完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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セイウンスカイは正論男に・4

 

 

 寮の門限にはまだ時間がある。晩御飯は別に寮に置いてあるなにかしらを食べたって特段変なことじゃない。そうは言ってもやはり、トレーニングも全部終わった後にそのまま自室へ帰らないのはなかなか珍しい。少なくとも、私にとっては。

 なのに今の私は一応の理由を持って、寮とは少し外れた場所へと向かってアスファルトにてこてこと足跡をつけている。本当に、珍しい。

 大それた場所にはいかない。

 大それたこともしない。

 多分これもありふれていること。

 だけど私にとっては初めてのこと。

 少し前までは縁があるとは思わなかったのに、今は無性に気にしてしまうこと。

(本当、まいっちゃうなあ)

 自分で自分に呆れる。この行動がどれだけ有益かなんて、さっぱりわからないまま一目散に向かっていたから。

 それでも、今のままは嫌だったから。

 切なさと苦しみがいくら幸せなものでも、あなたを理由にそれを想いたくはなかったから。

 だから、行動するのだ。なりふり構わず、とびきり慣れていないことでも。

 だって一番奥のゴールにあるものこそ、そんな裸の私だけしか届けないものなのだから。

 剥き出しの私だって、もう弱くない。

 そして、すぐにたどり着いた。ほんの少し駆け足になってしまっていたから、すぐに。

 本当に、大した場所じゃない。

 何度も入ったことはあって、いつもは今みたいな目的じゃないってだけで。

 私の世界の見え方が、また少し変わっているというだけで。

 すーっと、音もなく自動ドアが開く。入店を知らせるぴこぴこの電子音がなって、私はそこに足を踏み入れる。トレセン学園から一番近い、多分誰でも一度は使ったことのあるなんてことのない場所。ありふれたコンビニエンスストアに、今までにない緊張を秘めて歩を進めた。

 いらっしゃいませー、と形式通りの挨拶が聞こえた。

 私以外の世界は、何事もなく回っている。

 世界は変わらない。

 私は変わる。

 それ、だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 うろうろ、うろうろ。

 コンビニなんてそんなにうろうろするところではない。さっさと目的物を買えるお手軽さが、コンビニエンスストアという場所の売りに決まっている。

 なんだけど、うろうろ、うろうろ。

 店員さんに不審がられてやしないか、と思いながらも、うろうろ、うろうろ。

 お菓子コーナー。よく知ってるブランドの甘味がたくさんあって、いわゆる食玩というやつもある。へー今のお菓子はこんな豪華なおもちゃがついているのかあ、なんて現実逃避の思考をする。いや、買うつもりは毛頭ない。もちろんこんなものは私の目的じゃない。

 うろうろ、うろうろ。

 ご飯コーナー。うどんとか弁当とかスパゲッティとかおにぎりとか。コンビニ飯というやつだが、最近のはなかなか美味しい。作る手間が値段に入ってることを考えれば、結構リーズナブルでもあるし。私みたいな面倒くさがりにとっては尚更。よく買うもの。

 ……これだけ買って帰る? いやいや、それはダメだダメだ。さっきから私、買う予定のないものばかり見ているじゃないか。思い直そうと首を軽く横に振りながら、うろうろ、うろうろ。

 うろうろ、うろうろ。

 コンビニ内の配置的に、目的のものから一番離れたあたりを行ったり来たり。逃げてしまっているな、という感じである。ここに来てどうしても怖気づくところがあるのは、なんとも私セイウンスカイらしいといえばそうなのだが。

 でも、そのままではダメなのだ。些細なことだし、深刻に悩みすぎてる割に大したことはしない。店員さんに手渡して、ギョッとされるようなことはしない。そんなに、変じゃない。多分、ありふれたこと。うん、そうだ。

 今からの行動は、私にとって必ずしも必要じゃないかもしれない。だけど試行錯誤をすることは、一歩進むには絶対に大事なことで。

 今ある現状を動かしたい、その気持ちには嘘は吐きたくなくて。

 もやもやする、動かなきゃいけない。その焦りを前向きに解決するためには、やっぱり。

 やっぱり、やるしかないのだ。私だけの道なら、私が進んだ通りが正解だ。

 くるり、静かに踵を返す。店員さん以外誰もいない店内を、少しずつ見慣れない方へ移動する。普段近寄らない空間。

 見知ったコンビニであっても、知らない世界はあるということ。私が、触れていなかっただけだということ。まあでも、やっぱりそこもなんてことのない空間だ。

 漫画、パチンコ、週刊誌。色んな層向けの本が全部雑多に詰め込まれた、雑誌コーナー。そこが、私の今回の目的だった。上から順に、横一列に並ぶ本たちを確認して。大体派手な表紙で、大仰な文句がその上に踊っている。どれもこれも、私みたいなゆるゆるな人間には合いそうにない。今探している雑誌も含めて、だけど。

 ……って、端っこの方は成人向けコーナーじゃないか。いやいや気にならない、気にならないったら。いくら今のセイちゃんが恋する乙女でも、そこまでふしだらじゃないったら!

 なんて耳を真っ赤にしながら、自分にだけ聞こえる言い訳をして。本当に私ったら、落ち着いていないなあ。それでも余計なことも含めて考えながらでもじろじろじっくり本棚を見ていくと、目的物らしきものはあった。流石コンビニ、なんでもある。

 まっピンクのキラキラした表紙、私と同い年くらいだろうに、ものすごく大人びた化粧とファッションの読者モデル。

 そしてその写真の上にデカデカとポップな文字で、とびっきり主張が強い感じで。

『秋は恋の季節! 大人びたあなたにあの人も胸キュン!?』

 とかなんとか書いてあるので、これはまあそういう雑誌なのである。そう、この本、いわゆる10代、ティーンの女の子向けの雑誌が今日の私のコンビニへの目的物。

 私くらいの年齢で、恋に浮かれてしまったふわふわガールのための雑誌。まったく、こういうの一生縁がないと思ってたのにね。

 ふわふわガールではあったけど、こんなふわふわの仕方をするとはさ。

 それでも、今の私はこれを求めていたのだ。わざわざ帰り道に寄り道するくらいには。本当にありふれた、なんてことのないものだけど。

 ティーン誌なんて、私が買っちゃうんだ。

 それを改めて実感すると、微かに心臓の奥に火が灯った気がした。

 

