完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

7 / 39
皐月賞編、完結です


羽ばたけ、白鳥(キグナス)

 その日の青空はキレイだった。視界に収まりきらないほどの蒼穹の広がりと、絶え間なく形を変える繊細で絹のような純白のわた雲。いつ見ても、今見ても飽き飽きしない、私が一番好きな景色だ。いやあ、絶景かな。これだけで、私の世界が色づいている気がする。何度見たって新鮮な、昨日よりキレイな空がある。

 今は、これだけが全部でいい。

 これだけが、私の未来であってほしい。

 だからずっと、青い青い空を見ていた。

 下は見ない。足元に広がる緑もきっとキレイだけど、今は下を見たくない。足元を確認するなら、それは蹄鉄で踏み締めるだけでいい。気分屋のわがままだけど、今はそれが最高の気分。だから、下は見ない。ここからゴールまで、ずっと。

「本日のメインレース、皐月賞。まもなく開幕です!」

 ずっと、前だけを見ていよう。今日は今までで一番、前に進む日なんだから。

 足元は、自分の脚を信じればいい。

 過去は、今日の結果で示せばいい。

 もう、目まで向ける必要はない。今までの積み重ねが本当に必要な時は、きっとちゃんと私の前に顔を出してくれるから。

 そうやって、すべてを信じた。だからこの瞬間にほんの少しだけ過去を見遣るのも、前を向いたままだから。

 もう、大丈夫。今の私が迷いを持たないのなら、これまでもこれからもすべてが正しいんだ。

 

 

 

 

 

 

「スカイさん、またタイム更新です! これなら皐月賞もきっと」

「ありがとうフラワー。でも油断はできないよ……なんて、せっかく応援してくれたのに水差すのもよくないか」

「いえ、油断しないのは流石ですね。それに、スカイさんなら勝てると思ってるのは、本当ですから」

 

 ついに今週末に皐月賞を控えて、私の放課後のトレーニングはいよいよ最後の仕上げに入っていた。最終調整となるともう無理はできないし、しっかりとやって来たことを確認するだけ。そうなると、いよいよって気持ちになった。もちろんそれだけ、私は完成に近づいていた。

 身体は万全だし、迷いは決意に変えた。それにフラワーのおかげで、<デネブ>にもすっかり慣れた。そして私は、その変化を受け入れられた。自分の変化も周りの変化も、全部を前に進むための推進力にできている。

 でもそれは、やっぱり誰かのおかげでもある。私だけじゃあこうはなれない。たとえば、今も献身的にしてくれる君だって。そう思えば不意に、感謝の言葉が口から漏れた。

 私もずいぶんと優しくなってしまったなあ、なんて。

 

「ありがとう、フラワー。今度何かお礼をしなくちゃね、色々付き合ってくれたお礼」

「いえ、そんな。私はただ、チームのリーダーとしてやるべきことをやってるだけですし」

「えー、それならこれまでの関係は全部ビジネスだったんだあ」

「えっ!? そ、そんなことはないですよ! あのあの、個人的にも」

「冗談だよ。フラワーは純真だねえ」

 

 こんな感じのやり取りももう何度目やら。フラワーはしっかりしているけど、年相応なところもある。大人ぶってる子供の私とはまた別で、しっかりした意味で大人びた子供なのだろう。ついついからかってしまうけど、たまに私じゃ敵わないな、と思わせてくれる時もある。そういう子だとわかって、また一つつながりになって。そうやってそばにいてくれるとわかって、これも最近の変化の一つ。あるいは一つずつの変化が複雑に絡み合い、それが結実した関係。人から人へ、縁はどこにどうやって転がっているかわからない。わかるのはきっと、これが得難いものであるということだ。

「みんな、今日のトレーニングはここまでにしましょう」

 そうして今日もまた、トレーナーさんがそう告げた。今日も、終わった。そんなトレーニングは日常に見えるけれど、永遠には続かない。刻一刻と、皐月賞は迫っている。やはり、変化とはそういうもの。同じことを繰り返して、それが自分を変えていく。しっかりと皐月賞を見据えられている今の自分も、そんな変化と成長の結果なんだ。

 そう、今の私に取ってもっとも大事なものは決まっている。理由は色々あるけれど、今の目標はただ一つ。皐月賞で、勝つことだ。弥生賞のリベンジでもあり、今まで経験したことのない大一番でもある。既知の部分も未知の部分も、全部を勝ち取りたいって思う。

 もう、迷わない。

 今日もそれを再確認した。

 昨日より、更に強く祈った。

 覚悟の火は、より煌々と燃え盛る。

 

