完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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初のレースです


成長痛

 師走という言葉がある。ちょうど今の十二月、それを師走と呼ぶことがある。それは年末には誰かの師匠が走り回るくらい忙しい、という意味だったと記憶していたんだけど、どうやらそんなのはただの当て字らしい。なんで十二月のことを師走と呼ぶのか、それはもう誰にもわからないとか。

 だけど、師走という言葉はそのまま残っている。理由も意味もわからなくても、馴染んでいるからそのままにしている。なんとなく、定着している。

 今の私みたいな言葉だと、少し思った。

 寒空の包む年末の夜、寮の自室で一人暖を取る。今年が終わる間際になっても、結局私はデビューしていなかった。

 もちろんそれ以外には色々あった。チームに所属していて、学園にも慣れて。新しい場所の新しい日常、そういうものはできていた。気ままに緩くやろう、なんて私の当初の目的は達成されているといえるだろう。だから問題ない、そう言い切ることはできた。

 私がデビューしなくても、それほどのことではないんだって。

 

 同じクラスのウマ娘だからといって、みんなが同時にデビューすると決まっているわけじゃない。そのことは知っていたし、だから私が焦る理由は何もない。

 そういう決断を受け入れて、それでいいはずだった。

 キング、グラスちゃん、エル、スペちゃん。それだけ私に友達がいるということは、自分がいなくてもライバル関係は成立するということ。

 親しくしてくれる皆が鎬を削るのを、横からのんびり応援する。時には励まし、陰から支える。

 その方が、現実的かもしれない。

 その方が、私に相応しいかもしれない。

 私にとっての進む未来は、そうすることこそが正しいのかもしれない。

 だって。

 

「だって、私は期待なんか」

 ひとりぼっちの部屋でこっそりと口に出してしまったその気持ちは、これまで何度心で思い描いたものだろうか。幼い頃のあの日から、何度も。

 ここしばらく忘れていたぶん、その言葉はより痛かった。

 成長したと思っていたからこそ、なお一層。

 だけど、それはやっぱり変わらず私を縛るものだった。

 皆の期待を理由にしようとして、それではデビューできないと告げられたのだから。

 そんな私では足りないと、私はまだ相応しくないと断じられたのだから。

 だから、やっぱり私は期待というものに縛られている。

 今度は期待を受けたからこそ、縛られている。

 その期待に応えたいからこそ、応えられない自分が怖い。

 だから、諦めたい。

 期待されるのには自分は相応しくないのなら、その手をできるだけ優しく振り払いたい。

 だから、諦めたくない。

 やっぱり、どうしても、やっと手に入りそうな期待を手放したくない。

 でも、足りなかった。

 実力も覚悟も、きっと全然足りなかった。

 だから、どちらにも踏み出せない。立ち止まらないために、足踏みだけを繰り返していた。

 そんな夜だった。もう、何度目かは忘れたくらいの夜だった。

 私の変化と成長から生まれた、初めての苦悩だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様です! スカイちゃん、最近いつにも増して頑張ってませんか?」

 帰省でトレセン学園を一旦離れる子も多い年末だけど、そんな冬休みだってトレーニングはある。これも日常。どんな時も変わらない、当たり前。

 理由も意味もわからなくても、なんとなくやっているもの。少なくとも今の私にとっては、そのくらいのもののはず。トップロードさんには、頑張ってるなんて言われてしまったけれど。

 そうだとしたら、やっぱり諦めきれていないのだろう。

 曖昧に、まだ割り切れていないのだろう。

 私らしい、私の悪いところだ。

 

「そうですかね? 私目標とかないですし、トップロードさんほど頑張ってはないですよ」

「いえいえ、私はそんなっ」

「それなら私こそそんな、ですよ」

 

 その通りだ。私なんかより、他の誰かの方が素晴らしい。それが当たり前だ。

 たとえばたまに練習外でトップロードさんを見かけると、大体誰かに頼みごとをされたり頼りにされている。断りきれない人柄もあるのだろうけど、それをしっかり受け止められるのは強さだ。私にはないもの、だろう。

 だって私には、何も取り柄なんてないんだから。

 すべてがよくてほどほどで、期待には応えられないんだから。

 

「今年のトレーニングもあと数日! みんな、頑張るぞ!」

 

 相変わらずのトレーナーさんが、相変わらずの態度で練習を締める。

 トレーナーさんはあの時以来、デビューの話をあちらから振ってくることはなかった。

 まあ、それは私も同じ。トレーナーさんはきっと、忘れてしまっているだけ。

 取るに足りない、子供の願いだから。

 叶えるより、諦める方が近いから。

 ……そう、それならきっと、私からトレーナーさんに言わなければいけないことがある。

 この曖昧な状態から、前に進む必要がある。

 そのために、決断しなければならないことがある。

 たとえ、痛みを伴うとしても。

 しっかり、伝えよう。

 私の選択、私の覚悟。

 今年のデビューを、諦めるということ。

 だって、ダメだと言ったのはあなただ。

 私には期待に応える力がないと、それを指摘したのがあなただ。

 足りないものがあるって、私の焦りを引き留めてくれたのがあなただ。

 なら、私はあなたに伝える義務がある。

 分岐点に立ったのなら、後は進む道を選ぶだけ。

 そしてこれが、正しい私の行先だ。

 