(うわ、なんか重いなこれ)

 

 手を伸ばして、目的のものを取ってみる。雑誌の分厚さじゃないな、と思って横を見てみると、何やらページの間に付録らしきものが挟まっていた。なんだなんだ、知らない世界だ。

 改めて表紙を確認すると、オリジナルポーチが付属しているらしい。なにそれ、そんな大仰な付録がついているものなのか、ティーン誌とは。仮にも私もティーンなのに、全然全く知らない世界だなあ、ほんと。そのまま表紙を軽く確認すると、真ん中のデカデカしたやつ以外にも謳い文句は何個か載っていた。

 『秋のおすすめコーデ』、とか。全然知らない。私の女子力はゼロ。

 『グッとくるあの人の仕草』、とか。これはまあ……私にも身に覚えがあるのかも。誰かに言うわけには絶対にいかないけど、あなたの所作に目を奪われてしまうことはあったから。

 『あなたのファーストキスは? 体験談集めてみました!』、とか。……これが一番、気になっちゃうのかなあ。この特集に気を惹かれて、買っちゃうのかなあ……。

 はあ、本当に本当に、我ながら変だけど。

 少し前まで興味も縁も認識もほとんどなかったようなティーン誌なるものが、今の私には強烈に突き刺さる。

 やっぱり買うしかないのかなあ、既にちょっと手汗ついちゃった気がするものを戻せないし。

 見てるだけで、どきどきするし。

 ここまで来たら仕方ないし、そもそも最初からそのつもりだ。今までみたいに少しくらい悩んで時間を稼いでしまうくらいは、まあ許してほしい。いつも通りの逃げ腰の、弱いセイウンスカイがそのままだとしても。

 それでもちゃんと、進むから。

 あなたのために、前を向きたいと思っているのだから。

 一緒に前を向けるくらい、強くなりたいんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ティーン誌をレジに持っていったとて、店員さんには何も言われなかった。当たり前と言えば当たり前。いや、別にいかがわしいものを買ってるわけじゃないし、普通だよ。ティーンがティーン誌買うのなんて、本当に普通、普通に決まってる。そんな普通のことをする割に私が明らかに挙動不審だったのは、おそらくバレバレだったんだとは思うけど。うっかり袋もらい忘れたし。でも今更レジに戻れないし。はあ、誰にも見せられないくらいのみっともなさとテンションだ。こんなにぐだぐだなのに非常に舞い上がっているもの。

 うぃーん。再び、自動ドアを出る。それなりの時間が経っていて、道を照らすのは夕日から月と電灯に変わっていた。

 まあでも、それくらいで世界は変わらない。今の私にとって世界が前より色づいて見えるとしたら、それは世界の方じゃなくて私の目が変わったのだろう。私にとっての、世界の見え方が変わったのだろう。今までのように、これからもあるように。また一つ行動を終えて、おっきな雑誌を両手で抱えて。そういう今までにない状況だから、また私の気持ちが変わったのだ。

 さて、それはそれとして。どんなすごいことが書いてあるのかなんてさっぱり見当もつかないけど、買ったからには読まねばなるまい。嫌じゃないかと聞かれると抵抗はあるんだが自分から望んだことで、なんだか私自身に無理強いされてる感じ。

 やるしかないかやりたいか、曖昧だけどやってやろう。そんな前向きなんだかそうじゃないんだかわからない決意をして、帰路に着こうとしたところだった。

 白い灯りの下、少し離れたところに一人の影を見つけた。

 見知った顔であることは、その距離でもわかった。

 お互いに、だった。

 明るい栗毛に黄色く光る瞳、そして私より高い背丈のよく知るウマ娘。不意の出会いにさえ顔を綻ばせてくれる、優しい人。

 チーム<アルビレオ>のリーダー、ナリタトップロードさん。練習が終わったばかりでの彼女との邂逅は、唐突でタイミングを図らない、けれど穏やかな秋風のようなものだった。

 

「……あれ、スカイちゃんですか?」

「……あ、お疲れ様です、トップロードさん」

 

 先に言った通り、トレセン学園から一番近いコンビニだ。だから他のウマ娘と鉢合わせるそれ自体は、全然不思議なことではないんだけど。

 そうは言ってもさあ、何でここでエンカウントしちゃうかな。

 何も知らずに、いや何を知れというのかという感じで、当たり前みたいにトップロードさんは足早にこちらに近づいてくる。

まずい、と思って反射的に雑誌を後ろ手に隠した。付録のポーチとやらの横幅が、両手で隠すことを強要した。そりゃあなんで隠すのかって誰かに問われたら返答に詰まっちゃうんだけど、色々恥ずかしいだろう、色々と! 

 万一私のトレーナーさんへの気持ちを察されたりなんかしたら、恥ずかしさで死んでしまうに違いない。ひた隠し、するしかない。我ながら逃げウマ根性が染み付いているな、とは思った。

 というわけで、後ろ手に何かを隠したいかにも不自然な格好で。まああり得る程度のアクシデントとして、秘密の買い物の後に知り合いたと会ってしまった。知り合いと一言で言うには知りすぎているくらい、私のとてもよく知る人。いつも頼れて時に頼られる、トップロードさんとの練習外での語らいが始まった。

 ……正直避けたかったと言うのが、失礼ながら本音なんだけどね。

 

「お疲れ様です、スカイちゃん! えへへ、偶然ですね」

「そうですね、偶然。びっくりしました」

 

 いや、かなり。かなりびっくりした。冷や汗が流れてるかもしれないくらいに。まあそんなそぶりは決して見せないのは、日頃からポーカーフェイスを嗜んでいたおかげだが。その点、いつだって素直なトップロードさんと私は対照的だ。

