完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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ターニングポイント

 もぞもぞとベッドから起きて、乾いたまつ毛ごと寝ぼけ眼を擦る。薄い薄い壁を作る目蓋をこじ開けて、私の瞳と世界を繋げる。ピントの合わない視界に、朝の日差しが突き刺さる。脳みその奥まで入ってくる光は、曖昧な私の意識を覚醒へと導く。うん、ちゃんと早起きできた。

 そのまますっくと立ちあがり、身体全体をぐっと伸ばして目覚めさせる。睡眠中の体温を写し取った温かい寝巻きから、クローゼットの中に閉じ込められてひんやりとしていた制服に着替えると、気持ちも引き締まる気がした。

 そう、確かに引き締めた。大切な、それだけの理由があったから。眠ることが三度の飯より好きなセイちゃんが早起きするだけの、なんて表現をすると大したことがなさそうにも思えてしまうけれど。

 それでも私が目覚められたのは、それなりの理由があるからだから。

 

「お、珍しいね。あのセイウンスカイが早起きとは」

「おはようございます、ヒシアマさん。ちょっと今朝は早めの用事があって」

「おはよう、スカイ。昨日も遅かったし……あんまり無理するんじゃないよ」

「わかってますって。そもそも私は、頑張ったり無理するタイプじゃないですし」

「アンタが自分でそのつもりなら、いいんだけどね」

 

 早めの時間に玄関口に向かうと、その途中で寮長のヒシアマさんに声をかけられた。その会話の通り、どうやら最近の私はこの人から見ても珍しいらしい。「無理するんじゃないよ」、だって。私にとって無理するなんて、自分の辞書には載ってないくらいに縁遠い言葉だと思うけどね。もっとも私がそのつもりでも、他の人から見れば私はだいぶん頑張ったり無理したりしちゃってるみたいだけど。

 

『スカイちゃん、頑張ってますね』

 

 そうあの人は、私を認めた。

 

『セイウンスカイさんには、頑張りつづけてほしいです』

 

 そうあの子は、私に痕を残した。

 

『セイウンスカイ、諦めるな』

 

 そしてそうあの男は、私の理由になった。

 ……やれやれ、チームのみんなは私をなんだと思っているのやら。私のどこにそんなものが見えるのか、私自身にはさっぱりわからない。自分の目線じゃ、視界じゃ捉えられない。だから、確かめなきゃいけないよね。私は、私の価値は、どこに預けるのが正解なのか。子供にはわからないことを導いてくれるのは、きっと大人の役目なんでしょう?

 寮の玄関まで来ると、まだ春になりきらない空気が私の指先に触れる。

 内と外が、区切られているのだとわかるように。

 この扉を開いた先にある世界は、未知のものだと告げるように。

 この一歩も、先の未来に進むものだと信じられるように。

 

「どうなる、かな」

 

 そんな独り言とともに、私はゆっくりと扉を開けた。

 少しばかり寒かったけど、身震いも立ち止まりもしなかった。

 私は歩く。何度も何度も繰り返した道を。私は駆けてゆく。朝からあんな小さくて薄暗くて狭苦しい部屋にいるだろう、あの人のところへ。

 もっぱら朝釣りくらいでしか朝に外出なんてしないけど、こうして久しぶりに出てみたら、やっぱり朝って寒いなあ。いつもならこの時間は布団でぬくぬくしてるのに、今は脚をぐるぐる回してる。半袖の制服とその下の貧相な下着だけじゃ全身を寒さから守ってはくれなくて、熱っているのは身体の中心だけ。手先はかじかんで、心はびくびくしている。

 それをひとまず解消するためにあの部屋に向かうのだろうけど、その先のゴールが私の内側まで温め切ってくれるかなんてわからない。

 むしろ全部凍てつかせてしまうのか、それさえわからない。それでも、だ。

 がちゃり。その部屋の扉を開いても、内の空気は暖かくはなかった。だけど、目当てのものはあった。その人がいたぶん、少しだけ私は暖かくなった。

 

「おお、スカイ。朝練か? 感心だな!」

「おはようございます、トレーナーさん。私は朝練なんかしませんよ」

 

