変化は続くもの。何かが変わって一度安定したなら、またそのあとに何かが変わる。繰り返す日常だって、毎日全部ぴったり同じじゃない。時折ハレの日があって、そこからまた。それを繰り返して、積み重ねていくことで先へ進める。
だから今日も──。
「キングヘイロー、一着でゴールイン! 見事なデビューを果たしました!」
──今日という日もまた、一つの変化のきっかけとなる。
ターフの上で輝かしく笑う彼女自身にとっても、そこに憧れを見る私たち観客にとっても。
汗だくの頬の上にいつもは繊細に整えている髪の毛をべったり張り付けてしまっているのも気にも留めず、嬉しいって気持ちが溢れてこぼれ出したような晴れやかな笑顔を見せるキングヘイロー。目蓋までつぶるような満面の笑顔とともに歓声の方へ手を振る一人の少女の、いつもの日常じゃ決して発露されないだろう姿を見て、また一つ感じ入るものがあった。
ここでしか感じられないキングの喜びがこっちまで伝わってくる気さえして、レースというものが持つ独特の熱、それを実感した気がした。
そしてそんな興奮は、もちろん私だけのものじゃないみたいだった。一緒にキングのデビュー戦を見に来ていたグラスちゃんが、私に話しかけてきた。
少し感慨深そうに、そして少し高揚した様子で。
「キングちゃん、流石ですね」
「そうだね。グラスちゃんのデビュー以来、ずっと私も私もって息巻いてたもんね」
そう言うと、私の横にいるグラスちゃんは少しおかしそうに笑った。実際事実ではあるんだけど、確かに包み隠さなさ過ぎる言い方だったかも。でも今グラスちゃんが笑ったの、キングに見られたら怒られそう。
いや、グラスちゃんならかわしちゃうか。そしたら矢面に立たされるのは、そんなこと言った私かな。まあ私も、キングくらいならかわせちゃうけどさ。
「私も負けてはいられませんね〜」
「来週レースだっけ。いやはや大変ですなあ」
「はい。いつかはキングちゃんとも走ることになるかもしれませんね」
「そりゃ、そうじゃない? 二人とも強いし。GⅠとかで、派手にバチバチやっちゃってよ」
「セイちゃん」
げ。グラスちゃんが私の名前だけ呼んで、それがちょっとマジトーン。この場にアテられて微妙にテンションが高いせいか、色々適当に話しすぎちゃったかな。もしかして軽々しくGⅠとか言ったのがまずかったか。最高峰の舞台であるGⅠでも、二人ならと思うのは事実だけど。そう能天気に言うことじゃなかったかも、私にはやっぱり君ほどの覚悟は持てないのかも。
けれど、そう不安に思ったのは束の間のこと。
すぐに、言の葉は開かれて。
「私は、あなたとも。そう、思っています」
それは宣戦布告。
それは信頼の証。
それは、覚悟が花開くが如く。
どこかその世界を他人事にしてしまっていた私にとっては予想だにしていなかった言葉だったけれど、それでもそこに込められたものを余さず受け止められた。
それくらい真っ直ぐ愚直に、だけど丁寧に研ぎ澄まされた一言だった。
たったそれだけで、いまだ周囲を包むはずの歓声が遥か遠くのものになった気がした。
二人だけの世界が、私とグラスちゃんだけの世界が形作られた気がした。
そこに待ち受けるのは誰しも逃れることを許されない、覚悟と信念を互いに携える世界。
そして己の武器を、雌雄を決するその時までぶつけ合う世界。
いのちを懸けた勝負が限りなく繰り広げられ続ける瞬間が絶え間なく続く、そのほんの一端を抜き出しただけの世界。
そんな世界を作り出したのは、トゥインクル・シリーズという戦場で、そこで待つ未来のライバルからのたった一言。「あなたとも、走りたい」。
グラスちゃんから私への何もかもが、その一言に込められていた。
互いを見据え、数瞬の逡巡。
答えるべきなのは、わかる。
応えるべき想いなのは、わかっている。
けれど、きっと私にはまだ足りない。
彼女が魂に焚べているそれほど、決意を固めるものが足りない。
意志として紡ぎ、言葉として発する、そうしてしまうには私の気持ちは曖昧に過ぎた。
けれど、それでも私は口を開く。それくらいは、できるから。それにたとえ未熟でも、できる限りを尽くさないなんて、君に対してはありえないから。勝負の舞台に対して常に真剣で、私さえ敬意と戦意を向けるべき好敵手として認識してくれる、君はそういう人だから。
「……うん。ありがとう」
ごめん、今はこれが精一杯。
だけどその先はこれから先で、いつか必ず言えるようになるよ。
キングやグラスちゃん、そしてまだ見ぬライバルに向けて、いつか。
未来は不確定で曖昧で、不安ばかりが膨らむとしても、絶対に。
