完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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セイウンスカイは正論男に・2

 

 

 とて、とて、ぱたり、ぱたり。ゆっくりと始まった足音はだんだんと弾み、やがて跳ねるように駆け出す。そんな朝だった。ほとんど眠れていないのに、なぜだか元気は続行中。そんな朝だった。いまいち眠れていないから、いわゆる深夜テンションを引きずっている、というやつか。昨日はなんで眠れなかったのだっけ、みたいなことは流石に覚えている。多分覚えているから、今日も引きずっている。果たして授業中までお昼寝大好きサボり大好きセイちゃんが寝ずにいられるのかは、流石にちょっと不安なのだけど、まあそれはそれ、これはこれ。早く寝たいのだから不安というよりもはや期待か、などなどと。

 寝ぼけ眼をたまに擦りながら、今日も学園への道のりを歩く。いつもより少しだけ、焦るかのような早足だった。秋空がのんびりと青に染まっているのとは対照的だった。こんなにいい気候なのに、どうして私の方は落ち着かないのやら。

 まったく、また難しい悩みを抱えてしまったものだ。

 トレーナーさんのことが、なぜだか気にかかって仕方ない、だなんて。

 誰にも言えない、目だけは離せない、初めての悩み。……けれど、心配はしていない。それは今の私なら、どんな悩みも前より強く乗り越えられると信じているからでもあり。一方でこの悩み自体を、抱き締めるように食んでいるからでもあり。

 手放したくない悩みなんて、初めてだった。

 甘く白く溶けてゆくまで、口の中で転がしていたい。

 びゅうと風がスカートの下を吹き抜け、脚から伝わる冷たさに少しだけ身震いする。秋だな、と思った。季節は巡る。時は進む。そして時間の流れに伴って、人は皆変わってゆく。去年の秋と今年の秋は違うし、去年の秋があるから今年の秋がある。変化は積み重ねの延長であり、過去のすべての結実だ。どれだけ突然のものに見えても、その裏には必ずこれまでの流れがある。だから、断ち切られない。私は、私のままでいる。大人になっても、だ。

 見つけたこと。変わらないこと。

 だからこそ、変わってゆける道標。

 

「おはようございます、セイウンスカイさん」

「おはようございます、たづなさん」

 

 校門の前でたづなさんに挨拶して、そのままゲートにも似たそれをくぐる。……その時、ふと気づいた。思い出した、ともいうか。校門をくぐるたび平日は挨拶していたわけだけど、私とこの人のつながりはそのことだけじゃなかったな、ということ。

 

 

 そういえばずいぶん昔になってしまった皐月賞前、<デネブ>と<アルビレオ>を巡っての私の右往左往では少しこの人にも迷惑をかけていたな、なんて。

 たづなさんのことは毎日見ていたはずなのに、今更のようにそのことに気づいた。

 唐突に、前触れなく、今更。

 いや、今だから気づけたのだろう。

 大人になった、今だから。

 

「そういえば、たづなさん」

「はい。なんでしょうか、セイウンスカイさん」

 

 だから多分私がこうするのも、今だから。ふと言いたくなったという突然の心の動きも、きっと前々からの積み重ね。唐突だけど、唐突じゃない。しっかりとした流れのある、私が今まで経験した道のりがあるからこその。

 これから告げるのは、私だけの言葉なのだ。

 明るく、元気よく。心からの、気持ちを込めて。

 

「トレセン学園って、いいところですね」

「……それは、ありがとうございます! なんと言っても私は、皆さんの幸せを願ってここで働いていますから」

「そうですね。それなら私は、幸せですよ。トレセン学園に来れてよかったです。……ええ、本当に」

 

 そんなふうに私なりに、精一杯の感謝を告げた。思えばたづなさんだって、紛れもなく私の縁を繋いでくれた人だったのだから。それはこのトレセン学園という場所を形成する一人である、という意味でもある。私にとって大きな意味を持つ、トレセン学園という居場所を作ってくれている人。そのことに、ちゃんと気づけた。当たり前のように重ねていたこの場所での時間に、感謝することができるようになった。成長によって視点が変わり、私は今まで見えていなかったものが見えるようになった。今告げた感謝もきっと、その一つなのだ。

 そうやって素直な気持ちを述べてみると、普段からにこやかなたづなさんが目を細めて嬉しそうに破顔し、そのあと一言。

 

「それはこちらこそ、ですよ、セイウンスカイさん。そう言ってもらえるのが、私にとって何よりも幸せなことです」

 

 感謝に対する感謝を、優しく強く返してくれる。やっぱりこの人も大人なんだなと、そんなふうに思わせるような言葉だった。

 こうやってしっかり話すことは滅多になくても、いつも私たちは大人に守られている。そしていつか私たちも大人になり、守る立場に立つ。

 そうして多分その時やっと、私は大人と対等になれるのだ。

 あなたとも、対等になれるのだ。

 見守ってきてくれたあなたに、心の底からのありがとうを言える。

 今取り交わしたたづなさんへの感謝は、その練習のようなもの。思えばトレセン学園という場所から私がもらったものはたくさんあるから、他にもたくさんの感謝が必要だ。何より私が、そうしたい。

 

「……じゃ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

 

 最後にそれだけ言葉を交わして、いつもより少しだけ長いたづなさんとの会話は終わる。これはきっと今日の始まりを告げる会話。とたんとたんと靴のリズムを校門から連なる通路に鳴らしながら、今日という日はそういうものだと今決まったと、なぜだかそんな気がした。今日は、今までに感謝する日。今までの、すべてに。

 だってその今までが、今の私を作っているのだから。

 

 

 

 

 

 

「おはよー、みんな」

「おはようございます、セイちゃん」

「おはよう、セイちゃん!」

「おはよう、スカイさん」

「グラスちゃんもスペちゃんもキングもおはよー。……ふあ〜ぁ、まだ眠いかも」

 