 ……と、不意にトレーナーさんがこちらを向いた。

 何か私に用がある、みたい。この大事な時期に。

 

「セイウンスカイ。あとで渡すものがあるから、チームの部屋まで来てくれるかしら」

 

 なんだろう? それ自体はわからないけど、間髪入れずにはいと答える。この大事な時期に、だからこそ、ちゃんと私が受け止められるものは受け止めたい。

 それは与えてくれる相手のためだし、それを受け取る自分のためだ。それに<デネブ>のトレーナーさんのことも、もうそれなりに信頼しているから。

 ここにあるつながりを、裏切るなんてできないや。

 そうしてチームが解散したあと、トレーナーさんと二人きりで部屋に向かう。こつ、こつと、二人だけの足音が人のいない廊下に響く。

 ……わざわざ二人きりにされるのは、初めて、かな。たとえばここに追加でフラワーが一緒にいてトレーニング内容を相談するみたいなことはあったけど、今日はそうじゃないんだろう。そうなると呼び出された理由について、見当がつかないといえばつかない。まあ、変なことになるわけはないけどね。

 そうしてチームの部屋に到着するなり、彼女はつかつか部屋の奥に進み、そこにある自分の机の引き出しから丁寧に何かを取り出す。そして、これまた丁重な手つきでそれを持ってくる。そこまでされて、まだぴんと来てなかった。トレーナーさんが両手で支えるその物体が、柔らかい布であるくらいのことしか。……いや、よく見ればこの布はいくらか折りたたまれている。そして真ん中の上の方に見えるのは、首を通すための穴。そうか、そういうことか。

 これは、つまり──。

 

「今日届いたの。セイウンスカイ、あなたの勝負服よ」

「勝負、ふく」

 

 勝負服。聞いたことはあるけれど、自分とは縁遠いものだと思っていたもの。GⅠレースを走るウマ娘だけが着ることができる、各ウマ娘ごとに個別にデザインされる特別なレース用の服。最高の戦場における、これ以上ない晴れ着。

 そうか、そうだよね。皐月賞はGⅠレースだから、勝負服を着て走るんだ。私はそこまで、手が届くようになっていたんだ。これが、私の勝負服なんだ。

 その事実を実感すると、また一つ勝ちたい理由が増えた気がした。

 改めて、丁寧に畳まれたそれを見る。緑と白を基調とした薄いカラーリングが私の毛色に似ている。雲みたいな色合いだな、なんて思ったりして。私に見合うデザインとして、これは私のためにって思って作ってくれたんだろうな。一目でそれがわかった気がした。私を大切に考えた、これはそんな気持ちの詰まったものだ。

 

「正真正銘、あなただけのための勝負服よ。受け取って」

「そう言われると、逆に受け取りづらいですね」

 

 私がここまで走ってきて、GⅠの大舞台にまでやってきた証。私に唯一無二のものがあって、期待されていることの結晶。それはわかるから、それこそ緊張はしてしまう。

 たらり、とあぶら汗が流れて、カーペットに落ちた。……思ったより、手に取るのには勇気がいるかも。

 そんな若干の躊躇を見透かすように、トレーナーさんは一つの言葉を繰り出した。

 ちょっと前の苦労を、思い返すみたいにその目が動いた。

 

「そう言われても、私も渡さないわけにはいかないの。……あれだけ必死に頼まれた手前、ね」

「へ?」

 

 つい素っ頓狂な声が出てしまう。頼まれたって、どういうこと? あなたが発注してデザイナーさんがそれをもとに作る、そんな感じでしょ、勝負服って。

 他に誰か、誰が介入するというのだろう。

 

「ああ、言い忘れてたわね。この勝負服、デザインから全部頼んだのは私じゃなくて──」

 

 その続きの語句は、私には眩しすぎて記憶から飛び出してしまった。内容くらいは、その内容は頭の奥に刻み込まれてしまったけれど。多分聞いてから思わずの行動だったんだけど、半ばひったくるみたいに勝負服をトレーナーさんの手から取っていったのは、かなり申し訳ないな、とあとで思った。

 だけど、それを確かに受け取った。

 受け取らなきゃいけないと、受け取りたいと思ったから。

 そしてきっと、またその先へ行けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ワアァァァァ────。

 

 ……と、そこまで思い返していたけれど、大歓声が私を現実に引き戻す。戻ってきた瞬間焦点が合ったのは、やっぱりキレイな青空だった。私は前を向いたまま、未来に繋がる過去を重ねていた。大丈夫、私は前を向いたままだ。今日はそういう日で、すべては今日のためにあったんだから。

