後藤さんと二人並んで教室を覗き込む。
私は一度教室に戻って取ってきたスケッチブックに文字を書いた。
『あの子だよ』
教室の手前側、廊下に近い席で件の少女は友人たちに囲まれて笑っていた。肩までの赤みがかった髪が、動くたびに軽く揺れる。
先ほどの噂話だ。私の話題に変わるその前、『喜多ちゃん』という子も少し前までバンドを組んでいたという話を聞いた。全くの初心者を勧誘するよりかは経験者の方が誘い易いだろうという判断だ。
「あっ、かわいい」
後藤さんの呟き。
私も頷いて同意する。
『前のバンドではボーカルだったらしい。ギターも弾けるって』
「うっ、あんなに可愛くて、人望もあって、その上ギターも弾けるなんて……アイデンティティが、私のアイデンティティが崩壊する……!」
ぶつぶつと呟きながら頭を抱えている。パリーンパリーンという音まで。その異音は一体どこから鳴っているのだろうか。
『それで、どうする?』
そう書いて見せると、後藤さんは、はっと我に返ったように顔を上げる。
「あ、そ、そうですよね。落ち込んでる場合じゃなくて」
バンドメンバーの候補を探すのは手伝うことにしたが、実際に勧誘するかどうかは後藤さんが決めることだ。
「……あんないかにも陽キャな女の子が、私なんかが居るバンドに入ってくれるでしょうか」
『それはまあ、わからないけど』
そんなの誘い方次第だろう。少なくとも、後藤さんがいわゆる陰キャと呼ばれる存在だからという理由だけで断ったりはしない……はずだ。正直私も陽キャの生態には詳しくないから確実なことは言えないが。
『なんにしても一度声をかけてみないと』
「で、でも、なんて声を掛ければ」
『私を誘った時と同じでいいでしょ』
「うぅ、はい、わかりました」
わかりましたと言いつつもその場に居座るので、行くなら早く行こうと肩を揺さぶるが、それでも動かない。
「ねぇ、あなた達、誰かに用事でもあるの?」
なんて、二人でうだうだとしていると、廊下側の窓から顔を出して声を掛けられた。件の喜多ちゃん……喜多さんだ。
これはチャンスだ。都合良くあちらから話掛けてくれた。
さあ勧誘するんだと、期待を込めて後藤さんを見るが、まあ予想通りである。すっかり萎縮して固まってしまっていた。
仕方がないので私は後ろからそっと後藤さんを押し出す。ここまで来て覚悟が決まっていないようで、助けを求めるようにこちらを見るが、私は知らんぷりをする。
「えっと、後藤さん……よね? もしかして私に何か用事?」
「あっ、ああああ、ええと!!」
視線は定まらず、言葉は喉の奥に絡まっている。
これは仕方がない。というより、私が悪い。手伝いたいからと言って少しだけ強引に連れてきた私が。だから、ここは一度退散して出直そう。今度はしっかりと後藤さんの覚悟が決まるのを待ってから。
そう判断して、後藤さんの袖を引こうとしたら──
「バッ! ボッ! ギッ!」
本日二回目のヒューマンビートボックス……ではなく、さっきは聞き取れなかったが、どうやら「『バ』ンドの『ボ』ーカルと『ギ』ターを」と言っていたようだ。わかるわけがない。
自分から声を掛けることが出来たのには偉いと褒めたいが、しかし、私に伝わらなかったことを繰り返してどうする。
とりあえず助け舟を出す。
『後藤さんがバンドに誘いたいって』
スケッチブックの文字を彼女に見せ、続いて一枚捲って追加で文字を書く。
『ギターボーカルを探してるんだって』
それに一瞬不思議そうな顔をしたが、スケッチブックの文字を読むと一転して申し訳なさそうな顔に変わる。
「……ごめんなさい。私、そのバンドには入れないわ」
「あっ、いや、私は暗いけど他のメンバーは明るくて……常に笑顔の絶えない職場で……」
「いや後藤さんが嫌とかじゃなくて」