 素直なのはもちろんこの人のいいところだと思うから、それをちょっと利用してこのアクシデントとも呼べる出会いを誤魔化し切るくらいは許してほしい。

 とはいえ何も知らないトップロードさんも、流石に私の不自然な体勢、すなわち後ろ手に物を抱えた思わせぶりな姿勢にはすぐ気づいたみたいで。

 しっかりそこは、聞いてきた。聞かれて、しまった。

 

「スカイちゃん、何買ったんですか? いや、そんなにすごく気になるわけじゃないですけど、何か持ってますし」

「ああー、これはですね……その」

 

 さて、何と言おうか。僅かな時間で頭を動かす。

 レース中みたいに脳みそをフル回転させる。つい先程まで浮かれ切って茹で上がっていた頭脳を、さーっと降りる冷や汗の感覚で冷却しながら。

 出てきた答えはこうだった。

 我ながら、下手な答え。

 

「ファッション誌です、ファッション誌。いや、ガラじゃないよなあとは思うんですけどね……秘密にしといてくれませんか」

「それは、いいですけど。スカイちゃんの頼みなら、断れるわけありませんよ」

 

 ファッション誌。まあ、嘘というには半端だ。ティーン誌もファッションについては取り扱っているし。そう言う誤魔化し方だった。

 もっとがっつり外した嘘を吐いてもいいのに、何でかそうはできない中途半端な罪悪感があった。この本はガラじゃない、なんてまるっきり本音だし。ちゃんと私っぽい買い物を装うべきだったろうに、嘘を吐ききれなかった。

 まあ、この人相手だからなのかなあ。そんなふうに自分に呆れる。

 弱音も本音も、ついついトップロードさんには吐き出してしまう。ずいぶん取り繕うのが下手になったな、なんて。呆れ半分、嬉しさ半分だった。

 だけど、だった。トップロードさんは、私の言い訳をしっかりと引き継いで言葉を繋げる。私の半端な嘘に乗っかって、それなのに私に届く言葉を。真摯で響く、この人ならではの言葉を。

 

「でも、ガラじゃないなんて言わないでくださいよ。スカイちゃんは可愛くて、素敵な女の子です。ちゃんと女の子らしいことをしたいって思ったって、全然変じゃありません」

「そうですか? 私なんてがさつで面倒くさがりで、女子力なんてないですよ」

「そんなことないですよ? 人に優しくて、きちんと悩めて。レースで真剣に走ってる時のかっこいいところもあるし、笑ってる時の顔は年相応って感じで可愛くて──」

「……はい、もういいです、わかりましたわかりました。……本当、トップロードさんが人気者の理由もよくわかりました」

 

 ここまで言われたら、真っ直ぐに好意をぶつけられたら折れるしかない。本当に私の周りには、一筋縄ではいかないくらいずるい人が多いなあ。それで嬉しがっちゃう私も、なんだかなって感じではあるけどさ。

 しかし果たしてこう私の弱点を突いてくる人ばかりなのは、私が弱々しいからなのだろうか。

 特別相性が悪いと言えば悪いんだよな、たとえばキングもフラワーも、トップロードさんも。

 ……あと、トレーナーさんもさ。そういう人だから、ついつい私と噛みあっちゃうのかもしれないけどさ。凸凹が上手く、これ以上ないくらいに。

 好きになっちゃう、くらいに。

 

「スカイちゃんも、人気者ですよ。みんなスカイちゃんのことは好きです。だからおしゃれに気を使うくらい自分に自信を持ってくれるなら、嬉しいですよ」

「もう、これ以上照れさせないでください」

「あははっ、すみません」

「……でも、ありがとうございます。それじゃ、また明日」

「はい。また、明日」

 

 そうやって、少しの会話のあとにトップロードさんとは別れた。無事切り抜けられた、とは言い切れないかもしれないけど。でもだからこそ何事もないよりは、意味のある時間だった。

 私は、変わってもいい。

 私は、みんなに支えられている。

 私は、恋ができるんだ。

 今まで一人で抱えていたものに、少し手を添えられた気がした。トップロードさんの、優しくて大きな手が。少しだけど、しっかりと。つながりが、背中を押しているから。

 私は、その先へ行けるんだ。

 

 

 

 

 

 

 帰宅してシャワーをさっさと浴びて、緩い長袖のパジャマに着替えた。秋も終わり頃、夜になると寒くて布団にすぐ潜り込んでしまう。だけど今日は布団の中で、一つ場違いなものを広げていた。結構面倒なもの。どうしよう、って感じのもの。

 すなわち、買ってきたばかりのティーン誌だ。

 

「このポーチ……こんな小さい割に派手なのなんに使うのさ」

 

 まずは付録を開けてみて、ラメ入りでキラキラのそれを見遣る。これ、使い道あるのかな。ひと目見て思ったのはそういうことだった。ティーン誌の付録なのだから、並のティーンならおしゃれに着こなせるのかもしれない。でもこんなのを私がつけてみて……うーん。

 パジャマのままそれを肩から下げてみて、姿見の前に立ってみる。

 くるりくるり、ちょっと身体を揺らしてみて。

 そうして、わかる。

 とんでもなくむずむずする。

 パジャマだからとかじゃなくて、どうにもこういうのは私に似合わないや。

 ベッドに再び飛び込んで、持て余したポーチだけ乱雑に机に投げ捨てる。机の上でもそれは浮いて見える気がした。私の空間とは馴染んでくれなかった。

 ふんだ、どうせ私みたいな子には一般的なティーンの小道具なんて似合わないもん。

 トップロードさんはああ言ってくれたけど、やっぱり私には可愛らしいものなんてガラじゃないと言えばガラじゃない。そうなれば幸先悪く一つ無駄になったわけで、この本先行き怪しいな、と少し思った。そんなふうに少し不貞腐れながら、ペラペラと雑誌をめくっていく。まずは女の子を体現したみたいなきらきらした読者モデルが身に纏う、秋の着こなしの一覧が目に入った。一つずつ、なんとか自分が着ている姿を想像してみる。

