完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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セイウンスカイは正論男に・3

 

 夢を見た。今まで見たどれよりも、夢に近い夢だった。

 夢を見た。あまりにストレートに願望が反映された、浅い夢だった。

 夢を見た。どこかもわからない道の上を、トレーナーさんと二人で歩く夢だった。名前のない場所、名前のない空、名前のない関係。わかるのはただ一つ、指を絡めて歩いているということだけだった。あなたのごつごつした指に、私の細くて小さな指が精一杯くっつこうとしているということだけだった。

 夢を見た。けれど、あくまで夢だった。あなたの手の感触は、何度か触れた過去の再現以上にはならなかった。今の私が触れた時の感触は、私の知らないあなたへの想いがどんなふうに受け取り方を変えてしまうのかは、虚な夢ではさっぱりわからなかった。

 夢を見た。けれど私もあなたも笑っている、そんな夢だった。それは私の願望だった。手を繋いで二人で笑い合えたなら、きっとそれだけで幸せだった。私は、それで幸せだった。

 夢を見た。だけどあなたはどうなのだろう、そう思った。この夢のように私と一緒にいたいと思ってくれるのかなんて、あなたが私をどう思ってくれているのかなんてわからなかった。私はやっぱりあなたを知らない。知らないのに、恋をした。知らないから、もっと知りたい。

 その二つの感覚は矛盾しているようにも見えるのに、どちらも私の中にあるものだった。

 夢を見た。夢の終わりは、朝が来る瞬間だった。夢色の万華鏡越しに見る朝日はまるでネオンサインみたいで、私と架空のあなたとの逢瀬を最後まで煌びやかに演出してくれていた。ぎらついてなくて、ただただ幻想的で、そんなふうに夢は解けていった。

 夢を見た。そして最後にキスをする、そんな夢だった。

 夢を見た。知らないものにはやはり感触はなかった。唇と唇を重ねるという知識だけが脳裏を掠めた。初めて恋を知った女の子にできる空想は、ここが限界だった。

 空っぽで脆い、夢だった。

 夢を見た。だけど、幸せな。

 夢を見た。私の気持ちに一番近い、そんな夢だった。

 

 

 

 

 

 

「何、いまのゆめ」

 

 窓の外からの柔らかい陽射しを目蓋に受けて、血管の色で真っ赤に染まる視界。それだけで我に帰るのには十分だった。夢から覚めるのには。

 いや、何、今の夢。

 そもそも私が夢を見るのが(ないわけじゃないが)割と珍しいのだ。どんな場所でも寝相がいいことに定評のあるセイちゃんは、寝付けない人が見るはっきりとした夢というものとは無縁じゃないか。そんな前提に加えて、その内容。そう、あれは。

 

(うぅ〜〜〜〜!!)

 

 声にならない叫びが出てしまう前に、勢いよくもう一回布団に潜る。トレセン学園に来てから一番私の頭部をぶつけられるのに慣れているだろう寮のベッドの枕が、私の顔をえくぼの隅まで受け止めてくれた。そりゃ誰も見ていないけど、この顔を外に出すのがとてつもなく恥ずかしい。鏡で見るのだって嫌だ。

 多分きっと耳まで真っ赤になりながら、それでいてだらしなくにやけている。

 あんな夢を、見てしまったから。

 私はやっぱり、どうしようもなく。

 

(恋って、こんなに大きなものなんだ)

 

 あなたのことが、好きなんだ。

 手を繋いで、口づけをして。それだけの浮ついた願望が、心の底から私を掬い上げていて。

 だから、私は夢を見た。

 あなたと一緒にいたい。あなたのことが知りたい。あなたにただ、触れていたい。

 そんな数パターンの感情で心のすべてを埋め尽くしてしまうのだから、恋とはなんて大きな気持ちなのだろう。そう思った。

 ……だけど、私としてはどんな立ち回りをしようか。ずっと部屋に篭っていたらまた心配されて、もしかしたら余計なお世話で私の気持ちを暴かれてしまうし、そもそもたまらなくそわそわして、じっとなんかしていられない。

 つまりどうしたって、起きるしかない。普段ならもう少し寝ているか寝っ転がってる時間だけど、今日はそうしてはいられない。いや、動きたくてたまらない。

 

「……たまには早起き、してみますか」

 

 そう呟いて、僅かにぎしりとうめくベッドから立ち上がる。屈伸をしてみると、身体中から骨の音がした。覚醒のための儀式、とも言えるだろう。

 今日の授業は乗り切れるかな、そんなことを考えながら下からパジャマを脱いで。

 今日のトレーニングどうしよう、やっぱりそれも考えつつ下着の上に制服を重ねて。

 これから毎日こんな感じかな、言いようもないような言い表したくないような不安を抱えながら扉の鍵を開ける。

 不安だけど、離したくない気持ち。そしてそんな未知の気持ちによって世界のすべてが変わって見えるのなら、今日からまた新しい日常が始まるのだ。

 少し大人になれた私だからこその、新しい日常が。

 

 

 

 

 

 