そう、初めて思った。今までの私にはない世界の見え方が、初めて。キングのデビュー戦と、グラスちゃんの宣戦布告。
それらを今までの私の上に積み重ねて、その上に小さな小さな気持ちの芽が顔を出す。
これまでの私に根を張って、まったく新しい感情が産声を上げる。
デビュー。その言葉はやっとぼんやりと輪郭を捉えられた程度で、まだ手に取るどころか手をを伸ばすことすら叶わないけれど。
それでも、始まったのだ。
0が1へと変わるのは、一番大きくて難しい第一歩。
見上げてみれば、その日の青空もキレイだった。
私の気持ちと同じくらい、蒼く澄んでいた。
キングのデビュー戦、そのすぐ翌日。そんな日の朝の教室は、当然誰もかれもがキングのデビューの話で持ちきり。
……だとよかったんだけど。
「ねえ聞いた? 編入生だって。今日このクラスに来るんだって」「編入生って、特別実力を認められて入ってくるんだよね?」「すごい子なんだろうなあ」
聞き耳を立ててみれば、いやわざわざ立てずとも、クラスを一色に埋め尽くすのは別の話題だった。このクラスへの編入生、そのまだ見ぬ未知の存在が、どうにも話題性としては勝ってしまうらしい。
まあ私も確かにその編入生というものは気になるのは事実だけど、今はとりあえず……。
「……なんでなのよ」
「まあまあ、そういうこともあるんじゃない? あれだったら言ってきたらいいじゃん、私の話してーってさ」
「おばか! そんなみっともない真似、一流の私に相応しくないでしょう!」
「恥ずかしいから?」
「……もう!」
そんなふうに、かわいそうなキングを適度にからかってやるのが先だ。そうでもしてやらないと泣き出してしまいそうな気がするし、割と細かいことまで気にしてしまうこのお嬢様に、私くらいはちゃんと構ってあげよう。
いやあこんな軽口じゃなくて、素直によく頑張ったね、とか言えたらいいかもしれないけどさ。多分キングが私に求めてる役割って、そういうのではないだろうし。だからこれが私なりの気遣い。一見薄っぺらくても親愛を込めて、というわけ。
まあそれはそれとして、編入生の子ともそれなりに上手くやっていけたらな、とは思うけど。どんな子なんだろうか、トレセン学園期待の新人というやつは。
少し特別な道のりを通ってでもトゥインクル・シリーズを目指すという、そんなやる気に満ち溢れた誰かの抱える気持ちは。
まあそもそも、私ごときが仲良くなれるかが問題だけどさ。キングやグラスちゃんと仲良くなれたのも、結構あちらの積極性に救われたようなものだし。
そんなふうに喋ったりちょっと思索にふけったりしているうちに、また扉がスライドして一人教室に入ってきた。
ゆっくりと教室に姿を現したのは、グラスちゃん。おお、タイミングがいい。この駄々っ子は君に任せよう。不満そうなままのキングとそれを何とか宥めている私を見るなりグラスちゃんがかけた言葉は、私の期待した通りの端的で的確なものだった。
「おはようございますキングちゃん、改めてデビューお疲れ様でした」
「ぐ、グラスさん……!」
「そんな、感動するほどでは。なんであれそんなに喜んでもらえたのなら、光栄ではありますが」
「はっ! べ、別に喜んでなんか」
「キングはもうちょいポーカーフェイスを覚えた方がいいよー。グラスちゃんにも説明すると、教室の誰も自分の話をしてないから、この子拗ねちゃって」
「スカイさん! 私は拗ねてなんか」
「はいはい」
いや、私にもキングの気持ちがわからないわけじゃない。グラスちゃんがデビューした時はそれで話題が一色だったし、それなら同じようにデビューを期待されていたキングにだって注目や称賛を受ける権利はあるだろうとは思う。
それを多少なり期待して教室の話題を探ったあとのキングの落胆みたいなものは、まあ察するに余りある。同情くらいはしてしまうかも、キングは嫌がるだろうけどさ。
けれど逆に言えば、それだけ「編入生」というワードは強烈なのだろう。キングのデビューが取るに足りない話題なのではなく、一度慣れ親しんだ場所に新たな風が吹き込むということは、それほどまでに鮮烈で波乱を呼び起こすもの。
だからまあ、流石に相手が悪いよね。そんなことを口に出しても慰めにもならないので、キングには言わずに黙っておくのだけれど。そもそもやっぱり私に慰めなんて向いていないから、これでいい。それにきっとそんなことは、当然のようにキングもわかっているのだ。
納得できないだけ。
諦めが悪いだけ。
その感情を既に燃料に変えて、己の闘争心を燃やし始めているだけだ。