 教室に入って数言挨拶を交わすと、すぐにあくびが漏れてしまった。気が緩んだ、ということか。いつものみんなに会えるのは、それだけ私にとって落ち着くことなのかも。それならやっぱり、これにも感謝するべきか? そんなふうに思いはしたけれど、なかなか感謝をするということは気恥ずかしい。ということで逃れるかの如く私の口から出てきた言葉は、全然別の話だった。……まあ、それなりに心配してるのは本当なんだけど。

 

「……そういえばグラスちゃん、エルはまだ時差ボケ?」

「……はい。起こすのも流石に可哀想かなと、思ってしまって……私もまだまだ甘いですね」

「いや、その甘さは持ってていいと思うよ……」

 

 そう、帰国したばかりのエルのことである。実際にはばかり、というほどではないが、時差ボケが残っているうちは多分帰ってきたばかり、なのだろう。

 そしてグラスちゃんが起こさずそっとして置いているのは、多分彼女の不調の理由が時差ボケだけじゃないから。そこにあるもう一つの理由に、ちゃんと気がついているから。

 なんて、多分私よりずっとエルのことはよく知ってるだろうけど。逆に言えば私でも気づくぐらい、みんな心配しているってことだ。

 もちろん、私以外もね。キングとスペちゃんも、だいぶん心配している様子。

 

「まだ、負けを引き摺ってるのかしら」

「そうですね。だいぶ元気は戻ってきているとは思いますが、それでも」

「……うん。電話越しに聞いたエルちゃんの悔しそうな声、私も忘れられないよ」

「そしてスペちゃんは、今度その敵討ちをするというわけだ」

「そう、なるのかな。……いや、そうだよね」

 

 結論から言えばエルの海外遠征は、華々しい結果を収めたのだ。十二分な戦果と共に、帰国した。きっと、行ってよかった。彼女にとって、正しい道のりだった。コンドルは、海の外まで羽ばたいてゆけたのだ。

 だけどそれでもただ一つ、忘れられない負けがある。凱旋門賞での、世界最高峰のレースでの敗北。あの敗北は、多分エルにとっては一生忘れられない負けになる。一生忘れられない勝ちがあるのと、まったく何も変わらない理屈で。大事なレースだから、勝ちたかったから。だとしても勝負とは常に、勝者と敗者に分かれるものなのだから。

 そしてその負けが忘れられないとしても、必ず報われることはある。いつか、努力と夢は果たされる。そうやって未来に待つものがあるってことは私たちみんなが知っていることで、私たちみんなで忘れないように互いに伝え合うことだ。私たちはライバルで友達、支え合いながらも競い合う、仲間なのだから。

 だから、スペちゃんのジャパンカップはリベンジマッチと言われている。エルを凱旋門賞で二着に下したブロワイエさんと、今度はスペちゃんがジャパンカップの場で対決する。「黄金世代」の絆というものが、その闘いを単なる実力者同士の対決に収まらない、日本の底力を見せつけるための舞台にしている。

 私もきっと来たるジャパンカップの日は全力でスペちゃんを応援し、そしてまたターフでスペちゃんを含めたみんなと相見えることがあればその時は全霊を以て叩き潰そうとする。それが、支え合いながらも競い合うということ。

 私たちは、一人では強くはなれないから。

 

「ジャパンカップ、応援してるわよ」

「ありがとう、キングちゃん」

「私からも、です。まだ来てないエルの分まで、先にお願いしておきますね」

「グラスちゃんもありがとう」

「負けないでよ、絶対に。君に勝つのは、他でもないこの私なんだから。……なーんて、ね」

「セイちゃんも、ありがとう。……そうだよね、私たちの勝負のためにも、だよね」

 

 うん、スペちゃんはよくわかっている。私の気持ちも、みんなの気持ちも。そして多分キングもエルもグラスちゃんも私も、「黄金世代」の全員が他の誰かすべての気持ちをよくわかっている。そう在れるのが、私たちのつながり。得難くて代え難いもの。

 ここにしかない、私たちみんなの宝物。

 ……やっぱり、感謝しなきゃいけないや。

 それに一度、君たちへの想いはしっかり言葉にしなきゃいけないと思ってたんだから。あの天皇賞(春)の日に噴き出た暗雲のような気持ちを、きちんと晴らして謝る意味も含めて。感謝って言葉は、謝るって字も含んでいるからね。

 そんなふうに再決心すると、すぐに言葉は口から出て行こうとする。驚くほど、あっさりと。もう迷わない、そのつもりで私は会話を切り出そうとした。

 

「そういえば、改めてなんだけど──」

 

 そのつもりではあった。あったのだが。

 ガラガラと勢いよく、教室前の引き戸がスライドされる音がする。流石にその音だけで誰もが振り向くということはなかったが、その後の大声で流石にみんなが振り向いた。

 教室中の、全員が。

 

「おはようございまーす! エルコンドルパサーはまさに、起床、飛翔、最強デーース!!」

 

 ……初めてエルをとっちめたくなるグラスちゃんの気持ちがわかった、かもしれない。

 

「おはようございます、グラス、セイちゃん、スペちゃん、キング! エル、絶好調、デス!」

「今日も時差ボケに苦しめられてたって聞いたけど?」

 

 私がそんな感じで鋭く刺してやると、うぐっ、とよろめく我らがエルコンドルパサー。確かにこの反応の良さは、誠に残念ながらいじめがいがある。グラスちゃんの気持ちは、だいぶんよくわかる。私もキングとかフラワーとかあとトレーナーさんとか、人をおちょくるのは多分好きなタチだし。そこまで思考をふと伸ばしたところで、「トレーナーさん」のフレーズが何とも言えず引っかかった。いかんいかん、友人との語らいの前でまで関係もないあの正論男を思い出すのか。ええい、出て行け。……というわけで閑話休題、エルも揃ったところで改めて。

 

(あれ?)