「……あのね、トレーナーさん」

 

 あの時と同じように。

 あの時と違う意図で。

 そこに変わらず立つあなたに、私は震えそうな声を必死に押し留めながら言葉を紡ぐ。

 小さく、か細く。

 だけど、振り向いてもらうために。

 

「……どうした、スカイ」

 

 そして私が上げた小さな声に、きちんとトレーナーさんが反応する。

 まるで予感していたみたいに。

 最初から、期待していた、みたいに。

 なんとか一歩ずつ近づいて、汗だくの身体でトレーナーさんに寄り添おうとして。

 そんなわけないのに。

 これだけ近づいても、あなたの足元しか見る勇気はないのに。

 

「トレーナーさん、お話いいですか」

 

 それでも、徐々に顔を持ち上げて。

 せめて誠意を見せないと、私の諦めが肯定されない気がしたから。

 そうしてゆっくりと結論に向かう私に、短くあなたは声をかける。

 それに釣られて、私はその顔を見つめた。

 

「ああ。聞かせてくれ」

 

 ──そして、気づいたのだ。

 この人が私に向ける眼差しは、ずっと変わっていなかったことに。

 大きな大きな期待を、依然私に向けていることに。

 ……そうか、そうだったんだ。

 この人はあの日、私をただ否定したわけじゃない。

 足りないものがあるから、押し留めただけじゃない。

 私がその先を見据えられるって、乗り越えるべき壁をはっきりさせてくれていたんだ。

 それくらい、信じてくれていた。それくらい、期待してくれていた。

 なら、それを諦めるべきじゃないんだ。それは、肯定していい気持ちなんだ。

 それを肯定したその先に、もっと深くに、本当の答えがあったんだ。

 あの時掴みきれなかった、私の気持ちの正体。

 期待を受けて、それに応えたい。そう思うことも大切だけど、その芯には更なる気持ちがあったんだ。シンプルで、当たり前。だから見落としてはいたけれど、私が持ってていい気持ち。

 諦めたくなくて決断を迷ったのも、立ち止まりたくなくて決断を急いだのも、表裏一体ですべては一つ。

 一つの答えに、繋がっていた。

 私「が」、走りたいんだ。

 誰かのためだけじゃなくて、私自身がそれを望んでいるんだ。

 期待されて望まれて、そのことは確かに嬉しかった。

 だからそれに応えたいって気持ちでいっぱいだったけど、それだけで走れるわけがない。

 他人を裏切りたくないって優しさだけで、戦場に立てるわけがない。

 置いて行かれて、悔しいって思っていたんだ。

 並び立ちたいと願うのは、みんなだけじゃなくて私もだったんだ。

 焦りも期待も正しさの一部で、それらが示しているのが私自身の気持ちだったんだ。

 そう、だから走りたい。

 私は、走りたい。

 足りなかったものが埋まる感覚。夕日が少しも陰らないほどの一瞬で、私の思考は爆ぜて舞う。歓喜に打ち震えるように、心の底から熱を持つ。

 ライバル。好敵手。

 私がみんなから望まれたそれは、私からも望み返さなければ成り立たない。

 ライバルとは、互いのすべてをぶつけ合うもの。

 好敵手とは、互いの奥底まで見据えるもの。

 そしてそれならば、期待に応えたいなんて受け身な気持ちだけではダメなんだ。

 他者とのつながりを本当に大事にしたいなら、私の気持ちだって大事なんだ。

 伸ばされた手を握り返さなきゃ、手を繋ぐことはできないのだから。私が期待されるように、私もみんなに期待する。まだ見ぬ世界でまだ見ぬ姿を見せてくれるって、私は私の友達に、ライバルたちに期待する。

 その期待は当然のもの。何があっても疑いようもない。だって、みんなすごい子たちなんだから。気持ちを預けても大丈夫だって、そんなのはわかり切っているんだから。

 

 

 それが、私に足りなかったこと。

 私自身の望みを、しっかりと形にすること。

 他者に期待されるだけではなく、こちらからもしっかりと想いを向けること。

 ここにあるのは今気づいた気持ちだけど、今までの延長線上に存在する決断だ。

 これこそが、本当の正解だ。

 その逡巡は数瞬。

 あまりに大きな変化を伴う逡巡だったけれど、自分でも驚くほどの速さで思考は回っていた。

 その理由は単純明快で、今までの積み重ねがあったから。

 言語化して答え合わせをしただけで、こう思えていたのはずっとだったから。

 気づけて、よかった。

 そして、私は言葉を紡ぐ。

 今考えたばかりの言葉。

 ずっと思い続けていた言葉。

 どちらでも、よかった。

 先程まで考えていたものとはまるっきり正反対だけど、これもコインの裏表。

 デビューというものに対して真剣に考えていたという本質は、変わらないんだから。

 