 さて。朝起きて行くべきところなど、いつもぎりぎりまで寝ている私にはあまり見当はつかないのだが。そういうことを新しく開拓するのも、今の私の仕事なのかもしれない。

 いや、これから毎日あんな夢を見て早くに起きるのだろうか。……それはちょっと嫌かも。嫌じゃないとこも、あるけどさ。

 そんなこんなで自室から連なる廊下を歩いていると、向こうのほうから人の声が聞こえてくる。通りのいい女の人の声。この声はまあ私も何度か聞いたことあるタイプの声だ。今聞こえるのとは違って、レース場で緊張しながら聞くことが多かったとは思うけど。まあ、そういうタイプの声。つまり、遠くから聞こえる声の主は。

 ぎい、と恐る恐るその部屋の扉を開ける。一際大きな談話室の扉。

 多分私は人がいない時にしか開けない扉、だった。けれど今はこれまで縁なんてなかった人混みに、自分から飛び込んでいくのだ。本当に、どうしてしまったのだろう。

 これも私の抱えた感情がそうさせるのだろうか? 悩んでも答えは出ず、答えてくれる人もいない。それでよかった。他人に混じっても今の自分は消えない、そう思えるだけの理由を持てているということだから。

 さて、そんなことより。聞こえていた声の主が、次なる台詞を述べ始めた。部屋の中心、テレビの中から。そう、聞こえていたのは女性アナウンサーの声。流れていたのは、ありきたりなニュース番組だ。

 

「続きまして、今日のエンタメ特集です」

 

 談話室には(知ってるけど)大きなテレビがあって、多くのウマ娘がその画面を眺めていた。私が入ってきてもこちらはちらりと見るだけで、すぐにニュース番組に釘付け。そういや今までの私はテレビなんてレース関連しか観てなかったな、と自分を顧みる。他の子のように私も年頃の女の子なら、テレビくらいは見ておいた方がいいのだろうか。それとももっと他に追いかけるものがあるのか? ネットとか、雑誌とか。

 他人に乗っかるなんてガラじゃないのに「らしさ」なんてことを考えてしまうのは、やっぱりあなたのせいだった。トレーナーさんは、今の私をどんなふうに思っているのだろう。そのことはどうしたって気になってしまっていた。私がどうにも何かにつけて横道を逸れるような女の子だとしても、いつも全幅の信頼を置いてくれることはわかっているけど。そういう人なのは、もちろんわかっているけど。

 でも私が今求めているのは、信頼の先にあるとしても信頼とは違うもの。

 たとえそれがどれほど尊く切なく、そして愛しい気持ちだとしても。

 私が求めているのは、今ある信頼を壊す行為だった。

 そんな私の思考を遮るように、大きな液晶からは女性アナウンサーによる「今日のエンタメ特集」が流れていた。本当に遮るように、狙い澄ましたかのような話題を投げかけていた。まさか私一人宛のテレビ番組なんてあり得ないと、頭ではよくわかっているのに。

 同じ星座の人をみんな同じ運勢に当てはめる大雑把な朝の星座占いも気にしたことないくせに、更に誰に向けているわけでもないその特集がいやに耳に残ってしまう。

 ただ、一つの理由で。

 なんでもないアナウンサーの言葉尻を、捉えただけで。

「今日紹介するのは、現在大ヒット中のアニメ映画、『ホワイトエンディング』。ある夜の日に出会った少年と少女の、美しい恋の物語です」

 そんな説明はきっと、どこにでもありふれているのだと思った。目の前の誰も、その紹介に興味を惹かれこそすれ動揺などはしていなかった。

 「恋」の一言がこんなに重くのしかかるのは、この空間では私だけなのだろう、と思った。

 恋はフィクションのものだった。

 そう考えていたから、フィクションを扱った物語を見ても気恥ずかしさなんて感じなかった。

 自分には縁がないもの。どこか遠くで、空想の中で結ばれるもの。手の届かない、大人のもの。

 多分そういうふうに思っていた。もしかしたら今この空間にいる私以外は、同じような考えかもしれない。恋の存在は知っているけれど、自分が直面するとは思っていない。自分がその立場になった時、どうすればいいのかなんてわからない。

 心に触れるあらゆるものに反応してしまうほど、恋慕が自分のすべてになってしまうなんて、昔の私は思っても見なかったのだから。

「夜の日に運命的に出会った主人公の少年とヒロインの少女は、その後会う度に惹かれ合い、二人の間にある距離を縮めていきます。しかし、二人の関係に危機が──」

 危機。危機。けれど、その二人は結ばれるのだろうと思った。そういうストーリーなのだろうと、少しだけ冷ややかに。

 フィクションの恋愛なんて、半ば結ばれるのが決まっているようなものだ。添い遂げるにせよ悲恋にせよ、恋愛が話の主軸にある。お互いの想いはなんらかの帰結を生む。伝えられない気持ちなど、盛り上がりがなくてつまらない。

 少なくとも私はそんな話をフィクションには求めないだろう。

 苦難の果てに結ばれてほしい、平々凡々な感性でそう願う。

 だけど、物語の恋はフィクションだ。運命のつながり、必然の出逢い。フィクションには求められるけれど、同じものを現実には求められない。そのことだって、わかりきったことだった。

 私とトレーナーさんの関係には、求められない。

 偶然の出会いだった。最初はトレーナーさんの方から引っ張ってきただけだった。こんなふうに仲良くなるなんて、思ってもいなかった。こんな気持ちを抱えてしまうなんて、思ってもいなかった。

