完全版・セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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第二章 ライバルと友達
独りじゃない


 

 

 晴れた空、白い雲。その下には日光をきらきらと反射して光る水面。そして水中にはたくさんの影が見えて、それをこれまたたくさんの人が待ち構えている。

 さて、私が今いるこの場所は一体どこでしょう。なんて、そんな勿体ぶることでもないか。

 

「スカイ! 釣具借りてきたぞ!」

「お、ありがとうございますトレーナーさん。しかし人の金で釣りができるなんて、長生きするもんですなあ」

「俺も釣りは好きだ、問題ない」

 

 それは知ってる。というわけで、今日はトレーナーさんと二人で釣りに来ている。トレーナーさんが、皐月賞の勝利を祝って何か奢ってやるなんて言うから、私は釣り堀を所望した。ほんとは気長にマイペースに川釣り海釣りと洒落込みたいところでもあったけど、トレーナーさんは釣り初心者だということで、誘われる側なのにそれに優しく気を遣ってあげたのだ。

 それにせっかく人の金で釣りに行けるなら、釣り堀みたいな有料スポットの方がいいよね、なんて。いや、実際滅多に釣り堀に来ないのは本当だ。

 だってまあ──。

 

「うお! スカイ、どこもかしこも入れ食いだぞ!」

「当たり前でしょ、釣り堀なんだから」

 

 ──こんな感じで、入れ食いすぎて物足りない、みたいな。オーソドックスなニジマス釣りでこんなにはしゃげるのは、結構羨ましいかも。皮肉抜きにそう思う。初心者故というか、トレーナーさんの純粋なところが垣間見えるというか。それにトレーナーさんが喜んでくれるなら、それだけで皐月賞のご褒美にここを選んだ意味があるというものだ。私じゃなくてトレーナーさんを喜ばせるのは、なんだかあべこべかもしれないけど。まあでも、それもいいんじゃないかな、ってさ。

 

「おっ、早速釣れたぞ! こんなに簡単に釣れるとは……」

「もう一回言いますけど。当たり前でしょ、釣り堀なんだから。セイちゃんのぶん、残しといてくださいよー」

 

 だって私にとって皐月賞は、私だけの勝利じゃないから。

 だから、あなたにも喜んでほしい。

 そして喜んだついでに、喜ばせた人のことをまた少し褒めてくれるなら、なんて。

 それなら結局自分のためだし、博愛精神みたいな大層なものではないだろう、と思うし。

 ……そうだよなあ、皐月賞は私が勝ったんだ。そのことを今更みたいに、何度も何度も繰り返したのにまた実感する。

 得難いものだと、噛み締めて味わう。

 

「うお! また釣れた!」

「トレーナーさん、釣り堀は釣った分だけお金払うんですからね。私がやっと今から釣り始めるのに、もうこんなに釣られたら遠慮しなきゃじゃないですか?」

「心配いらない、今日は俺の奢りだ!」

 

 ずいぶん上機嫌だな、トレーナーさん。釣れまくるのが嬉しいのか、それとも私と同じく皐月賞の勝利を噛み締めているのか。

 まあでも、どちらにせよ私と同じことを考えてくれるみたい。

 いつもはあんなに気が合わないのに、ね。

 というわけで、奢りというなら遠慮なく。ぴっ、と竿をしならせて、大きな堀に糸を垂らす。ものの数秒で手応えが返ってきて、それを手首の動きでぐいっと引き寄せた。水面から飛沫とともに魚影が跳ね、そうして引き上げた竿の先端には、棒の先をぶるぶると暴れさせる生きのいいニジマスが一匹。

 なるほど、確かにこりゃ入れ食いだ。

 

「流石だな、スカイ」

「どーも。まあトレーナーさんにはまだまだ負けられませんね」

 

 なるほど、これが釣り堀。私がよくやっているようなのんびり釣る、というものより、かなり忙しない感じはある。入れれば釣れて、次もすぐ。

 普通の、私の普段やってる釣りとはだいぶん、勝手は違う。そうは思った。

 けれど、これはこれで悪くない。そうも思った。

 人の感覚は不思議なもので、自分とは異質であっても意外と受け入れられる。そのことを、改めて示された気がした。

 たとえば私と釣り堀。たとえば、私とトレーナーさん。

 そんなふうに、何となく重ねてしまうくらいの沁み入る感覚があった。

 ひっきりなしに人と魚が動き回る釣り堀で、トレーナーさんと並んで糸を垂らして。

 時折私に気づいたファンの人が、挨拶してくれて。

 サインも頼まれたりして、その時は釣りを中断して。

 それが終わったらまた、水面に釣り糸を投げ入れて。

 色々なことが、今日はお休み。今日はそれでも、私の勝利を色々な人に触れてもらえる日。そんな日だった。改めて、ああ私、勝ったんだって。

 その日はそんな日だった。

 