 それを無駄にしないためにも、私は絶対に前しか見ないんだ。

 今経緯を回想したばかりの新品の勝負服に身を包んで、空を見たまま改めて地面を軽く踏みなおす。この中山レース場に今、私はいる。

 その現実は、先ほどよりも鮮明に、痛烈に。

 しびれるような感覚が、新しい世界を目いっぱいに捉える網膜を起点に全身を駆け抜ける。ここのゲート前に立つのは弥生賞以来だけど、今日はあれよりも更に重大な大一番。挑む権利すら一握りのウマ娘しか得られないトゥインクル・シリーズの重賞レースの中でも、更に限られた精鋭と呼べる実力者しかその場に立てないのが、今私たちの目前に控えているGⅠレースというものだ。

 クラシック三冠の最初の一つ、皐月賞。それがもう一時間もしないうちに始まる私たちの戦場であり、至上の舞台であるそこにはトゥインクル・シリーズの本質が詰まっている。今日のこのレースにも、きっと、必ず。

 これまで幾多の伝説がその歴史に刻み込まれてきたように、今日もきっと、伝説が語られる。そして今日の私はそれを見届ける側ではなく、記す側になるのだ。

 そう、選ばれたのだから。

 そう、期待されたのだから。

 そう、そう決まっている。GⅠレースのどれもが最高峰のレースであり、出走できるだけでも栄誉と呼べるものであるからこそ、そこまで来た私たちは更にその先を望んでしまう。「走れただけでも満足」だなんて、普段どんなに優しかろうが遠慮がちだろうが自分に自信がなかろうが、きっとそうは思えない。そこにある感情だけは、今までのどのレースとも変わらない。誉ある一度きりのタイトルレースだとしても、だからこそ変わらない気持ちがある。

 

(絶対に、勝つんだ)

 

 やっぱり、下は見ない。後ろなんて、もってのほかだ。勝ちたいって気持ちだけは、この場でも変わらない。だからやっぱり、走るだけ。走って勝つ、それだけでいいんだ。それを邪魔する感情なんて、今の私からは捨ててしまおう。勝利を欲するのがウマ娘の本能だというのなら、今だけはその欲求に純粋になろう。

 大丈夫、今日の私は万全だ。今までで一番の私を、今日という日に持ってこれた。負けるなんて、思うわけがない。これまでの選択を裏切ってまで、そんな不安を抱えていいわけがない。だから、前しか見ない。

 そこに恐れを感じていないと証明するために、私は振り返らないのだと。そう、決めたから。

 青い青い空から少しだけ視線を落としてみると、眼前にはそれぞれのウマ娘を待ち構える十八のゲートと、その前で色とりどりの勝負服を着たウマ娘たちがレースに向けて息を整えているのを見た。彼女たちもまた、私と同じ感情を抱えているのだろう。勝ちたいと願い、まもなくあのゲートにその身を収める。

 全員の全身がそこに収まれば、いよいよその瞬間に運命が確定する。私たち十八人の中で、その中でたった一人しか勝てないという未来が定まる。どんなに劇的でもどんなに残酷でも、その瞬間はまもなくだ。また、それを実感した。

 だけど、怖くない。今日の私は、調子と自信に満ち溢れている。

 そしてやっぱり私の目に留まるのは、その中にある二つの見知った顔。友達の顔、ライバルの顔。どうしても意識する、仲間の顔。

 スペシャルウィークとキングヘイロー、その二人の姿が目に焼きついた。そして彼女たちの華々しい衣装を見て、その勝負服姿を見るのもまた初めてだな、と思った。きっと、この勝負服を身に纏えるのは、今日限りではないのだろうけど。

 それでも今日のこの戦いは、今日で決着するから。ならばやはり初めてのものはすべて重く受け止めなければならないし、その中で変わらない気持ちは抱えて放さないようにしなければならない。

 やっぱり、勝ちたい。今日は何度もそれを再確認している。きっといくら確認しても、確認しすぎることはない。

 だってそれは、私の目の前に広がるものだから。

 だってそれだけが、今の私が見なきゃいけないものだから。

 ……と、そんなふうに集団から少し後ろで佇んでいた私の方へ、一人のウマ娘が近づいてくる。緑と黒の二色を基調としたデザインの、格調高いパーティのためのドレスのようにも見える勝負服を着た、私の見知った顔。そこにあるのはいつもと同じ雰囲気だけど、彼女らしさはそのままに、感じられるものはより強く。そんな私のライバルで友達の、キングヘイローだった。

 