「私、デビューしたい」

 

 私は、あなたの期待に応えたい。

 それもきっと変わらないから、告げるフレーズも変わらない。だけどそこにある心意気みたいなものは、方角を変えないままに強く深くなっていた。期待に応えたいという気持ちは、自分自身の欲求でもあるから。

 今まで悩んでいたのが行動じゃなくて全部気持ちの問題だと言われると、この男の根性論にちょっと似ていて癪なんだけどさ。

 でも、今の気持ちだから変われるんだ。

 今度こそ、先へ進むんだ。

 

「よく言ったな。それが聞きたかった」

「私、前と言ってること変わってませんよ?」

「俺にはわかる。俺は君のトレーナーだからな」

 

 まったく、それだけの理由で本当に見透かされていた気がするのだから、困ったものだ。

 理屈なんて見えるところには何もないはずなのに、それでも私がこの答えを出せるって信じていた。諦めずに、期待してくれていた。

 そう思うとそんな素っ気なささえ少しばかり嬉しいのだから、私もたいがい困ったやつだ。 

 そしてそのあとトレーナーさんが手早く持ち出して来たのは、なんと既に用意されていた私のデビュー戦の詳細。

 「あとはスカイの了承を得るだけだ」って、私がこのままデビューしたいって言わなかったらどうするつもりだったんだろう。トレーナーさんはやっぱりエスパーか何かかって呆れたけど、心を読んでいたというよりは無謀なだけなんじゃないかとも思った。

 ……まあ、いいか、どっちでも。過ぎたことを考えるのは、私の柄じゃない。

 わかることは、この人は一度デビューを断ったあの日からこの結末を疑ってなかったってこと。私が一度失敗するのも、そのうえで自分の意志でまた同じものを目指すのも、信じていたからこその不器用な言い回しだったってこと。私が正しい方向に成長できるって、それを諦めなかったってこと。

 そう、今の私はまた成長した。また一つ、前に進んでいた。

 トゥインクル・シリーズでデビューする、そんな一世一代の出来事にも相応しい人間になっていた。今の私なら、あの舞台に相応しい。みんなと肩を並べて競い合う、好敵手に相応しい。

 それは大きな変化だけど、そこに踏み出す私の気持ちはこの上なくシンプル。

 私も、走りたい。

 誰かに期待されるからだけじゃない、私自身が走りたい。

 応えるだけじゃなくて、己からも熱く求めている。トゥインクル・シリーズで、みんなと一緒に走りたい。

 そう、一緒にだ。

 同じ時間、同じ世界、それを共有して走るためには、今デビューするしかありえない。

 私が願う私の欲求は、私たちみんなで一緒の世界を駆け抜けることなんだから。

 私も含めたみんなで、一つの「世代」を創り上げることなんだから。

 ようやくやっと、賽は投げられた。ここからが、本番だ。

 この先にあるレースというものは、私にとって本当の未知。誰かの手を借りられるのは準備までで、その瞬間はきっと己自身との戦いになる。ひりつくほどの闘争心の中で、いかに己の持つものを活かし切れるか。そんな過酷な舞台がいよいよ間近に迫っていることに、不安がないわけじゃないけれど。

 でも、もう決まったことだ。そこに向けて用意する道具は既に決まっている。仕掛けだって、限られた中から自分で選び取るだけ。ならあとは、場にあるものをいかに活用するか。自分のすべてを活用して、最後は己を信じるしかない。今日のように行くべき道を定めるために、誰かの後押しやそれによる自身の新しい気づきがあったとしても。それによって定められた道を進むのに必要なのは、今までの私が得た積み重ねなのだから。

 だから、限界はある。たとえばレースの最中に新しい成長をするなんて、きっと滅多なことじゃできっこない。そこまでにあった積み重ねが私のすべてで、その時に使える限界だ。

 でも、限られたものの最大限を、知略を尽くして引き出し活かしてみせること。それは私の役割であると同時に、己に特別さを持たない私の領分だ。

 私にも、私だからできることだ。

 なら、立ち向かえ。今度こそ、私は正しい。

 

 

 

 

 

 

 