「流石に釣りすぎたな……」

「でも美味しいですよ。食べきれなかったら私がもらってあげますから」

「うん、美味い。自分で釣った魚は美味いというのは本当だな」

「トレーナーさん、釣り好きでしたよね……?」

「まあそうなんだが、稚魚しか釣れたことはない。だからその、今日は楽しかったな」

 

 釣り堀で釣ったニジマスは、その場で揚げて食べさせてもらえた。というわけで、大量の焼きニジマスを二人で食べる私とトレーナーさん。ほかほか、もぐもぐ。美味しいならよかったけど、食べきれないなら無理しないでくださいよ、この量。

 それにしても、本当に初心者だったのか。トレーナーさんの言う通りならだけど、この人は嘘を吐くのなんて下手くそだし、多分本当。

 とはいえトレーナーさんが弱みを見せることは、なんだか珍しい気がする。強気で頑固で正論と根性論ばっかり言ってる時は、ここまでの可愛げはないのに。それもコインの裏表かな、何では思いながらだけど、ぷっ、と笑いがこぼれてしまう。

 

「……初心者で悪かったな」

「違います、違いますよ。もう、そんなことで不貞腐れないでください」

 

 また、素直に不貞腐れちゃって。意外とこの人も、子供っぽいところがあるのかも? まだまだ私はトレーナーさんのことを何にも知らない、そんな気がした。そしてそれについては、これからきっと。知れるし、知りたい。それも、これからだ。そう、これからがある。

 

「スカイ、これからも頑張るぞ」

「はい、トレーナーさん」

 

 これから。私とトレーナーさんの中で、そのフレーズが密かに一致した。

 これから先、これから未来。

 これから歩む世界に果てがないのなら、私たちはもっと上へと行ける。

 

 

 

 

 

 

「ふぃ〜、疲れた……」

 

 そして、トレーナーさんと別れたあとのその日の夜。寮の共同浴場で、誰にも聞こえない程度に疲れをこぼす。今日は息抜きのはずなのに、息抜きしても体力を使うなんて、この世の中はなんだか理不尽だと思った。身体を使うのだからそういうものだと言われても、理屈で納得できないものだってある。まあ、私らしくない考えかもしれないけどさ。

 帰り際に「明日からまたビシバシ行くぞ!」と言われてしまったから、今日休めていない私は実質休みなしということになる。せっかくの休みは寝るに限る(とはいえ休みの日以外もどこかで寝ているのがセイちゃんなのだが)、そんなこともちょっと思った。

 それくらい、疲れた。それにしてもトレーナーさんはウマ娘たる私より体力なんかないはずなのに、あの元気はどこから出るのやら。不思議だ。気力、根性、そんな精神論でカバーしているのか。それこそ理屈に合わないじゃないか、なんて。

 さて、でも。明日から、かあ。

 トレーナーさんは当たり前みたいに、今日の私に明日のことを言った。

 明日から、頑張ろう。明日から、切り替えよう。

 あの人の言う通り、明日から目指すものは決まっている。これから先、それに決まっている。

 皐月賞の勝ちは、私の存在をトゥインクル・シリーズ屈指の実力者として世間に知らしめた。それはつまり、これから私たちの世代を引っ張っていくうちの一人として、注目と期待を受けているということに違いない。それが、私の勝利がもたらしたもの。

 だからわかっていた通り、今日だけでは終わらない。私たちはこれから、世代最強を決めるために戦い始める。皐月賞はその最初の一歩に過ぎない。最高は、一度では決まらない。

 そう、私たちの世代の最強を決めようとすれば、必ず名前が上がるウマ娘たちがいる。グラスワンダー。エルコンドルパサー。スペシャルウィーク。キングヘイロー。そして私、セイウンスカイ。

 そうやって名前を挙げられるようになった。私はどうやら、そこまでたどり着いてしまった。最強を決める選ばれしウマ娘たち、その中に私がいる。

 私は、強者の側にいる。

 ばちばちと火花を散らし、その実力と覚悟をすべて賭す存在として認められている。

 でもそんなことは、少し前は考えもしなかったことだったはず。それなりに走って、それなりにちやほやされて。それでよかった私は、いつのまにかそれ以上に手が届きそうになっている。そしてなにより私自身も、その先を求めている。