「スカイさん、ごきげんよう。今日は勝たせてもらうわよ」

「わざわざお嬢様直々にご挨拶とは、光栄なことで。ところでキング、その服似合ってるね」

「へっ!? ほ、褒めても手加減なんかしないわよ!」

「知ってるよ、だから純粋に褒めただけ」

「……もう! あなたは本当、マイペースなんだから!」

 

 こちらとしては、こんなに緊張する場で話しかけてきたキングの方がよっぽどマイペースであると異議を申し立てたいが。でもそんな余裕があるくらい、今日の彼女は調子がいいってことなんだろうか。

 いつも通りにも見えるけれど、この場で委縮せずにいつも通りでいることは強さに繋がるものだろうとは思う。

 やっぱり、私のライバルは強敵だ。それは、今日も揺るがない。そのことに安心感さえ覚える。好敵手であっても、友達であっても、ハレの日に不調だなんてばつが悪い。

 全力で向かってきて、全力でそれを超えたい。

 それが、本当に"勝つ"ということだ。

 けれど、その上で。相手がどれほどのものでも、それでも私だって負けない。だからこそ、勝てる。今日の私は、そう言い切れるんだ。そう言って、前を向いたまま。今見据えるは今日雌雄を決するべく相まみえる相手の一人、キングヘイロー。そしてその後ろに見えるすべてのウマ娘をも視界に収めながら、そんな世界を見ながらの最後の決意。

 今日は、負けない。

 いや、私が一着だ。

 世代初めてのGⅠでの対決で、ウイニングライブのセンターに立つのは、この私だ。

 それだけの自信を持てるほど、私の身体には活力が満ちていた。それだけのことが言えるほど、多くの期待を背負いそれに応えたいと願っている。今の私が、今までで最高の私だと言い切れる。再び、己の自信を再確認した。それに見合うものを背負っていることも、同時に。

 自分でもわかるほど、今日の私のコンディションはいい。これまでのトレーニングすべてを積み重ねて来られた、万全の準備がなされた自分がいる。そしてそれを今日のために集約させて、体調の波もこの日のために調整できている完璧な仕上がり。

 こんな大舞台は初めてなのに、それだけずっと前を向けているのだから、気分だって絶対に悪くない。そう、決めたから。そう、したいから。今の私のポテンシャルなら、皆の期待を裏切らないだけの実力があるんだから。身体は嘘をつかない。気持ちだって噓をつかない。

 ──そう、自分の気持ちには、嘘はつけない。

 

「……スカイさん、大丈夫?」

「……なにが?」

 

 キングはおずおずと、私の脚元を指さす。でも、私はそちらは見ない。下は見ないと、決めたから。それにずっと、わかっていたことだから。

 

「脚、震えてるわよ。それにそろそろゲートに入らないと」

 なんで、こんなにも。

 これだけ前を向いている私がいて、それでもこんなにも。

 なにもかもが、こわいんだろう。

 

「武者震いじゃない? 先行っててよ」

「……待ってる、わよ」

 

 キングを見送り、そのまま私は視線の先に大きくそびえるスターティングゲートを見る。前を向かなきゃ、いけないから。なのに、思わず目を逸らしたくなる。そこまで必死に隠していた気持ちは、やっぱり誤魔化しきれなかった。そう思ってしまった。

 だけどそれでも、目は逸らせない。強く揺るがないはずの意志で、下も後ろも見ないと誓う。祈る。けれど逸らせない代わりのように、私の弱さは逃げることを選ぼうと望み始める。

 また、諦めようと。未来を目指すと決めたはずの思考が、そんな私にとっての世界の見え方は、もう一つの思考で濁っていく。

 底なし沼のようなそれに、徐々に徐々に沈んでいく。

 こうなれば、止まらず落ちてゆく。

 

 

 スタンドから向けられる期待がある。皆からの期待に応えたいという自分がいる。それらは喜び。前向きな気持ちの源泉。その気持ちが強いことだって、もちろん疑うことなんかじゃない。だけどどんなものもコインの裏表のように、簡単に反転しうるのだ。

 否。コインに準えるなら、それはそもそも同質のものなのだ。

 かつての私、幼い私の受けた賞賛が、私への心配と同質であったように。

 だから私がここで証明できるもの、してしまうものも、正反対に見える二つが一つになっている。確かに万全だ、確かに完璧だ、確かに何もかもが順調だ。なら、それなら? その状態でもし負けてしまうなら、私の限界はそこだということになってしまう。期待はやっぱり不相応で、上には上がいて、私自体は平々凡々。そんな、私という器にはぴったりの結論がそこで口を開けている。ゲートという形で。今はまだ、コインは投げられていない。そこで、決まる。