 冬風が吹き抜ける中山レース場。何度もみんなのレースをここから眺めてきた、もうそれなりに馴染み深い場所だ。

 けど今日は一つ違う。

 今日ターフに立つのは、私。そこが決定的に違う。

 心臓の奥から湧き上がる熱は、言葉ではどうにも言い表せないほど混沌としている。だけど、立っていた。今日が私の初めてのレース。

 一生に一度の、デビュー戦だ。

 五番人気セイウンスカイ。フルゲート十六人だての、大外枠。決して大本命ではないし、枠だってどっちかといえば恵まれてない。それはまあ事実。華々しくはない、脇役だ。

 多分ちょっと前の私なら、ここで期待されてないって嘆いてたところだけど。

 

「セイちゃーん、頑張ってー!」

「スカイさん、負けたらただじゃおかないわよ!」

 

 精一杯の応援をしてくれる、スペちゃんとキング。そしてその横でじっと、私を見据えるグラスちゃんとエル。観客席の最前列にいるその姿は、芝の上からでもしっかりと見えた。

 こんな私が期待されてないなんて、そんなことは言えないや。

 

「……あ」

 

 そしてクラスメイトのみんなとは少し離れたところに、トレーナーさん含めたチームの人たちがいた。その中でも腕組みして太い眉を微動だにさせないトレーナーさんは、本当いつも変わらないなって思う。

 まあ、見ててよ。

 どんな気持ちで見守ってるのか全部はわからないけどさ、一つわかることはある。

 

「各ウマ娘、揃ってゲートに入ります」

 

 ──あなたが私に、期待してくれてるってこと! 

 

「スタートしました!」

 

 がこん! とゲートが開く。待ち侘びたように一斉に、私も周りのウマ娘も飛び出す。さて、まずは前目につけて……。

 そう思って、今広がったばかりの視界にしっかりと目を向けると。

 

(……わぁ)

 

 ぎりぎり口から声が漏れるのを抑えた。レース中ってことを覚えてなきゃ、そこで立ち止まってしまったかも。どこまでも続いていそうな新緑が、私に走れって言っている気がした。

 芝の上を思いっきり駆ける感触。

 風を切るひんやりとした感覚。

 何もかもが、嬉しくて。

 新鮮で鮮烈で、だけど優しく私を出迎えて。

(私、走ってるんだ)

 皆と同じように、走り出せたんだ。その実感が私に活力をくれる。これなら、どこまでも走れそう。まあ、ゴールまでの距離なんて一瞬なんだけどね!

 第二コーナーを回ってもうすぐ第三コーナー。うん、これなら! 

 

「そおりゃあぁ!」

 

「第三コーナーで先頭に立ったのはセイウンスカイ! そのままぐんぐん差を広げていきます!」

 抜けて、抜けて、後続を全員突き放す。

 今までの練習も悩みも、とりあえず今日は今日のために注ぎ込もう。

 考えるのも楽しいけれど、こうやってただひたむきに走るのもとっても楽しいんだから。

 それに、それになんといってもさ。

 

「セイウンスカイ、一着でゴールイン! 五番人気セイウンスカイ、なんと二着に六バ身差をつけての勝利です!」

 

 だって今日は、とびっきりの快勝!

 文句なんて一つもつけようもないくらい、こんなにいい日なんだから! 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間から、観客席からは大きな歓声が上がっていた。そりゃあもっと大きなレースはいくらでもあるのだろうけど、それでもこれも初めてのものだった。私は自分に向けられるそれを文字通り全身で浴びていて、それを体の外側で受けながら心の内側で初勝利を何度も噛み締める。

 私、勝ったんだ。

 私、勝てるんだ。

 こんなにたくさん、認められるんだ。

 ずっと歓声を浴びていると、なんだかみんなが私に「走っていい」って言ってくれている気がした。これから先に、期待してくれてる気がした。そうして、褒めてくれている気がした。全部全部、私自身が掴み取った、私が欲しかったものだった。

 

 トゥインクル・シリーズを目指してよかった。改めて、そう思った。

 そしてその先にあるだろう未来の出来事は、きっともっと楽しいんだ。

 今日は一つの区切り。

 私がまた、成長できた日だ。

 

「あ、トレーナーさん」

 

 ライブを終えて控室に戻ると、トレーナーさんが待っていた。真ん中に陣取って、椅子にも座らず仁王立ちしていた。そんないつも通りの、多分私が苦手なままの、そんな人に私の方から声をかけるなんて、今日の私はテンションが上がり過ぎてどうかしてしまっているのかも。

 まあでも、ちゃんと返事はしてくれた。

 

「お疲れ様、スカイ」

「うん。勝ったよ」

 

 そう口にすると、また万感の想いがこみあげてくる気がする。

 やっぱりどうしようもなく、嬉しいや。

「そうだな。次はジュニアカップだ。これからも練習を怠るな!」

 だけど、トレーナーさんはそれだけ言って、いつも通りのままで部屋を去っていく。相変わらずだなあ、と思った。変わらない態度。

 感想なんかより次のレースだって、そんないつもの「正論」。私は結構喜んじゃってるけど、トレーナーさんはそうじゃないのかな。私が強いのはわかってたから予想通り、みたいな感じなのかな。それは確かに信頼の形で、期待に応えられたということでもある。そうあれたのは嬉しくはあった。勝利の喜びだけで十二分なのだから、トレーナーさんからもらえるものはそれくらいでもいいのだろう、とは思った。