 私自身が、これからを望んでいるのだ。

 本気で勝ちを求めてその結果得た勝利は、それほどまでに私にとって劇薬だったようだ。今でも、あの時浸った歓喜の余韻が残っている気がする。

 いつまでも、前を向いたままの気持ちで過去を振り返れる気がする。

 かつての私は、苦々しい過去を捨てて諦めて、今の私になったのに。今の私は、過去を掬い上げようとさえしている気がする。

 諦めることに、抵抗が生まれ始めている。

 これも、私にとっての変化だろうか? これも、望ましい成長と呼べるものなのだろうか? それは今の自分には答えは出せない。

 でも、誰かに聞けることじゃない。

 これから。これから先で、成長したあとの自分で答えを確かめるしかない。

 

 それは、わかった。

 それしか、わからなかった。

 だって、これからのことなんてわかるはずがないから。

 期待されたからって、結果まで決めれるはずがないから。

 時間が進んでその時が来ないと、わかるはずがないことだから。

 そんな何もわからない今、確かなことがあるとすれば、それは確かに一つあったのだけど。そしてそれは、これからを意識するのとは正反対の感覚だったのだけど。

 表裏一体のコインの裏側、やっぱり見せられない私の本性。

 皐月賞の勝利を、今日も喜んでしまった私がいた。昨日のことのようにとは言うけれど、昨日どころか当日のそのままに。全部をかけて、全部を果たして、そして抱えた悩みもすべて吹っ切れたあの日の感覚が、新鮮なままで残っていた。

 つまり私はいまだ、勝利に酔っていた。

 初めての感覚を手放せず、切り替えられずにいた。これからと言いながら、その上にはまだ何も積み重ねられていない。

 私にとってもっとも新しくて大きな気持ちは、あの日の勝利から進まないまま。

 わかっている。その栄光は、あくまで幕開けに過ぎない。次の勝負は、あれが終わった瞬間から既に始まっている。頭では、痛いほどに理屈はわかっている。クラシック三冠の次のレース、皐月賞に並ぶかそれ以上に注目されるだろう舞台への準備は、着々と進んでいる。

 それが、ウマ娘の祭典たる日本ダービー。そこまで二ヶ月もなくて、きっと多くの人がそこにある激戦を待ち望んでいる。

 もう皐月賞のことは確定したものとして、やっぱりまだ見ぬ「これから」を意識している。

 そしてクラシック一冠目を取った私には、当然次が期待されているだろう。その期待は私を休ませてはくれない。私は次も、走らなければいけない。最強を決めるために。一度のレースは一瞬でかつ劇的だけど、それではすべては決まらない。

 だからずっと、走り続けなければいけない。そのことも、頭はわかっている。そんな頭も私を駆り立てようと、ひっきりなしに動き回っている。

 けれど、今だけは。今だけ、その今がどれだけ続くのかなんてわからないけれど。

 それでも今だけは、私の心は停滞してものぼせたりしないぬるま湯を求めていて。

 冷めた湯船の中で弛緩する今の私の肢体のように、温かさでふやけ切るのを望んでいて。

 一度の勝利がこんなにも、こんなにも嬉しくて。

 それは勝負事においては難儀な性格なのかもしれない。勝負は一度きりじゃない、自分だけに都合よくはできていない。

 そうだとしても、この勝利から進みたくない気持ちは確かにあった。これから先が期待に満ち溢れていると知っていても、それでも立ち止まりたくなる弱さがあった。

 一つの玩具で何度も繰り返し遊ぶ子供のように、私は一つの勝利を舌で撫ぜて歯で何度も挟むだけ。噛めず砕けず、味わうばかりで、決して喉を通せない。

 飲み込めなければ、糧にはできないのに。きっとライバル達は、敗北を糧にして更に強くなるのに。勝者故に、私はそれができないでいた。成長のために何かを掴めるのも、きっと強さの一つ。その原因は何であっても、私たちは先へ進むのだから。

 そして、私にそれができないのなら。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 じんわりと浸かりつづけているうちに、すっかり人のいなくなった浴場で独り。私はこの場に絶対居ない人に、誰もいない空間だから問いかける。ちっぽけな声でも浴場ではよく反響して、それでも誰も聞いていなかった。