「セイウンスカイ、早くゲートに入りなさい」

 立ちすくむ私を見かねて、係員さんが私にそう告げる。嫌だ、そう叫びそうになる。そう叫べばこれまでのすべてが裏側で確定してしまうから、喉の途中でそれを押し留める。

 必死に堪えて、でも前には進めなくて。だって、今の私にとってなにより運命を確定させるものは、あそこに待ち受けるゲートしかありえないのだから。

 私の言葉でそれを拒否してもしなくても、もうその未来からは逃れられないのだから。

 怖い。それを一度認めたら、その感情は滝のように視界を覆う。

 結果が出てしまうのが、ピリオドが打たれてしまうのが、怖い。

 望んでいるものが手に入るのかわからない曖昧な状態なら何とでもいえるけれど、その先の未来は怖い。やっぱり、私にとっての未来は諦めるものだと思ってしまう。

 そう思わないために前を向いているはずなのに、それでも前が見えないほどに。

 その場でうずくまらないために、どこかへ逃げ出さないために、みんなの期待を台無しにしないために、そのために必死に前だけを見ていた。それが精一杯で、立ち止まる。

 ゴールはこんなにも近いのに、そうわかってしまっているからこそ。

 

 「──イ!」 

 

 戦略、作戦、それらを積み重ねても確実な結果は得られない。ならば最後は自分を信じるしかなくて、そこで自分を信じられないとしたら。それが勝者に一番大事なことなのだとしたら、やっぱり私に走りの才能はないのかもしれない。能力は実証されたかもしれないけれど、それを邪魔する私の臆病さがある。

 けれどそれもやっぱり、私の才能の一部。そうだ、そうなんだろう。

 

 「──スカイ!」 

 

 今までが上手くいきすぎただけ。運には揺り戻しがあって、総合すればきちんと収まるところに収まるんだから。ここでこんなにも怖いのは、今までのツケを払うだけ。

 それは確かに怖いけれど、それを踏まえて反省しよう。

 浮き沈みの激しい人生なんて嫌に決まっている。のんびり、緩くやればいいじゃないか。たとえばこれからは良くてそこそこの順位を繰り返して、ほどほどに練習する。余った時間は釣りにでも充ててしまおう。よく思い出してみれば私はそういうキャラじゃないか。それこそが、本当に正しい道だったんじゃないか。みんなを勘違いさせて振り回してしまったことはきっと償い切れないけれど、私の限界はその程度なんだから仕方ないじゃないか。

 そう、そういうことにしよう。

 

 「──イウンスカイ!」

 

 そうやって諦めなきゃ、前には進めない。それが私だったはず。幼い私があの日そうやって教えられたのに、それを無視して勝ちたいとか、期待に応えたいとか、褒められたいとか。そんなのは子供のわがままで、思い出しただけで終わらせるべきだ。ちゃんとゴミ箱の中に戻して、今度こそ二度と掘り起こさないようにしよう。やっぱり、諦めるんだ。

 それしか、ないんだ。

 ……諦め癖がついているのだと、もうそれなりに遠くなった入学式の日のあの人の言葉が頭に浮かぶ。ああ、ごめんね、トレーナーさん。やっぱり、私は「走る」ウマ娘なんかじゃなかったよ。それだけ、今日はそれだけしか証明できない。きっとどこかでこのレースを見ているあなたにも、それを見せつけてしまうだろう。

 裏切りだ、拒絶だ、最低だ。でもその気持ち以外じゃ、もう前には進めない。レースは待ってはくれない。だから、前を向き続けたままじゃないといけないんだ。

 そうしてようやく、私は一歩、ゲートへ向けて。

 諦めるため、失望させるため、すべてをそうやって終わらせるため──。

 

「セイウンスカイ!!」

 

 ──懐かしい人の声だった。

 ずっと叫ぶように呼ばれていたことに、そのいつもうるさい声がひときわうるさく私の名前を呼んでいたことに、今僅かに生まれた思考の隙間でやっと気づけた。かつてのチーム<アルビレオ>の、慣れ親しんだあなたの声。

 観客席の数多の人の声の中でも浮きたつそれを聞いて、私は。

 私は、思わず振り向いたのだ。今日初めて、前以外の場所を見た。

 

「セイウンスカイ!!」

 

 ……ねえあなた、ほんとにトレーナーさんですよね? いやあ流石にそれはわかるけどさ、それにしても、ねえ? あははっ、見れば見るほどひっどいなあ。久しぶりに顔を見たと思ったら、ずいぶん人相が変わっちゃってるじゃん。そのふっとい眉毛、人生で一度もしわくちゃにしたことなさそうだったのに。眉も目尻もむちゃくちゃで、おでこだってしかめっ面。トレーナーさん、そこまで顔にしわをつけたのはもしかして人生で今日が初めてなんじゃないの? そんな顔ができるなんて、<アルビレオ>にいた時は教えてもらえなかったなあ。