 くすんだ窓の外からの朝日が、舞い散る埃を光の粒子みたいに照らしている、いつもの部屋。相変わらずの太い眉、白い歯、暑苦しさ。相変わらずそれを携えたまま、相変わらずこの部屋にいた<アルビレオ>のトレーナーさん。やっぱり苦手で、それでも私のことを見てくれる人。期待して、信じ続けてくれる人。私がどんなに揺れ動いても、この人は変わらないなら。

 

「それより大事な、お話があるんです」

 

 子供の私が迷っても、大人のあなたは動じないのなら。

 

「なんだ。言ってみろ」

「……うん。実は──」

 

 お願い。いつものように、私を導いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日のこと。あの夜のこと。柄にもない自主練をしていた私のところに、一人の女の人が声をかけてきたこと。私がトレーナーさんに話し始めたのは、そんなまだ鮮明な記憶。

 寝ても覚めても消えない、どうしても飲み込めない記憶だった。

 

「自己紹介がまだだったわね。私はチーム<デネブ>のトレーナーよ。弥生賞の結果を受けて、あなたに話があるの」

「話、ですか」

 

 薄いブラウンの長髪を軽く手で払いながら、その女性は自らの素性を述べる。チーム<デネブ>のトレーナー、そう名乗る。そしてその上で、その立場で私に話があるのだと、そう告げる。弥生賞での敗北を踏まえてだというのなら、何を言いたいのかはきっと想像できることだったと思う。

 でも、その時の私は。

 

 

「単刀直入に言うわね。あなたは<アルビレオ>には向いていない。うちのチームに来れば、もっと伸びる」

 その発言を、完全に予想外のものとして捉えていた。私なんかにはありえない、考えもつかない選択肢。あるいはきっと、考えたくもなかったやり方。

 どこまでも停滞を愛おしんでしまうのが、私という人だったから。

 

「それ、引き抜きですか? 私なんかを?」

「そう受け取ってもらって構わないわよ」

 

 いつかの私が言った言葉が、自分自身に突き刺さるように追想される。このチームのトレーニングには理論がない。根性論なんて、私には似合わない。そう言っていた、昔の自分を。

 私がいくら変わったとしても、根本的には相容れないままだったのかもしれない。いつのまにか生まれた居心地の良さだけを理由にして、私はそれを誤魔化していたのかもしれない。

 

「<デネブ>の指導は理論と技術を重視する。あなたの座学の成績は見たわ。特別秀でていたのが、コースの構造や走りにおける基礎知識についての深い理解。そういうことについてしっかり頭の回る子なら、私たちのやり方の方が向いていると思う。それにセイウンスカイ、これは<アルビレオ>のためでもあるの」

「チームのため、ですか」

 

 それも、意外な言葉だった。<アルビレオ>を離れることが、その方がみんなのためになるなんて。ありえない、そう思ったのは否定しない。だけど次に<デネブ>のトレーナーさんが述べた理屈は、私にも理解できるものだった。

 

「私もチームを率いる一人のトレーナーとして、わかることがあるわ。たとえどんな形でも、チームメイトが勝利すれば嬉しいものよ」

「理論だなんだと言っといて、情に訴えかけるのは卑怯ですよ」

「……ごめんなさい」

 

 謝罪されるのも当然だと思うくらいには、ずるい理屈だ。

 でもだからこそ、それはこの人の本心なんだと思った。今までのすべてが私のことを心から案じての発言。そのことはなんとなくこの短いやり取りでもわかった。この人もまた、私に期待してくれているのだと。そこにあるのもきっと限りなく、真摯な言葉なのだと。

 

『俺は俺の目を信じている。君は『走る』と』

 

 あなたと、同じように。そしてそうやって一つ思い出せば、そこから次々と記憶が連なった。それは覚えている。今朝と同じだ。そして今トレーナーさんに語る時も、また。何度も何度も、痛みが芯まで迸るように。

 

『本当、見違えちゃいましたね! 私も負けてられないなあ……』

 

 トップロードさんのことも、そうして思い出しちゃった。今朝のそれは昨日の夜のリフレイン。まったく同じ、思い出しに連なる思考も同じ。それだけ、大事。それだけ、進めていない。ここで提示されている選択肢は、私に先があると示すものだとはわかっていたのに。それからチームメイトのみんなのことが、次々に思い出されて。