 そして確かに私とトレーナーさんは互いの距離を近づけたけれど、そうなったのは惹かれあったからなんかじゃない。トレーナーと担当ウマ娘、大人と子供。どれだけ双方向性に見えても、あくまで導き引っ張られるつながり。そういった関係に名をつけるのなら信頼であり、恋愛であることはありえない。

 そう、やはり今まで築いてきたものは信頼なのだ。私はそれを壊そうとしている。あなたを裏切ろうとしている。私の望みは、破滅への手筈。そう思ってしまった。

 私が信頼の先に恋情を結びつけてしまったのは、手酷い過ちなのかもしれない。取り返しのつかなくなる前に、引っ込めるべき過ち。信頼を積み重ねた先に恋愛を始めることができないのなら、私は関係ごと壊さなければあなたに恋をできないのだろうか。

 一度生まれた「裏切り」というフレーズは頭にまとわりつき、ぐわんぐわんと脳を揺らす。

 そうやって、願いが純粋だとしても。

 あなたと私のつながりを、壊してしまう、くらいなら。

 ずっと悩んでいた。昨日走り出したあの時から、ずっと。丸一日にもならない時間で、幾千幾万の思考を連ねた。私はこの気持ちをどうしたらいいんだろう、と。

 伝えられるわけがない、だからあの時逃げたんだ。でも逃げて吐き出せば吐き出すほど、想いは強く強くなっていって。諦めるのは嫌だって、何度も説かれたそれをあなた自身に対して思ってしまって。

 二桁は歳の差がある大人と子供、こんな気持ちは無謀に過ぎるとわかっているのに。

 

「『ホワイトエンディング』、あなたもご家族や友人、恋人と一緒に観に行ってみてはいかがでしょうか」

 

 なら、今のままがいいんじゃないか。ニュースの終わりと共に私がそう思うのも、確かだった。たとえば私はトレーナーさんをこの映画には誘えない。家族でもないし、友人でもないし、ましてや恋人でもない。だけどそんな名前を付けなくても、十二分に通じ合っているじゃないか。今存在するかけがえのないつながりを壊すくらいなら、今のままでいいじゃないか。

 きっと、世界には恋なんてありふれている。この映画も恋を描き、カップルが観に来るようなものだ。私の抱いた気持ち自体が、世界に認められないほどの間違いというわけじゃない。世界は恋の存在を受容しているのだから、私もそこにある赦しに溺れていい。甘い痺れで骨まで溶けるのを、ただ享受していればいい。そのこと自体が悪いわけはない。

 それは、わかっている。

 世界は、一つも変わらないから。私の恋心程度では壊れない世界は、いくらでも破滅を受容してくれる。私を、許してくれるのだ。

 だけど。

 私が許されないのだと恐れているのは、その心をあなたに伝えることだった。恋心の存在は、きっと誰でも認めてくれる。誰もが私の気持ちを応援してくれさえするかもしれない。

 だけど、他者から与えられるのは所詮応援だ。私がこの気持ちを届けたいのは、応援してくれる誰かじゃない。

 届けたいのは、トレーナーさん、一人だけ。

 そしてそれが受け入れられるのかが不安でたまらない。

 世界が恋を認めたとしても、あなた一人がそれを喜んでくれなきゃ意味がない。

 あなた、一人だけが。

 認めてはくれるかもしれない。理解はしてくれるかもしれない。

 でも、受け入れてくれるだろうか。私に魅力があると思ってもらえるだろうか。

 いつまでも私はあなたの中では子供なんじゃないだろうか。

 俺なんか、とか言って、届いてはくれないんじゃないだろうか。

 そうなるのは容易に想像できる。あらゆる言い方で、あなたが私の告白を断るのは。

 きっと私の事を思って、断るのは。

 そうしてくれるのは私のためだとしても、あなたの紛れもない正論だとしても。

 その結末は、怖い。きっと失恋だって、この世界には星の数ほど存在しているのに。

 朝の世界は徐々に眠りから覚めてきて、談話室の人間も出て行ったり入ってきたり。私一人が悩んでいても、特に支障はなく地球は回る。未だ扉の前で立ち尽くしている私なんて、どこにもいないみたいに。けれど、それでよかった。誰にも言えない悩みだから。どこにも居場所がなくてもよかった。あなたのそばにいられるなら、それでよかった。

 そう思うくらい、好きだった。

 これが初恋。本当に、はじまったばかりの気持ち。私だけの、あなたのためだけの気持ち。これ以上なんてなくても構わない、そう思ってしまうような気持ち。全部全部、私の全部がこのためにあるんじゃないかって錯覚してしまいそうな気持ち。

 全部が恋でいっぱいだった。

 はじめての、恋で。

とはいえ、初恋は大抵実らないものだ。バレンタインの時だったか、トレーナーさんの初恋の話を聞いた。今だったら絶対聞けないようなことを、あの時は聞けていたのだった。でも今でもその会話を覚えているから、やっぱりずっと好きだったのかもしれない。意識と無意識の区切りは、自分自身が一番曖昧にしてしまうものだから、わかるのは今好きだってことだけ。

 ……まあそれはともかく、トレーナーさんの初恋はもう終わっている。当たり前だけど学生時代に、これもまた当たり前のように実らない結果に。それだけ聞けば、悲しい結果だ。結構悔いのあるような話し方をしていた気がする。もちろん引きずってはいないのだろうけど、そう思い返すくらい初恋とは思い深いものなのだろう。