 

 

 ……うーん、わからない。この写真は可愛いけど、それは元がいいんじゃないかって。こんなごちゃごちゃした小物とか、私が着ても服の方に着られてるようにしか見えないんじゃないか? 服に着られる、ありがちな背伸びした女の子にしか。

 それじゃ、あなたに届かない気がする。あなたのことだけを私は振り向かせたいのに、私からあなたへ想いを伝えるための答えをそのものずばりは、やっぱり書いてくれてなかった。

 恋はありふれているけれど、誰かの恋は誰かにしかわからないものだから。

 その、次。異性の仕草の特集は、なんというか身につまされるものがあった。

 そういえば、トレーナーさんのその仕草が目に焼きついている。思い返せば目についていた記憶のある、そういう例ばかりが載っていた。特集のページを見ているだけで思い出してしまって、枕に顔を埋めて悶える。

 本当に好きなんだなって、そんなもう当たり前のことを再確認するばかり。

 最後の方はちゃんと読めていたか怪しい。

 目に映っていたのは、いつかのあなたの残像ばかりだったから。

 そして最後に読んだのが、ファーストキスの体験談だった。どれもこれも、特別なものに見えた。私の知らないものだった。多分、私が一番欲しいものだった。

 眩しくて、それでも手に取りたくて。

 やっぱり、胸が苦しくなった。この苦しみをきっと幸せだけに、またそう願った。

 その中でも一番印象に残ったのは、ある一つの友達グループの中の話だった。仲の良い友達みんなで出かけて、食事やカラオケやいろんなことをしてみんなで街を渡り歩いた。だけど、その中の一人と恋人同士だった。そんなふうにみんなでいる時間でも、恋人の二人だけは特別で。だからふとできた隙に二人で抜け出して、建物の陰でキスをした。

 それがはじめて。

 そういう話。

 その並び立てられたうちの一つが、無性に心臓に焼きついた。

 ティーン誌なんてペラッペラの雑誌は薄くて読み終えるのはあっという間で、全部読んでも深夜と呼べるような時間にはならなかった。あれだけ勇気を出した割にはちっぽけな経験だと、言い切ってしまうことはできた。

 ただ、色々なものは刻まれた。私は確かに、また変わっていた。知らないものを、たくさんに叩き込まれた気がした。世界に一つ、未知の色をつけていた。

 特に最後の、キスの話。私はずっと知らないものが、ありとあらゆるリアリティで語られていた。この世に確かに存在するのだと、それがわかった気がした。

 まだ日付も回っていないけど、明日の用意くらい、明日の朝にすればいいし。心がいっぱいで暖かくて、全身にその熱が回っていて。

 なら、このままが一番でいい。このまま、今日はこのままの感覚で、優しい闇へ落ちようか。

 やがて目を閉じて意識が落ちる最後の刹那まで、安らかな甘さに浸っていた。

 白い、白い闇に浸る。

 やっぱりどうしようもなく幸せな、そんな眠りだった。

 

 

 

 

 

 

 夢を見た。いつも通りのトレーニングの夢だった。

 夢を見た。いつものみんな、いつもの場所。前と違って、これ以上ないくらいリアルだった。

 夢を見た。そして、あなたもいた。それも当たり前。それも鮮明な夢だった。

 夢を見た。きっと私にとって、これが幸せな光景なのだと思った。

 夢を見た。みんなといて、その中にあなたがいて。それが、今日のトレーニングで。それが本当に幸せだったのだと、改めて感じる夢だった。

 夢を見た。だけど、それは夢だった。

 夢を見た。トレーニングの終わりに、あなたの手を引く私がいた。手を引く感覚は、少しだけ知っているものの再現だった。

 夢を見た。そうしてみんなから離れたところで、少し背伸びをする夢だった。

 夢を見た。あなたの唇に私の唇を重ねて、誰にも見せない秘密の口付けを交わす夢だった。

 夢を見た。やっぱり、口元の感触はなかった。トレーニングまではあれほどまでにリアルなのに、周りの景色もリアルなのに、そこだけはどうしても夢だった。

 夢を見た。そこに唯一ある欠落を埋めよと、私の欲望が私自身に訴えかける夢だった。

 夢を見た。いくらみんなといるだけで幸せでも、二人きりの幸せを求めたいと願う夢だった。

 夢を見た。今の幸せの、その先を見る夢だった。

 夢を見た。日常から、一歩踏み出す夢だった。

 夢を見た。幻想より現実に近い、夢だった。

 夢を見た。恋は、止まらず。一歩ずつ、結末へ進んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢は、深層心理を映し出す鏡のようなものだという。己の願望を、感覚や理性をすべて抜い

た原液のまま吐き出すものだという。

 映し出されるものがどんなに醜くて浅ましくて愚かだとしても、だ。

 また夢を見て、ゆっくりと目を見開いて現実に帰って、最初に頭に浮かんだのは、そんなある種の常識だった。知っていること、知らない夢。その、二つ。

 トレーニングをしていた夢だった。広がる光景は細部まで、知っていることだから夢の中でも鮮明だった。いつものグラウンド、いつものチームメイト、いつものトレーナーさん、いつもの空気、あらゆるいつものもの。

 それが私にとって、やはりどれだけ大事なものなのか。きっと夢が伝えたかったのは、そういうことなのだろう。

 だけど日常をなぞった上で、夢はもう一つの景色を見せた。そんなすべてがリアルな夢から、急速にアンリアルに飛んでいった。いつもの光景、そこに吹く風のにおいすら夢の中で思い出せるほどの慣れ親しんだ日常。

 日常という大切な空間を、すべて壊す夢だった。

 大好きなトレーニングの時間を置き去りにして、トレーナーさんと二人で抜け出して。そして、誰にも見られずキスをする。そうすることが私の深層心理、どうしようもない願望なのだと告げる夢。そういう夢、だった。