 

 改めて、と思ったのに、口がぱくぱく動くだけ。みんなエルに注目してたから見てないとは思うけど、かなりみっともない。どうしたんだ、私。さっきと何が違うってエルだけじゃないか。一回タイミングを逃したのがそんなに恥ずかしいか、私。そうでなきゃなんだ。ええ、もしかしてやっぱりなのか。本当に一瞬、エルに連動して一瞬思い浮かべただけじゃないか。一瞬トレーナーさんのことを思い浮かべただけでそんなに挙動不審になるなんて、やっぱり私、変になってるかも。そんなに、そんなに。

 

「そんなにきょろきょろしてどうしたのよ、あなた」

「あっ、キング。いや、特に」

「……珍しいわね、あなたがそこまでどもるのは。そういえばさっき、何か言おうとしてたみたいだけど」

「えーっと、それは」

「あらそうなんですか、セイちゃん?」

「あのね、グラスちゃん」

「えっセイちゃん、なになに」

「スペちゃんも、ちょっと待って」

「アタシにも聞かせてくださいデース!」

「エルは黙ってて」

「ケ!?」

 

 ちょっと待って、待ってよ。今すごいめちゃくちゃな気持ちなのに、急いては事を仕損ずるよ。どうしようどうしよう、今喋ったらまずい気がする。ボロが出る。なんのボロが? いや、それもわかんないけどさあ! 急に降って沸いたトレーナーさん関係の変な気持ちと今まで積もり積もったみんなへの感謝が混じったら、私本当にまともに喋れない気がするんだよ。もっと落ち着いてゆっくり喋らないと、いつもの私じゃないじゃないか。のんびりゆるーく、焦らずじっくりじゃないか。

 そんなふうに私が思うことなどつゆ知らず、ぐいぐいと四人が距離を詰めてくる。ついでにトレーナーさんの影も見える気がする。いよいよ幻覚が見えるほど追い詰められているのか、私。……ああもう、追い詰められ切ったら仕方ない。作戦名は、「ケ・セラ・セラ」だ。

 ええい、ままよ。観念して、私はそのまま、もみくちゃのまま言葉を吐き出す。しっちゃかめっちゃかでちっとも私らしくない、けれど紛れもなく私の声だった。

 私自身の、言葉だった。

 

「えーとさ、なんだろうね。いや、ほんとに大したことじゃないんだよ? だけどさ、なんとなく思っててさ。何がって、今日はそういう日だって」

「前置きが長いわね」

「うるさい、このへっぽこキング。まあとにかく、今日はそういう気持ちなの。ふと思ったことだけど、多分ずっと思ってたこと。私はみんなに、ありのままの感謝を伝えたい」

 

 そして話し始めればだんだんと、言葉は一つの場所に収束する。

 私の中へ、芯を作っていく。私のものに、なっていく。

 

「感謝、ですか」

「うん。唐突でしょ? だけどさ、なんとなく今言いたいんだ。みんなに。……だめ、かな」

「ダメじゃないデス。大・歓・迎ですよ!」

「ありがと、エル。……なら、できるだけ全部。私の気持ちを、伝えさせてほしい」

「うん。私もセイちゃんの気持ち、聞きたいな」

 

 ……みんな、ちゃんと私を受け入れてくれる。きっとこうやって急な話題も受け入れてくれるのが、みんなの優しさ。あるいは私も共に積み上げた、ここにある強固な信頼関係。

 大切な、つながり。……つながりがあるのはトレーナーさんも同じかもと、なぜだかまたあなたのことを思い出しながら。

 そうやって一瞬だけよそ見しながら、私は目の前の四人に言葉を告げる。一つ、一つ。いつか吐き捨てたのが並び立てないという羨望なら、今紡ぐのは並び立ちたいという希望なのだ。

 

 

 

 

 

 

「キング。キングにはここに来てすぐ話しかけられたね。多分、初めての友達。なんだかんだで私によく話しかけてくれるお節介なお嬢様。同じチームに入ってきた時は驚いたけど、それも良かったと思ってる。ありがとう、私と出会ってくれて」

「……そんな素直な台詞、吐けたのね」

「あっ、ひどい。じゃあ撤回しようかな」

「おばか。撤回してももう聞いたから、忘れることなんてできないわよ」

「そうかも。これは一本取られた」

 

 ほんと、食えない子だ。それにしても思ったより、いつもの私は絶対言わないような言葉はすらすらと面と向かったままで並べられた。いつもの私じゃなくても、やっぱり私は私なのだろう。いつもから変わっても私がそのままなら、ここにあるのも成長、変化の一つ。

 きっと、そういうことだった。

 

「じゃあ次はエル。いやー、最初見た時はほんとに驚いたよね、プロレスラーかっての。だけどすぐに割と話がわかる方だってわかって安心した。うん、それもだいぶ昔の話だね。元気だけどストイックで強くて、今だから言えるけどダービーの負けは本当に悔しかった。……でも、勝ち逃げはさせないよ。エルとまた一緒に、走りたいな」

「……はい! アタシも、セイちゃんと走りたいです」

「そう言ってもらえて嬉しい。とりあえず日本にまた慣れなきゃ、だけどね。ありがとう、エル」

「それは、こちらこそデスよ!」

 

 これで二人目。こんな長台詞を四人に囲まれて聞いてもらうというのは、ひょっとしたら相当恥ずかしい。だけど多分、必要なこと。

 私が今一番したいこと。なら、やらない理由はないのだ。

 

「次は、グラスちゃん。グラスちゃんはさ、最初は高嶺の花って感じだった。私とは違って注目されていて、ずっとずっと強くて。だけどそれでも話せば通じるところがあって、同じことを考えられることもあって。私からあの強いグラスちゃんを支えられているのなら、それは結構嬉しい。……うん、グラスちゃんもありがとう」

「支えられていますよ、いっぱい。本当は一人で立てたらいいと思うのは、私のわがままなのでしょうが」

「それは私も思っちゃうな。そういうところも含めて、似た者同士なのかもね。意外と、かな」

「意外と、ですけど、不思議としっくり来ますね」

「うん。これからもよろしく」

 