 私だけが、今なら私だけが私の弱音を聞ける。今日はいくらでもトレーナーさんに直接言えるタイミングがあったのに、つくづく私は臆病だ。

 そうは、思えるけれど。

 

「私、やっぱり才能ないのかな」

 

 でも、言えない。今ここでしか、言えない。

 誰にも言わなくていいのなら、そんな時だけなら言える。

 だってこの弱音を聞かせてしまえば、それこそ才能の無さを証明するようなものだから。勝ちつづける能力こそが才能だとすれば、それは走る力だけでは測れないだろう。もう聞き飽きた根性論も、正論の一つなんだろう。身体能力だけじゃない、気持ちの問題。それがやっぱり、私は未熟なまま。子供のまま、ちっぽけなちっぽけな器のまま。勝利への渇望が、私には足りない。それでは、闘いにおいて未来を見据えることなんてできない。私一人では、あっという間に足を止めてしまう。小さな小さな世界を見て、それで満足してしまう。

 けど、そうではない時もあった。それも、確かだった。私はどうしても何かあれば怯んでしまって、諦め癖がついている。けれどもっと上へと行けるのだと、そんなふうにこれからを思えないわけじゃなかった。そう、たとえば今日、トレーナーさんの前ではそう思えた。

 そして今までも、誰かのために勝とうと思えた。期待してくれる人のため、向かい合ってくれるライバルのため。そしてきっとそんな心の持ちようこそ、勝ちつづける力になれる。

 それが、これからの勝利に必要なこと。私は臆病で、一人ではそう思うことができない。不安が迫っても、それに立ち向かっていけない。

 だけど誰かの存在を意識できるのなら、私にだって先はある。

 独りじゃ、なければ。

 今の私に出せる答えは、そこまでだった。

 その時は、やっぱり独りだったから。

 その場にないものになら、希望を見出せたから。

 

 

 

 

 

 

 結局そのあとも何だか寝つけなくて、次の日の授業中はうとうとしてしまった。悩みがあるからといえばそうだけど、居眠りもいつものことといえばそうともいえる。だからまあ、とりあえず大丈夫。そう思うことにした。

 少なくとも、今は。

 そしてこうやってみんなで昼食を食べるのも、いつものこと。キングにエルにグラスちゃんにスペちゃんに私、いつもの五人で食堂のスペースを一つ使うのは、慣れ親しんだ光景。日常の、やっぱりいつもの通りだ。

 

「スペちゃん、大丈夫ですか? なんだか授業中も集中できていなかったような」

「そうかな、あはは……」

「まったく。スペシャルウィークさん、そんなことでダービーでも腑抜けていたら、承知しないわよ!

 そんな感じで表裏一体、スペちゃんを気遣うグラスちゃんと、叱りつけるキング。まあどちらも本質的には一緒で、スペちゃんが心配なのだろう。それにスペちゃんが今日の授業中集中できてないことくらい、私でもちらちら見ればわかっちゃったし。

 まったく、この子は本当にわかりやすい。

 

「そーだよスペちゃん、授業は集中しなきゃ」

「スカイさんは他人のこと言えないでしょう!」

「厳しいなあ、キングは。ダービーに向けて気合い十分だね」

 

 まあ見ての通りいつも通りのキングはともかく、スペちゃんの異変も少し注視すればわかる。授業にも集中できてなかったけれど、なによりおかしいのはその食事の量。

 スペちゃんの机に盛られた料理は、見るからに少ない。ご飯なんていつも塔みたいに聳え立たせているのに、今日はせいぜいなだらかな山って感じ。まあその食事量が少ないというのも、スペちゃんにしては、だけど。でも、明確な差だった。

 そして多分このダイエットが、スペちゃんが授業にも集中できない理由。こんなふうに最近減らしっぱなしなら、普段の量から考えて足りるわけがない。

 ついでに、その理由にも検討がつく。

 スペちゃんがここまで苦心している、ダイエットの理由はおそらく……。

 

「スペちゃん! 今気づきました、アナタダイエットしてますね! ズバリ、ダービーに向けて!」

 

 おっと、エルに先に言われた。そういや結局エルは、先のニュージーランドトロフィーでも勝ったんだっけ。さっき後ろのテレビに『四戦四勝の怪鳥、エルコンドルパサー』とかなんとか流れていたような。この子はこの子でやっぱり強い。

 いつか、私と戦うこともあるのだろうか。

 そしてその時私は、どうしているんだろう。

 ……まあでも今は、とりあえずエルの発言の方に注視しよう。

 ビシッと、言ってしまったからね。

 

