『…量子擾乱が集約されてきたな』
アルは“雲海”を見ながら独りごちた。背後に音もなくリュウがやってきた。
『突然“貫通”が起きましたね』
『マスターは承知して看過したのか?』
『それ以外は考えにくいですね』
“雲海”は量子擾乱が急速に一点に集まっていく様子を克明に写しだしていた。カラビ=ヤウ空間に観測可能な揺らぎが生じる。
『ラオに伝えておきますか?』
『そうだな、ラオも既に見ているとは思うが』
コミュニケに入るリュウを横目にしながら、アルは再び思索に入った。
緊急信号とともに、目の前から開通したばかりのホールが忽然と消え失せた。補給基地は一時騒然となったが、事態を解析・打開するために全員が一度オーパス・シティへと戻った。今回のトレード不成立の内容を詳しく確認すると、事態の深刻さが浮き彫りになってきた。
マーサは着席したまま、司令室全体を一度見渡した。各部署の担当官はそれぞれの端末に向かい、必要最低限の操作だけを繰り返している。誰一人として私語はない。資材管理部のマレット大尉が、中央モニターを起動した。
「在庫状況を更新します」
表示されたのは、物資名、残量、推定消費日数の一覧だった。プロトジウム、燃料モジュール、食料、水、酸素。各項目の末尾に、残日数が付記されている。
「プロトジウム、消費速度現状維持の場合、残り45BD。こちらの不足が目下緊急課題です。それ以外については…燃料モジュール、生活基盤物資、ともに問題なし」
マーサは手元の端末を操作し、一覧を一段下に送った。医療用物資の項目が表示される。
「デンモビウム溶剤は?」
マレットは一瞬だけ視線を端末から外し、再び画面に戻した。
「残量、約29BD分です」
全員が一瞬たりとも手を止めなかった。だが、室内に走った緊張感は隠しようもなかった。マーサが続ける。「代替供給先は?」
マレットは、次の画面を表示した。「クロード・シティです。距離、正規ルートで1,500km、片道20BD。短縮ルート、片道8BD。ただし――」
モニターに、赤色の警告帯が重ねて表示される。《既踏査区域/大型原生生物反応多数/危険度レベル4》
「短縮ルートの場合、過去の輸送記録では帰還成功率は三割を下回ります」
マーサは、正面モニターから視線を外さずに頷いた。端末上で、ルート比較の表示が切り替わる。往復日数は40BD。マーサの沈黙はおよそ30秒ほどだった。だが、司令室内のメンバーにとって、その沈黙は30日間にも感じられた。
「……正規ルートで任務を行ないます。担当人員は7名。準備に入ってください。これからクロード・シティに補給要請を行ないます」
司令室には、再び操作音だけが残った。壁面モニターには、なおも同じ通信ログが表示されたままだった。『緊急事態発生。ホールを閉じる。物資送信は不可能』
司令室の照明が、定刻どおり一段階落とされた。時刻はBT1443、0200。通常であれば当直要員のみが残る時間帯だが、この日は誰も席を立たなかった。
マーサは端末を操作し、資材管理部から送られてきた詳細データを呼び出した。中央モニターに、物資ごとの消費曲線と補給断絶時の推移予測が重ねて表示される。デンモビウム溶剤の項目だけが、警告色で縁取られていた。
「医療局からの更新は?」
医療連絡担当官が即座に応答する「現行プロトコルを維持した場合、全対象患者への供給は29BD後に停止します」
「現在の対象患者数は?」
「11名。うち完全治療溶液依存が1名です」
マーサは端末を切り替え、患者管理リストを確認した。名前は表示されず、管理番号のみが並んでいる。0150から司令室に入ったフィリスは、その一覧には視線を向けなかった。自分の端末を起動し、移動ログと地形データを呼び出す。短縮ルートを拡大表示し、危険区域を指でなぞった。平均速度を修正し、停止時間を加算し、数値を入力する。
フィリスはその結果をじっと見て、数分後に司令室を離れた。
マーサはコンソールに立ち、クロード・シティの識別符号を入力した。応答は即座ではなかった。回線確立の進捗を示す指標が途中で揺れ、数値が戻る。彼女はその揺らぎを一瞥し、補助演算を追加する指示だけを送った。
クロード・シティ担当者の像は歪んだまま立ち上がり、音声も一拍遅れて届いた。マーサは簡潔に要件を告げる。
クロード・シティの担当者からの返答が届く「緊急事態ですか?」
マーサは答えた。「イエス。今送っただけの物資が至急ほしい」物資の一覧を見れば、シティ住民の生死に関わる事態であることは明白だ。説明の必要はなかった。
考えてみれば、オーパス・シティの稼働が始まってからクロード・シティと交信を行なうのはまだ2回目だった。これまでの事情を考えるとやむを得ないところだし、その必要性がなかったこともある。今回は、必要性どころの話ではなかった。
相手の反応は曖昧で、肯定とも留保とも取れる言葉が並んだ。彼女はその曖昧さを了承と解釈し、確認コードを送った。
ウィリアムとフィリスが改めて司令室に呼び出されたのは、その3BH後だった。2人が入室した時、マーサは立ったまま待っていた。
「状況は把握していると思います。帰ってきてもらったところで誠に済まないのだけど、緊急事態です。貴方たち以外にこの任務を遂行出来る人員はいない」
任務概要がディスプレイ上に展開された。編成は全7名、いずれも陸軍出身の熟練者たちだった。出立は24BH後。フィリスは日程表示から一度だけ視線を外し、任務完了予定時刻を確認した。ウィリアムは画面を見たまま、何も言わなかった。