 そして、こうも言っていた。いい思い出だった、と。初恋は実らなくても、いい思い出になるのだろうか。トレーナーさんの初恋は、結局先輩への憧れで終わって告白もなかった。その終わり方が「いい思い出」。なら、私もそうすべきなのだろうか。この気持ちをいい思い出にするために、そのための準備をするべきだろうか。

 

「……と、そろそろ出なきゃな」

 

 思考の途切れ目で時計を見遣り、遅刻はすまいと一旦気持ちを切り替える。けれどやっぱり本当に一旦で、自分の部屋に向かう頃にはまた頭が桃色でいっぱいだった。今日の授業はいつにも増して集中できないし、トレーニングなんて本当にどうしようか。

 そう思いながらも脳裏に瞬くのは、あの暑苦しい声。大柄な身体と、意外と子供っぽい顔。

 ……本当に、なんで私の初恋があんな人なんだろう。あんな人と貶しながら、その一方で夢中になっている。そんな私も滑稽だけど、不思議とバカらしくはなかった。浮ついていたけれど、どこまでも真剣だった。世界の片隅でしか蠢けないけど、私の見る世界の中心には私がいた。

 だけどたとえ私がこの恋に命を賭けたとして、いい思い出にできるだろうか。

 想いを告げて断られれば綺麗さっぱり、いい思い出にできるだろうか。

 それともずっと憧れのまま、十年もした頃に笑って「好きだった」と告げた方が、気持ちの整理がついていい思い出にできるだろうか。

 美しい、いい思い出にできるだろうか。

 鞄に荷物を詰め込む時も、ずっとそんなことばかり。ぐるぐる思考を回して、身体は今にもはち切れそうなくらいどこもかしこもかゆくてかゆくて。

 けれど、ばたんとむりやり鞄を閉めて。

 気持ちに一区切りがついたのも、同じタイミングだった。

 手早く部屋を出て、弾むように玄関を開けて。

 澄んだ空気が少し冷たく、私の真っ赤な頬を撫ぜた。

 だけどその空気すらも、私の気持ちを後押ししてくれているような気がした。

 何も知らないはじめての恋への、私のはじめてのアプローチ。

 

(「いい思い出」なんて、まっぴらごめんだ!)

 

 そう思ったのだ。少しだけ駆け足で学園に向かいながら、やっぱり今日を期待しながら。

 私は、そう思ったのだ。

 きっともっと大人なら、恋なんていくらでも知れるのだろう。きっともっと子供なら、恋なんて一つも知らないままだっただろう。恋を思い出に、あるいは恋そのものへの憧れに、そうしてしまえば切り抜けるのは楽なのだろう。

 でも、それでも。

 それでも私は、今この瞬間の私は、この恋が実るかどうかに全身全霊を捧げたいんだ。未来でいい思い出かなんて知らない。過去で恋をどんなに別のものに置き換えていたかなんて知らない。私は初めて恋を知ったから、きっと間違いだらけだろう。

 それでも、それでも私の初恋は。

 私の初恋は、やっぱり抱き締めていたい。

 最後の最後まで、私がそれを諦めるわけにはいかないんだ。

 世界は許してくれる。世界は変わらないから。

 あなたは許してくれないかもしれない。あなたは変わるから。

 なら、私は世界よりも。

 あなたを、選びたい。

 靴のステップは蹄鉄より柔らかく、秋の終わりに馴染む音。何もかもわからない初恋乙女にも、その音ともう一つくらいはわかった。

 ひたすら悶々として、耐えられないと大声で叫びたくなるような。

 今のままの関係じゃ、我慢できないんだと声を張り上げたくなるような。

 

 そんなふうに張り裂けそうなほどの恋を抱えてしまったことだけは、私がひどく変わってしまったことだけはどうしようもないくらいにわかっていた。

 肌寒さの増した秋の暮れ。まだトレーニングも授業も始まっていない秋の朝。私の身体だけが、汗をかいていた。一仕事終えたみたいに、たっぷりと。

 私だけが持つ、情熱だった。

 

 

 

 

 

 

「はぁ〜……」

 

 深く、深くため息を吐く私。時刻は午前中の授業が終わってすぐの十二時過ぎ、場所は人のまばらな教室、そこの廊下側にある我が慣れ親しんだ机の上。

 貧相な上半身を顎の先までべったりその冷えた木目に押し付けながら、私セイウンスカイはひとつため息を吐いたのだ。午前を乗り切った己に対する、疲弊と苦悩のため息を。

 まあ、理由は結局一つである。今日への決意を込めて新たな日常に臨んだとしても、実際時間の進みと共に解決していない悩みはリフレインするということ。

 トレーナーさんへの恋心という、幸せな悩みは。

 もやもやが立ち上り、今すぐ退屈な授業から逃げ出したくなって。あるいはどうしても胸が苦しくなって、あなたに会いに行きたくなって。時間の感覚も長くなったり短くなったりめちゃくちゃで、落ち着かなさすぎてちっとも居眠りできなかった。

 結局最後の方は大真面目に勉強に取り組むことでなんとか思考のどつぼから逃げていたのだが、そんな慣れないことをしたせいで普段の四倍は疲れている。今一歩も動けないくらいには。