「週末はBBQ半年に一度の球技大会ライブの打ち上げはリムジンだし行事盛りだくさんで……」
「そんなパリピなバンド嫌なんだけど」
本当に何を言ってるんだこの子。絶対そんな感じのバンドじゃないでしょうが。
『バンドに入れない理由があるの?』
聞いてみる。
辞めたという前のバンドのことがあるからだろうか。
「えっと……その前に少し場所を変えましょ?」
喜多さんに言われて、教室から視線が集まっていることに気がつく。昼休みだから当然人は多くいるのだ。
後藤さんと二人で頷いた。
▽
「その……正直に言うとね、私ギターを全く弾けないのよ」
場所を変えて先ほどの階段下。三人で並んで座ると、喜多さんはそう話し始めた。
「バンドの先輩目当てで弾けるって嘘ついて入ったの。結局何一つわからなくて逃げちゃったんだけど……」
喜多さんは脇に置かれていた後藤さんのギターケースを見つけ、開けていいかと許可を取る。
「ギターってこっちをジャンジャンするだけじゃないのね。この木の棒は飾りかと思ってた」
「えっ」
「そもそも初心者が一人で始めるには難しすぎるのよね……メジャーコード? マイナー? 野球の話?」
わからないの次元が違う。
思わず後藤さんと顔を見合わせてしまった。目が合うことなんてここまで無かったのに、それほど衝撃的だったのだろう。
あっ、逸らされた。
「だから一度逃げ出した私がもうバンドなんてしちゃダメなのよ」
俯き、呟くように言う喜多さん。
そして何故か後藤さんは私を見てる。
それに対して私は何もしないぞと意思表示。ここで諦めるのか、それとも変わらず勧誘を続けるのかは後藤さん次第だ。
果たして彼女は向き直り、けれど顔だけは器用に逸らしたまま、喜多さんの呟きよりも更に小さい声で言った。
「でっ、でも、ここで辞めたら一生そのこと引きずるんじゃ……」
「……うん、そうかもね。私もやっぱり後悔しているの」
時間が経つほど後悔は膨れ上がり、小さくなるどころか、形を変えて心に残り続ける。眠りに落ちる瞬間に、ふとした授業の最中に、何気ない日常の只中に、逃げてしまったという事実が重くのし掛かる。仕方がないなんて、無責任な言い訳を押し潰すように。
そんな喜多さんの独白。
自業自得だ、なんて彼女を切って捨ててしまうのは簡単だ。逃げたのは事実で、それを選んだのも彼女だから。
けれど、それだけで話を終わらせてしまうのも嫌だった。
動機は不純で、結果として逃げ出してしまったけれど、それでも、一度でもあの世界に踏み入れようとした彼女を見捨てたくはなかった。
『じゃあさ、やっぱり今からでもギターを覚えれば?』
「え?」
解消する術は、私は一つしか知らない。
逃げた事実を消すことは出来ない。後悔を無かったことにも出来ない。
ならば、その続きを。
次は逃げ出さないように。次は後悔しないように。もう一度、何度でも。
「で、でも、一人じゃどれだけやっても駄目だったし。それに今更……」
『今更なんてことはないよ』
我ながら陳腐な言葉だ。
綺麗事で、使い古されていて、つまらない。少し恥ずかしくなって、誤魔化すように続きを書いた。
『それに、先生ならここにいるじゃん』
ぽん、と後藤さんの肩に手を置く。
さっき喜多さんが言った通りだ。一人で始めてすぐに上達するなんて、まあ難しいだろう。ならば教えてもらえばいい。
見捨てたくないと言いつつも教えるのを後藤さんに押し付けるのはどうかと思うけれど、物事には適材適所というものがある。
私の指名を受けて後藤さんは一瞬ぎょっとした顔をしたあと、慌てて両手を振った。
「えっ、えっ、先生っ!? 私がですか!? む、むむむむむ無理ですよ!」
「うん、そうね。そうよね。それがいいわ!」