 しばらくベッドの上で半分布団をかぶりながら、私はその夢について考えてしまっていた。トレーナーさんのことを考えるようになって、この恋に気づいて、そのあとから見るようになったあなたとの夢。

 私の恋を後押ししてくれていると思っていた夢というものの最高潮を、昨晩私は私に見せた気がしたから。そう、最高潮。極まった感情の果て。私の、心の底からの望み。

 指先まで絡めて、手を繋ぎたい。少し背伸びをして、キスをしたい。

 それだけ。それだけあれば、今の日常が消え去っても構わない。

 それだけ。刹那的な、身体の触れ合い。それさえ、ほんのそれだけあれば。

 私の恋は、その瞬間に満足してしまうんじゃないか。

 日常を不可逆にして、一度の悦楽のみを求めて、それで終わり。

 浮かれてばかりの初恋が、今まで私の恋を表現してきた夢の世界が。

 全部全部を満たしてくれると信じていた、幸せが。

 甘くて深かったはずのすべてが、ひどく薄っぺらく感じられた気がした。

 私自身より正直な己の心そのものが、自分で自分の欲を断罪したのだから。

 空は青い。とてもキレイだ。澄んでいる空は、もう絶対に堕ちてこない。

 だからキレイな空に、憧れていた。私自身を、重ねたいくらいに。

 でももしかしたら私の気持ちは、全然キレイじゃなかったのかもしれない。

 そう思った。

 私の夢は、私の汚点を見せつけていた。

 

 

 

 

 

 

 目覚めた後の日常は、当たり前のようにいつも通りだった。学園への道のり、教室の風景、友達との挨拶、あくびをしながらの授業。そこにある何もかもが見慣れたものだけれど、だからこそ自分にとってすべてが大切なのだと気づいた。改めて、だけど。

 けれど恋よりもだと、恋より大事にしなきゃいけないと思ったのはきっとこの気持ちに気づいてから初めてだった。

 手を繋ぐ夢。キスをする夢。日常から離れていく夢。

 一見幸せそうで、だけどどれも実感のない夢。私の夢すべてが本当に私に告げていたのは、結局恋は即物的なものに過ぎないんじゃないかってこと。

 これ以上にないくらい具体的な日常と、なにもかもが描きかけのキャンバスみたいに曖昧な恋。二つの差を歴然とさせる、夢。

 変化とは、積み重ねだ。今まで何度も知らなかったことを新しく知ることでそのありがたみを知り、いつだって最初の仮定とは違う結論にたどり着けた。私一人の先走りなんて、だいたいちっぽけで袋小路にしかたどり着けない。

 唯一私にできることがあるとしたら、そんなふうに己の過ちに気づいてやることだけだった。なら、今できることもそうかもしれなかった。

 ここにある日常こそ、積み重ねだ。最初はこんなふうじゃなかった、そう思っていたものの中でも一番かけ離れた結果に結びついた答えの現実だ。だけどずっとずっと過ごしてきて、私にとってどんなにもかけがえのないものに変わっていった。

 手放したくない、このつながりを壊したくないって。出会えてよかったって、つながりを生んだトレセン学園という場所そのものに感謝したように。

 そうだ、そうだったじゃないか。今まで恋にうつつを抜かしてしまったことで、私はとても大切なものを忘れていたんじゃないか。手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、知りもしないものに憧れて、わかりやすい欲望で心を満たして。

 恋は盲目というけれど、本当に大事なものを見落としていたんじゃないか。

 今ある日常はこれからも、確実に続けていきたいものなのだ。

 もちろん今が最高じゃない、もっともっと積み上げていきたいものなのだ。

 それなのに、現状の日々に満足しようとして。

 それなのに、満足し切ったつながりを壊してもいいとさえ思っていたなんて。

 午前の授業の終わりまで、私はそんなふうに世界を顧みていた。

 今まで私が、トレセン学園に来てからの私が、私の変化と成長が作った、私だけの世界を。

 

「……セイちゃん、大丈夫? 手、止まってるよ」

「ああごめんスペちゃん。いや何、考え事をしてただけだよ」

 

 昼休みの食堂で、いつもの五人で昼食を食べる。いつも通りの、やっぱり日常。スペちゃんに注意されてしまった通り、まだ私は思考を広げつづけていた。けれど指摘されて現実に戻り、私は日常の得難さを再確認する。スペちゃんとグラスちゃんとエルとキングがいて、それだけで楽しい。でもみんなといるだけで楽しいと思えるのは、今までにあった長い長い積み重ねのおかげ。勝ち負けや友情といった色々なものが、私たちのつながりには詰まっている。

 そう、だからこそ尊いのだ。

 だから、仲間との日常は最高のものなんだ。

 確かに私は、大人になった。

 少しは世界の見え方も変わったし、感じ取り方も変わったのだろう。

 だけど大人が間違えないなんてことはあり得ないと、そのくらいのことは私でも知っている。大人だからといってすべてを変えてはいけないと、しっかり大人になれたからわかっている。

 つまり、そういうことだ。ここ数日、ずっと気持ちは初恋でいっぱいだった。恋という一つのことばかり考えて、きっと他を蔑ろにしていた。取るに足りないと、勝手に定義していた。

 でも当たり前のように、私の周りには大切にしたい日常がたくさんあって。気づいた。振り返った。なら、蔑ろにしてはいけなかったのだ。

 もちろん恋を大切にすること自体が間違いだとは言わないけれど、それをすべてにしていいなんてのは間違っていたのだろう。

 どんなに大事なものさえ捨て去っていいなんてのは、恋心の暴走としか言えないのだ。

 

(そういうこと、だよね)

 