 ……でも。それでも一つ、誰も聞いていないから呟いてしまうのは。

 

「もうちょっと、褒めてくれたって」

 

 そう、思ってしまっていた。

 褒められたい、なんて。

 子供っぽい願いだ。

 子供っぽいから、諦めた願いだ。

 そう思ってかつて別れを告げた気持ちが、私の中で少し芽吹く。

 新しい幸せを知ったからこそ、古い気持ちが顔を出す。

 私自身が何かを望めるようになったからこそ、再びその願いは廻り巡る。

 変化とは、何かを捨てて新しくするばかりじゃない。

 時には古いものを思い出させるのだと、そういうことなのかもしれない。

 褒めて、ほしい。

 私の成長が生んだ心の空白に入り込んだのは、そんな古傷のような想いだった。

 

 

 

 

 

 

 続くジュニアカップでも私は勝った。開幕から逃げを打って、そのまま全員引き離して五バ身差の圧勝。私ってやれるじゃん、そんな風に考えたって無理はないと思う。まあ、かなり得意げになってしまう権利はあると思う。次の勝利もやっぱり、とっても嬉しかったし。

 だけどトレーナーさんは、相変わらず褒めてはくれなかった。

 次も頑張るぞって、それだけ。

 勝利の喜びは二度目で更に大きいものになったけれど、褒めてもらえないことへのちくりとした感覚もまた大きくなっていった。

 まあ何はともあれそんな感じで、私はあれよあれよという間にクラシック有力候補の一角となった。期待なんかされていなかったはずの私が、いつの間にか多くの注目を集める存在になっているということ。それはつまり、次のレースはさらに重みを増すということ。

 勝利の重みも、敗北の重みも、だ。

 

「皆さん、弥生賞は頑張ってくださいね~」

「グラスちゃんありがとう! 次の弥生賞、頑張ってみる!」

「私もー。よろしくね、スペちゃん」

「はい。二人とも、応援していますよ」

「ちょっとグラスさん、私も出るわよ!」

「もちろんキングちゃんも、いーっぱい応援してますから~」

 

 次のレースは、弥生賞。そこには三つの重要なポイントがある。まず、私にとって初めてのGⅡレース、すなわち重賞。今までとは明確に一段違う。注目度も、出走ウマ娘の顔ぶれも。

 そして、その顔ぶれこそが二つ目。この弥生賞で待っているのは、キングヘイロー、スペシャルウィークとの対決。いつも仲良くしている友達と、いつか誓った対決の時。その最初のぶつかり合いが、弥生賞で行われる。キングは臆するそぶりも見せずいつも通りだけど、スペちゃんは緊張による寝不足なのか目の下にクマができている。

 ……私も他人の心配をできる状態じゃないけど。ジュニアカップのあとから、膝裏の違和感が抜けない。そんな身体の違和感を気にしてしまう裏には、やはり気持ちの問題もあるのだろうけど。まるで不安が形になったみたいに、脚の違和感が響いている気がする。

 ……それでも、走らないわけにはいかない。

 

 だって、期待されている。

 だって、走りたい。

 だって、そんな舞台だからこそ、勝ちたい。

 それが、最後のポイント。この弥生賞は、前哨戦として位置づけられている。レベルの違うレースでありながら、さらにその先があることをこれ以上なく示すものでもある。

 トゥインクル・シリーズにおいて、一生に一度しか挑戦できないクラシック戦線。そしてその花形たる、クラシック三冠。

 そんな最高峰のレースの幕開けを告げるのが、四月にある皐月賞。きっと誰もが夢見るその舞台へのイントロダクションとなるのが、全く同じコースと距離条件で行われる弥生賞なのだ。

 だからそう、これは大きな意味を持つ戦いとなる。

 トゥインクル・シリーズを共に駆ける、私たちの「世代」の始まりだ。

 

「グラース! アタシたちも次のニュージーランドトロフィーで対決デス! もちろん勝つのは! そう!」

「はいはい、お手柔らかにお願いしますね〜。負けませんよ?」

「最後まで言わせてくださーい!」

 

 エルもやってきて、教室の一角にある私たちの塊はわちゃわちゃしてきた。

 でもそっか、グラスちゃんとエルも直接対決を控えている。私たちはそれぞれの道を行くけれど、次第にそれが交わりだす。いよいよ、私たちの直接対決が始まるんだ。

 少し前まで一歩引いて見ていたその場所に、今は私も居る。私には、それだけの期待がかけられている。それに見合う走りを、できている。

 それはとても嬉しい。緊張するし、怖いところもある。

 けど、嬉しい。

 ターフを駆けるということに込められたさまざまの意味合いが、全部嬉しい。

 だから。だからこそ。

 