 

『セイちゃん、食堂に行かないんですか?』

『あー……今日はごめん、パスさせて……見ての通りだから』

 

 ざわめく教室と心の中で、数分前の会話を思い出す。こんなふうにグラスちゃんたちみんなに心配されながら、結局送り出したつい先程のやりとり。

 

『授業中はあんなに落ち着きなかったくせに、どうしたのかしらね、あなた』

『うわキング、授業に集中もせずこっちのことちらちら見てたの? セイちゃんこわーい』

『あなたにだけは集中してない、なんて言われたくないわね……まあ、それくらいの元気はあるみたいで良かったけど。今日もトレーニングなんだから、養生しなさいよ』

『うん、ありがとう』

『もし本当に体調が良くないなら、保健室まで付き添いますよ?』

『グラスちゃんもありがとう。まあ多分、そんなに心配要らないよ』

『ならいいのですが……』

 

 そんな感じでなんとか心配を振り切ったのが今なのだが、一人になると若干の罪悪感もあり。とはいえ仕方ない、仕方ないのだ。あのキングやグラスちゃんにも見抜けないほどの悩みなのだから。今までで一番幸せだけど、今までで一番難しい悩み、なのだから。

 きっと、世界に恋なんてありふれている。だけどたとえばいつもの五人の中では、多分私しか知らない。それは隔絶のようで、成長のようで、そこにある差を噛み締めるのはやはり複雑だ。ずっと一緒だとさえ思いながら、やはり細かな差異はある。何度も思い知ったことだけど、私たちは同じじゃない。こうやって各々の変化があり、少しだけ違う世界を見ているのだ。

 でも寂しいはずの違いは、今は何だか嬉しくて。

 私の気持ちが私だけのものなんだ、そう思えた気がして。

 独りぼっちさえ、尊い気がして。

 私は、ほんのちょっとみんなより大人だった。多分、そういう意味でもあった。だから、仄かに肯定できた。いまだ誰も進んでいない道でも、私が先陣を切っているのだと。

 今はそばに誰もいないことが、私にとっての幸せなのかもしれない。世界の中心、孤独に一人。だからこそ、この瞬間の私は強い。想いを、挫けさせないほどに。

 それでもやはり隣にあなたがいるならと、静かに深く欲してしまうのだけど。

 ……本当に、難しい悩みだ。

 貪欲で、強欲で、控えめなはずの私から溢れ出るものとは思えないくらいに。

 そしてそんなふうに授業から解き放たれた一人きりの休み時間になれば、私の思考はまた少しずつ蕩けていって。考えの狭間にあなたの顔がちらついて、想うたびに少しだけ尾を揺らす。あなたのことに沈む一瞬を感じられるだけで幸せな気はしてしまうのだけど、世界にあるものは当然私の恋一つじゃない。世界は、私一人では動かない。

 その当たり前に気づかせてくれたのは、不意に耳に入った一つの会話がきっかけだった。私と何の関係もない、顔見知りかも怪しい会話。

 普段と違う私だから見える、普段目に留めていなかった世界の会話。

 ふとした、初めて聞くような。

 互いに知らない、誰かの声だった。

 

「ねーえ、アンタはどんな男がタイプなのさ」

「えー、アタシ? そうだなあ、結構かっこいいヒト多いもんなぁ、ここのトレーナーさん」

 

 やっぱり、世界に恋はありふれている。それを証明するような会話。そんな並一通りの語らいが聞こえた。いわゆる、恋バナというものだった。

 盗み聞きなんて行儀が悪いと思いつつも、ついつい耳はレーダーみたいにぴくぴく動く。恋の気配を察知するレーダー。

 そんなものを搭載するなんて、いよいよ私は恋する乙女真っ最中だ。本当にどうしちゃったんだろうなんて、それを自らに問うのももう何度目なのやら。

 

「やっぱり、優しくて頼れる人かなあ。気遣いとかされると、グッとくる」

「王道だねえ。でもウチは、隙を見せてくれる人もいいかな。弱音とか吐いてもらえたら、それだけで好きになっちゃうかも」

「わかる。あんた、意外と尽くすタイプだよね」

 

 思わず自分も、その「わかる」に追従してしまう。もちろん、心の中で。優しくて、頼れて、ちょっぴり隙を見せてくれる。なんだトレーナーさん、全然モテそうなタイプじゃないか。そう思うと勝手に誇らしくなるのだけど、一方で胸の奥が僅かに騒がしくなって。

 あなたに恋をできるのは、私だけじゃないんだ。

 あなたを好きになったこの気持ちは、世界に一つの特別ではないんだ。

 そんなわかりきっていた事実を、突きつけられた気がした。

 

「でもさー、やっぱり同年代の男子がいないから、消去法的に大人にときめいちゃうところはあるよね。叶わぬ憧れってやつ。なんなら同性に鞍替えした方がいいかもしんない」

「げ、アタシもしかしてあんたに狙われてる?」

「バカいうな、おめーはねーよ。ただ大人の男捕まえるよりは現実的だろ」

 