 声には出さず、確認を取る。なぜなら確認する相手は、他でもない自分自身だから。あんな夢を見た、自分自身だから。夢からメッセージをくれた、夢を見せた自分自身だから。

 私の恋は、そんなに大層なものじゃない。

 そう、夢が教えてくれた。ずっと教えてくれていて、ようやく気づけた。

 手を繋ぎたい、キスをしたい。

 色々思っているふうに見せかけて、本当はちっぽけで浅ましい気持ちだけ。

 好きだって気持ちがどれほど大きく見えても、本当に触れた瞬間しぼんでしまうのだろう。どんなに深くて大きくて苦しいものでも、きっと私はそれだけだったのだろう。

 あなたを苦しみの理由にはしたくない。それは、今でも思うこと。

 あなたを想うだけで幸せ。それも、今でも思うこと。

 だけど、わかってしまったのは。

 だからこそ、あなたとの日常も壊したくないということだった。

 動物的に求めて、今あるものを壊して満足して。

 満足したらそこで終わってしまいそうな私が、よく知る私だからこそ怖かった。

 やっぱり今でさえ胸が張り裂けそうなほど、好きだから。

 そう想う気持ちは、消したくないから。

 この恋が薄くて浅いものだなんて、証明したくないから。

 大切にしたい。

 好きでいたい。

 なら、これ以上は。

 あれだけ好きでいっぱいで、押しとどめたくないと思っていながら、なお。その程度が奥底まで根付く欲求だと、虚なキスを何度も頭の中でリフレインしてさえいながら、なお。

 何よりも私が願うのは、ただ一つ。

 あなたという私にとって大切な存在を、そんなふうに消費されてほしくないということ。

 たとえ、私自身であっても。

 やがて午後が来る。放課後が来る。

 その後のトレーニングは、きっといつも通り楽しい時間だ。

 いつも通り。

 いつも、通りだ。

 

 

 

 

 

 

 秋も終わり頃、日が落ちるのはそれなりに早い。とはいえそれでトレーニングを早めに切り上げるなんてことがないのも、まあよくよく知っている。

 チーム<アルビレオ>はそういうところ。トレーナーさんは、そういう人。

 

「よーし、全員でコースもう一周だ!」

 

 というわけで、いつものようにスパルタトレーニングだった。……とはいえ、今ばかりはありがたい気持ちはある。どうしても、あなたの顔をまともに見れる気はしなかったから。

 どんなに考えて、どんなに決心のようなものをしても、それでも私の心はあなたの存在を感じ取るだけでどうしようもなくときめいてしまう。恋とはそんなもので、恋情に理屈がないというのは一つの真実なのだろう。

 だけど、もう一つはっきり考えられたことはある。やっぱり私は、トレーナーさんとの関係を大切にしたいということ。

 ドリーム・シリーズという二人がかりの夢。二人だけの、特別に目指すもの。私たちを強く結びつけるものは、とっくのとうに存在しているのだ。

 そこに至れたのもこれまでの積み重ね。

 変化と成長の積み重ねは、これからも大切にしなきゃいけないもの。

 もし私の恋心がもっとも脅かすものがあるとすれば、私とあなたの大切な積み重ねに決まっているのだから。あなたのためにも、譲るわけにはいかないのだろう。

 こうして私の恋慕の行方は、行き止まりになった。閉じ切らない、行き止まり。ゆっくりなら、進めるだろう道。こじ開ける必要はない。鍵を壊す必要はない。緩く、私らしさでいい。

 そう決めたのが、私の新しい結論だった。

 今までが生き急いでいたのだと、私はのんびり進まなくちゃと。

 ひとまず、そうした。

 再び膨らむ甘い苦しみを、閉じ込めるために。

 

「よーし、お疲れ様! みんな、少し休んでいいぞ!」

 

 振り向かず耳だけでその声を捉えて、壁際に座り込んで他のチームメイトと共に休憩する。息を切らせて、肩を揺らして。ハードなトレーニングなぶん、やっている間少しは思考を麻痺させられる。それは多分ありがたいことだ。

 ふう、と息を吐く。このまま乗り切ろう。

 空を眺めて、夜を迎えて。その繰り返しにしよう。

 それで十分、幸せだ。

 十二分に、特別な時間だ。

 あなたも私も特別でいられるのなら、やっぱり恋はこの歩みでいい。

 いつか、ゆっくり。どこか、遠くで。

 恋はありふれている。

 世界は壊さない。

 だけど私とあなたのつながりを壊すくらいなら、きっとできてしまうから。

 ならば私にできるのは、すべてを恋に費やすなんてバカな真似はしないこと。

 何事もないように立ち回る、そうあること。そう、思った。

 何事もなければ乗り切れる、そんなふうに僅かに気持ちを落ち着けられた、その時だった。

 また僅かに諦めようとした、私が「正解」にたどり着く時だった。

 ずさり、砂の上から立ち上がる音がする。規則正しい足音が、遠くで立つトレーナーさんの方に向かうのが見える。トレーナーさんの方なんて見るつもりはなかったのに、確かな蹄鉄の音に呼応して思わず目を向けてしまう。トレーナーさんの方へ向かう彼女の佇まいは、いつもよりも更にしっかりとした歩みだったから。

 こつ、こつ、こつ、こつ。

 一つだって、歪まない。

 

「トレーナー、一周タイムを測ってもらえるかしら。1,200m、スプリント」

 

 ウェーブがかった鹿毛にクリムゾンレッドの鋭い眼差し、ジャージ姿でも強く在らんとする立ち振る舞い。

 私のよく知る、キングヘイローというウマ娘。先程までの全体トレーニングの疲れも抜け切らないままに、そんな提案をトレーナーさんに行っていた。私の知る彼女らしい、無茶で予想外な提案を。

 

「1,200mか。短距離路線、本当に挑戦するんだな」

「当然でしょう。やるからには手段は選ばない、すべての道を模索するの。それが私、キングヘイロー」

 

 そう彼女自身が言う通り、今のキングは従来の中長距離路線から離れたレースに挑戦しているところだった。マイル、短距離、そういった新しい道を選んでいる。今まで彼女が積み重ねてきたものとは、別の挑戦だ。