 そして、最の一人まで。

 

『セイウンスカイさんには、頑張りつづけてほしいです』

 

 あの日チームを辞めていったあの子のことも、私の脳裏を掠めた。ああ、参っちゃうな。そう思った。今も、そう思っている。昨日も、今朝も、この瞬間も。

 私をみんな支えてくれて後押ししてくれているのに、私自身はそれを鎖へと変えてしまっている。だから、悩んでしまう。正解がどれなのか、わからなくなってしまう。

 私一人では、進むことはできないんだ。

 

「急かしてしまったみたいね。すぐにとは言わないわ。けど皐月賞を見据えるなら、なるべく早く回答を頂戴。あなたのためにも、<アルビレオ>のためにも」

「……わかりました」

 

 私の沈黙に込められた意図を汲み取って、それだけ告げて<デネブ>のトレーナーさんは去っていった。

 私のしっぽと、心がそこに残されて。一人ぼっちで闇の中、孤独に揺らめいていた。

 合わないチームから乗り換える、それが勝つために必要なこと。結局それが、告げられた「正論」。でも、そんな正論に抵抗する言い訳ならいくらでも考えられた。いつもやってるように、曖昧に逃げられるはずだった。面倒だとか、そこまでして勝ちたくないとか。

 けど本心を覆い隠すような上辺だけの緩さはもう、私から出てくる言葉じゃなかった。そこまで進んだ、成長した私には言えなかった。

 その瞬間の私から出てくる、ただ一つの否定の言葉は。

 

「私、<アルビレオ>にいたいよ」

 

 そう、夜空にだけ告げたのだ。春の大三角の先端には、いまだスピカが煌めいていた。正しさを断ずるてんびん座の一等星が、ずっと私を見定めていた。

 まるでこのままじゃ勝てないままだと、私に正しい道を突きつけていたかのようだった。

 それをわかっていたのに選べないのが、どこまでも私の幼いところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──と、そういう話が持ちかけられたんだ」

 話した。

 私が抱えてしまったものを、抱えきれなくなったものを、すべて話した。

 チーム<デネブ>からの引き抜き打診のこと。

 皐月賞でのライバルたちは、更に強くなるだろうこと。 

 そしてそれらを受けて私自身がどうしたいのか、一人では決められなかったこと。

 トレーナーさんは、黙ってそれを聞いてくれた。誰かに吐き出せただけでも、救われた気がした。だからどんどんと、素直な想いが空気に溶けていく。

 

「私、勝ちたいよ。勝ちたいけど、それってどこまで手段を選べばいいのかな」

 

 チームのみんなだって、移籍してもきっと応援してくれる。そのことだってわかるからこそ、私は答えを出せなくて。どちらを選んでも、きっと完全な過ちにはならない。

 だけどどちらかを選ぶのなら、確かに分かたれるものがある。

 その決断は重くて、私なんかにはきっと不相応で。

 それなのに、それだけのものを背負っている。

 今の私は、期待されているんだ。

 

「みんな善意で、私に期待してるからの行動なのに。私はどれかを選んで、それ以外を裏切らなきゃいけなくて」

 

 想うそばから、溢れていく。期待故の行動、それは<デネブ>のトレーナーさんだってそうだ。私のことを思っての、私の勝利のための行動だ。

 そう、全部期待されているからなんだ。

 私が望んだ、その先に当然待ち構えているものなんだ。

 私は期待されたいとばかり思っていて、期待されたあとの重荷のことまで考えが及んでいなかった。応えるべきものへの、大きな大きな精神的な重圧。プレッシャーという今までの私が逃げつづけてきたものに、初めて逃げ場なく直面していた。

 だからこれもきっと必要。初めての壁なら、越えなければいけないのに。

 

「ねえ、トレーナーさん。私はどうすればいいのかな。……私には──」

「セイウンスカイ」

 

 わからない。それだけしか言えない。

 どうしても、私には決められない。

 どれほど言葉を並べても、最後の結論だけは出せない。

 そう、言い切ってしまうところだった。ある種の諦めを、口にする寸前だった。

 それを遮るように、トレーナーさんが口を開いた。

 私に、諦めさせないために。

 

「心配するな。俺を信じろ!」

 