そののちグラスちゃんとキングが喋っているのを横目に、私は一人でまた別のことを考えていた。昨日と今日、芽生えを迎えた気持ちの行き先を。キングとグラスちゃんがデビューして、周りの皆がその実力を示し始めていること。
そして鳴り物入りの実力者が、新たに編入するということ。
実戦の場、トゥインクル・シリーズ。時に容赦なく敗者と勝者を区切るその舞台で、それでも己のすべてを振るおうとするみんながいること。
ならば、それならば。
ならば、私は。
私の、セイウンスカイというウマ娘の実力は、どうなのか。
憧れは近い。いつかと思っていたそのスターティングゲートは、私がその脚を踏み入れる瞬間を待ち構えている。そして今投げかけるその問いは、かつて幼い私が世界に問いかけたものと似ている。私の実力は、私の価値は期待されるほどのものなのかって、私が諦めることを覚えたあの日、きっとその時と同じ問いを再び世界に投げかけている
。あの時は誰も私に答えを返さなかった。
誰も私に期待の眼差しなんて向けていなかった。
それは揺るがない事実。終わってしまって確定した、過去。
けれど、今は違う。自分自身では相変わらず自信を持てないままだけれど、私以外の誰かが自信に繋がるものをくれる。キングもグラスちゃんも、私と走りたいと言ってくれている。
自分に自信を持っている彼女たちのその言葉は、裏を返せばそのまま私への期待になる。私の自信はやっぱり、そんな期待から生まれていた。だって、今でもそれを求めているから。
たとえそれが子供の頃の願いを諦められないが故だとしても、私は期待を原動力にするのだ。
そしてなにより、この学園で最初に私に期待を寄せた人のことがある。
暑苦しいのも根性論も、意地っ張りな正論も何もかも、やっぱり苦手だけど。それでも少しの間あなたと付き合って、ほんの少し変わった気持ちがある。
まあ面倒な奴だけど、ちゃんと私のことはそれなりに見ていてくれていると、今ならわかる。不器用でも多少強引でも、あなたが私にかけてくれているものがある。だから、私は。私は、トレーナーさんの期待に応えたい。
そう、あなたが私に向けるものも紛れもなく期待なんだから。
そして、願わくば。この願いがいったいどれくらい真剣なのか、それとも気まぐれなのかは相変わらず曖昧ではあるんだけど、その上でも一つ、密かに願い想うのは。
「よくやったな」と、あの頑固者の口からほんの少しでも褒め言葉を引き出せれば。
そんな普段は言いそうにもないことを、私の力で引き出せれば。
それはとっても、きっと綻ぶような笑みがこぼれてしまうほどに愉快なんじゃないかってこと。ちょっと前は考えるわけもないような、だけど今なら少しだけ見え方が違うから願える、そんなこと。
そんな大それたことを、今の私は思うのだ。
「ねえスカイさん、聞いてるの?」
「え、ごめん。聞いてなかった」
……と、二人の会話そっちのけで一人で考え込んでいたのがばれてしまった。とはいえそんなことをいちいち言ってくるくらいにキングが元気になったのなら、特に私から割り込んで話すことも何もないんだけど。ここはキングに優しくしてくれたグラスちゃんにこっそり感謝。
「もう。始業のチャイム、鳴ったわよ」
「セイちゃん、真剣に何か考えてましたね〜」
「まさかあ。私に限って真剣なことなんてないよ」
そう二人に言うだけ言って、自分の席に戻る。始業が近いからか私の言い訳にも何も言わず、クスッと笑って去っていくグラスちゃん。
なんだか私、嘘が下手になってるかもな、なんて思ったりした。
そしてそういうのも変化かもしれない、とも思った。
程なくしてチャイムが鳴って、授業の前に編入生の紹介が始まる……んだけど。それは先生が廊下に向けて入室を促してから、一秒もたたないくらいのスピード感だった。
がたんと大きな音が鳴るくらい豪快かつ勢いよく教室の扉を開いて、堂々とした大股で私たちの目の前に姿を現す編入生。
同年代としては結構なサイズ感のあるその体躯と、ハーフアップにまとめながらもボリュームたっぷりにたなびく黒鹿毛の長髪が眼前を横切るのがまず目に入る。全体的なシルエットは結構な大きさを感じる子だな、なんてのがとりあえずの第一印象。
だけど、それは些細なことだった。本当に、この大胆不敵なニューカマーの印象を語る上ではずいぶんと些細なことだった。
ぐるりとダイナミックに翻されたその顔を見た瞬間、私の思考が芯までカチコチにフリーズする。いやいや、確かにこのトレセン学園にはどんな癖の強いキャラが入ってきてもおかしくないとは思うけどさ。まあいろんな人を見かける場所だし、これくらいは飲み込まないとやっていけないんだろうけどさ。