(負けないよ、二人とも)

 

 絶対に、次のレースは負けられない。今までだってそうだけど、次はより苛烈な戦いになるとしても。それでもそう、心の中で宣言する。

 きっとそう思っているのはキングもスペちゃんも同じだと、そんな確信があった。

 だって、私たちはライバル。

 互いを強く強く意識しないなんて、相対する相手に何が何でも勝ちたいと思わないなんて、絶対にありえないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弥生賞の日はあっという間にやってきて、もうすぐコースに向かわなければいけない。

 そんな状況の、控室。慣れたものというにはまだ回数が浅いし、きっと永遠に慣れ切ることはないだろうとも思う。

 勝負の前の時間なんて、どうしても緊張してしまうものだ。

 弥生賞に向けて、たくさんトレーニングを重ねた。いつも通りから回数が増えただけといえばそうなんだけど、それでもトレーナーさんが私のために厳しくやっているのはわかった。

 足裏の違和感は、結局消えないままだったけれど。それでも不器用なりに、トレーナーさんが尽くしてくれたのはわかった。期待してくれているのは、わかった。

 だけど、だった。

 それでもそこにあるのは、どこまでも期待だけなのだろうか。

 褒めては、くれないのだろうか。

 私は間違いなく、前に進んでいた。

 間違いなく、新しい世界に一歩踏み出していた。

 でもだからこそ、かつて閉じ込めた気持ちが膨らみ続けていた。

 だって今確かに手の内にある感覚のいくらかは、かつての私が欲しかったものだから。

 それに呼応するように、一番幼い望みが私の心の中でうずく。

 古傷が、痛んでいる。

 まるで身体の成長で肉が引っ張られて、塞がっていた傷跡が開いてしまうみたいに、だった。

 でも、やろう。その悩みも、足を止める理由にはならない。むしろ足を止めていないからこそ傷口が開くのなら、やっぱり私は今の自分を楽しめているんだ。これはその副作用みたいなもの。そんなものに気を取られていたら、今日の勝負は勝てないし。

 そしてあっという間に時間は来た。

 部屋を出て、ターフへ向かう。今は、これがすべてだ。

 

「今日は初めての重賞だな、セイウンスカイ」

「それ発破ですか、脅しですか?」

「無論発破だ! スカイならやれる」

「またまた、根拠のない」

 

 地下バ道を歩いているあたりで、珍しくトレーナーさんがレース前の私のところにやってきた。言動は相変わらずだけど、なんだかんだで心配なんじゃないの、なんて思う。

 トレーナーさんにとっても、重賞というのは今までと違うものだということか。そう、重賞ともなれば、背負う重圧はそれまでのレースとは桁違いだ。

 そしてそれは今日出走するウマ娘すべてに言えることで、だから皆が絶対に負けられないと思っている。

 それでも勝負は残酷で、誰か一人しか勝つことができない。そのことも、皆が知っている。

 けれど。

 

「勝ちますよ、今日も」

「その意気だ」

 

 たとえどんな舞台であろうと、勝利を目指さなければ勝利は得られない。それは当たり前。そして当たり前だからこそ、意識しなければ見落としてしまう。

 私なりの、覚悟の宣言。それを、一番近くで私に期待をくれる人に向けた。

 負け知らずで迎えた三戦目、その点において私はキングやスペちゃんより経験が少ない未熟者。けれど未熟であることを、勝てない言い訳なんかにしたくない。だから、私は改めて宣言したのだ。今日も勝つ、と。

 敗北を知らない幼ささえ、転じて武器にしてやるのだ。

 

「じゃ、行ってくるよ」

「行ってこい!」

 

 ばん! と、私の背中を強く叩くトレーナーさん。押し出されるように飛び出して、私はすべての運命を決めるターフへと駆けてゆく。少し、駆け足で。

 それはもちろん今日のレースが、いつもよりも重大で厳しいものだというのはあるだろうけれど。もう一つ、きわめて個人的なものだけど、私だけが抱えるこのレースへの想いがある。

 それは、トレーナーさんの態度の違い。

 僅かだけど、確実に。

 心の動きが垣間見える、この人なりの緊張。それは多分担当ウマ娘にとって初めて挑む重賞だからって、そんなありふれた理由でのものかもしれないけれど。

 それでも、それなら。

 もしかしたら、今日勝ったなら。

 褒めて、くれるかもしれない。

 そんなどうしようもなく子供っぽい願いが、私からあなたへの期待だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「期待してもらってるとこ悪いけど、私は今日もゆるっといくよー」

 