「質問はありますか?」
マーサの問いに、フィリスは首を横に振った。ウィリアムは一拍遅れて、同じ動作をした。
「では、準備に入ってください」
フィリスは敬礼し、ウィリアムより半歩早く司令室を出た。続いて司令室を出ようとしたウィリアムに、マーサは声をかけた。
「…スーザンのこと、本当にごめんなさい。デンモビウム溶剤が枯渇しても、再利用で数日保たせることは出来るし、コールドスリープモードの強化で脳の壊死を防ぐことも検討している。貴方が戻ってくるまで、我々も全力を尽くすわ」。
ウィリアムは顔を半分だけマーサに向け、数秒間その目を凝視した。その後彼はほんの僅かに頷き、部屋を出た。
オーパス・シティ医療区画は、常に一定の照度と気圧に保たれている。時間帯を示す要素はなく、外界の状況は切り離されていた。ウィリアムは認証パネルに手をかざし、病室に入った。
完全治療溶液のプールは静かだった。デンモビウム溶剤の循環音が、低く一定のリズムで響いている。スーザンは、前回と同じ姿勢で溶液に浸されていた。モニターに表示された数値は、すべて基準範囲内に収まっている。
「状態は?」
ウィリアムの問いに、夜間対応の医療AIが答える。
「安定しています。数値変動はありません」
「溶剤供給が途切れた場合は?」
AIは間髪入れず回答する。
「状況にもよりますが、不可逆的な神経損傷が始まります」
ウィリアムはそれ以上質問せず、プール越しにスーザンの顔をじっと見つめた。そして、病室を去った。
病室の外、連絡通路でフィリスは壁面端末を操作していた。非公式ルートの走行データが、彼の視界に展開されている。短縮ルート、過去の未帰還例、気象条件と原生生物の活動時間帯。ルート条件の入力中、端末は警告表示を三度出した。フィリスはそれらをすべて無視し、ローカルにデータを保存した。
居住区画の個室に入ると、ウィリアムは反射的に扉を閉めた。ロックが掛かる音を確かめてから、壁面端末を起動する。医療局の更新データが表示されると、彼は一瞬だけ視線を逸らした。
表示を何度も見直す。溶剤の残量、消費曲線、停止後の予測。どの画面も、同じ結論を違う形式で繰り返しているだけだった。ウィリアムは指を止め、額に手を当てた。
彼は移動ログを呼び出した。短縮ルート設定内容をもう一度確認する。AIが示した予測を見て、彼は小さく息を吐いた。思っていたよりも現実的な数値だった。かなり困難ではあるが、不可能ではない。
「……ふざけるな」
ウィリアムの表情に、初めて怒りが浮かんだ。
こうなることはずっと予想していたはずだ。スーザンが亡くなる夢を見て目が覚めることは数え切れない。スーザンが回復する夢は月に2回ほどだ。後者の方がより残酷で、ウィリアムはトランキライザー無しでの睡眠は不可能な状況に陥っていた。何度も、何度も予想したことだった。
彼は椅子から立ち上がり、数歩歩いてから立ち止まった。フィリスさえ、俺を信じてくれたら。
ウィリアムは再び端末に向き直った。警告表示の上から設定を確定させる。指先がわずかに震えていたが、止めなかった。
「ふざけるな。このままでは終わらせない」
同じ時刻、医療区画。マーサは病室の前で立ち止まり、たっぷり2分は躊躇した後に入室許可を求める動作を行なった。扉が開く。溶剤循環の音が、以前と変わらぬ調子で流れてくる。その音を聞いた瞬間、記憶が重なった。
シティ内部の氷柱崩落にスーザンが巻き込まれたとき、マーサはわずか30mほど離れた場所にいただけだった。緊急センサーも作動しなかった。シティ・セットアップの動乱時で、いろいろなことが回っていない最中の事故だった。
折れ曲がったスーザンの体、慌ただしく走り回る医療班、判断を求める視線。今でも目の前に焼き付いている。
マーサは治療槽に近づき、ファイバーガラス越しにスーザンを見下ろした。状態は安定している。その言葉が、どれほど無力かも知っていた。彼女は手袋を外し、ガラスに触れた。
「……ごめんなさい」
声は低く、震えていた。
やがてマーサは深く息を吸い、手を離した。
23BH後。整備区画では、輸送バギーS10の動力音が響いていた。フィリスは壁面端末に表示された設定を確認し、修正点がないことを確かめている。ウィリアムが区画に入り、話しかけようとした。「フィリス、補給任務のことだが…」
フィリスは何も言わずに画面を共有表示に切り替え、ウィリアムに向けた。彼は表示をじっと眺め、その後自らの端末へ手を伸ばす。
「…俺が計算したのと同じだ」
「ああ」
それ以上の確認はなかった。ウィリアムは認証操作を進め、表示が切り替わるのを見届けた。設定が固定される。
「司令部には?」
「正規設定のまま残る。GPS追尾はダミーモードが使える。せいぜい12BHが限度だが、ルートを確定する時間稼ぎには十分だ」
「…上等だ」
ウィリアムは端末から手を離し、フィリスの手を固く握った。フィリスも力強く握り返す。
そのままバギーの外装に触れた。冷たい感触が現実に引き戻す。戻ってこなければ意味がない。
フィリスが最終チェックを終えると、エンジン出力が一段上がった。外部ゲートが開き、雪と冷気が流れ込む。2人はバギーに乗り込む直前、短く息を整えた。
バギーは勢いよく、ベータの凍てついた大地を疾走し始めた。