「えっ、えへへ……。実は、そうなんだ……」

「やっぱり! エルのコンドルの如き眼は誤魔化せないデース!」

「エル? あんまり乙女の体重をとやかくいうものではありませんよ〜?」

 

 ほら、やっぱり。穏やかな口調のままのグラスちゃんから、ものすごい殺気が。だから私は言葉を濁そうとしたのに、エルはすぐに言っちゃうんだから。

 自分だって体重のことなんてあんまり言われたくないでしょーに、直球すぎるというかデリカシーがないというか。そんなおとぼけエルも流石にグラスちゃんの気迫を察知したのか、慌てて話題を転換する。本当にだいぶ脈絡なく、慌てて、って表現するのが相応しいと思った。

 

「そ、そう! アタシ、次はNHKマイルカップに出ます! みんなにも見てほしいデス!」

「ふふっ、私の分までエルには頑張ってほしい……などというのは傲慢ですが。頑張ってくださいね」

 さっきまでのやりとりなどなかったかのように、グラスちゃんが笑いかける。これならまあ、エルの話題転換は成功というか、ちゃんとグラスちゃんのことも考えた発言なんだろう。

 

 ちゃんと気を遣おうとすれば遣えるのにね、エルってさ。

 そして、そこはグラスちゃんが「私の分まで」と言った通り。グラスちゃんは本来なら、ニュージーランドトロフィーからNHKマイルカップへのローテーションを通る予定だった。けれど練習中の怪我が今でも治っていなくて、結果的に両レースを諦めることになった。そして、エルとの対決もまた。せっかくの、GⅠなのに。私だってあの皐月賞を、勝ったのに引きずったままだからわかる。そこで走ることさえを諦めなければいけないというのは、一体どれほど苦しいことかって。少しくらいは、わかる。

 そしてきっと私だけじゃなく、みんなが彼女に寄り添えるのだろう。

「はい。アタシ、勝ってきます。グラスが居たって勝てたってお客さんみんなが思うくらいに、強烈に」

 四戦四勝、ここまで負けなしのエルコンドルパサー。

 ならばきっと次の勝負を迎えるたびに「無敗」という肩書きに抱えるプレッシャーは大きくなるのに、それでもエルは走っている。走り続けている。

 どうしてそんなに強くありつづけられるんだろう、そう考えてしまう。だけど少し考えれば、なんとなく答えはわかった。私にも手が届く、しっかり地に足のついた思考だった。

 一つは自分に対して、まだまだこんなもんじゃないと思えているから。私と違って、満足してしまっていないから。まだ勝てる、なぜなら彼女は「世界最強」を目指すのだから。

 それは確かに私なんかにとっては掲げるには大きいと思ってしまう目標だけど、勝ちたいと願うのはきっと同じ。だから、エルの気持ちはわかる。

 そしてもう一つは、きっと。

 きっとそれも、わかる。

「はい。いつか、今度こそ。エルと走れるのを楽しみにしています」

 そう答えるグラスちゃんの声色が少し明るいことが、もう一つの理由をこれ以上なく証明するものだった。今のエルは、グラスちゃんの想いを背負って走っているから。

 どれだけ勝ち続けても、孤独にはならないから。

 頑張る理由が、誰かのために走れるから。

 きっと、独りじゃないから。

 そしてそれはもしかしたら、私が思い悩みながら走る理由と似たような原動力かもしれない。つまりエルは案外寂しがり屋なのかもね、なんて。そこはひょっとして、私と似ている。

 一人でも生きていけるふりをしているのに、独りじゃ立ち止まってしまいそうな、私と似て。

 

「私も、頑張らなきゃ」

 

 小さな声でそう聞こえた。エルとグラスちゃんのやりとりから、何かを受け取った声。

 その声を発したのはスペちゃんか、キングか。あるいは、私自身か。

 誰であっても、独りじゃないから呟けたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 また数日が過ぎた。皐月賞からなら、もう十日は超えている。でも、まだほんの数日ではある。そう、まだ数日。まだ数日だから、決戦の日にはまだ遠いから。

 私はそう自分に言い聞かせて、まだ何も変わっていないのだけど。時間は、止まらないのに。

 この数日の悩みがずっと続かないなんて、そんな保証はどこにもないのに。

 それでも、立ち止まっていた。

 やがて皐月賞での勝利の残滓は、懐かしい過去でしかなくなるのに。今日も独り、何でもないふうをして机の上という空間に閉じこもる。

 少し遠くに見える窓の外は、やっぱりキレイな青空だった。そこにゆったり浮かぶ雲でさえ、徐々に空の上を進んでいるのに。

 私は、まだ。

 