 それだけ、勢いよく言い切って。ぽんと私の肩に軽く手を置いて、トレーナーさんは部屋を出ていく。心配するなって、信じろって、いつも通りに頼らせてくれて。

 あなたみたいにそれが苦もなくできるなら、私が悩む問題なんて何もなかったけどさ。それが一人じゃできなかったから、相談しに来たのにさ。それなのに、あなたはいつも通りのあなたのまま。返されたのはわかり切った返答で、これじゃ勇気を出して話した意味がないじゃないか。そのはず、そのはずなのに。

 まあ、善処するとしますか。そんなふうに、ちょっと前向きになってしまっていた。やっぱり、トレーナーさんは私を変えてくれる。むりやりにでも引っ張って、導いてくれる。

 そしてそんな頑固な人を頼ってしまったのだから、責任を以って信じよう。そう思った。今度も一人で残されたけれど、昨日の夜とはまるで違う気持ちな気がした。何があっても、信じられる気がした。正しい選択肢というものを、この人ならわかっているのだと信じた。

 ……そのつもり、だったんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

「セイちゃん」

「うん」

 

 はい、私はセイちゃんです。

 

「セイちゃん、聞いてる?」

「うん」

 

 はい、セイウンスカイは聞いているので返事をしています。

 

「セイちゃん! 聞こえてないでしょ! 呼ばれてるよ!」

「うわっ、なにさスペちゃん。大声出しちゃって」

 

 はい、うん? ここは教室、今は休み時間。そして私はセイウンスカイ。いやいや、それは当たり前だろう。なんで当たり前のことを確認してるんだ、私は。

 まあ理由は単純で、すっかり気が抜けていた。

 あるいは、それくらい頭がいっぱいだった。

 どちらにせよいつもの私じゃない、そしてそうなってしまうだけ私は待ち遠しいのだろう。 

 あの人に託した、未来の方角を知る瞬間が。

 とはいえ、とりあえず現実に戻らなくては。えーとスぺちゃんが言うには、私が誰かに呼ばれてるとかなんとか──。

 

「セイウンスカイさーん! お伝えしたいことが」

「ほらセイちゃん、たづなさんが呼んでるよ」

「あ、ほんとだね。ごめんごめん」

「……大丈夫? なんだかぼーっとしてたけど」

 

 ごめんスぺちゃん、それには答えられない。大丈夫じゃない、そんなのは自分が一番よくわかっているから。私は結局、他人を頼ってしまった。

 自分にとって重大な決断を、自分で決められなかった。けれど、それに救われた。そんな二律背反。みっともなくて、見せられない気持ち。

 その本心をそのまま安易に言えば、私はきっと私自身を裏切る結果を齎してしまう。自分で決められなかったことが、それが一番嬉しかったとは言えないんだ。

 自分で決めたかったってわがままも同時に抱いているなんて、そんな矛盾を一つの言葉にする力は私にはないんだ。

 だって、私はまだ子供だから。

 どうしようもない、くらいに。

 ……と、呼ばれた方に行かなきゃ。私を呼んだのは、理事長秘書の駿川たづなさん。緑色のぴしっとした仕事服と頭をすっぽり覆うこれまた緑の帽子姿はいつものたづなさんだけど、そこに浮かぶのはいつもと違う真剣な表情だった。廊下に出るなり、その表情を崩さないまま、私の目を見てたづなさんは話し始める。優しいはずの声色が、いつもより重々しく感じられた。

 

「セイウンスカイさん、大切なお話があります」

「は、はい」

 

 大切な話。そう面と向かって言われると、ついつい後ずさりしてしまいそうになるけど。

 だけどそう言われたら、大体話の内容に想像はつく。

 そうか、決まったんだ。

 決めて、くれたんだ。

 

そして、その結論はすぐに伝えられる。

 どちらに転んでも想定内、そのつもりだった。

 

「セイウンスカイさんには、今日からチーム<デネブ>でトレーニングを受けてもらうことになります」

「そう、ですか。ありがとうございます」

 

 ただ、そうとしか絞り出せなかった。どちらにせよ、わかり切っていたのに。そんな私の態度を見て、たづなさんはやっぱり心配してくれるけど。

 