 いつもみたいに「努力しろ」とか「頑張れ」とか「諦めるな」とか、元気づけるのがあなたの役目だったのに。今日も絶対テレビあたりのちょっと引いた位置で、偉そうにそんな大人の態度で見守ってるんだと思ってたのにさ。

 

「セイウンスカイ!!」

 

 それなのにさっきから震えた声で、何度も何度も私の名前だけ。わざわざレース場の観客席の最前列まで来てるのに、何が言いたいのかさっぱりわからないじゃないですか。それじゃ応援じゃなくて、神頼みみたいじゃないですか? せっかくそうやってレースを見に来てくれたんだから、しっかり応援してくださいよ。そのつもり、だったんでしょう? 特等席で、私の活躍が見たかったんでしょう? 

 ほら、そんな不安そうに眉を顰めて。今にも目をつぶるんじゃってくらい必死の形相ですけど、それでちゃんと見えてます? 私の勝負服の隅っこまで、ちゃんと私がそれを着てることも。<デネブ>のトレーナーさんからあの話を聞いた時はびっくりしましたよ、本当に。心底びっくりして、思わず駆け出すくらいだったんだから。

 あなたが、この勝負服のデザインを頼んだって話。もう別のチームなのに、わざわざ頼み込んで、さ。

 そう、これがあなたの想い。私に向けて、あなたが込めた願いの結晶。このひらひらも雲みたいな素敵な色合いも、ファッションセンスなんてなさそうなあなたがそれでも私に似合うのはどういうのかって、一生懸命に考えたんだとするとだいぶんくすぐったいけどさ。でもそれなら、ちゃんとしっかり見てくれないかな? あなたの願った勝負服と、あなたが信じたウマ娘がそれを着ている姿。私が、この晴れ舞台で期待されている証。それに相応しい証。それを一番見えるところで見てるんだから、ちゃんと最後まで見てくれるんだよね?

 まだ、期待してくれてる? こんなふうに立ち止まってる私を見て、あなたでも不安になっちゃうかな? それならちゃんと走れば、その不安をひっくり返せるかな? あなたを含めたみんなの期待に、私自身の勝ちたいって気持ちに、見合う私になれるかな? 

 ……ああ。久しぶりすぎて、聞きたいことがいっぱい思い浮かんじゃった。それでもう、頭はいっぱい。今から全部聞いていくわけにもいかないし、この気持ちで埋め尽くされた状態が私の完成形、ってことか。

 ほんのついさっきまで、他に何か大事なことを考えてた気がするのに、ね。

 芝の上を一歩ずつ、前へと進む。足から伝わる感覚も、もう怖くない。

 今日は今日だ。それですべてが決まるわけじゃない。今日は決まるけれど、それより先に広がる未来は決まらない。今日だけじゃないからこそ、今は今日だけ考えればいい。

 そういう気楽な気の持ちようで、全身全霊を懸ければいい。

 結局一度後ろを振り向いてしまった覚悟の決まらなさ加減も、やっぱりそれも私らしさ。ならば私は私らしく、気ままに向かえばいい。

 きっと、それが私の正しさだ。

 揺らいで曖昧で、それが私らしさだ。

 なら、私の何もかもを一つだって否定するわけにはいかないよね。

 なんてったって、それが最高の私。

 私自身を一番引き出してくれる、ベストの私はそれなんだから! 

 

「ゲートイン完了。各ウマ娘一斉に」

 

 だから。だから、ちゃんと。

 

「スタートしました!」

 

 しっかり見ててよ、トレーナーさん。

 褒めないなんてありえないくらい、最高のレースをプレゼントするね!

 

「セイウンスカイ、今日は二番手につけています」

 

 まずは作戦通り。今日はハナを譲って、後方のスペちゃんのマークを切る。すぐ後ろのキングにもプレッシャーをかけなきゃいけないからペースは落とせないけど、かといって脚を使い切ったらスパートで追いつかれちゃう。他の子だって油断できない。一筋縄でいく相手なんていない。マイペースに他人を巻き込む逃げというものは、考えることが多くて大変だ。けど。

 だん、だだん。十八人分の蹄鉄が芝を踏み抜く音が、何重にも重なって。それを聞いて私は、楽しいって思えていて。走ってよかったなって、当たり前のことを考えて。負けたくないって、期待に応えたいって、それも確かにあって。やっぱり、気持ちは満たされて。この場にしかない空気を、世界を覆う青空とともに感じていた。

 ……まあ、浸ってばかりもいられないんだけどさ!