けど、限度ってものがさあ。
「みなさん、コンニチハ! アタシの名前はエルコンドルパサー、デエェェーース! アメリカから、このトレセン学園にはるばるやってきました! これからどうぞ、よろしくお願いしまーす!」
そのカタコトささえ味方につけてるみたいなハイテンションな挨拶。
いかにも陽気な異国文化に染まってますって感じの、挨拶の間もぶんぶん回される大袈裟な身振り手振り。そして、なにより。
さも当然みたいにしているけど、とびっきり目立って意味のわからない特徴が一つ。
いや、その覆面はなんですか……? プロレスラー的なものなのかなってことくらいはわかるけど、プロレスラーだって日常生活から目元をマスクで覆ったりはしてないだろう。
いや、何ですかそれ、本当。そんな一番の謎も含めて芋づる式に突っ込みどころが湧いてくるんだけど、そんなここにいる人全員の疑問も意に介さず、エルコンドルパサーさんは自己紹介を続ける。
「アタシが目指すのは、『世界最強』のウマ娘! そのためにアメリカから日本にやってきました! だから……グラスワンダー!」
びしっ。そうやってエルコンドルパサーさんは、言いたいことを言い放題。初対面のはずのグラスちゃんを呼び捨て、指差し。まさに独壇場という感じで誰もついていけていない気がするが、これがアメリカ流なのか。
いや、グラスちゃんもそういえばアメリカ生まれだった気がするな。ならもしかしてこの超ハイテンションに対しても、意外と慣れたもので波長は合ったりするのだろうか。
まあ今のところ、まるっきり別物に見えるけど。
ともかくやはり、エルコンドルパサーさんはまだ言葉を続けた。だけど、それは今までのそれとはほんの少し色合いの違う声。ただ元気なだけじゃない、別の意志のこもった言葉。
少しだけ垣間見える、彼女の本質。
「手始めにこのクラス最強のアナタを超えて、アタシの最強を証明してみせます」
最速最短に述べられた、だけど完成された覚悟の宣誓。
彼女の目指すものが「最強」の二文字であると、どんな奇抜な印象よりも深く刻まれる事実。
「……それは、臨むところですね」
そしてその態度に怯むことなく、むしろ微かな期待感さえのぞかせる返答をするグラスワンダー。ほんの二言ほどのその会話は、それだけでもクラス全体に緊張感を走らせる。
なるほど、そういう負けず嫌いなところは噛みあうのか。それともやっぱり、これがアメリカ流なのか? どちらにせよ、こういう気の合わせ方もあるんだな。
想いが交錯するのなら、そこにあるものが敵意であっても通じ合える。この二人、これからだいぶん仲良くなれそうかも。
なんて、私自身はそんなふうに他人事風に聞いてたんだけど。
「でも、このクラスにいるのは私だけじゃないですよ? 私には他にも負けられないライバルがいるつもりですので」
「それは興味深いデス! あとでその子たちのこと紹介してください!」
そこまで言ってとりあえず、エルコンドルパサーさんは今日から新しく用意された自分の席に着く。そこで一応自己紹介は終わりみたいだったんだけど、エルコンドルパサーさんのお話は終わったんだけど。
一つのイベントと入れ替わりになるように、グラスちゃんが最後に告げた言葉が耳に引っかかった。ライバルの紹介って、まさか。それを紹介するという会話の流れに心臓の血液が沸き立つことこそ、私がそのあとの波乱を己にも降り注ぐものとして予感している、なによりの証明だった。
今はただ、「ライバル」という言葉を噛み締める。その言葉がきっと、きっと指してくれているもののことを考える。
そう定義してくれた君のことを、こちらからも同じになるように考える。
ライバル、私たちはライバル。
君にとっての、ライバル。
私にとっての、ライバル。
そのフレーズは荒々しくて刺々しいのに、咀嚼するたびに心が澄んでいく気がした。
新たな出会い。新たなつながり。あるいは今日、また一人友達が増えるのかもしれない。
そして、まだこれはいつかの話だけど。いつか共に世界を駆けるライバルも、増えていく。
だんだんとだけど一刻も止まらず、一つの気持ちが膨らみ続けていた。
お昼は結局、私とキングとグラスちゃん、そしてエルコンドルパサーさん──エルとで一緒に食べた。グラスちゃんの言った通り、未来のライバルたちを並べたって感じ。
名家の才女にクラス一番の実力者、実力は最初から折り紙つきの編入生に私が並んでライバル面なんて、本当にいいのかなとは思ってしまうけど。それでもそう扱ってもらえるのは嬉しかった。単純に、友達が増えるのも嬉しかった。