 また、耳がもぞもぞと動く。伏せた顔で、少しだけ息をする。

 消去法。叶わぬ憧れ。現実的じゃない。だから、誰も己を指導してくれるトレーナーに恋なんてしない。知り得た事実へのため息を、改めて痛感すると共に。

 私よりも数段恋に詳しそうな誰かの会話は、そんな真っ当な結論を導き出していた。

 私の恋は、過ちなのだろうか。一度説き伏せたはずの昏い思考が、再び頭をもたげる。あなたに恋をするのなら、もっと相応しい人がいるんじゃないかって。私じゃあなたに、届かないんじゃないかって。

 こんなに、好きだとしても。

 恋はありふれているけれど、結びに繋がるのは一握り。いくらそれが憧れと願望でできていても、どこかで現実的に妥協する。

 私にとって、あなたにとって、どちらも幸せになれるように、無理を通さない選択を取る。そうすることももしかしたら、また一つ大人になること。私より、進んだ結論。恋は、実らないもの。そういう、帰結。

 なら、彼女たちの恋についての会話は机上の空論に過ぎないのだろうか。そんなことを思った。恋について語るのは、いつかは遊びにできてしまうものなのだろうか。

 そんなふうに、思った。

 これほどまでに私が深く苦しむのは、あくまで一過性のもので。

 やっぱりどこにでもありふれた、儚い憧れに過ぎなくて。

 どうしたって頑張ってみたって、いい思い出になるのが精一杯で。

 努力は報われるなんて、誰も決めていないじゃないか。

 早朝の覚悟は十時間も経たないうちに揺るがされ、だけどそれを必死に押しとどめようとする自分もいて。次第に聞いていたはずの会話は遠くなり、独りぼっちの激情で歌う私がいて。

 現実を垣間見てなお、私は私の想いを抱き締めていた。

 手放したくない、あなたといたい、そんな恋を歌っていた。

 もちろん不安なのに、気持ちばかり焦ってしまうのに、それでもだった。

 いい思い出になんかしたくない。そう語られるのがありふれた恋だとしたら、私のはそんなものにしたくない。わがままで身の程知らずでも、私のこれは永遠にしたい。湧き出てくる気持ちの全部を、絶対に過去にしたくない。美しい思い出の器だって、留めたくないのだから。

 あなたへの恋は、今の、今からの私のすべてに等しくなる。ずっと、好きでいたい。故意の苦しみに、縛られつづけたって構わない。そうであってさえ、ほしい。不安も恐れも向かい風になるもののなにもかもが、全部が一つの気持ちに変換されていく。

 たった一つ、切なく思うこの気持ち。

 寂しい。あなたに、会いたい。会えば、胸は締め付けられる。会えば、呼吸できないほどに気持ちが満たされる。幸せすぎて、苦しくなる。

 それから遠い今の時間は、いつもと変わらないはずなのに空っぽに感じてしまうんだ。

 あなたのせいで。

 あなたの、おかげで。

 私が知らなかった世界を見せてくれるのは、いつだってあなただったから。

 だからここにある気持ちははじめてのものだけど、ずっと信じてきた確かなもの。あなたとなら、いつだって、なんだって乗り越えられるはず。

 あなた自身という一番大きな壁だって、きっと。

 あなたに恋をできる人間はたくさんいるかもしれないけれど、あの道のりを共に歩んできたのは、私とのつながりを知っているのは私だけなのだから。

 そこまで思考を巻いた頃には、誰かの恋バナは自然に解散していた。それくらいの時間が経っていた。あれだけ気にしていたのに途中から無視するのだから、随分自分勝手だな、私ったら。

 ……まあでも、自分勝手で傍若無人、そうじゃなきゃいけない。

 あんな頑固で意地っ張りの正論男を心の底から折れさせようとするわけだから、とびきり自分にわがままで、正直じゃなきゃいけない。

 折れさせて、変えさせる。私には世界は変えられないとしても、あなたなら変えられる。世界中の恋は実らないものだとしても、あなたと私なら特別であってほしい。

 私が恋するように、あなたを私に惚れさせるために。

 うん、やっぱりそう決めた。

  なんだかんだで休み時間というものは、しっかり元気が湧くようにできているのかもしれない。またしばらく経った昼休みの終わり頃に教室へと帰ってきたいつものみんなに、それなりに立ち直った姿を見せてやれたのだから。もちろんこの後の午後の授業で、どうしてもそれなりには思い悩んだりしてぐったりしてしまうのだろうけど。

 けれどそのあとの放課後には、休み時間よりもっと楽しい時間が待っているのだから。

 苦手な根性論を押し付けてくる、でもちょっとだけ理論も取り入れられてきた、すっかり馴染んだ時間が。そしてこの気持ちを抱えてから初めての、初めてあなたと過ごす時間。

 いつも通りの、トレーニング。

 午後のチャイムが鳴るのと同時に、そんな少し先の未来に思いを馳せた。

 朝よりも、心が澄んでいた。

 透明な幸せで、いっぱいだったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうやって、決意した。

 この想いを成し遂げるのだと、私は固く固く決めた。

 そうやって、覚悟した。

 今までの何よりも困難な目標だとしても、私はあなたのことが好きなのだと祈った。

 そうやって、期待した。

 授業が終わり放課後になって、私は誰よりも早く着替えてグラウンドに向かった。

 どんな気持ちもすべて、ただあなたに会いたくて。

 それだけのことで、私の心臓と脚は動いていた。

 恋だけで、生きていた。

 だけど。

 それでもやっぱり、決意も覚悟も期待も全部、全部全部を遥かに超えて。

 