「ごきげんよう、スカイさん」

「ごきげんよー、何か用?」

「別に。……いいじゃない、用がなくても」

 

 そんな感じで一人、日差しでほんのり暖まった机に突っ伏していると、後ろの方からキングがやってきた。いつもと変わらない調子で、ちゃんとダービーに向けて順調にトレーニングはしてますよって感じで。

 ……そういえば、キングはどうしてそんなに頑張れるんだろう。そこに思いを巡らせて、少し進んだ先でいつかの会話が頭に浮かぶ。私がこっそり、グラスちゃんとキングの話を聞いていた時のことを。

 お母さま、だったか。お母さまに、期待されていなかったこと。周りが期待するのに、その反動のように一番自分を見てくれる人が期待してくれないということ。それがキングにとっての原動力なら、反骨精神のようなものだろうか。

 そしてそんな気丈な心構えなら、そこに追いつくのは私には到底無理な気がした。今だって正面から近づく決戦に、目を背けつづけているのだから。

 

「キングはさあ、すごいよねえ」

「何よ、急に」

 

 ふとおもむろに、口から漏れる賞賛。

 いや、これは羨望かもしれない。

 自分自身にないものを、求めているだけ。それを持つ他者を、羨んでいるだけ。

  どうにもならない、それを認めるための言葉。

 諦めるというありふれた行動の、そのやり方の一つだ。

 

「いつでも頑張っててさ、落ち度がないように過ごしてるっていうか。完璧でさ、ほんと私なんかとは」

「……馬鹿にしてるのかしら」

 

 キングの顔が静かに歪む。いつか彼女のお母さんのことを聞いた時より、仄暗く。

 明確に、その紅の瞳が震える。音もなく、密やかに。

 けれど確かに、怒りが見えた。そんな言葉と、表情だった。

 

「ど、どうしたのキング」

 

 狼狽えてしまう。私の弱音だと思っていた。君が感じるのは優越感だと思っていた。

 それほどまでに私の視野は狭く、弱っていた。

 独りじゃ、何も見えなかった。

 

「私が完璧? あなたはじゃあ何者なの?」

「私? 私はただの──」

「それなら完璧な私が、ただの取るに足りないウマ娘のあなたに負けたのかしら。……最近特に腑抜けてると思ったけど、ここまでだったとは驚きね」

 

 ……見え透いた挑発だ、と思った。あからさまな喧嘩腰、敵意を誘う攻撃的な言葉。けれどどうしても小賢しい私はそれに乗るより先に、その奥の意図に気づいてしまう。

 先程はちょっとその豹変に狼狽えてしまったけれど、話し始めたキングは素直に話しすぎだ。すぐ、わかってしまった。わざわざ私に、そんな言葉をかける意味が。

 結局、この子はどこまでもお人好しだ。

 それじゃあ私は、救いきれない。

 

「流石、お嬢様は優しいね。腑抜けた私を心配して話しかけにきて、それでもダメなら発破をかけて奮い立たせようって魂胆か。それって君にとってなんの得があるの?」

「これは、得とかじゃないでしょう」

 

「いいや、損得の問題だよ。ライバルが消えるなら、少なくともキングの順位はひとつ上がるよ? それが得じゃなかったらなんなのさ」

 そんなふうにぺらぺらと他人事のような口ぶりを加速させる私は、明らかに頭に血が上っている。これじゃキングの思う壺、売り言葉に買い言葉だ。

 それでも私の口は、後ろ向きな言葉ばかりを並べてゆく。どうしても前に進めない。そしてそこは、キングの思った通りにいかないところ。

 そう、私はまだ過去に囚われている。そしてそうであっても多分いつかは戻るんだから、せいぜい放っておけばいい。時間が解決する、それくらいのことでいいじゃないか。

 それでダービーまで腑抜けたままなら、君にとって有利なのは事実だし。自分でも問題点がわかっていて、それでも進めないのなら、あとは進めるようになるまで独りで休むしかない。

 そんなに心配しないでよ、私はこんなに口が回るくらい元気だよ。

 だからとっとと呆れて、私を独りにしてくれれば──。

 