日常に変化が積み重なり、新しいものが馴染んでいく。その感覚は、もう初めてのものじゃない。これが更なる変化の合図だと、私はすでに知っている。
そしてまたそうやって、また新しい一つの感覚が芽吹いていた。
ちなみに最初はだいぶトンチキな子だと思っていたエルだけど、喋り方と謎の覆面以外は割ととっつきやすいこともわかった。むしろ今日のお昼にあった流れでは、グラスちゃんの底知れなさがより鮮明になったというか。
いや、デスソースを自分の皿にかけられたら私でも怒るかも。グラスちゃんを怒らせてはいけない……肝に銘じておくことにした。
と、それはともかく。
「頑張れ! あと十周!」
今はいつものようにトレーニングをしているところ。いつものように同じコースを何度も走っているところ。そんなだから全然関係ないことでも考えないとやってられないよね。
同じことをやっていても日に日に楽になっているのは、きっと成長の証ではあるけどさ。まあでも私が成長しているならこそ、考え事が新たに湧いてくるのもまた当然。
じわり、じわり。昨日のキングのデビューから、私の中で目覚めた気持ちがある。それはとても大きくて大事なもので、ついついそれについて考えてしまう。
今日のトレーニングはずっと、そんな感じだった。
「よし! 今日はここまでだ!」
「みなさん、お疲れ様でしたー!」
そうして考え事をしながらでも、やはり時間は過ぎて幕引きが訪れる。もちろん、相応の疲労と共に。指導する立場のトレーナーさんはともかく、毎度あれだけ走ったあとに元気に締めるトップロードさんはすごいと思う。私は体力が残ってても、あんなに元気は出せないや。
いやまあ、今日は私も他のことを考える精神的余裕を持っていたのだが、それはそれだ。
「スカイちゃんも、お疲れ様です」
「ありがとうございます、トップロードさん」
「本当、見違えちゃいましたね! 私も負けてられないなあ……」
「あはは、そうですかね?」
そんな私の内心を知ってか知らずか、トップロードさんにまで変わったって言われてしまった。そういう内面に抱えたものを隠すのは我ながら得意だと思っていたけれど、今は気づかれるくらいに漏れ出てしまっていたということか。まあ単に、身体が鍛えられたってことに過ぎないかもだけど。
たとえば今でも練習はやっぱり苦手。だけど、それだけではないから続けられている。それが、私の中に芽生えた気持ち。
芽生えて、花開こうとしている気持ち。
……うん、決めた。
少し遠くのその人影に、私は柄にもなく大きな声で呼びかけた。
一つのことを、伝えるために。
「ねえ! トレーナーさん!」
「どうした、スカイ」
チームの部屋に向かう途中だったその足取りを止め、翻ってこちらへ歩いてくるトレーナーさん。あなたが距離を近づける一歩一歩、私は僅かなその時間でざわめく心を整える。
早く、早く。
目の前にトレーナーさんが来て私の言葉を待つ体制になるまで本当にすぐだったけど、その数瞬すら待ち遠しかった。
今すぐにでもと逸る気持ちは、ゼロ秒にだって長さを感じさせてしまうのだろうから。
「トレーナーさん、あのね」
そこで、一呼吸。私が伝えるべきことは、伝えたいことは決まっている。
けれど、伝え方はどうするべきか。
どんな言葉で、どんな想いで。
それをまた少し、悩んで。
悩んで、悩んで、それでもやはり、決まり切ったことだった。
ならば、吐き出そう。
頑張れ、私。
勇気を出して、一歩目を決断するのだ。
「……私、デビューしたい。……なんちゃって」
ほんの、一言。
最後に照れ隠しを入れてしまったけれど、そうしなきゃ恥ずかしくて耐えられないくらい真っ直ぐで素直な一言が、確かに私の口から出ていた。
そんな私の気持ちのそのままを、トレーナーさんに伝えた。
私の決意を、告げた。
きっと初めて、この人に素直な気持ちを告げていた。
あんなに苦手でわかり合えないと決めつけていた人に、今なら私のそのままをわかってもらえると思った。
多分滅多なことではないけれど、今は勇気を出してそう願った。
それも、私の変化だった。
そして今伝えた気持ちも、私の変化だった。
そんな積み重ねが、私をここまで連れてきた。
これだけトレーニングを積んできて、私の身体はしっかりと走りに適したものに作り替えられてきた。そして肉体だけでなく、私の内側にある気持ちもそちらへ向き始めてきた。
友達の、デビューを見た。そこにある青いターフと青い空を目に焼きつけて、私もその舞台に誘われている気がした。
そしてその友達が、私と走りたいと言ってくれた。そんなふうに上から待ち構えてして、私を求めてくれていた。
