会って欲しい人がいる。
着いてきて。
アイは、それ以上何も言わずに歩き始めた。
電車に乗り、バスに揺られ、しばらく歩いて。
そうして辿り着いた先は、苺プロダクションだった。
「ここは……」
苺プロダクション。
アイの所属する芸能事務所だ。
お世辞にも大手とは言えないが、社長の斎藤壱護は業界でも顔が広く、かなりのやり手だと聞いたことがある。
「ここだよ」
そう言って、アイは迷いなく扉を開けた。
案内されたのは、会議室と書かれたプレートの掛かった部屋だった。
中に入ると、すでに二人の大人が待っていた。
一人は、強面で、サングラスを掛けた男性。
もう一人は、柔らかい雰囲気の女性。
「はじめまして、だな」
「苺プロの社長をやっている斎藤壱護だ」
低い声で、一護社長は僕から目を離さずそう言った。
隣に立つ女性が、軽く会釈をする。
「壱護の妻のミヤコです」
アイが僕に会わせたいと言っていたのはこの人たちのことなのか。
どうして、ここに呼ばれたのか。
何を話されるんだろう。
分からないまま、色んなことを考えてごちゃごちゃになった頭のままで、椅子に座る。
アイは、僕の隣に腰を下ろすと、
しばらく何も言わなかった。
指先をぎゅっと握りしめて、
一度だけ、小さく息を吸う。
「ヒカルくん」
「……私ね、たぶん君が思ってるより、君のことちゃんと見てる」
「だからさ、全部話そうよ」
一度、言葉を区切ってから、アイは続けた。
「君のこれまでのことも、私のことも」
「私たちのこともさ」
その一言で、空気が変わった。
アイは本当に全部を話した。
母親からの愛を受け取れなかったアイ自身のこと。
愛が分からないということ。
そして、歪んだ愛を受け止め続けている僕のこと。
僕が何をされてきたかということ。
姫川愛梨のこと。そしてその子供の真実も。
また、僕たちの出会いのこと。
妊娠のことも。
途中、言葉に詰まる場面もあった。
それでも、アイは嘘をつかなかった。
壱護社長は、黙って話を聞いていた。
ミヤコさんは、時折、辛そうに目を伏せていた。
やがて、話し終わると、しばらく沈黙が落ちた。
「……なるほどな」
社長が、重く息を吐いた。
「ヒカル君」
社長は、そこで一度言葉を切った。
「君は、どうしたい?」
社長が僕にそう言った。
頭が真っ白になった。
アイに会わせたい人がいると言われてから、
ここに来るまで、ずっと現実味がなかった。
まるで夢の中の出来事のようだと思った。
僕はどうしたいんだろう。
相変わらず、頭は真っ白だった。
だけど、気がついた時には僕の目からは涙がこぼれ、僕の口は勝手に言葉を紡いでいた。
「........たすけて」
「たすけてください」
「ああ、わかった」
壱護社長は、はっきりと言った。
「あとは任せろ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に溜まっていた何かが、静かに崩れた。
僕は、ずっと誰かに助けてもらいたかったんだ。
本当は、愛梨さんからの行為が気持ち悪くて仕方がなかった。
こんなことを話せるのはアイだけだった。僕と同じアイだけ。そう思っていた。
僕は、本当は逃げたかったんだ、愛梨さんから。
僕はただ普通の愛が欲しかっただけだったんだ。
僕の嘘の仮面が壊れたような気がした。
僕は泣いた。ただ泣いた。
アイは何も言わず、僕のそばに居てくれた。
その後のことは、正直あまり覚えていない。
気がつけば、話は具体的な手続きの話になっていて、
いつの間にか、僕のこれまでの生活は、静かに終わりを迎えていた。
姫川愛梨のことは、
気づけば「事件」として処理されていた。
全部が、あまりにもあっけなく、
現実味のない出来事だった。