 第四コーナー手前、後ろからスペちゃんの気配がする。流石の気迫、そしてそれが気迫だけじゃないのは身を以って体感済み。スぺちゃん、ここで仕掛けてくるつもりなんでしょ? でも、それは! 

 

「大外からスペシャルウィークが猛追! しかしここでセイウンスカイ、一気に外に出る!」

 

 読み通り、だよ! スぺちゃんが出てくるのと同じタイミング、そこで外を使って一気に前へ!

 スペちゃんの前に躍り出て蓋をしながら、キングもかわしてハナを進む。ハナを取った、ここからが最後の勝負どころ!

 中山レース場の心臓破りの坂は、スペちゃんの苦手とするところ。ライバルのことだって、ばっちり研究してきたんだから。そしてそれは、この坂で勝負を仕掛ければ私にも優位が残っているということ。

 純粋な末脚勝負じゃ勝てないなら、あの末脚を有効には使わせないだけ! 

 それが私の、スぺちゃん一本釣り作戦ってね! 

 

「セイウンスカイ、二バ身のリードをキープ! 懸命にキングヘイローが追っている! スペシャルウィークももう三番手まで上がってきている!」

 

 ラストスパートもラストスパート、全身で息をしながら坂を登る。作戦は、ここまで。あとは抜かせない、その気持ちだけ。

 その気持ちに沿って、ひたすらに逃げて逃げまくるだけ。キングもスペちゃんも、追いつくのは時間の問題だけど。その時間が来るまでに、ゴールまでに私が耐えればいい。互いの実力として、スパートでは私が劣っていることなんて知っている。でも、逃げ切るまで必死に走るだけ。あとはそれだけ、この十数秒はもう気持ちを折らずに走り抜けるだけ。

 つまり、最後は。

 理論や作戦を練った上で、その上で最後に大事になるのは。

 それは、たった一つ。

 でもこれも、嫌になるくらい教えてもらったこと、だから! 

 

「セイウンスカイ、粘って粘って──」

 

 根、性、だぁぁーー!!! 

 

「──ゴールイン!!」

 

 駆け抜けた瞬間、目に入ったのはキレイな青空だった。

 未来の先に、別の未来が見えたみたいに。

 私の世界の見え方は、また変わった。

 

 

 

 

 

 

「セイウンスカイ、おめでとーっ!」

 

 呼吸は荒れ放題。青空以外は霞んで見える。肩まで使って息をしながら、魂が抜けたみたいにゴールの先に立っていた。それでも確かに、そんな状態でも確かに感じられるものがあった。私の名前を呼ぶ声が、たくさん聞こえること。おめでとうって、私を称える声だった。

 そんな耳だけに入る情報で、今は幸せに満ち足りることができた。たくさんのお客さんが、私の走りに何かを見てくれた。その紛れもない証明が、今私に向けられるこの声なのだから。

 期待に、応えた。それを実感する。

 私、勝ったんだ。それを噛み締める。

 私が、一番だったんだ。それが、嬉しくて、嬉しくて。

 

「ありがとーっ!!」

 

 気づけば大きく手を振りながら、乾いた喉を振り絞りながら観客席に向かって叫んでいた。

 あの正論男みたいに、とびっきりうるさい大声で。

 

「セイウンスカイ、おめでとう!」

「スカイさん、本当にすごかったです!」

 

 そして、そのあと。一呼吸も二呼吸も置いてから地下バ道に向かうと、<デネブ>のトレーナーさんとフラワーが出迎えてくれた。この二人も自分のことみたいに喜んでくれて、なんだか気恥ずかしい。とはいえ紛れもなく、この二人に助けられたからこそ今日の勝利はある。それなら喜んでくれるのは無理もないし、むしろやっぱり嬉しいものでもある。まあ紆余曲折の末ではあるけれど、ちゃんとこれからもチーム<デネブ>でよろしくやっていきたいな、なんて──。

 

「本音を言えば<デネブ>に残ってほしいところだけど、そうもいかないのよね」

 

 ──トレーナーさんは今なんと? 何が、そうもいかないって? フリーズした私を見ながら、彼女はまた一言。フリーズしたのには気づかずに、知ってると思うけど、みたいな顔で。

 

「皐月賞までの集中トレーニングのため、<デネブ>と<アルビレオ>の提携の予行演習のため、一時的にではあってもあなたのトレーナーができて嬉しかったわ……って、セイウンスカイ、どうしたのその顔」

 

 ようやく私の顔に気づいた。いや、多分レース後で気が緩んでるのもあって、相当素直に目を丸くしてると思う。そんな顔のまま、聞くしかなかった。

 

「なんですか、その話」

「……あれ、もしかして聞いてない?」

 

 <デネブ>のトレーナーさんも、目を丸くする。私と顔を見合わせるように目を丸くする。

 まさか、まさか。いや、まさか、ねえ? この人はしっかりしてて落ち度がありそうには見えないし、そうなると、ねえ?