「おお、今日は早いな。授業お疲れ様、スカイ」

 

 複雑に揺れる気持ちの焦点が、ぴたりとあなたに合う瞬間。

 あなたの実像を五感で捉える、たったそれくらいのことで。

 

「……あはは、まあ、たまにはってことで」

 

 夢のうちから今日ずっと積み上げた私の考えなんて、新品のホワイトボードみたいに真っ白になってしまった。あれだけ作戦を書き込んだはずなのに、綺麗さっぱりなかったみたいに。   

 辛うじて絞り出せた最初の言葉は、みっともないくらいうろたえて。

 ぷい、と悟られない程度に目線を逸らす。反射的に、身を守るみたいに。このままじゃ自分自身の気持ちに殺されちゃう、そう思ったのかもしれない。あなたをまっすぐ見たいという気持ちに従ったら、全身に溢れる熱で身体が溶けてしまいそうだもの。

 心臓も喉も目も耳もほっぺも、下に流れる血液まで沸騰しそうなくらい熱い。一瞬、一瞬いつものあなたを見ただけで。すこし日の陰り始めた青空の下、ちょうどいい明るさに照らされたあなたの顔がはっきりしただけで。

 大きすぎる幸せは死に至る毒にすら等しいなんて、それもはじめて知ったことだった。

 これから毎日、この気持ちを味わえる。どうしようもなく切なくて苦しい、恋の病に浸っていられる。逃げ出したくてたまらない、とびっきりの気持ちと一緒にいられる。

 そんな、そんなの。どうしたら、いいんだろう。そんな私の疑問にいつも答えを示してくれるはずの人は今回ばかりは鈍くて、いつも通りと言えばいつも通りで。

 

「そうか! スカイがやる気を出してくれて嬉しいぞ!」

 

 本当、こういう時だけ見透かしてくれない。けれど一番欲しい言葉をくれるのだけはそのままだから、尚更始末が悪い。

 そしてこんな質の悪い奴のなんでもない言葉ににやついてしまいそうになる私が、多分一番悪い子だ。「スカイ」って、私の名前を何気なく呼んでくれるだけで、それくらいの当たり前のことで、天にも昇りそうなほどになってしまうのだから。

 一番早く来たからと言って、二人きりになれる時間は僅かなのだけど。ほどなくしてチームメイトが集まってくるにつれて、そのたびに元気に挨拶するトレーナーさんを見て、私だけの人じゃないのは痛い程よくわかるのだけど。

 それでも、嬉しくて。嬉しくて、苦しくて。

 恋するあなたとの時間が、今日も始まるのだ。

 真っ白になった頭でも、その事実だけは刻み込めた。

 

「ふぅ〜……」

 

 まあ、トレーニングは相変わらずのスパルタで。いつもと何も変わらないのも、当たり前のことだった。また少し日が傾いたグラウンドの下で、純粋な疲れからのため息を吐く。

 それも、いつも通り。

 いつも通りじゃないとすれば、まだまだ身体がむずむずしていること。動き回りたくてたまらない、そう思っていること。

 ひょい、と身体を起こす。靴で軽く地面を何度か蹴って、休憩もそこそこに立ち上がる。正確に言えば今からやろうとしていることは、トレーニングメニューにはないんだけど。

 それでも立ち上がって、再び練習用のウッドチップの上へと向かう。

 トレーニングに対するやる気は、なんというかいつもの二倍三倍はあったのだ。身体に活力が溢れている。前より雑念は増えているに決まっているのに、不思議とトレーニングへの取り組み方は前向きになっている。きっと、夢を見つけたのは確かだから。あなたと見る夢だからこそだとしたら、やっぱり恋のせいなのかもしれないけど。

 翻って、ガラにもなく。元気いっぱいに、私はチームのみんなに叫びかけた。

「誰かー、併走しませんかー!」

 爽やかすぎてびっくりするくらい、私じゃないみたいな呼びかけ。私も変わっているということを、改めて己に理解させる声。悩めど悩めど、そのことがこんなに前向きな活力になるのなら。やっぱりこの気持ちは、幸せなものなんだ。

 

「じゃあ私とやりましょうか、スカイちゃん!」

「おっ、いいですね。菊花賞ウマ娘同士、というやつですね。いやー、最近トップロードさんは波に乗ってるもんなあ」

「まだまだですよ。だから私を鍛えるためにも、ぜひお願いします」

 

 そんなふうに二つ返事で、私の唐突な誘いに乗ってくれる人もいて。私は私でむずむずしてるだけなのに、それでもなお周りからの影響を受ける。支えられて、支える。それはトレーナーさんだけじゃなくて、これまで繋いできたあらゆるつながりから。

 たとえすべてを恋に捧げても、私は私のままなのだ。

 

「じゃ、行きましょうか。2,000mくらい」

「はい! よろしくお願いしますね!」

 

 そうやって、走り出す。

 だん、と地面を二人で蹴って。

 息を切らせて、尾の先まで全身を躍動させて。

 その瞬間はあれだけたくさんの悩みをなにもかも忘れられるくらいに心底楽しかったから、なんだかんだで私は走るのが好きなんだなあ、と思った。

 夢の先を目指す。

 今の私の悩みは夢を曇らせるものではなく、研ぎ澄ませるものなのだ。

 

