「……あー、おぉいおいおい、嘘だろ?ここでスタックか?」
フロントガラス越しの世界は、鉛色の空と無限に続く泥濘とパイプラインだけだった。アクセルを踏み込んでもオプジョーラの後輪は空しい唸りを上げるばかりで、車体はじわじわと沈んでいく。民生品ゆえの6x4駆動の悲しさか、後輪が空転し泥を巻き上げるばかりでちっとも前に進まない。荷台には、前線へ送る弾薬――実包ではなく上級武器用の電熱線を用いた弾薬――と糧食が満載だ。変に衝撃を与えて爆発させ、ましてやパイプラインに傷を付けた挙句、飯まで炭にしたとなったら大目玉では済まされない。
「っあー……こっちは命と燃料を削って来てるってのに、道はなーに1つもまともに動いちゃくれない」
軽く舌打ちして、シュヴェーチカはハンドルにしがみつき悪態をついた。
そうは言っても事態は解決しない。彼女は助手席に立て掛けてる護身の骨董散弾銃を手にかけ、嫌々ドアを開け泥地に降り立った。外の空気は刺すように冷たい。だが鼻を突くのは寒さではなく、冷たく錆びた鉄と湿った土の臭いだけだ。
パイプを通る加工前の電熱線。その余熱のせいか、仮設の砂利道は周囲よりわずかに温かい。そのせいで一部路面下の凍土を中途半端に溶かし、トラックが通ると車重に負けて底なしの泥沼が顔を出す。彼女の相棒は、まるで沼地に足を取られた巨大な鉄の猪だ。
「へぇぁ……酷いな。タイヤの半分まで埋まってら」
キャスケット帽を目深に被り直し、泥だらけのブーツで地面を踏みしめる。荷台下から、チェーンで縛り付けた丸太を2本引きずり出す。本来の教範なら左右のタイヤに太く長い丸太を渡すのが正解だが、生憎な人手不足で彼女は一人だ。電柱みたいな丸太は持ち上げられない。そこでシュヴェーチカが使うのは、本来1本の丸太を切断した、タイヤ幅より少し長いだけの角材だ。これらを空転している左右の後輪に無理やり噛ませる。
本来、彼女は都市間を行き来する運転手だ。こんな力仕事は兵隊さんの方が相応しい。
「……うんしょっと、あー全くタチの悪い泥だ」
丸太をホイールの穴(スポーク)にチェーンでガチガチに固定する。これが回転すれば、丸太が泥を掻く爪になる。車体を、力づく無理やり前に押し出す。
その代わり、回転した丸太が車体底をガンガン突くことになるが、背に腹は代えられない。
再び運転席へ戻る。ギアをローに入れ、デフロックを確認。アクセルを慎重に踏む。エンジンが唸り、車体が大きく揺れる。『バコン! バコン!』 今にも壊れそうな衝撃音が響く。丸太が泥を弾き、オプジョーラの巨体が跳ねるようにして泥沼から這い出した。
「ふぅ…。おーし、良かった良かった…」
安堵のため息をこぼし、再び彼女は荒野を走り始める。
第67物資集積所の搬入口。トラックを止めると、シュヴェーチカはあくびを噛み殺しながら運転席から降りた。 パーカーの襟を立て、寒そうに猫背で歩く。キビキビ動くなんて、給料分以上の働きだ。
「すみませんねぇ遅くなりもして…、ハンコ、お願いしますわ」
荷受け係の兵士にやる気のない手つきで書類を差し出す。 態度は卑屈で、目も死んでいる。典型的な『面従腹背』の三下ムーブだ。
「遅いぞ。何時だと思ってる」
「いやだなぁ、道が電熱でぬかるんでたんですよ。勘弁したってください、軍曹殿」
相手が軍曹かどうか知らないが、とりあえず階級が高そうな呼び方で茶を濁す。
荷台の幌が開けられ、衛兵たちが物資を運び出す。中身はいつもの『ブロック栄養食』と『強装弾』。
「……チッ、またこれかよ。上の連中は俺たちに味覚がないと思ってるのか?」
若い衛兵が毒づく。 シュヴェーチカはトラックのタイヤを蹴って軽く泥を払いながら、ボソリと相槌を打つ。
「全くですわ……ま、私ら下っ端は文句言える立場でも権利もありませんがねェ…」
そう言って、彼女は懐からくしゃくしゃになった紙包みを取り出した。
安物のタバコが1、2箱…
「……これ、落としましたよ。いやぁ、手ぇが滑べりまして」
わざとらしく兵士の足元に落とす。賄賂というほど大層なものではない。ただの『ご機嫌取り』だ。
「へへっ、内緒で拾っといてくださいよ。……あー、寒い寒い」
日は既に没していたが、辛くも仮設宿舎を利用でき、シュヴェーチカは一夜だけ久しぶりのベッドでの睡眠を許された。
宿舎は他所と変わらず、冷たく薄暗かった。突貫工事で組まれたコンクリート壁の隙間を冷気が抜けていく。電熱ストーブはあるが、部屋全体を温めるには力不足で空気は冷たく湿っている。
配給機から食事を受け取りテーブルに腰掛ける。今晩は当たりらしくコッペパンとコンビーフだ。
偶々居合わせた同じトラック仲間とテーブルを挟んで、テレビを見ながら飲み食いしていた。
「聞いたかよシュヴェーチカ、今日の放送」
同僚がコンビーフを小間切れにしながら言う。
「放送?またどこかの戦線が気前よく『勝利』でもしたんで?」
「いや、もっと面白れぇ話だ」声を潜めるように、しかし面白がるように言った。「東地区で暴動があったってよ」