「大丈夫ですか? 急な変更ですが、各チームのトレーナーさんたちにかけ合うことも」

「いいえ、大丈夫です」

 

 皐月賞が控えているのに、ここでこれ以上立ち止まる時間はない。私のために決まったことを、私自信の意志でめちゃくちゃにはできない。

 だから、受け止める。私が信じたものを、信じ続ける。それがこの場で私ができる、「大人の対応」というものだから。

 最後に一礼して足早に本来の仕事へと帰っていくたづなさんを見送りながら、私は先ほど伝えられた言葉を舌の上で転がしていた。

 トレーナーさんは、私の言葉を聞いていた。私の意志も、おそらく察していた。そしてその上で、「俺に任せろ」とだけ言った。私はあの時そうやって、大人に責任を押しつけた。

 自分は子供だからと、信頼という形で決断を任せたのだ。だからせめて、その結果は飲み込まねばならない。それだけがきっと私にできる、大人の真似事だ。

 トレーナーさん、あの話のあとすぐ<デネブ>にお願いしに行ったんだな。私を任せるとき、どんなことを言ってくれたんだろう。「ウチのスカイをよろしく頼む」とか。「期待の新人なんだ」とか言ってくれたりして。頭なんか、珍しく下げてたりしたのかな。

 ……ああ、でも。もうそんな言葉も、聞く機会もないんだな。結局、褒めてもらえなかったな。お別れだって、言ってないな。そうして、それがいいって決めてくれたんだな。

 なら、それが正しいんだ。

 そう思わなくちゃ、いけないんだ。

 ぷい。誤魔化すように、滲んだ視界を窓の外に向ける。青空だけが、私の顔を見ていた。

 覚悟したはずのものに駄々をこねてしまう、みっともない子供じみた顔だった。

 

 

 

 

 

 

 運命の時というと大袈裟だけど、それくらいの気持ちでその日の放課後を迎えた。今からの時間が大きな意味を持つ時間なのは、疑いようのない事実だったから。

 今日の私が向かうのは慣れ親しんだ道じゃなく、初めて向かうチーム<デネブ>の部屋。そしてあっという間に、そこに向かうのが新しい日常になるのだろう。今までの道のりを忘れ、新しい道を自分のものにするのだろう。

 それも変化。今まで何度も受け入れたもの。だから、拒んでも仕方ない。だから、拒むべきものじゃない。そのことを再認識して、一歩。また、一歩。新たなる道を、私は進む。

 痛みはまだ、なお引きずったままだったけど。

 

「ここ、かな」

 

 いつもの場所とは違って、校舎の中にあるしっかりとしたスペース。内側は見えないけれど、少なくとも点いている灯りはあそこのものより明るくて綺麗だ。

 そんな<デネブ>の部屋の前に来ると、これまたいつもと違って薄汚れてない扉の外から話し声が聞こえる。片方は一度は聞いたことがある、<デネブ>のトレーナーさんの声だ。けれど、もう片方は誰だろう? トレーナーさんと一対一で話すなら、トップロードさんみたいなチームのリーダーかな?

 そんなことを考えていると、あちら側からノックののち扉が開けられる。私の影を見つけるなり出迎えてくれたのは、声の通り<デネブ>のトレーナーさんだった。

 

「こんにちは、セイウンスカイ。今日からよろしくお願いするわね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「ええ、期待してる。そうだ、ちょうどよかった。うちのチームのリーダーを紹介するわ。とりあえず中に入って」

 

 促され、チーム<デネブ>の部屋の中へ。清潔で整然、一目でわかる<アルビレオ>との違い。ちゃんと椅子もテーブルも綺麗に置かれているし、そこかしこに物も散らばっていない。埃すら舞っていないのだから、本当に大違い。

 とりあえずこれだけでも、二つのチームの差はわかってしまうなあ。

 と、そこで目に入ってくる、一人のウマ娘の姿。先程初めて聞いたばかりの声が、私に対して向けられる。少し幼さを含んだそれは、見た目の通り。

 

「あ、あのっ! セイウンスカイさん、よろしくお願いします!」

 