 そうのんびりと宣言してからゲートインすると、それを起点に聞いたことないくらいの大きな歓声が巻き起こる。今日の私はキング、スペちゃんに次ぐ三番人気。

 私がここまで来れるなんて。期待して、もらえるなんて。

 ついついそんなことは気にしないふりをしてしまうけど、応えなきゃ、って思う。嬉しいなって、思う。向けられる注目が、私の自信に変わる。

 そうこうして若干の暇を噛み締めていると、一際大きな歓声が。スペちゃんがゲートに入ったんだ。見なくてもわかったけど、ちゃんとそっちを向いて挨拶する。

 

「お手柔らかにねー」

「は、はい!」

 

 ありゃりゃ、ガチガチだ。私はこんなにゆるっとしてるように見せかけるくらいはしているのに。でもスペちゃん、走り出すと雰囲気変わるもんね。

 だから、油断はできない。

 紛れもない、ライバルなんだから。

 そうだ、忘れてた。そういやキングは……。そう思って既にゲートに入っていたキングの方を向くと、あちらから話しかけてきた。敵意バチバチで。

 

「スカイさん。一番人気は私が貰ったわ」

「そうだねー。流石キング」

「……けれど、人気で勝っただけじゃ意味ないのよ」

 

 そう言って、キングは口をつぐむ。キングが今思い返しているのは、前回のレースの敗北だろう。だけどやっぱり、だからこそキングは強い。前のレースの負けを、今の糧にしている。今日は負けない、そういう執念に変換している。

 やっぱり君も、私のライバルに相応しい。

 

「各ウマ娘、ゲートイン完了しました!」

 

 おっと、いよいよだね。友達との、ライバルとの初めての対決。恨みっこなしとか、そんな甘っちょろいことは言ってられない。そんなのは当たり前、むしろ恨まれようが何だろうが。

 

「本日のメインレース、弥生賞! 一斉にスタートしました!」

 

 何がなんでも、今日は私が勝つ!

 がこんとまた独特の音が鳴って、それが幕開けの合図だった。

 

「セイウンスカイ、ハナを進む!」

 

 ジュニアカップと同じく、私は逃げの一手を打つ。気ままに走って、場を支配する。前回のレースでわかったのは、私にはこれが一番合っているということ。キングもスペちゃんも、終盤の切れ味は私以上。競り合いになれば負けてしまうし、ラストスパートにすべてを賭けるのは性にも脚質にも合わないのだ。

 だけど、だから勝てないってわけじゃない。競り合いじゃ勝てない? ここ一番の切れ味勝負じゃ勝てない?

 

 ならば、それを踏まえて勝つ方法を考えればいい。難しい命題に見えて、話はとても簡単。終盤に入る前に、既に勝負を決めてしまえばいい! 

 どこどこと、蹄鉄の音が背後から。先頭を行く私の後ろから、誰かが迫ってくる。けれどそんなのに追い立てられて焦っちゃいけない。この少し速めのペースなら、今追いつこうとする子は無理をしているだけ。私に乗せられた哀れな魚で、私の脅威じゃない。

 勝負は次、第四コーナーを越えた先。そこまで用心深く自分のペースを守ってる相手こそ、私がもっとも注意しなければならない存在。

 だから、勝負は終盤。あと僅かなそこまでに、どれだけ逃げ切れるか!

「第四コーナーを回って坂を登る! セイウンスカイ、依然先頭です! ……おっとここで!」

 ……来た! この足音、気迫、振り返らなくたってわかる!

 やっぱり来た、君が今日の最大の敵! 

 

「スペシャルウィーク! スペシャルウィークが迫ります!」

 

 ものすごい勢いで迫りくる、深く強靭な蹄鉄の音。

 今まで何度か外から見てきた、スぺちゃんの猛烈な差し切り態勢。

 それを今、私は一番近いところで感じていた。

 ……荒々しい嵐の海のような勝負だけど、それでもこの瞬間も楽しい、楽しいなあ!

 さて、この坂が正念場。第四コーナーのあと、本当にゴールの寸前に待ち受ける坂路。登るだけで精一杯、ここまで逃げを打った私にはそう体力なんて残ってない。

 でもそうなっても大丈夫なように、ここまでリードしてきたんだ。最後の瞬間に勝つために、そのためじゃなきゃどんなに今までハナを進んでても意味なんかないんだから。

 負けない、負けたくない。

 いや、それじゃあ気持ちがまだ足りない。

 私は、私が、勝ちたいんだ!

 もう少し、坂を登りきればすぐそこにゴールがある。逃げろ、逃げろ!

