これは、
ほんの少しだけ大人が早く気づいていたら、
「嘘」が誰かを壊す前に、
違う結末に辿り着けたかもしれない話だ。
事務所の空気は、張りつめていた。
「……妊娠、した」
壱護社長は、椅子に深く腰掛けたまま、少し背中を丸めている。
ミヤコは何も言わず、ただアイを見ていた。
アイは笑わなかった。
冗談みたいに流すつもりも、なかった。
しばらくして、壱護社長がゆっくりと息を吐く。
「……相手の男は誰だ?」
アイは、一瞬だけ視線を落としてから、顔を上げた。
「……付き合ってる人」
それ以上、すぐには言わなかった。
壱護社長も、急かさない。
「私ね」
アイの声は静かだった。
いつもの軽さも、はぐらかす癖もない。
「“愛してる”ってことが、まだ分かんないんだ」
ミヤコが、ほんの少しだけ目を見開く。
「好きとか、一緒にいたいとか、
守りたいって思う気持ちがあっても、
それが愛なのかどうか、自信がなくて」
アイは、言葉を探すように一度だけ唇を噛む。
「でもさ」
顔を上げる。
「その人を助けたいって思った」
壱護社長の肩が、わずかに揺れた。
「今、すごく苦しんでる。
一人じゃ、どうにもならない場所にいる」
アイは、逃げなかった。
「だから、決めたの。
一人で抱えるの、やめるって」
そして、はっきりと。
「会ってほしい人がいる」
壱護社長は、しばらく黙っていた。
叱責も、怒声もない。
「……未成年か」
「うん」
それだけで、十分だった。
壱護社長は、ゆっくりと顔を上げる。
「……分かった」
低い声。
重さを受け止めるための声だった。
「まずは、大人が動く」
その言葉に、ミヤコがそっとアイの肩に手を置く。
迷いの前じゃない。
決断のあとに、寄り添う手だった。
アイは、ようやく息を吐いた。
⸻
それから、アイは話した。
全部を細かく説明したわけじゃない。
でも、隠さずに。
どんな立場に置かれていたのか。
どれだけ長く、誰にも止められなかったのか。
そして――今も、その影響から逃げきれていないこと。
「一回の話じゃない」
アイは淡々と言った。
「ずっと続いてた。
周りの大人が、気づいてなかったふりをしてた」
話し終えたあと、部屋は静まり返った。
さっきまでとは、空気が違う。
社長は、肘をつき、指を組む。
もう、椅子にもたれてはいなかった。
「……これは」
言葉を選ぶように、間を置く。
「スキャンダルの話じゃないな」
ミヤコが、小さく頷く。
「保護が必要な話よ」
社長は、深く息を吸って、吐いた。
「……大人が、止めなきゃいけない話だ」
それは、誰かを責める言葉じゃない。
責任を引き受ける言葉だった。
「会いに行こう」
「――カミキヒカルに」
その名前が出た瞬間、
この話は、もう後戻りできなくなった。
アイは、何も言わずに頷いた。
この人たちは、もう逃げない。
そう、分かっていた。
がんばった