 毛先までしっかり手入れされたボブヘアの黒鹿毛と、おでこをぴったり隠すようにぱっつんと真っ直ぐ横に切り揃えられた前髪。それだけならしっかりした子なんだろう、で終わるんだろうけど、やっぱり目立つのはそれ以外。薄紫の大きな瞳が顔の大部分を占めていると錯覚するくらいの、まだまだ幼さを残した少女の顔立ち。そしてなにより、私より頭一つぶんくらいは低い背丈。私より、いや今までここで見た誰より年下っぽい。

 一生懸命な感じの挨拶も含めて可愛らしいとは思ってしまったけど、今の会話の流れから察するに、この子が。

 

「彼女はニシノフラワー。チーム<デネブ>のリーダーよ」

 

 やっぱり、この子がこのチームのリーダー。人は見かけによらないなんて言うけど、この子もそういう類だな。いやあ今の第一印象の時点で、ちゃんとその役割を果たせるくらいにしっかりしている子なのはわかるんだけどね。

 

「こちらこそよろしくね、フラワー。スカイ、でいいよ」

「は、はい! えっと、す、スカイさん! 私、スカイさんを精一杯サポートしますからっ」

「この子、あなたが来るって決まってから今までずっと、あなたのためのトレーニングを考えようって頑張ってたのよ」

「あわわっ、それは」

 

 慌てて自らのトレーナーの言葉に愛らしい反応をしているフラワーだけど、その発言自体を否定はしなかった。私のためのトレーニング。その言葉でより、私がこのチームに歓迎されていることを再確認する。トレーナーさんもフラワーも、私を知らないなりに知ろうとしてくれているのだと。このチームは既に、私の新しい居場所なのだと。

 ならば、私はそれに応えるべきで。

 いや、きっとちゃんと応えたくて。

 だって私はこの人たちに、期待されているのだから。

 

「そろそろ時間ね。トレーニングに行くわよ、ニシノフラワー、セイウンスカイ」

「はい!」

「はい。頑張ります」

 

 それに、それにだ。頑張れって、あの人に言われたんだから。

 その過去は変わらない。

 積み重ねたものは、新しい場所でも生きている。

 ならばこのチームで私がやることは、頑張ること、それだけだ。

 

 

 

 

 

 

「そこまで! セイウンスカイ、あなたは膝裏を痛めないよう、しばらくは他の子より多めに休憩を取りなさい。ニシノフラワー、セイウンスカイの脚の状態をチェックしてあげて」

「はい!」

「はーい」

 

 そんなこんなで、初日から早速トレーニングは始まった。もっとも初日なのは私だけだし、皐月賞までは時間がないから当然か。適切な休憩は貰えるけど、しっかりみっちり頑張らされた。当たり前で理にかなっているので、大人しく従う。

 でもこうして実際体験してみると、なるほど確かに<デネブ>のトレーニングは理論や技術を重視している。たとえば今までなんとなくでやってた走り方や意識していたものにたくさん名前がついていてびっくりしたし、それをしっかり教えてくれたし。

 それにこうやって二人チームを組ませて、それぞれ小さなチームごとにトレーニングメニューがわかれているのも特徴的かも。そしてその二人チームにおいて、私の相手がフラワーなのにも多分理由がある。ほんの少しでも会話した経験がある子をあてがって、私がチームに早く慣れられるようにしているんだと思う。総じて、よく考えられている。私のために、私に向いた練習を行っているのは事実だった。

 

「スカイさん、大丈夫ですか? 疲れたら無理しないでくださいね」

「ううん、ありがとフラワー。前のチームに比べたら楽勝だよ」

「前のチームはそんなに厳しかったんですか……?」

「何も考えてないだけだよー」

 

 残念ながら、その通りだろう。あそこの根性論でできたトレーニングより、こっちの理論派のトレーニングの方がよっぽど性に合っている。

 こっちが、私にとって正しい道。<アルビレオ>やそのトレーナーさんへの不満なんて、今ならいくらでも言えそうだ。

 ……そう、そうなんだろうけどなあ。

 

「スカイさん、本当に大丈夫ですか? 不安なことがあったら、いつでも言ってください」

「……不安そうに、見えたかな」

「あの、そうじゃなかったらすみません。でも、その」

「いいよ。多分当たってるから。……そろそろ休憩終わりだね。行こっか」

「あ、はい! 行きましょうか」

 