 グラスちゃんと心を交わして、つながりをこうやって再確認して。儀式は最後の段階へ移る。告げてゆく言の葉は私から皆へのエールであり、私自身を奮い立たせる己へのエールでもある。他者を想うことが自分のためになるなんて、昔の私は思いもよらなかったはずなのに。自分も他人も、深く関わろうとなんてしていなかったはずなのに。

 

「最後に、スペちゃん。スペちゃんが多分、一番ばちばちやった。弥生賞、皐月賞、ダービー、菊花賞、春と秋の天皇賞。勝ったり負けたりだ。だけどスペちゃんはいつでも私に元気に話しかけてくれて、迫ってる勝負を気にしてるのはバレバレな時だってそうしてくれて。でも、そんな君が嬉しかった。君みたいな優しい子が、私のライバルでよかったよ。ありがとう」

「えへへ、なんだか照れ臭いね。でもこちらこそ、ありがとう。でも次戦うなら、その時は負けないから」

「それこそやっぱり、こちらこそだ」

「そうだね。セイちゃんみたいな走りは、私にはできないけど」

「もちろん私も、スペちゃんみたいな走りはできない。だけど、それでいいんだ。私たちにはそれぞれのいいところがある、それって当たり前じゃない?」

「……セイちゃん、変わったね」

「そうかな」

 

 変わった。それは自覚はしていたけれど、他人から言われるのはあまりなかったことかもしれない。自他共に認めるなら、きっとそうなのだろう。……そうやって変わったきっかけがなんだったかと思考をその方向に寄せると、また頬が熱くなる気がした。

 ここについて考えるのは、今はやめとこうか。

 

「そうですね。セイちゃんだけじゃなく、みんな変わりましたね。私もキングちゃんも、スペちゃんもエルも、みんな」

「まあ、それなりに長い付き合いだもの。それでも縁が切れてないのなら、いいんじゃないかしら」

「はい。アタシもフランスで走ってる間、みんなのことをずっと考えてました。縁は、切れてない」

「でもきっと、それは滅多にないこと。だから多分私は、みんなにありがとうって言いたかったんだよね」

「……そうだね。私たちのつながりは、きっと滅多なものじゃない。今じゃこれなしなんて考えられないけど、本当は奇跡みたいな確率で。だけど、会えてよかった」

 

 スペちゃんのいう通り、私たち五人はトレセン学園の同じクラスで同期という、それだけでは成り立たないような奇跡のつながり。「黄金世代」と呼ばれるには、出会いからたどってきた道筋あってこそのものだ。私たちの努力の結晶、もしやり直したら二度目はない。

 だけど、だから。会えて、よかった。

 そうして、この儀式は終わった。チャイムが鳴って、私たちはそれぞれの席に戻っていく。時間は区切られ、また進む。けれど、つながりは区切られないのだ。

 区切られず、途切れない。

 きっと、永遠にさえなれる。

 そんなことを、思った。

 みんなで、思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっとスカイさん、今日はトレーニングはないわよ」

「知ってる知ってる、えーと、忘れ物しただけ! 帰っていいよ、キングは!」

「そりゃ帰るけど、なんだか腑に落ちないわね。まあいいわ、いってらっしゃい」

 

 とて、とて、ぱたり、ぱたり。白い床の上を足は跳ね、呼吸は踊る。本当に、どうしちゃったんだろう。さっきも関係ないタイミングであの人のことを考えて、授業が終われば一目散にチーム部屋に向かっている。キングのいう通り、今日はトレーニングなんてないのに。昨日話した通りに、今日は会う必要なんてないのに。

 だけどもたった一つの理由で、私はきっとそこへ向かう。

 ぐるり、ぐるり。校舎を回って、道のはずれを突っ切って。私の身体はわりかししなやかで、ゴムのように弾み目的地へ真っ直ぐ。そんなに楽しみなんだ、自分でも驚くくらいにさ。本当に、なんでこんなに楽しみなんだろうね。

 まあでも、楽しみなものが何かって答えは決まっている。昨日の私よりは、幾分はっきりした答えだ。やっぱり、明日が来てよかった。思い出は過去になっても、私を作ってくれているから。心の底から、そう思う。

 がちゃり。ドアノブを回すと、あっさりと開いた。予想通り定位置たる椅子と机に、陽だまりの下にあなたはいた。

 トレーナーさんが、座っていた。

 

「お疲れ様です、トレーナーさん」

「お疲れ様、スカイ」

 

 いつも通りの髪の毛と目つきと口元と、それなのにいつもよりきらきらして見える視界を確認して。私は今日のやりたいことに準えて、一つの目標を立てる。

 

(トレーナーさんに、ありがとうを伝えること)

 

 そう、心の中で宣言して。何でもない特別な一日の最後は、あなたへの感謝で締めくくりたい。感謝を告げてゆくのなら、あなたにこそ感謝したい。これはきっと私のわがまま。理由もわからないからこその、わがまま気まぐれな私の気持ちだ。

 のどかな秋の陽射しだけが彩る、散らかった狭い部屋。

 そんな風情も何もないシチュエーションで、私があなたに伝えたいことは。

 私は、あなたに。

 その先を、言葉にするためだった。

 私よ、どうか私のために。

 一歩、踏み出せ。

 

 

 

 

 

 

 知っているだけではわからないものというのは、世の中にいくらかある。いわゆる実感がなければ、知識だけでは手に取れないものは。

 たとえばその一つが大人というもの。十八になれば成人で二十になればお酒が飲める、そんなふうに一応法律が区切ってはくれるけれど、実感を持って「私は大人になりました」と言える日はなかなか来ないだろう。変化と成長は日々の積み重ねであり、ある日一段上に登るにはそれより前の何十日もかけて助走しなければならない。そうやってたくさんの成長を重ねて、きっとその頂点で人は大人になるのだ。私は、そうだった。

 