 

 最後の速度で勝てないのは当たり前、でもそれは全力を出さない理由にはならないんだから。

 このまま、あとほんの少しだけ──。

 だから、ギリギリだった。

 ギリギリ、だけど。

 

「スペシャルウィーク! 並んだ並んだ! そのまま差し切ってゴール! 一着はスペシャルウィークです!」

 

 ギリギリ、負けた。

 私にとっては、初めての敗北だった。もちろんそれは、結局経験が少ないからだけど。それでもぎりぎりの二着なんだから、期待に応えられるくらい健闘はしたのだろうけど。

 だけど、負けた。

 その事実は、また私を成長させてくれるとしても、だ。

 割れんばかりの大歓声を浴びるスペちゃんは、眩しくすらあって。

 そこに立つのは私でありたいと、どんなに眩しくてもその姿を見つめて。

 

「流石ね、スペシャルウィークさん」

「……キングもお疲れ様。いやー、今日は仕方ないね」

「あなた、そんなすんなり受け入れたふうには見えないけど」

「キング、人のこと心配してる場合? それに、皐月賞はすぐそこだよ」

 

 でもキングが心配したように、もしかしたら私の顔は結構みっともない表情をしてたかもしれない。

 初めて、だったから。

 初めて、ライバルと戦ったから。

 初めて、重賞の舞台に立ったから。

 そして初めて、負けたから。

 初めて、悔しいって思ったから。

 次は負けないって、思ったから。

 ……ああ、勝ちたかったなあ。

 だけど私が自分で言った通り、皐月賞は、さらなる戦場はすぐそこだ。そこでもう一度、私とキングとスペちゃんで競い合うことになるだろう。私たちはこれから何度もぶつかり合うライバルで、今日はその緒戦に過ぎない。一度では決まらないし、満足だってするわけない。

 そうだとしても、やっぱり悔しいけど。敗北は、痛いものだけれど。

 だけど、それもまた変化の一つ。これも、なかったことにはできない積み重ね。

 なら、その先を見よう。この痛みの先の、次の戦いへの準備を始めよう。

 次を見据えられなければ、未来はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 弥生賞の次の日、私は夜まで自主練をしていた。トレーニングが休みなのにトレーニングするなんて、昔の私からは考えられない。

 けど私の頭の中は、「どうすれば勝てるか」でいっぱいだった。だって弥生賞では、それが得られなかったのだから。勝利の喜びの代わりに、敗北の悔しさでいっぱいだったのだから。そして、褒めてはもらえなかったのだから。

 「次こそ勝つぞ」それだけしか言ってくれなかったのだから。

 皐月賞までそれほど時間はない。私にそれなりの素質があったとしても、それだけじゃ勝てなくなる。それが昨日の結果だ。それじゃあ、期待に完全には応えられない。

 私が望むものは、手に入らない。

 もっと、もっと強くならなきゃいけない。

 時間は少ないけれど、それでも変化を求めなきゃいけない。

 成長、しなきゃいけない。やっぱり、まだ発展途上なんだから。

 今の私が、勝つためには。褒められるためには、それに足りないものは──。

 

「こんばんは、セイウンスカイ。脚は大丈夫なのかしら?」

「……はい。どちらさま、でしょうか」

 

 不意に私に話しかけてきた、知らない声があった。人気なんてあるはずのない場所で、知らない女の人の声が私に呼びかける。

 そちらを振り向いてみると、やっぱり知らない顔。背中の半分くらいまで真っ直ぐ伸びる茶色の長髪を湛えた、綺麗な大人の女の人だった。

 誰だろう、私に何の用だろう。その目的はわからないはずだけど、わかることはあった。その女の人が声をかけてきたのも、きっと私に何かを見出したから。変化を重ねて、成長していたから。私はそれだけ、前に進んでいる。たとえ今、敗北というものを食いしばるように噛み締めていたとしても、だ。成長には痛みが伴うもので、痛みから前進を実感することもできる。

 だから、予感はあった。その女の人が自己紹介を始める前から、その言葉が私に手を差し伸べるものだという予感が。前に進ませてくれると、なんとなく直感した。

 ──トレーナーさんと、同じように。この出会いにも、意味があるのだと。私にとっての、大きな意味が。

 

 勝ちたい。その気持ちは揺るがない。強く強く、より強く。

 紛れもなく私は前に進んでいて、この敗北も立ち止まる理由にはならないんだ。

 それじゃあ、満足できないんだ。

 加速度的に、私は成長しているんだ。

 そのことは、もうよくわかっていた。

 だから悔しさをばねにできるし、まだ子供の願いを抱えている。

 褒められたいって、思っている。

 だけど同時にもう一つ、私は理解した。

 前に進む選択肢は、私にとっての正解は、私を輝きだけで埋め尽くすことはない。時にはその身を引き裂くような痛みをも、私に刻み込むこともあるのだと。

 そんな夜だった。静かに話を始める私とその女の人を、天頂のスピカがきらきらと照らしていた。スピカから連なるてんびん座が、神話の通りに正しさというものを推し量っていた気がした。私にとっての、正しさを。進むためなら痛みすら許容する、そんな正しさを。

 それは紛れもなく、私にとって成長を促す前向きな変化。だからこそ、痛かった。

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