対して喜多さんは、ぱっと花が咲いたように表情を明るくした。
「後藤さん、メンバー集めを任されるくらいだもの、きっと教えるのだって上手だわ!」
「い、いや、これは自分からっていうか、勝手に探してるっていうか……それに、教えるなら藤原さんの方が向いてるんじゃ」
『私より後藤さんの方が良いと思うよ』
だって私は喋れないし。
喜多さんにもう一押しだぞと目で訴える。
「後藤さん、お願い! 今度こそちゃんとギターを弾けるようになって、前のバンドの先輩たちに謝りにいきたいの!」
「あ、ああああのぉ」
「いつ教えてもらえる? 放課後とか?」
「あっ、放課後はライブハウスでバイトをするので……」
「じゃあ合間でもいいから! スタジオとか併設されてない? ねっ、後藤さん、お願いっ!」
先ほどまでの落ち込みようは何処へやら、目を輝かせた喜多さんの一転攻勢に、ついに後藤さんは崩された。
「わっ……わかりましたぁ」
▽
話もひと段落ついたところで聞いてみる。
『ところで、何につまずいてるの?』
当然のことだが、私にも初心者だった頃があるわけで、思うように弦を押さえられなくて苦戦した思い出がある。教えるのは後藤さんの役目に落ち着いたが、ほんのアドバイス程度はしてもいいだろうと思ったのだが。
「えっとね、何が悪いのか本当にわからないんだけど、どれだけ練習してもちゃんとした音が鳴らないのよ。何か、ボンボンって低い音しか出せなくて」
ちゃんとした音が鳴らない? ボンボンって低い音? それってもしかして……
「あ、あの、それってもしかしてベースなんじゃ……」
「あはは、私そこまで無知じゃないって。ベースって弦が四本のやつでしょ? 私が持ってるのはちゃんと六本のものよ」
「……弦が六本のものもあります」
『写真あったりする?』
そんな馬鹿なことある訳が、なんて思いながら写真を見せてもらったが……
『これ多弦ベースだね』
「……あひゅっ」
喜多ちゃんがか細い鳴き声を上げて倒れてしまった。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「ローンあと三十回残ってるのに……」
うわぁ、それはショックだ。
楽器は安いものではない。すぐに買い直すなんて出来ないだろう。学生の身ならば尚更だ。
このままベーシストに転向するのも一つの手だが、しかしそれには喜多さんがあまりにも可哀想だ。
「…………」
私は少しだけ悩んで、スケッチブックに文字を書いた。虚な目で天井を眺めている喜多さんにそれを見せる。
『私のギターあげようか?』
「えっ!? いや、そんなの悪いわ! それに藤原さんだって弾くんでしょう?」
『もう弾かないから』
「……でも」
喜多さんの声は弱々しく、視線は床と私のスケッチブックの間を行き来している。遠慮と期待が同じ重さで揺れている顔だった。
『置いておくよりも弾いてもらった方が嬉しい』
それは嘘じゃない。
目に付かないようにクローゼットの奥で眠っているあのギターに、弦を張り替えることもケースを開く理由もとっくに失ってしまった私の相棒に申し訳なく思うから。
けれど、まあ、いきなりギターをあげるなんて言われても困るのは確かだろう。だから。
『なら貸すってことで』
「……えっと、本当にいいの?」
別にあげたって構わないのだが、この様子では喜多さんはなかなか受け取らないだろう。ならばこの辺りが落とし所だ。
『期限は決めないから、満足したら返してね』
そう書いてみせると、喜多さんは一瞬きょとんとして、それからふっと肩の力を抜いたように笑った。
「うん、もう一度頑張ってみるね。藤原さん……いいえ、莉子ちゃん!」
私は頷く。
声を失っても、音を失っても、こうして誰かの背中を押せるなら。少しだけ悪くないのかもしれない。