そしてなにより、あなたに宣言するならなによりも。
トレーナーさんの期待にも、今なら応えられると思うから。
そう、だからデビューしたい。
今の私は、期待を受け止められる。
今の私は、失望させない走りができる。
いや、絶対にそうしなくっちゃいけないんだ。
並び立てる実力がなきゃ、好敵手にはなれないのだから。
そのつもりだった。
どんな期待も背負うとまではいえないだろうけど、私なりに覚悟を込めてトレーナーさんに告げたつもりだった。
踏み出したのはまだたったの一歩、だけど確実な一歩目だと思っていた。
この自分の気持ちは、正しいのだと思っていた。
そのつもり、だった。
「スカイ」
けど。
けれど、しかし。
トレーナーさんの返答も端的なものだったけど、それだけは同じだったけど。
「まだだ、デビューはまだダメだ」
続く言葉は、私をどこまでも突き放す。
どうして、なんで。そう思うのは当然だった。
否定されることに動揺するのは、至極当然だった。
だけどそう言うより先に私の口から出た言葉は、いつも通りの私らしいものだった。
「ですよね」
そんなわざとらしすぎるくらいあっさりとした、いつもの諦めだった。
正しいと信じた気持ちを否定される痛みなんて、古傷がうずくのと何ら変わらない大したことのないものだった。
過ちなんていつも通り。
進まないのなんていつも通り。
それに自分で気づけなかった愚かさも、やっぱりいつも通り。
だから、別に誰も悪くない。
それきり、笑って私は会話を閉じる。
潤いを失って乾いた笑みを、からりとした爽やかさに幻視させて。そうやって本当の気持ちに気づかせないのには、飽きるほどに慣れていたから。
だけど、それで精一杯だった。自分の気持ちを隠すことに必死になるあまり、他人の気持ちを覗く勇気はなかった。
「まだ」。トレーナーさんがそう言った本当の意味には、気づいていなかった。
真に相手の気持ちに気づいていなかったのは、私の方だった。
それはまだ、わからないまま。
「セイちゃん、今日も元気ないですね」
「そうかな? 私は気まぐれだからねー」
それからそれなりに長い、だけどあっという間の数週間が経った。そんなある日の朝休み、ふとグラスちゃんにそんな心配をされてしまう。まあ多分グラスちゃんの言う通り、目に見えて元気はないんだろうなあ。
あの日以来、私はデビューの話を考えなくなった。諦めたのだとして、きれいさっぱり心から取り払った。進むのを、止めた。
けれどそれがやっぱり、態度にまで出てしまっているのだろうか。それ以外は変わりなく、いつも通りの私のはずなのに。それも変化だとしても、その変化は自分にはわからない。いつものようにしているつもりでも、他人からしか見えない変化がある。
だって、その変化は新たなものを得たからじゃないから。視野を広げて、世界の見え方を変えるわけじゃないから。
むしろ、その逆。
今の私は喪失によって変化したから、私では私を見渡せない。
何も、わからない。
「そういえば、また編入生が来るみたいですよ」
「そうなんだ。またエルみたいな濃い子かなあ」
「仲良くできたらいいですね〜」
「……そう、だね」
「やっぱり、不安ですか?」
不安、かあ。そうなのかな、この心のもやもやは。
編入生となればやはり実力者で、きっと華々しくトゥインクル・シリーズでデビューする。そんな力ある新しい誰かと出会うことは、私にとって脅威となりうる。それはライバルとしてだとしたら、きっと喜ぶべきことなんだろうけど。
今の私は、それを喜べずに不安にしているのだろう。未知の存在が世界を広げるあの感覚は、ここに来て掴めなくなっていた。
もやもや、していた。
あの日、デビューを断られたあの日から。
「良かったら、その子と話してみるのはどうですか? 不安な相手とはまず仲良くしてみる、私の時にキングちゃんにそう仕向けたのは誰でしたっけ」
「誰だったかな、覚えてないや」
「今度は私が仕向ける役をやりましょうか? セイちゃんのためなら大歓迎、ですよ♪」
あれ、グラスちゃんもしかしてあの時のこと結構根に持ってる? だけどまあ、言ってることは納得できてしまう。なんといっても自分がかつて使った手だし、それを正しいと思うことくらいはできる。
不安の原因、脅威の実力者だとしても、相手は一人の人間だ。私と同じ、同世代の女の子だ。なら、友達にはなれるはず。相手はまだ顔も知らない誰かだけど、つながりを持てるのは嬉しいはず。そう思ってしまった。私は前を向くための決意を否定されたはずなのに、それですべてを諦めてはいないみたいだった。