「はあ。スカイさん、少し頭を冷やしてきなさいな。というより冷やしにいくわよ。ほら、ついてきて」

「……え? ちょ、ちょっと待って」

 

 ──本当に、藪から棒に。ぐい、といきなりキングが私の手を引っ張る。予想外すぎてあっさりと、私はそのまま引きずられていく。

 ……参ったな、めちゃくちゃで強引極まりない。でもまあ、キングはそういう子だったね。

 お人好しで人を引っ張ることばかりで、そのくせたまに明後日の方向へ連れていく。今みたいに、文字通りなのは稀だけどさ。

 ぐい、ぐい。そして、たどり着いたのは。

 

 

 

 

 

 

「スペ〜、そろそろ目隠し取っていいぞー」

 

 そう拡声器に伝えるのは、チーム<スピカ>のゴールドシップさん、だったはず。

 そしてそれをあの遥か高くにある飛び込み台の上から目隠しとスポーツ水着姿で聞いているのは、我らがスペちゃん。

 そんな光景が繰り広げられているのは、トレセン学園のプール。

 ……はい、ここがキングに連れてこられた場所です。そのシチュエーションです。

 いや、あの。

 

「キング、なにあれ」

「知らないわよ!」

 

 ここまで連れてきたキングも、流石にこんなよくわからないことをやってるとは知らなかったらしい。「頭を冷やせ」で文字通り水辺に私をぶち込もうとするキングも大概ではあると思うけど。そもそも私、泳ぐの苦手なんだよね、もう着替えさせられちゃったけどさ。

 

「ひぃやああぁぁぁ〜!!」

 

 ……あ、スペちゃんの悲鳴が聞こえた。本当に目隠しさせられたままそこまで登らされた、って感じの悲鳴だ。それにしても、なんでこんなことしてるんだろう。何か意味があるのかな、これ。確かにダイエットに始まり、スペちゃんも思い悩んではいたみたいだけどさ。

 ……ひょっとして、それは私と同じ? 悩みを何とかするために、プールに連れてこられたのも。いや、わからない。

 だけどそうやって浮かび上がった疑問に答えるように、いや多分私に答えるんじゃなくて絶対スペちゃんに向けてなんだけど、ゴールドシップさんが再び拡声器越しに喋り出す。

 

「ウマ娘は度胸! ばーんと飛び込めー」

 

 ……度胸、か。その言葉は、心臓の近くで瞬いた。他人事、スペちゃんの話なのに、それは私の方にも向けられている気がした。

 今の自分に足りないピースが、もしかして。

 うずうず、うずうず。不意に、突拍子もない考えが頭に浮かぶ。

 せっかくキングがここまで連れてきてくれたんだし、これも何かの巡り合わせだとすれば筋は通る。……かなあ。

 まあいいか、どっちでも。筋が通ってても意味がわかんなくても、気まぐれなのが私らしさだ。

 なら、そういうことにしよう。

 前を向く理由なんて、何だっていいじゃないか。

 

「じゃ、私も行ってくるよ」

「えっ!? ちょっと、スカイさん!?」

 

 私の何気なしの言葉に、キングがとびっきり驚いてる。それならこれがきっと、私にとっての正解だ。予想外で捉えどころのない、それでも私にはしっくりくる。

 それでいい。それがきっと、一番いい。

 するする、するすると。瞬く間に飛び込み台に登って、まだ怖がってるスペちゃんの側へ。結構な手間だとは思うけど、不思議と軽々そこまで行けた。

 もしかしたら、心が軽くなったぶん、かな。

 そして、一言。後ろから挨拶もなしに、スペちゃんの横を通り過ぎながら。

 

「行かないなら私が行くよー」

「へっ?」

 

 うんうん、スペちゃんも驚いてる。でも本当は、私が一番驚いてる。

 ふわふわと掴みどころのない素振り、そのためだけにありもしない度胸を振り絞る自分に。

 だけど自分自身までも驚くなら、誰もをびっくりさせられるなら、それが私らしさなんじゃないか、ってね。

 

「いざという時には度胸がたいせつー」

 

 そんな自分の最後の言葉は、さっきまでの自分に一番聞かせてやりたい。

 そう思いながら、くるっと私は落ちていった。

 でも今は、そうする気持ちの理由はどこかにはあった。あっさりと、踏み出せた。

 ゼロへの距離は、長く、長く感じられた。結局私、なんで苦手なプールで飛び込みでしたんだろう。他愛もない水中含めて何もかもが怖いし、勇気を出す理由なんてこれっぽっちも見つからない。それは水面がいくら近づいても変わらない。