部屋の隅にある小さなテレビに目をやる。
画面には、黒い煙を上げるどこかの市街地と整列して行進する治安維持部隊が映っていた。
『――東部地区にて発生した反社会的勢力による破壊活動は、内務省国内軍の迅速な対応により完全に鎮圧されました』『国民の皆様は、流言飛語に惑わされず、通常通り職務を遂行してください』
「『鎮圧』ねぇ。」シュヴェーチカが呟く。「……映像じゃ、工場が半分くらい吹っ飛んでるように見えますがね」
「配給が止まった腹いせに、工場勤務者らが備蓄倉庫を焼いたんだとさ。おかげで俺たちが運ぶ予定の糧食も黒焦げだ」
同僚が下卑た笑いを漏らす。
「はぁ…私たちの労務は確かに減ったでしょう。が、その予定されていた輸送であっしらの得るはずだった手取りはどうなるんですぅ…?」
「あ…」同僚の、さっきまで清々としていた顔は途端に曇った。
テレビのアナウンサーが、無機質な声で続ける。
『なお、今回の暴動に対する原状回復、および治安維持強化のため、かねてより検討されていた「社会保障の充実の為の増税」を来月より施行することに決定しました』
「はぁ~…結局増税かい」大きくため息をつきながら同僚が愚痴る。「暴動を起こした連中の尻拭いをなんで俺たちの給料から引くんだ? 俺たちの社会は誰が保障してくれるんだよ」
「まぁた増税になりましたねェ…。勘弁して、ほしいもんですがこれでまた手取りが減りますね。保障されるのは『社会』であって、そこに住んでる『人間』じゃないってことでしょうね」
シュヴェーチカは肩をすくめ、冷水を喉に流し込む。
味はしない。ただ、喉を通り過ぎる冷たさが、自分が生きていることを教えてくれる。
「あっしらの給料、9割を天引きされてるってのに。これ以上取られたら、草でも食って生きろって言うんですかねェ…」
「草が生えてりゃマシだろ。この辺りじゃ電熱線の汚染で草1本も生えねぇ」
同僚が懐から小瓶を取り出す。しかし、工業用アルコールのツンとする匂いだ。
「全くやってらんねぇわ……。おいシュヴェーチカ、お前もどうだ?」
彼女は首を横に振った。
「自分はぁ…遠慮しておきますわ。目ェ潰れたら増税分も元も取れなくなっちまいますから、へへ」
そう言って軽く笑ってみせるが、胸の奥には重い鉛のようなものが沈むのを感じていた。とうの昔に諦観し、暴動も、鎮圧も、増税も、全てが平時であるかのような日常だと割り切っていたのに。
「はっ、ただの気付け薬さ。」そう言うと同僚は劇薬を一口、喉に通した。
シュヴェーチカは視線を窓の外へ向けた。時折、遠くの空がピカッと光る。雷ではない、対空砲の閃光だ。
あそこで誰かが死んでいる。彼女か、他の誰かが運んだ武器弾薬で誰かが誰かを殺している。
けれど、シュヴェーチカそんな感傷に浸る余裕はない。明日にはまた、あの泥沼地へ戻るのだから。
(自分の好き好んだ「秩序ある国家」ってのも、
結局こんなもんか)
誰にも届かない皮肉を心の中で呟き、彼女は静かにスプーンを置いた。
翌朝。
シュヴェーチカはエンジン下で焚き火をしながら積み荷の積載と整理をしていた。帰りの積荷は空のクレート、空薬莢の詰まった麻袋、そしてひしゃげた鉄屑だ。いくら電熱線で無限のエネルギーといえど資源は有限だ。「リサイクル」できそうなものは、安全であるうちになんでも回収・輸送する。運転手の身分ゆえ、中身はざっと目を通すくらいだが、中には血濡れのヘルメットや誰かの認識票も混じっているかもしれない。
「重いねぇ。人命より、鉄の方が重いとは」
荷札を確認しながら、彼女は独り言のように呟く。
(東地区の工場が焼けたなら、この鉄屑たちはどこへ運ばれるのだろうか。まあ、私が知ったことじゃない。運べと言われた場所に運ぶだけだ。)
いつもの様に、諦めて深くは考えない。私はただの5等級。誰が見ても、ただの下層の輸送兵。増税に文句を言い、配給の少なさを嘆き、それでも明日もハンドルを握る。それが私だと言い聞かせた。
「全ぇん部溶かして、また何かにするんですかね…」
運転席で独り呟き、エンジンを始動させる。帰りのルートは都市部へ向かう比較的整備された道路だ。行きよりはマシだが、油断はできない。検問所の憲兵らは、行きのトラックと同じく、帰りのトラックも厳しくチェックする。金欠な一兵卒が私物やくすねた軍需品を横流ししてないかと、目を光らせている。
助手席には同僚からこっそり頂いた賄賂用タバコ1箱と、自衛用の散弾銃。
ラジオからは、相変わらず意味無意味なニュースが流れている。
『本日の西地区は晴れ、絶好の洗濯日和となるでしょう。東地区は――』
「へぇ、洗濯日和か。そりゃあいい」
アクセルを踏み込む。オプジョーラは黒煙を吐き出し、凍てついた大地をゆっくりと走り出した。
「私のこの汚れた軍服も、一緒に洗ってくれたらいいんですがねェ……」
灰色の空の下、私のトラックはただひたすらに、次の荷物を求めて走り続ける。
ただ、今日もこの国で生きるために。