そこまでは、否定されていない気がした。
というわけで見事に外堀を埋められて、私の方からも少しばかり乗り気になってしまって。あっという間に来た昼休み、まだ学園の間取りを覚えきっていない様子の編入生の子を連れて食堂に向かう。
やっぱりというか、二人きり。
北海道からはるばるやってきたスペシャルウィークさんとの、初めての会話だった。
「誘ってくれてありがとうございます! 私、スペシャルウィークって言います!」
「よろしく、スペシャルウィークさん。いやまあ、名前は朝の自己紹介で聞いたけどさ。ちなみに私はセイウンスカイ。今後とも、よろしく」
そんなふうに自己紹介をしながら、小さな二人用のテーブルの反対側に座る女の子の姿をちょっと確認する。
バイオレットカラーの丸くて大きな澄んだ瞳に、幼めの鼻や素朴に開く口が付いている。顔のパーツは総じて純朴そうな印象を与えていて、立ち振る舞いもそれに準ずるって感じ。そんな彼女なりの容姿へのこだわりが垣間見えるのは、それなりの快活さと女の子らしさを両立するボブカットと、その後ろに大きくがっちり三つ編みを束ねて作られた、サイドを強調するハーフアップのワンポイントだ。
いやここまで観察してみたけれど、ひょっとして私の知り合いの中では一番正統派の女の子かも。少なくとも見た目とその所作は、正統派。いや今までの友達もみんないい子ではあるんだけど、この子はまた違うというか。ここまでまともそうだと、ひねくれ者の私では逆に扱いに困ってしまうかも。
……まあまともなのは、一点を除いて。
「……それにしても、すごい量だね」
「はい! 私、ついつい食べすぎちゃうんです……えへへ」
そう、この子のわかりやすい異常さは食事量である、らしい。少なくとも目視でわかりすぎるくらい。いくらウマ娘は普通のヒトよりはたくさん食べれるとはいえ、それにしたって限度はあると思う。私の五倍は食べてそう。
いややっぱり、この子もキャラが濃いなあ。多分他にも変なところあるだろ、この調子だと。
そしてきっと、彼女にしかない素敵なところも、だ。
だから、私は一人の少女に問う。
知るために。
わかるために。
自分にはないものを、そこから見つけられないかと望むために。
「スペちゃんはさ、どうしてトレセン学園に来たの?」
「す、スペちゃん!? あわわ、都会の子は積極的だべ〜!」
「方言出てるよ、落ち着いて。よかったら、私のことも気軽に呼んでほしいな。……それより、どうして来たのか教えてよ
」
それはいつか、キングとグラスちゃんが互いに問うたのと同じ質問。それの真似っこかもしれないけれど、そこには必ずその人の本質があると思うから。
……私のそれが取るに足りないものであることを含めて、だけど。
「あ、はい! あのね、私には夢があるの」
そうしてスペちゃんは、赤裸々に夢を語る。
躊躇も遠慮もなく、胸を張ってその夢を口に出す。
生みの親と育ての親、二人のお母さんのために、叶えたい夢があること。
そして自分のために、その夢はいつしか自分自身を振るい立たせるものになったということ。
「日本一のウマ娘」になるって、それが彼女が三重に束ねる夢だということ。
それを叶えるために、故郷を離れてここトレセン学園に来たこと。
それが、スぺちゃんの夢。
トレセン学園に来て、トゥインクル・シリーズを目指す理由、だった。
大きくて真っ直ぐな、宝石みたいに奇麗な形の夢だった。
「……ありがとう。それが、スぺちゃんの走る理由なんだね」
「うん。……でも実は、それだけじゃないの」
「それだけじゃ、ない」
「うん。トレセン学園に入学する、ほんとに直前の話なんだけどね。北海道ってさ、他にウマ娘の友達がいなかったの。だからこっちに来て、初めて他のウマ娘を見たの。こっちに来て一つ、レースを見たんだ」
「なるほど、ね。そのレースが、スぺちゃんにとって新しい夢を作ったんだ」
「……そういうこと、かな。その時目に留まったのが、サイレンススズカさんって人。私のもう一つの夢は、あの人みたいなウマ娘になること。できたばっかりの、新しすぎる夢なんだけど」
──やっぱり、誰もが変化するのだ。今の私は、それを目の当たりにしていた。大きな夢を積み重ねた上で、更に新しい憧れを重ねて前に進んでいる。それはきっと、素晴らしい。
だけどそう感じると同時に、仄かに昏い考えが浮かぶ。
ならばなぜ、私の一歩は間違っていたんだろう。
口には決して出さないけど。
心の表層にも、浮かび上がらせずに沈めたままだけど。
「なるほど。ありがとうスペちゃん、話してくれて」