 もちろん私がこうやって自分自身の「大人」というものについてある種の結論を持つのにも、それなりの実感というものが必要だった。そして実感というものは伝えたくても伝えられない個々人の感覚にも依るもので、私の結論が他人に当て嵌められるとは限らない。

 今私が部屋に入ってきたというのにそんなのに目もくれずいそいそとしているトレーナーさんにも、おそらくトレーナーさんなりの大人への成長の仕方というものがあったはず。そしてその内容は当然、今まで色々子供の私たちに教えてくれた指導の中には入っていないのだ。あなたの「大人」は、あなただけの特別な気持ちでもあるだろうから。

 それならば、同じく、だった。私が今からあなたに伝えたいものも、「大人」の感覚と同じ。実感がなければおいそれとは伝えられない、世の中にいくらかある特別な気持ち。

 ありきたりでどこにでもある、だけどやっぱり、特別な。

 感謝という、気持ちだ。

 とくん、とくん。なんとなく、心臓は揺れ動く。ぴこ、ぴこ。なんとなく、耳は先端から跳ね回る。ゆら、ゆら。なんとなく、尾は揺れて。ぎゅっ。なんとなく、手に汗握って。そんなふうになんとなく、緊張していた。

 私は、あなたに何を告げるのだろう。なぜだかトレーナーさんの見え方が変わって、なぜだか一緒にいたいと思ってしまって。そんな気持ちを私が抱えた理由も、実感しなければ見つけられないとしたら、私はそれを明らかにするためにあなたにありがとうをいうのだろうか。

 多分、そのことも理由の一つ。だけど、私の気持ちは一つだけじゃない。抱いた気持ちは、いつも別の顔で包み隠すばかりじゃない。私の滅多にない素直な顔を、あなたにも届けたい。

 ありのままの私を見せたいのも、私からあなたへの気持ちだ。

 ……だけど、どうしようかな。トレーナーさん、何してるんだろう。心なしかいつもより部屋が散らかってる気がするが、散らかってるのはいつもだから気のせいかもしれない。

 というわけでじーっと、あなたの動きを観察してみる。トレーナーさんのごつごつした指が、机横の本棚に伸びる。指先が若干いつもよりは丁寧めに動いて、一冊本を掴み取る。取り出した本の背表紙を、その意外と丸くて愛嬌のある瞳でぱちくりと見つめて、開きもせずに本棚に戻す。……いや、正確には先程とは違う場所に戻した。身体の動きがちょっと違うからわかる……って、なんでそんなにじろじろ見てるんだろ。

 そんな自分に気を向けると急に恥ずかしくなってきて、ぷい、と目を逸らしてしまう。明らかに失礼だけど、あちらは作業に夢中だからセーフだ。観察のおかげでトレーナーさんが何をしてるのかもわかったし、無駄な行動ではないだろう、うん。部屋が散らかっていると思ったのは半分正解。そしてトレーナーさんの最終目的は、むしろ散らかるのとは逆だ。

 トレーナーさんは、掃除をしているのだ。この狭くて埃っぽくて散らかっていてトレーナーさん以外ほとんど使ってないチーム部屋を、綺麗にしようとしているのだ。そうするのはもちろん、部屋を使う自分のため?

 目の前にあるわかりやすい結論に結びつけるのは簡単だけど、それだけではない気がした。私のトレーナーさんならそれだけじゃないって、願望混じりかもしれないけど。あなたは、他人を想える人だから。

 多分トレーナーさんは今、変わろうとしているのだ。あの釣りの日のぎこちない態度も含めて、これはその途中。そのための片付け。大掃除。まずは身の回りからって、よく言うものね。とはいえ部屋一つの片付けを一人でこなそうなんてのは、やっぱりいつもの不器用なトレーナーさんなんだけど。まあそこについてはトレーナーさんのいいところでもあるし、無理に治してなんてふうには思わない。

 ……って、何様なんだろう私。とりあえず私がこの状況で取れる選択肢なんて一つしかないんだから、さっさとそれを選べばいいのに。

 というわけで、すうっと息を吸い込んで。少しばかり自分の世界に入り込んでいるあなたにも、私の声が届きますように。

 そんな気持ちを込めて、一言。

 

「手伝いますよ、トレーナーさん」

 

 多分そっけなく、だけど心から。何度目か、あなたに手を伸ばす。その手はあなたの下から伸びてきたものなのだろうか、はたまた。

「……おお、スカイ」

 あなたの真横、隣から伸ばせていただろうか。どちらにせよあなたは手を取ってくれるだろうけど、できればより近い方がいい。

 あなたのそばが、いい。

 空を走る雲は徐々に増え、日光は途切れ途切れに部屋に差し込む。けれどまだまだ明るくて、身体の芯まで届く空気はぽかぽかしている。

 そんな秋のデイタイム、午後三時半だった。

 

 

 

 

 

 

「おお、それはそっちに置いておいてくれ」

「はいはーい。ちなみに余ったものはゴミ行きでいいんです?」

「いや、それは確認して持って帰るものは持って帰る。大体俺の私物だ」

「この部屋を文字通り私物化してましたもんねえ、トレーナーさん」

「面目ない」

「ほんとですよ、まったく。だからまあ、片付けるのは偉いと思いますけどね。セイちゃん感心しました」

 

 部屋全体の模様替えとなると、それなりの大工事だ。だからそんな大仕事に手をつけようということ自体は、褒められて然るべきだと思う。なんでそうなるまで放っておいたんだ、みたいなのはさておき、なんだけど。

 というわけで段ボールに要らないものを詰めていくことから始めたのだが、物を動かすたびにまあ埃が出てくる出てくる。若干引いちゃうくらい、出てくる。埃を吸ってけほっと咳をするたびに、トレーナーさんが申し訳なさそうな顔をするのが面白いので許すけど。

 これも終わってあれも終わって、次はなんだろうか、そう思って振り返るのも慣れたもの。一時間ほど作業したが、流石にトレーナーさんとはそれなりに呼吸が合うというか。こちらの作業が終わったあたりでぴったり次を頼まれるのは、少し気持ちいい感覚があったり。トレーナーさんと一緒にいられるということが、やっぱり嬉しいのかもしれないけど。あなたと同じ時間を過ごすのが、幸せなのかもしれないけど。