 停滞を好んで、度胸なんてかけらもない。一連の行動は嘘ばっかりだ。嘘吐きで、誑かして。

 得られたものは、みんなのびっくりする顔だけ。

 思考はそこまでで、私は水面に突き刺さる。ざばん、と派手な音がして、叩きつけられた身体はびりびりと痺れた。冷たい水の温度から伝わる感覚と、そこにぶつかった時の衝撃の感触。どれもこれも、そんなに好きなものじゃないはずなのに。小さな水泡を吐きながら、濡れた頭を水中から引き抜く。いやあ、やっぱりプールは苦手だ。

 それなら一層思うのは、なんだったんだろう、これ? ってこと。

 耳からつま先までびしょびしょの姿でプールから上がると、キングもそんな顔をしていた。なんだったんだろう、って。そんな顔。

 いつもはちょっとキツめに尖っている目をまんまるくしながら、ぽかんと開いた口元までその困惑が表れていて、本当になんだったんだろう、って顔。何をしたいのか、って顔かも。

 

「す、スカイさん、あなた……」

「どうしたのキング。顔真っ青だよ」

「そりゃそうなるわよ! あんなに元気なかったのに、急に人が変わったみたいに動き出して、飛び込んで」

 

 おいおい、驚きすぎて本音が出てるぞ。やっぱりなんだかんだと挑発しながら、私の元気がないことを気にしてたんじゃないか。そのためにわざわざ声をかけて、こんなところまで連れてきて、まったくご苦労様だね、このお人好しお嬢様は。

 まあ確かにそのこと自体は間違いなかったんだけど、なんでそんな元気のない私が度胸試しみたいなことができたのか、それは確かに不思議だろうな。

 とはいえ、今ならちょっとはわかる。

 みょうちきりんだけど確かな儀式を終えてみた今、この瞬間だからわかることがある。

 それは、きっと。くだらないけど、私らしい。

 

「まあ、キングにびっくりしてもらえたなら、なによりだよ」

 

 君の驚く顔が、そこにあること。私のことを心から心配してくれた友達が、そこまで他者を案じたような我さえも忘れるほどびっくりしてくれる。

 私はきっと、それが見たかった。

 そしてこれも、コインの裏表。見え方を変えただけで、同質のものが存在するのだ。

 それは幼い私が褒められたいって一生懸命だったのと、同じようなものだったから。期待を寄せられて、それを上回りたいって。だから気持ちを向けられたなら、それをひっくり返して想像を超えたいって。

 どこまでも子供染みているのかもしれないけど、今の私なりの、期待への応え方。

 きっと誰もが、そうやって何度も折り合いをつけていく。寄せられた期待と、自分のやりたいこと。どこかで妥協して、それでも諦められないものがあって。

 折り合いの付け方は、人それぞれ。たとえば今の私は、どっちも一緒くたにしてぜんぶ叶えたい。そんな決めきれない欲張りだって、きっと私らしさってものだ。

 だから、そうしよう。いや、そうしたいんだ。

 ……ようやく、皐月賞を飲み込める。そこから生まれる期待も不安も、逆に利用してやるんだ。これから先を期待するのは、周りだけじゃないんだ。むしろ周りの期待なんて、私は超えてみせなくちゃ。何にだって縛られず、私が一番自由に考えられなくちゃ。私が、私に期待する。そしてそれさえも、予想できない方へ飛んでゆく。まるで、空に浮かぶ雲のように。

 そう、在ろう。

 そう、決めた。

 だから、道は開けた。

 世界の見え方は、また私の気の持ちようで変わるのだ。

 

「ありがとう、キング。おかげですっきりしたよ」

「なんだか腑に落ちないけど」

「ダービーも、私が獲るよ」

 

 そう若干唐突に告げると、呼応するようにキングの表情も変わる。友達を慮る不安気なそれから、ライバルを見据える勝ち気なそれへ。

 うん、その方が君らしい。君を変えられるのなら、それも私が変わる意味が意味になるだろう。

 私と君は、互いに高めあう存在なのだから。

 

「……それだけ元気になったなら、充分ね」

 

 それで、終わり。あとはもう、言葉なんて要らなかった。

 言葉がなくても、ないからこそ伝わることはあるのだから。

 こん、と拳を合わせる。

 私たちは、独りじゃない。




第二章、「ライバルと友達」 今日から毎日更新です
引き続きよろしくお願いします
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