 新しい、積み重ね。ゼロからの、今までを壊しかねない第一歩。

 

「よし、いいぞ! 練習熱心なウマ娘は大歓迎だ!」

「なら、お願いするわ。併走は要らない。私一人でどこまでやれるか、試す」

 

 そう言って、スタートラインに着くキング。そんな彼女に嬉しそうに対応するトレーナーさんの声と表情が、心臓の奥に焼きついてしまった気がした。

 どくん、ぎしり。響くことのない二つの音が、私の胸で不協和音を成す。一分とちょっと。その間のキングの全力疾走と、それを真摯に見つめるトレーナーさんを見て。

 なぜだか、胸が苦しくなった。

 今までの甘い痺れとは、別のものだった。

 彼女が走り終えるまで、苦い痛みが全身を撫ぜていた。

 

「……はあっ、はあっ……! どうかしら、トレーナー……っ?」

「……今までで一番いいタイムだ。これなら本当に、短距離路線でのGⅠ勝利も夢じゃないかもしれない」

「そう、かしら……。ふふっ、やった、わね……!」

 

 息も絶え絶え、やっぱりトレーニングに次いでちゃんと休みもせずに走ったキングはそれなりにぼろぼろだ。でもトレーナーさんがいうには、これが今までで一番いいタイム。

 無茶だろうと恐れず進んだ結果、キングは新しい手応えを掴んだということ。

 その結果は、素直に喜ばしいことだと思った。

 そこまでは、そう思った。

 けれど次のトレーナーさんの言葉が、私の心の靄を暴く。

 先程胸に抱えた苦しみの正体を、隅から隅まで詳らかに。

 

「よくやったな、キング。偉いぞ、君ならいつか必ず勝てる」

「ええ、ありがとう」

 

 その会話。そのトレーナーさんの言葉。なんてことないものかもしれない。でも、確かな信頼のある言の葉のつながり。

 トレーナーさんの心からの賞賛に、汗を流しながら笑顔で応えるキング。

 もちろんそう語らえるのはいいことに決まっている。チームに入ってまだ日が浅かった頃に比べたら、キングとトレーナーさんが信頼関係を築けている証拠だ。

 特別な、関係を。

 私以外の、特別を。

 当たり前のことだった。トレーナーさんはチームのトレーナーさんだってことは、ちゃんと知っている。特別な信頼関係をたくさん築ける、真面目で素敵な人だってわかってる。

 それでも、それでも。

 これも薄っぺらい気持ちなのだろうか。

 浅ましい独占欲なのだろうか。

 それでも、こう思ってしまうのだろうか。

 間違い、なのだろうか。

 ぐるぐると頭の中身が回り、脳みそが数回ひっくり返った気がした。

 だから、キングが話しかけてきたのにも一瞬気づかなかった。

 一瞬遅れて、現実に繋ぎ止めてもらえた。

 

「どうかしら、スカイさん」

「……へ、ああ……。えっと、びっくりした。あのキングが短距離とはね」

 

 なんとか苦し紛れに返した言葉だが、そう告げた気持ち自体は嘘じゃない。中長距離で確かに勝ち切れはしなかったけど、そうだとしてもキングの主戦場はそちらだと思っていた。

 未知の領域、初めての戦場。

 そこにまで、足を踏み入れる必要なんて。

 

「そうね。血迷ってる、迷走してる。そう言われるのは承知の上よ。……でもね、スカイさん」

「何かな」

「たとえ可能性が低くても、セオリー通りじゃなくても。どうしてもというなら、ゼロにだって踏み出すべきでしょう」

 

 ……はあ。

 本当に侮れないやつだな、君は。

 絶対絶対私の気持ちなんか知らないくせに、全くもって違う話題をしてるはずなのに。

 こんなふうに誰かの背中を押しちゃえるんだから、このお嬢様は。

 

「……ありがと」

「感謝される覚えはないのだけど」

「うるさい、大人しく受け取っとけ。このすっとこキング」

「感謝と罵倒を混ぜられると、流石に反応に困るわね」

 