 ……いつ満足するんだろうな、この変な気持ち。トレーナーさんが変なふうに見えるのにも疲れたのだ、こっちは。私としては早く原因を究明するべくトレーナーさんにアクションを仕掛けたいところだが、それを私自身が許さない。流石に仕事を投げ出すわけにはいかないとか、引き伸ばせばもっと一緒にいられるとか。

 ……我が事ながら、変な気持ちのままだと再確認させられる。

 さて、そうやって振り返ったところ。今までより一際巨大な段ボールが、私の目の前に立ちはだかる。あれ、トレーナーさんは? そんな疑問も束の間、その段ボールの後ろからいつも通りの背の高いカッターシャツ姿が出てきた。

 それなりの背丈の身体を隠していたのだから、段ボールには相当な荷物が詰まっている。私が後ろを向いていた間に、何を詰め込んでいたのやら。

 

「全部詰めた。これを、トレセン学園の倉庫まで持っていく。そこに行けば、保管してくれる」

「保管、ですか。なら、大事なものが詰まってるんですか? それにしてもこの部屋、こんな量のものがあったんですね」

「ああ、今まではあちこちの棚に入れていたが……限界だ。俺の過去集めた資料に、君らが使い古した蹄鉄その他走るための道具。あとは大事なレースの新聞とか、とにかくそういうものだ」

「なるほど。捨てるに捨てられない、思い出の品々」

「そういうことだな。だが今日は思い切って、倉庫まで持っていく。過去に縛られるのもよくないからな」

「一理ありますね」

 

 過去は確かに大事だけど、それに縛られてはおしまいだ。過去は未来を支えるものなのだから、未来を見なければ意味はない。けれど、大切な思い出だろうに。それだけ変わりたいということなら、当然応援はしてやるつもりだけど。思い出に一区切りをつけるなら、思い出があった場所のぶんの埋め合わせをしてあげなきゃね。

 

「じゃあ、持っていきますね。倉庫、場所はどこですか?」

 

 というわけで、よいしょ、と段ボールを抱える。

 確かに今までのものより大きくて重いけれど、そこは私もウマ娘。これくらいなら一人で行ける、そういうつもりでトレーナーさんに問うたのだが。

 トレーナーさんの返答は、予想外のものだった。

 予想外だけど、こいつなら当然かもしれないな、とも。

 

「いいや、これは俺が行く。責任を持つ必要がある」

「え、なんでですか」

 

 なんで、と聞き返してしまった。いや責任とは言っているのだが、それはいくらなんでも語らなさすぎだろう。トレーナーさんが割と筋肉ある方とはいえ、この量は流石にヒト一人では無理だと思うが。まったく、変わろうとしているのだと評したのは間違いだったか。これじゃ頑固なトレーナーさんのままじゃないか。

 

「なんで、じゃない。俺が行くから、スカイはもう帰っていいぞ。これで終わりだからな。お疲れ様」

「ええちょっと、それはひどくないですか」

「ひどくない。さあ、段ボールを貸してくれ」

「やでーす。それより倉庫の場所教えてくださいよ」

「嫌だ」

「強情ですね」

「それはスカイの方だ」

 

 正論を言わない時のトレーナーさんは本当に不器用で、駄々のこね方が子供みたいだ。

 このままずっと問答をしていてもそれはそれで退屈しなさそうだけど、そんなのじゃ何も前に進まない。

 そりゃ多分私は今は一緒にいたいのだろうけど、あなたに感謝を伝えたいのも本当だ。

 そして感謝を伝えるためには早く掃除を終わらせて、フリータイムに入る必要があるのだ。それも私とトレーナーさん、同時に。

 そうじゃなきゃありがとうなんて不自然だし、待つのも待たせるのも照れ臭いじゃないか。

 なんて感じで私が色々段ボールの裏でなんと言おうか悩んでいるうちに、トレーナーさんがひとつ閃いたようで。碌でもない、閃きを。

 

 トレーナーさんの意思は、言葉より先に感触でわかった。ほんの少しだけ軽くなった段ボール。指先に当たるもう一人の指。その感覚に追いつく前に、あなたの声が50㎝先から聞こえて。

 

「なら、二人で行こう」

 

 ……本当に、この人は。私がどんな気持ちを今抱えてるのかも知らないで、相変わらず何も知らないからこその言葉を言って。二人でなんて一番非効率じゃないか、一番時間がもったいないじゃないか。

 

「はい。そうしましょうか」

 

 だけど、一番一緒にいられるから。

 私はあなたの手を、しっかりと握り返してしまうのだ。

 秋の空は次第に寒さを伝え、うろこ雲が空をゆく。

 オレンジ色の夕日が目覚め始めるデイタイムの終わり際、午後四時半だった。

 

 

 

 

 

 

「このまま進めばいいんですか?」

「そうだ。このまままっすぐ行けばいい」

「私後ろ向きなので、ちゃんと指示してくださいね」

「任せろ! スカイのことはばっちり見ているぞ」

「そう断言されると、逆に恥ずかしいんですけど」

 

 二人で行こう、そう言われた時はなんて提案だと思ったが、悔しいことに私はすんなりそれを受け入れてしまっていた。

 トレーナーさんと二人で過ごす時間に、しっくりと来てしまっていた。

 もちろん、一筋縄ではいかない。指先はちょくちょくトレーナーさんの硬い指に当たるし、その度にあなたの熱を感じてしまうし。視界に入るのが段ボールだけなのは嫌だなと思って横を見遣ると、トレーナーさんの年甲斐もなくキラキラした真っ黒い目と視線が合ってしまって思わず逸らすこと既に七回……今八回目だし。

 はあ。なんで、こんなに。おかしいと思った。私の仮説では、釣りが楽しかったから一緒にいたいと思ったわけだ。つまりその記憶が薄れる頃にはもうちょっと落ち着いて探れると思ったのだが、私の意識は更にトレーナーさんに向いている。