「ううん、聞いてくれてこちらこそありがとう! でもこうやって人にも言っちゃったし、頑張らなきゃね、チーム<リギル>の選抜レース」
「えっ、<リギル>? あそこの加入試験なんて、トレセン学園で一番難しいんじゃ」
「そんなに、かな?」
「うん、そんなに。でもどうして、<リギル>に入ろうなんて」
そりゃあ編入生として一定の実力はあるのだろうけど、それでも相当に厳しい道だ。確か一人しか加入できない狭き門、やり直しだって効くわけない。けれどスぺちゃんは、あえてその道を選ぶのか。
それはなぜだろう、そう問おうとした。
そこまでできる理由が、私には踏み出せない一歩を踏み出せる理由が知りたかった。
だけど、聞くまでもなかった。聞かずともわかるような、少なくとも彼女にとっては考える余地のないことだった。
わかり切った当然のことみたいに、彼女はその理由を言葉にした。
「<リギル>は、スズカさんのいるチームだから。スズカさんの近くに、いたいんだ」
「……そっか。それなら、頑張るしかないね」
「うん。頑張るね、セイちゃん」
「応援してるよ。気が早いかもだけど、友達として」
「それはもちろん、もう友達だよ! これからたくさん、仲良くしようね!」
友達。
友達。
そのフレーズは反響し、どこまでも消えない残響を残す。
やっぱり私にとって、まだ友達は大事なもの。
だけど一方で、同じように夢を追うことはできないのかもしれない。
新しいつながりを持てたなら、きっと友達にはなれる。それは、そこまでは私は変化できた。
でも、そこまで。
それ以上には、なれない。
並び立ち競い合う存在には、なれない。
好敵手というつながりは、私の実力では結べない。
キングとも、グラスちゃんとも、エルとも、スぺちゃんとも。誰の好敵手にもなれないまま、私は古いつながりに固定される。
今あるものを育てられるとしても、新しいものは抱えられない。
立ち止まって、しまうから。
そう、諦め始めていた。
その後スペちゃんは宣言通り、チーム<リギル>への加入テストを受けていた。これまた屈指の才の持ち主である、エルと一緒に。
そこには早くもライバル関係がある気がして、また少し寂しくなった。
スズカさんに憧れたから、スズカさんと同じチームに入りたい。それはとっても単純な理由だけど、そう言えるのは立派だと思った。
それだけの理由で、あれほどまでに必死に手足を動かせるのはすごいと思った。
やっぱり、私とは違うと思った。
そんなふうにずっと遠くから、夕暮れに走るその姿を眺めていた。
傍観していた。
どこまでも、立ち止まっていた。
……結局テストではスぺちゃんはエルに負けて二着だったけど、そのあと紆余曲折あって<スピカ>というチームでスズカさんと一緒になれたらしい。想定通りのルートではなかったけれど、スズカさんと同じチームに入り、スペちゃんは見事に最初の願いを叶えたことになる。
すごいなあって、思った。
失敗した上で、それでも彼女は一歩進められたのだ。
それも、私とは違うこと。
一つの誤算から何も学べず停滞している、今の私とは。
そしてスペちゃんとエルがそれぞれのチームからデビューしたのは、それぞれのチームが決まって程なくしてのことだった。私がぐちぐちと悩んでいるのなんかとは対照的にあっという間で、そしてしっかりその世界に足を踏み入れられていたのも対照的だった。
残るは、私だけ。そう、焦りまで交えてまだ迷う。私に何が足りないのだろう。何日も何日も、そのことばかり考えていた。
期待に応えたい。その想いは間違いだっただろうか。いや、それは違うはずなんだ。だってトレーナーさんは、私のことを肯定している。やっぱり、期待している。
それならそれは間違いじゃない。……きっと他に、足りないものがあるだけだ。
一つ、浮かんだ考えがある。
ある意味では、スぺちゃんと同じ。想定していた通りじゃなくても、前に進む方法はある。
足りないものを埋められるかもしれない方法。
たった一つの冴えたやり方。
簡単だ。
今年、デビューしなければいい。
足りないものが埋まるまで、時間をかけて逃げればいい。
そうすれば、友達ではいられる。
みんなを応援する形で、友達のためになることができる。
そして遅れてデビューして、ほどほどの形で同じレースを競えばいい。
それくらい緩いのが、むしろ私らしいはず。
そうだ、それこそが正解のはず。
思いついてみれば、そんな気はした。
そうすれば、ようやく道は開ける気がした。
だけど、霧はいまだ晴れず。
決断への躊躇いの正体は、諦めたくないって気持ちだった。