 そう言って、キングは流石に疲れた様子で地べたに座り込んだ。……程なくして、キングの休憩なんて待たずにトレーニングは再開されたのだけど。

 いつも通りのトレーニング。ついさっきとすら、何も変わらないくらいのトレーニング。

 でも、少しだけ。方針は少しだけ、その先にある結論は大幅に。何度も揺らいだ羅針盤は、停滞と破壊に揺れていた私の気持ちは、全部が一つにまとまっていく。

 恋を、いい思い出に終わらせたくない。

 恋なんてありふれていて、実らなくて当たり前。

 恋は、私のすべてを注ぎ込むべきもの。

 恋は、私の積み重ねを破壊する罪深いもの。

 さまざまに悩んだ。

 さまざまに想った。

 大人になってから、初めて抱える悩みだった。

 だけど大人だからこそ、今だからこその結論を出せる。

 悩みに悩んだすべてを収束させるべく、夕日に照らされたグラウンドに向かって思考と脚を動かし始めた。

 今の私は、変わっていたのだ。

 誰もが、変わっていくように。

 たとえばトップロードさんは、ついにシニア級を目指してかつての私たちのように注目され始めている。

 たとえばキングは、今までの経験をある種見限ってでも新しい路線を模索している。

 たとえばトレーナーさんは、そんなみんなの頑張りを前より褒めるようになった。

 そしてたとえば私は、あなたに恋をした。

 走る道、人のつながり、生き方そのもの。どれもがやはり変わっていって、その変化は積み重ねの先にある。今までがなければあり得ないものばかりだ。

 だけど、それだけじゃない。

 今までだけじゃ、ない。

 私が見ていた夢は、今までの私の記憶が作ったものだ。だからこそ知らないものは一つも実感がなかったし、知っているものは質感さえ存在した。

 だけど、夢を見ていた。恋の夢。

 それを何度も、知らないのに見ていた。

 知らないのに、知らないものの夢を見ていた。

 でもそんな夢を見ることをおかしいと思うのは、過ぎたものだと思うのは、逆。

 むしろ当然、当たり前だったのだ。

 知らないから、見ていたのだ。

 知らないから、想像はそこで止まったのだ。

 手を繋ぐこと、キスすること、そこまでしか私にはわからなかった。

 だから、夢はその感覚を伝えなかった。虚ろなままで、恋に着いては教えてくれなかった。

 けれど、夢が教えてくれることはある。

 これまで何度も見た夢が教えてくれた、本当のこと。

 それは、夢からは何も知ることができないということだった。

 今から進む先が未知ならば、夢は何の参考にもならないということだった。

 夢は尊い。

 夢は憧れ。

 だけど、夢は遠くに見るもの。

 いずれ近づけるのなら、夢は現実にしなきゃいけないから。

 現実の私の感情など、今この瞬間にも更新されつづけているのだと、そういうことだった。

 キングの努力は、着実に進んでいた。そしてトレーナーさんの特別は、もちろん私だけじゃなかった。キングも、特別だった。

 いや、そうなったんだ。そう、変化したんだ。キングが新しいものに挑戦していたからこそ、関係は進んだんだ。

 私があの日ドリーム・シリーズという夢を、トレーナーさんと二人で掲げる夢にしたように。

 そうして、特別になったように。

 ならドリーム・シリーズという夢を掴むのだとあなたに誓った私は、夢をずっと夢のままにするわけにはいかないじゃないか。

 夕日に目を擦りながら、私は私の答えを見つける。

 私の願望は、夢で見たそれっきりじゃないということ。まだ知らないものを、夢ですら見れないくらいの幸せを、あなたと共有したいのだということ。

 夢より素晴らしい、現実を手にしたいということ。

 もっと、変わりたい。あなたに更に特別に思ってもらえるように、もっと。

 独占欲でも構わないから、あなたの一番の特別になりたい。

 あなたの隣にいたい。

 あなたと、対等な存在になりたい。

 ずっと一緒でも退屈しない、ずっと一緒にいるだけで幸せな、そんな関係になりたい。

 そう、きっとこれが恋の本質。

 なんでもない当たり前を二人で共有して、日常に常に特別なものを置いていられるもの。

 手を繋ぐこと、キスすること、愛を囁かれること。

 恋情が生むあらゆる刹那的な欲求は、たった一つの結論のためにある。

 日常を、特別に想い合う二人で歩むこと。

 特別なつながりを、愛という形で「いつも通り」にすること。

 それが、本質だ。

 日常を壊すんじゃなくて、やっぱり積み重ねだったんだ。

 私の気持ちは、今までの先にあるものなんだ。

 全部が無駄じゃない、むしろ今までの関係を無駄にしないために、私はあなたにこの気持ちを伝えたいんだ。

 刹那を求めるのは、永遠を望むが故なんだ。

 そうだ、私はあなたに伝えたい。

 あなたは、私を褒めてくれるようになった。そうやって、変わってくれた。それはチームのためだとしても、私のためでもあるのだから。それなら、私からあなたにできることは一つだ。

 変わることのできたあなたを、今度はこちらから褒め返す。褒め合うことで、対等になれる。

 私はあなたを、褒めてあげたい。

 どうやって褒めるかは、もう決まっている。

 最高の、これ以上はないだろう一言。

 たった一人にしか贈れない、一度限りの褒め言葉。

 大好きだ。

 そう、言おう。

 あなたへのすべての感情を込めた、一言だ。

 そして、こうも思うのだろう。

 もし、あなたが私に応えてくれるなら。

 私の告白を、受け止めてくれるなら。

 あなたからも、私を愛してくれるなら。

 そこに開花するつながりはきっと、褒め言葉よりも先にある。

 今までずっと抱えてきた、褒められたい、の先。

 対等、信頼、特別、恋人。なんにせよその時、私はまた一歩成長するのだろう。

 もしかしたらあなたも、成長させられるのだろう。

 大人と大人になっても、私たちは二人なら歩んでいけるのだろう。

 私が願うのは、あなたと一緒に特別になることだ。

 もちろん、受け入れられないのは怖い。

 関係を壊しかねないのも、怖い。

 それでも、これは言わなきゃいけない。

 どんな恐れがあっても、言いたい。

 だってこれは、私が伝えたいこの気持ちは。

 どうしてもどうしても、伝えたい理由は。

 あなたのために、言いたいことなのだから。

 あなたに捧げるための、褒め言葉なのだから。

 ……それに、さ。もうとっくに、あなたに隠し事をできる気はしないもの、ね。

 考え事をしながらのトレーニングは、捗ったのか捗ってないのかわからなかった。集中しているともいえるし気が散っているともいえる。

 まあトレーナーさんに文句をつけられなかったから、多分大丈夫だったのだろう。あの人がちゃんとトレーニングを監視してないことはないと思うし。

 見ていて、ほしいし。

 その日は寄り道もなく、寮に着いて風呂に入ったら割とすぐに寝れた。疲れていたのも多少あるけど、多分悩みが取れたから。

 もう私にとって、恋は夢に出てくる悩みじゃない。

 手の届く現実にある、必ず射止める目標だ。

 目蓋を閉じる。身体が弛緩し温まる。

 最後に意識が途切れる寸前まで、明日が楽しみでたまらなかった。

 大切な日常をもっと素敵にする、大作戦の幕開け。

 策士セイウンスカイ、人生最大の作戦。

 すべてを懸けた一世一代の作戦が、あなたへの恋なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見た。多分、夢を見た。

 夢を見た。二人でいたことは覚えている。あなたと私、そんな夢だった。

 夢を見た。だけどそれだけ。私の心は、かき乱されない。

 夢を見た。もう、なんでもよかった。私にとっての夢の役割は、終わったのだ。

 夢を見た。現実はもっと素晴らしいのだと、最後の最後に伝えようとする夢だった。

 夢を見た。それきり、そんな夢は見なかった。

 二度と、見なかった。

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