 心臓には、まだ針が刺さったまま。

 本当に、なんでだろう。

 今日はなんてことない日だけど、色々な人に感謝を伝える日と決めた。もちろん、あなたにも。そう決めたことがよくなかっただろうか? でも私はいまだ強く願うから、感謝したいって気持ちは嘘にしたくない。今まで積み重ねたものを改めて、あなたの前で言葉にしたい。

 そりゃ今までだって、あなたに感謝を伝えたことくらいはある。それに今までだってと言うのなら、トレーナーさんの姿を見るのも触れるのも初めてじゃない。慣れ親しんだというのはなんとなく嫌なのだが、まあ慣れたものだろう。

 けれど今日のあなたが何か違うとしたら、きっとそれは今だから。積み重ねたものが違うから、多分違って見えるのだ。私にとっての、見え方が。私にとってのあなたは、今どんなふうに見えているのだろうか。

 わからない。相変わらず、わからない。

 だけど、幸せ。そのことは、わかる。

 

「もう少しで着くぞ」

「おっ、そうですか。いや、流石に二人だと早いですね」

「そうだな」

「ところでトレーナーさん、重くないですか」

「平気だ。君一人に渡す必要はない」

「ちぇ、けち」

 

 そんなことを考えながら二人で歩くうちに、ゴールは間もなく。倉庫に着けば今日の作業は終わりで、そうすれば私は夕焼けを背にあなたに感謝を伝えられるのだ。仕事終わりの心に沁み入らせるには、なかなかドラマチックな演出じゃないか。トレーナーさん、感動して泣いてしまうかも、なんて。

 そして今日こうやってあなたと過ごしたからこそ、確かに私が思うのは。あなたへの想いを抱えてあなたを見ていたからこそ、わかるのは。紛れもなく、トレーナーさんが変わったということだった。今日の大掃除そのものが、トレーナーさんの変化を表している。そのことは間違いない。あなたも、私も、変わっていた。

 ……けれど、変わらないものもあるはずなのだ。だからトレーナーさんはトレーナーさんであり、私はそんなトレーナーさんにだから伝えたい感謝の気持ちがある。

 変わらないものの一つが、外見だ。人が他人を認識する上で、これ以上のものはないだろう。まあ当然私の見た目もそう簡単に変わらないし、成長の止まった大人で特におしゃれでもないトレーナーさんはなおさらだ。改めて今日目に焼き付いた姿を思い返しても、やっぱりいつものトレーナーさん。いつものあなたをなぜだか、私の方がいつもじゃなく意識してしまうだけ。

 いつも見ている、あなた。いつも私の近くにいてくれる、あなた。あなたには今みたいに、変わらないものもある。変わらないものも変わっていくものも、私はあなたと認識している。あなたのすべてを、私は見ている。そう、そういうことなら。

 ざり、と結論に一歩近づく感覚。

 私は、あなたに。

 

「よーし、着いたぞ。ここがトレセン学園の倉庫だ。トレセン学園の歴史の一部、と言っても過言じゃない。……中に入って、右だ」

「あっ、はい」

「どうした、スカイ」

「いえ……ちょっと考え事をしてただけです」

「そうか。お疲れ様だな」

「はい。お疲れ様です、トレーナーさん」

 

 そこで思考を現実に戻し、倉庫のドアを後ろ手で開ける。ドアから入って横にすぐ、大きな部屋があった。ここがおそらく倉庫なのだろう。ちゃんとは見えないけれど、他にも私たちが運んできたのと似たような物が置いてある気がするし。

 というわけで、後ろに進んで、進んで、また目が合った、まあそれでも進んで……よいしょ。

 

「ふう、これにて一件落着ですね」

「ああ、助かった。今日は本当にありがとう」

「いいえ、たまには助けてあげないと。……それにしても、なかなか壮観ですね」

 

 荷物を下ろして開けた視界を見渡すと、あたり一面にはたくさんの物品が、埃まみれで。まあそれでもこの倉庫なら保管しているというのは、嘘ではないのだろうけど。なんせ奥の方に積まれた物は相当な年季ものに見えるしね、あのよくわからない鍬とか、多分。そういう意味では、ある種壮観なのは間違いなかった。ここには一つの歴史がある。トレセン学園という私たちの生活の舞台の、歴史が。

 トレセン学園は、ウマ娘たちを巡り合わせ、そしてトレーナーとも出会わせる不思議な場所。そんな不思議な場所が作り上げてきた数々のつながりが、こうして積み重なることで礎となっているのだ。そこに関して感慨深く思うと身体は勝手に動いてしまうもので、ぺこり、と小さく荷物の山にお辞儀をした。

 

「どうした」

「ああ、ちょっとすごいなって思って。今日は私、感謝を素直に伝える日なんです」

「なるほど。それは偉いな」

 

 褒めてくれるのは結構だけど、ここまでの流れならもうちょっと気がついてもいいじゃないか。あなたにも、伝える言葉があるのだと。

 私はあなたに。あなたに、なんだと。

 そう、これにて全行程終了。

 マジックタイムに差し掛かる、秋の夕暮れ午後五時だった。

 

 くるりとターンして、夕日を背に回す。逆光を背負わなきゃ直視できないくらい、あなたへの気持ちは大きくなっていたから。

 だから私の声は、今までで一番、最高に響き渡る。

 膨れ上がったあなたへの感謝を、今からの一瞬に込めるため。

 

「トレーナーさん」

「なんだ」

「いつも、ありがとうございます」

「……そうか」

「はい。トレセン学園の入学式の日、私はサボりを決め込んでました。それを見咎められなければ、今私はここにはいません」

 

 トレセン学園という一つの世界の過去がたくさんに積み重なったここは、私たちの出会いまで遡るのに相応しい場所かもしれない。私の想いは、きっとあの出会いから始まっている。トレセン学園の入学式、この場所だからこそ始まったつながりから。遥か遠くのその出会いから、たくさんの積み重ねと変化によって、今の私はこうなっている。

