信じられなかった。それでも誰かの言葉で、前に進めるようになって。進めた先で遂に、私は私に「よくやった」と言ってやれる。
……そうか、今の自分はもしかして。深夜四時の夜更け、疲労の溜まった袋が一気に弾け飛び、全身の筋肉に雨あられのように襲いかかる刹那。
(私、褒められるより先があるんだ)
未来は私に存在するのだと、そんな至極当然のことを最後の思考に浮かべた。
褒められたい、の先。空の果てには、まだ先がある。
そして、そこまでで。ついに、それきりで。まるでブレーカーが落ちるように、私の意識は急速に眠りの中へ閉じ込められていく。明日、ちゃんと起きられるだろうか。今日のこと、一つも忘れないでいられるだろうか。それはもちろんわからない。けれど、大丈夫だと思った。理屈はないけど、なんとかなると。大丈夫だと思ったから、眠りについた。
未来は、明日から始まるのだから。
夢を見た。遠い、遠い夢だった。
夢を見た。遠い、過去の夢。
夢を見た。あなたと出会った日のリフレインだった。
「何してるんだ、こんなとこで」
「見ない顔だな、新入生だろう? なんで入学式に出てないんだ!」
夢を見た。最悪の夢、まさしく悪夢だった。 うるさい正論男が、私を叩き起こす夢だった。ああやって入学式をサボって居眠りをしていたら、何も起こらないと思っていたのに、結局そこですべてが始まってしまった。今思えば入学式の頃の私はまだまだ幼くて、それでも悟ったようなことを言っていた。どうせ、とか、私なんか、とか、そんなふうにやっていれば平穏無事に何事もなく、そう思っていた。本当は何も起こらなかったあの日が、怖くて怖くて仕方なかったくせに。そういう幼さを思い返す、そんな夢だった。
「一つだけ言っておこう。セイウンスカイ、諦めるな」
夢を見た。あなたが私を奈落から掬い上げる、はじまりの夢だった。「諦めるな」は何度も言われた。そのたびに多分、煩わしくて嬉しかった。複雑な心境、というやつだった。そんなふうに多分私は、扱いやすそうに見えて面倒だ。物わかりのいいふりをするだけで、何かにつけて悩み始める。今日もそうだし、ずっとそう。変化を重ねてもなかなか直らないことはあって、これもそんなふうに変わらないものの一つ。難儀で面倒な女だと、今はつくづくそう思う。
夢を見た。けれどそこまで頑固で軟弱な気性難にしつこく「諦めるな」と言ってくれる人と、私が出会えた夢だった。そういう意味ではずっと、私たちの関係は変わっているけど変わっていない。それは多分これからも、きっと。変わっていくけれど、変わらなかったら嬉しい。過去があるからこそ、未来があるのだから。私は過去の関係を、未来のために蔑ろにしたくはない。そうだ、だから私は、あなたのことを──。
夢を見た。そこで透明なヴェールのような白に戻る、泡沫の夢だった。
夢を見た。だけど夢幻の中にあったものに、手を触れられていたと確信できるものだった。
夢を見た。私は過去を忘れない、ずっと手放さない。そう信じて再び明日に向かって眠りにつける、幸せな夢だった。
夢を見た。近い、近い夢。
夢を見た。近い、過去の夢。
夢を見た。昨日のように近い、あの日のリフレインだった。
過去は、明日に繋がっているのだから。