 私がそう会話を切り上げると、素直に従い立ち上がってトレーニングに戻っていくフラワー。私は一歩遅れて、踏み締めるように立ち上がる。

 一歩、遅れて。

 ……ああ、ダメだなあ。私以外のみんなは、私のために一生懸命なのに。私を送り出してくれたトレーナーさんも、私を出迎えてくれた<デネブ>の人たちも。それなのに、私だけは。私だけが、私に本気になれない。

 一番私に期待していないのは、私だった。

 ねえ、トレーナーさん。

 あなたは私がこうなることもわかってて、わかった上で私を移籍させたのかな。

 それとも私に期待しすぎて、私のちっぽけさは見抜けなかったかな。

 そこまで期待して、信じ過ぎてしまったのかな。

 手放しても大丈夫だって、それは信じていたからなのかな。

 私はあなたを、裏切ってしまったのかな。

 それともその逆で、あなたが私を見る目がなかったのかな。

 そんな思考に意味がないことくらいは、わかっていた。その上で傷跡をなぞるから、より救いようがなかった。

あの人が私を信じてくれているって大前提さえ、アンバランスにぐらついていた。

 その日からのトレーニングは、確かに効果的で効率的で、私の身体を着実に仕上げていった。膝裏の違和感もしっかり取れて、何もかもが順調だった。

 正反対に沈んでいくのは、私の心だけ。

『セイウンスカイさんには、頑張りつづけてほしいです』

 そのリフレインが続くのも、私が沈んだまま動かなくなってしまったからに相違ない。

 ああ、ごめんね。それも約束、私への信頼と期待だったのにね。

 でも、頑張れないや。

 頑張ろうとしても、もうすぐ止まってしまうかも。

 

 これが正しい道のはずなのに。

 そう定めてもらったのに、あとは私自身の力で、その道を進むだけなのに

 。これが、あの時君が抱えていた痛みと同じなのかな。

 正しいとわかっているからこそ、それに一生懸命になれない自分が辛かったのかな。

 今なら、君に寄り添えるかもしれない。そうされたって、嬉しくなんかないだろうけど。

 私とは違うって、君は最後になによりそれを願ったのだから。

 沈む、沈む。深く、底なしに。何もなければ、そのままだったろうに。

 けど、そんなある日のことだった。

 沈んでいた私の心は、予想外の方向から揺らされることになる。

 また、変化する。そのこと自体はきっと、わかり切っていたこと。

 だけど、本当に予想外の方向から。

 底のないマイナスが、私を含めたみんなを殴りつけていた。

 その中心にいるのは、グラスワンダー。

 私が知る限り一番頑健な意志を持つ、そんな彼女にさえ容赦なく降り注ぐ残酷なもの。

 どんなに強くても挫折せねばならない時があると、私たちは知ることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「グラスさん、大丈夫なの?」

「心配してくださってありがとうございます、キングちゃん。大丈夫……と言いたいところですが。大事には至りませんが、しばらくは走れませんね」

「グラス……アタシ、アタシ……」

「やっと対決、というところでしたのに、エルには申し訳ないことをしましたね。でもいつかまた、一緒に走りましょう」

 

 グラスちゃんが、怪我をした。その話はすぐに教室中に広がって、当然私たちもその話題しかできなかった。練習中に違和感があったので検査したら、脚の骨が折れていたらしい。

 早めの検査のおかげで大事にはならなかったけど、いくつかの大事なレースを諦めなくちゃならない。そういうふうに、いろんなところからグラスちゃんを取り巻く現実の話が聞こえる。

 

 直接は、聞けなかった。

 私の、友達なのに。

 私のライバルが、走ることのできない状態に追い込まれたのに。

 至近距離でグラスちゃんを囲む輪を形成する一人になることはできても、それが今の私の限界だった。どうにもならないくらい、私は自分のことでいっぱいいっぱいだった。

 

「グラスちゃん、私たちにできることがあったら、なんでも言ってね!」

「ありがとうございます、スペちゃん」

 