 

「最初は厄介な人だなと思ったけど、いつのまにか私の大事な人になってました。……トレーナーさんが期待してくれるから、ここまで来れたんです」

 

 だから、私はあなたに感謝したい。

 そう思うところまで、あなたの見え方を変えている。世界の中に、あなたを置いている。

 それほどまでに、あなたを大切に想っている。

 ずきりずきりと痛む胸の奥の感覚、ますます深く深くまで。

 けれど、止められない。

 止めたく、ない。

 

「本当に、ありがとうございます。クラシックもシニアも、トレーナーさんがいてくれたからこそです。それはずっと思ってましたけど、やっと言えました。そしてそれは、レースだけじゃなくて」

 

 やっと、やっと言えていた。もやもやした気持ちが、すーっと晴れる感覚。

 そう、私も変わっていたのだ。あなたの見え方を変えていたのは、あなたを今まで以上に大切に思うから。だからそんなかけがえのない気持ちを告げられる今は、溜め込んだものを言葉にできる今は、たまらなく幸せで幸せで。

 これ以上なく大事な時間だと思っていて、だからきっと──。

 

「私がこんなふうに考えられるような大人になれたのも、トレーナーさんのおかげです。諦めるなって言ってくれたから。褒めてくれたから」

 

 ──きっと、この気持ちはずっと抱えていた。

 

「だから、ありがとうございます……これしか言えてないですね」

「いや、こちらこそありがとう」

 

 ──きっと、ずっとあったからこうやってすらすら述べられる。

 

「ちょっと、まだまだ言いますよ。なんだかどこまでも喋れそうなんです」

 

 ──きっと、「褒められたい」の先にある今だから。

 

「ええとですね、多分私はあなたに──」

 

 ──きっと、今だからこそ形になる気持ちなのだ──。

 

「あな、たに」

「……スカイ?」

 

 ──あれ。

 えっと、まさか。

 思考を理性が止める。すんでのところ、ギリギリで。

 あれ。

 "私は今、何を言おうとした"? 

 ……いや、いや。いやいや、いや。

 そんなわけ、あってたまるかってーの!!

 

「……ちょっとセイちゃん、急用を思い出したので。これにてさらばです、トレーナーさん!」

「あっ、ちょっと何か言おうとしてなかったか」

「気のせいでーす。では」

 

 だめだ。見れるわけがない、その顔をいくら暗がりでも見れるわけがない。二人きりなんて、耐えられるわけがない。誰だ一緒にいたいなんて、くそっ、くそっ、くそっ! 

 自分に悪態を吐きながら、ぐるりと強引にターンして全力ダッシュ。夕日が目に沁みようが構わず、校門まで一直線だった。

 

(まさか、まさか。嘘だ、うそだうそだ!)

 

 校舎を全部横切って、強引に校門から外へと飛び出す。走り出したい、弾け飛びたい、抑えきれない、どこまで行けば、人気のないところまで走り切れば叫べるだろうか。そんなことばかりを考えていた。心臓から溢れる血を、口から吐かなきゃいけなかった。全部、全部、からっからになるまで吐き出さなきゃいけなかった。

 

(あり得ないあり得ない、だってそんなのおかしい、絶対おかしいじゃないか)

 

 そう否定が湧き立つ心と、その裏で膨れ上がるもう一つの気持ち。私と私の二律背反を不思議と俯瞰する、更に別の私。三人がかりで人気のない河川敷まで、夕焼け小焼けと一緒に道を駆けて。

 穏やかな川のせせらぎを全部塗り潰す勢いで、天を仰いだ私は一言。

 

「うわあぁぁあぁあぁぁあーーーー!!!」

 

 言葉にすらならない叫びを噴水のように吐き出しながら、汗を流しての全力疾走だった。

 スカートのついた制服姿なんて、しこたま走りづらいのに。

 だだんと強く鳴る足音。

 それすら消し去る叫び声。

 吐いて、吐いて、吐いて、吐くために息を吸ってはまた吐いて。

 そして息をするために走るのだから、私の全身は吐き出すために使われていた。

 全部の泥を吐き出せば、本当の気持ちはわかるから。

 

(私、私、私は──!)

 

 知っているだけではわからないものというのは、世の中にいくらかある。いわゆる実感がなければ、知識だけでは手に取れないものは。

 

(いつからだろう、わからない、ずっとかな、昨日の釣りからかな)

 

 たとえばこれもその一つ。誰でも存在は知っていて、だけども決して捉えることができない。その時が、来るまでは。

 そしてその時が来れば一瞬で、世界に別の色がつく。

 そんな感情。

 私がたどり着いてしまった、また一つのスタートライン。

 

(どうしようどうしよう、明日からどうすればいいんだろう)

 

 誰でも持ちうるけれど、誰もがそれぞれ違う結論を持つものの一つ。

 だからやっぱり、実感を得るまではわかることはできない。

 ともすれば唐突で、けれどこれまでの積み重ねが形成するもので。

 故に降って沸いたはずのそれは、あっという間に私に馴染んでしまう。紛れもなく私の、私自身の持つ思考の爆発だと、己とは別物にしか思えない今の感情を理解する。

(でも、でも、吐いても吐いてもどきどきが止まらない。やっぱり、私やっぱり)

 だからこそ大事で、大切で。

 あるいは感謝よりも先にある、誰でも持てて、他の誰にも持てないもの。

 痛くて苦しくてそれでも手放したくない、私にしかわからない感覚。

 たとえ自分の全部を吐き出しても残る、炎より星より強く美しく揺らめく極みの情念。

 

(ああ、そうなんだ)

 

 誰もが胸に秘められる、どこにでもありふれたもの。

 だけどどんな魔法より人を彩る、世界で一番特別な気持ち。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、トレーナーさんが好きなんだ」

 

 これをきっと、恋と呼ぶ。

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