 

「……それ、誰が私に聞かせる予定の話でしたか?」

「<アルビレオ>から持ちかけてきて、セイウンスカイには伝えておく、と彼が言っていたけれど……まさか」

「まさか、ですね」

 

 ……はあ。……はあ~~。二人で思いっきり、お互いに聞こえるくらいの大きさでため息をつく。なんだか今までで一番、この人と息が合った気がする。まあ息を合わせられた原因には、全く感謝する気が湧かないけど。

 じゃあ、つまりなにか。<アルビレオ>のトレーナーさんは何も言わずに<デネブ>に私を引き渡したのだと思っていたけれど、それは私の取り越し苦労というか、結局私はこれから<アルビレオ>に戻るのか。今生の別れ、くらいに重く受け止めていた私の気持ちって、空回りだったのか。

 ……そりゃ、嬉しくはあるけどさ。それはそれとして、ちょっと怒りがふつふつと沸いてくるよね、もちろん。心優しいセイちゃんでも、流石にこれは怒っていいよね。

 

「それでフラワーもついてきたのよ。あなたと仲良くしてたんだから、やっぱり寂しかったんじゃない」

「ちょ、ちょっとトレーナーさん!」

「あらあら、ごめんなさい」

 

 なるほどね、それでフラワーもわざわざ地下バ場まで。それだけ私のことをよく思ってくれるのは嬉しいし、同時にそんなやり取りを見てこの二人もいい関係だな、とおもった。確かにフラワーと同じく、私もこれでお別れはちょっと寂しいかな。まあ、でも。

 

「ありがとね、フラワー。でも大丈夫、提携するって話なら、合同トレーニングなんかもありますよね?」

「ええ、その予定よ。というより、やっぱり<アルビレオ>のトレーニングをそのままあなたに受けさせるなんて腑に落ちないもの。積極的に介入させていただくわ」

 

 うん、やっぱり。それは結構ありがたいかも、<アルビレオ>のトレーニングには大いに改善の余地があると思うし。それになにより、つながりが消えない。

 そんな二重の理由で、少なからず気持ちは落ち着いた。

 

「だってさ、フラワー。嬉しい?」

「う、嬉しい、です……」

「私も嬉しい。これからもよろしくね」

 

 そう言って、小さな少女に手を伸ばす。フラワーの両の手のひらが、花弁みたいに私の手を包んだ。小さくて、だけど温かい手のひら。この縁も、これからも続く。つながりが途切れず、積み重なっていく。私のここまでの迷いも苦悩も、全部正しかったって思う。私らしく、それをいいものとして捉えればいい。物事をどう見るかなんて、結局は当人の気分次第なんだから。

 ……まあ、それはそれとして。本当はもうちょっと二人と話したいけれど、それも後々にもできるとわかったし。それよりなにより、今の私には急用ができた。

 

「……じゃ、私は行くとこができたので」

「まだ帰ってないはずよ。今後のチームの連携について、打ち合わせをする予定だったから」

「ありがとうございます。じゃ、また」

「ええ、また」

「はいスカイさん、また!」

 

 また。ちゃんとそう言ってから、私はなけなしの体力で駆け出す。そりゃもちろんまず思いっきり文句を言ってやるつもりだったから、個人的には結構な怒りの表情を浮かべていたと記憶しているんだけど。心底苦手で噛みあわない、それを実感した表情のはずだったんだけど。

 

 あとで<デネブ>のトレーナーさんが言うには、さっきゴールした時と同じくらい、青空みたいに晴れやかな笑顔だったんだって。

 

 

 

 

 

 

 

「おお、スカイ! 頑張ったな」

「あの、トレーナーさん。私がまず聞きたい、問い詰めたいのはですね」

「よくやった。ありがとう、スカイ」

「……ばか」

「それでなんだ! 聞きたいことがあるなら聞こう!」

「……はぁ。じゃあまずは、勝負服のことから──」

 

 

【挿絵表示】

 

 




次回、幕間『ニシノフラワーによる「ステイ・ウィズ・ミー」』。引き続きよろしくお願いします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。