「はーっ……お疲れ様でした……。いや、トップロードさんの成長は凄まじいですね」

「そりゃもう、いつかはスカイちゃんにも勝たなくちゃって思いますから! 今日も、その練習です」

「言いますねえ。なら私も、負けないように頑張らないと」

「こちらこそです! 頑張りましょう、お互いに」

 

 2,000mなんて走るウマ娘にとってはあっという間に過ぎる距離なんだけど、それでも全力を尽くした感覚はやはり得難いものだった。難儀な悩みを忘れるために走った、と言えばそうなのかもしれないけど。だけど私がまだ走りたいと思っているのは、紛れもない本心だ。

 走りたい、楽しい。生きてるってことが、鮮やかに感じられる。いつも通りのトレーニングで、いつも通りそう思った。あるいはいつもよりもずっとずっと、更に先を見てそう思った。

 頑張ろう、何事も。努力が必ず報われるというのが、チーム<アルビレオ>の信条なんだから。そう私なりに、心を整えられたところだった。

 だった、のに。

 

「お疲れ様、スカイ、トップロード! それにしても偉いなスカイ、やる気があって嬉しいぞ!」

 

 本当にあなたは、今のあなたは私の一番欲しい言葉を、全く私の気持ちなんか知らずに投げかけてきて。それだけでまた、がちがちに武装し直したばかりの私の理屈が弾ける音がした。

 お疲れ様、って。

 嬉しいぞ、って。

 スカイ、って。

 私を見てくれていた、たったそれだけで。

 はあ、本当に。

 本当に、幸せだなあ。

 

 

 

 

 

 

 結局それの繰り返しだった。走るたびにそのことだけにひたむきになれて、走り終わった後の一言で全部ぐちゃぐちゃにされて。根性だらけのハードなトレーニングより、もみくちゃにされた心労の方がよっぽど堪えた気がした。

 それでも時間は進み、今日のトレーニングは解散して。制服に着替えて帰路に着くまでは、不思議と冷静でいられた。

 トレーナーさんがまた明日、という顔を、やっぱり直視はできなかったくらいだ。

 でも、校門を出たその瞬間だった。今日は終わった、そう実感した瞬間だった。

 今までで一番の寂しさと切なさが、心臓の全部を貫いたのだ。

 冬が近づいた秋の夜の冷たさなんかより、ずっとずっと私の全身を震えさせるものだった。

 今日、なんであんなにやる気が出たんだろう。

 何人も併走に誘って、走るのがとっても楽しくて。それでも最後にかけられる少しの言葉で、全部めちゃくちゃにされるってわかってたのに。

 あなたの声を、期待していたのだろうか。

 恋すら活力に変えてやるって、それで夢に届くんだって。

 みんなを引っ張りさえしたのも、全部あなたに声をかけられるためだったのだろうか。

 そう思った。すべてが終わったと感じた時、今日かけられた誰の声よりもトレーナーさんの声が残響してしまって、そんなふうに思ってしまった。楽しいとか嬉しいとか、そんな気持ちが全部落ち着いた終わった後に思うのは、無限に求めてしまう寂しさだった。

 寂しい。

 それがどんなに他のものに良い影響を与えるとしても、今の私はとても切ない。

 明日もどうせ私は、あなたがいるから元気を出してしまうのだろう。

 この気持ちは夢への活力にもなる。だからやっぱり、私の恋は間違いなんかじゃない。

 これを抱えている限り、私は幸せなのだろうけど。

 それでも、確かに思ってしまうことがあった。

 寂しさと切なさは、やっぱり苦しいものだってことだった。

 どれほどまでに恋が美しいものでも、だからこそ恋で苦しみたくなかった。

 あなたを苦しみの原因にしたくない、そんなとんでもないわがままかもしれないけど。

 どうしてもどうしてもずっと一緒にいたいと、そう思ってしまった。

 きっと、世界に恋はありふれている。一つきりの恋だけで浅い器は満たされて、今の私じゃ受け止められないくらいに。ありふれていて、そこで終わっても充分なくらいに。実らなくても、苦しいだけで幸せなくらいに。

 だとしても、私はその先を求めたい。二人で掲げた夢の先を目指すように、褒められたいって願いの先を目指すように。

 恋の先、あなたと。

 私は、あなたの隣にいたい。

 どんな想いの先だって、今の私とあなたなら。

 私とあなたの二重星は、世界に一つの特別であってほしいんだ。

 

「……やるしかない。やるしかないんだ」

 

 そう、誰も見ていない夜に呟いて。私は走る、寮とは少し違う方向へ。そうすることが正しいのかなんて、わからなかったけど。

 今のままは嫌だって、そう思ってしまったから。私はもっと変わらなきゃって、焦りにも似た気合が満ち溢れていたから。

 あなたへの恋は、苦しみで終わらせない。

 私は私のために、恋から先へ変わっていくんだ。

 夕闇の下を少し浮き足立ちながら駆ける。

 駆けた先なら、恋より進めると信じていた。

 ありふれたそれより、特別な存在になれると確信していた。

 まだ、今日は終わらない。

 甘く、痛く。

 切なく、遠い。

 そんな気持ちで、終わらせない。

 私とあなたは、永遠なんだ。

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