 スペちゃんもキングも、皐月賞を控えているのは同じ。そうだとしてもこの瞬間は、心から大切な仲間を慮っている。

 だからどんな痛みも苦しみも、私だけが追い詰められている言い訳になんかならない。

 しちゃいけない。だって今一番辛くて痛くて苦しいのは、グラスちゃんなんだから。

 何か、何か言わなきゃ。そう思った。

 決意を違えないだけの強さは、まだ私の中に残留していた。

 か細く、何も浮かばない。それでも声の形にだけは整えて、私は震える喉を振り絞る。

 

「グラスちゃん、その」

 

 そこまでで、いったん途切れてしまう。だけどそれでも何か言いたくて、そのためにグラスちゃんの目を見る。恐る恐る、瞳の奥を見る。

 そうして、ちゃんと見て。だから、気づいた。

 グラスちゃんの蒼い蒼い瞳には、その奥にはまだ闘志が燃えていた。諦めないって意志を感じた。瞳の外側はいつもと違う揺れ方をしていたけれど、奥底にはまだ炎が宿っていた。

 変わらない位置で、灼日の如く鮮やかに。

 やっぱり、強いなあ。

 

「その。頑張ろう」

 

 そう言って、私はグラスちゃんに手を伸ばす。

 そして、グラスちゃんはそれを握り返してくれる。

 柔らかく伝わるその手のひらには微かに汗が滲んでいて、そこでその瞳に宿る真意を知る。 

 そこにある、言葉にできない感情を。

 これも、当たり前のことだった。当たり前だけど、だから寄り添えることだった。

 あれだけ強く孤高に立てるグラスちゃんも、苦難の前で平気なわけがない。

 

「はい。頑張りましょう、セイちゃん」

 

 みんな、強いだけじゃない。

 私以外も、私と同じように弱さを持っている。

 辛くて、苦しい時もあって。

 それを普段は隠すとしても、どうしても誰かを頼りたいときはあって。

 グラスちゃんも、怪我は悔しい。彼女でも、どうにもならない痛みを抱えることがある。

 たとえば誰にも見えないところで、涙さえ流したかもしれない。布団の中で塞ぎ込んで、運命を呪いさえしたかもしれない。だけどそれでも前へ進もうとしたから、今ここにグラスちゃんは、グラスちゃんのままでいる。

 そしてその助けになっているのは、私たち他者の存在だ。

 彼女にとっては重すぎるものを、誰かがいるから乗り越えられる。

 それがきっと、今のグラスちゃん。頑張ろうって言葉に同じ言葉を返してくれた、私の言葉を救いにしてくれた君がいた。

 なら、私も。

 なら私も、そうありたいって思う。

 多くの人に期待されているセイウンスカイというウマ娘がいて、私はその期待に応えられるセイウンスカイでありたい。

 それは誰かの祈りであり、私の夢でもある。

 それをすべて束ねて、一つの願いにするんだ。

 努力は裏切らない、だっけ。なら私を押しつぶしそうなこの重圧も、努力で跳ね除けてみせよう。いつのまにか染みつかされた根性論を、私自身で実証してやろう。

 そうすれば、応えられる。

 信じてくれたことを疑わなければ、それが私の芯になる。

 誰かを頼ることは、それだけ自分がその人を信じている証なんだから。

 やっぱり、私は子供だ。でも、そんな弱さは誰でも持ってていいものだ。

 誰かを頼る、そのタイミングに間違いなんてない。間違いがあるとしたら、頼った相手を信じられなくなったその時だ。

 なら、やっぱり頑張らなくちゃ。頑張りつづける、そういなくちゃ。

 だって、それが期待されるということ。

 だって、それが私が望んでいたもの。

 どんな形でも、正しい道を間違いにしちゃいけない。正しさなんて曖昧で、私がどう見るかで、簡単に変わってしまうものだからこそ。これも結局、コインの裏表。正しいものをきちんと正しくできるかは、私の気分次第ってこと。

 なら、ちゃんと前を向こう。

 弱さや痛みを乗り越えるのに必要なのは、才能じゃなくて努力なんだから。

 それが、再出発。もう皐月賞まで時間は少ないけれど、最高速で駆ければすぐに沈んだぶんも取り戻せるはず。むしろこれまでの痛みも力に変えて、そうやって進んでゆけるのなら。

 それはなによりも強く確かな、勝利への導となるだろう。

 世界の見え方は、また変わった。




次回第一章完結です 感想、お気に入り、高評価、ぜひよろしくお願いします
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