時が経つのは早いもので、気がつけば季節は移り変わり夏になっていた。
東京の夏は非常に暑く、日に日に増すばかりである気温に顔を顰めながらもなんとか私は生きている。
こうも暑い、いや、熱いとクーラーの効いた涼しい家から一歩も出たくないのだが、しかしアクティブな彼女は違うようで。
彼女。喜多ちゃんである。
相も変わらず元気で明るい喜多ちゃんは、灼熱の太陽が照らす地獄の屋外でも勢力的に活動していた。
それだけならば、へぇーすごいね、くらいの感想しか抱かないのだが、しかし自分にも関係しているのであれば話は変わってくる。
喜多ちゃんとの交流は未だに続いていた。それどころか、日が経つごとにその頻度が増えている気もする。仲良くしてくれるのはありがたいが、一体私の何を気に入ったのやら。
ともかく、私は今日も今日とて灼熱の炎天下、喜多ちゃんとお出掛けをしていた。
「莉子ちゃんってよく小説を読んでるけど、昔からそうだったの?」
ショッピングモールで洋服や雑貨を見て回っていた途中、普段から本を読まない喜多ちゃんには申し訳ないが、せっかく外に出たので少しだけ本屋に寄らせてもらっていた。
見るのは勿論ライトノベルである。
図書室で借りるだけでは飽き足らず、自分で買いに行くようにもなっていた。ここ最近では読み終えた本が自室の床に溜まり始めてきたのでそろそろ本棚を買うべきかと悩んでいるところだ。
『読むようになったのは最近だよ』
「へぇ、そうなのね。何かきっかけとかあったの?」
問われて、少し考える。
きっかけか。手持ち無沙汰を慰めるためではあったけれど、そういえば、なんで私はライトノベルを選んだのだったか。結果として私にはライトノベルが性に合っていたとはいえ、何処かに始まりは存在するはずで。記憶を少し過去に飛ばしてみる。
……あれは、そう。四月に図書室に行くよりも、もう少し前の話。たしか最初に興味を持ったのは私が部屋に引き篭もっていた時だが──
「…………」
あまり愉快でない記憶の蓋が開きそうになって、私は考えるのをやめた。まあ、理由なんてどうだっていいだろう。ただの世間話だ。変に空気を暗くするのも私の望むところではない。
『なんとなくだよ』
「ふーん」
特に変な空気になることもなく、私はライトノベルを物色する作業に戻る。本を手に取って裏表紙に記載されたあらすじを追う私の目はそれなりに真剣だ。
というのも、単純に当たり外れの振れ幅が大きいのだ。これは何もライトノベルに限った話ではないけれど。それにタイトルからしてわかることだが、似たような内容の物も多い。いくら好きで読むのが趣味になっているとは言っても、それだけを読み続けていては飽きてしまうのだ。
財布に余裕はあるが、あまり無駄遣いをするのは性に合わない。
「ねぇ、私でも読めそうなのあるかしら」
喜多ちゃんが? ライトノベルを?
不意を突かれて、手に持っていた本から視線を上げて彼女を見る。
こう言っては喜多ちゃんにもライトノベルにも失礼だが、キラキラとした青春を送っている彼女には合わないのではないか。
そんな偏見じみた考えが頭の中を駆け巡るが、読む前からそうと決め付けるのも良くないなと、内心にそっと引っ込める。
しかしそんな私を察したのか、喜多ちゃんは苦笑しながら言う。
「だめ?」
『ダメなんてことはないけど、意外だなって』
「あはは、確かにそうかも。でも莉子ちゃんがそんなにハマってるなら、ちょっと気になるじゃない」
そう言って興味深そうに棚を眺める彼女は正直場違いで。けれど私の好きな物に興味を持ってくれたことには嬉しくて。私はまた一歩、彼女に近付いてしまう。
『これとか読みやすいよ』
「可愛い絵ね。どんな話なの?」
分類的にはライトノベルだが、所謂オタクっぽさの薄い恋愛小説だ。私も読んだが、異世界ファンタジーを好む私からすれば少々物足りなく感じてしまう、言ってしまえば普通の小説。けれど人におすすめ出来る良い作品だった。
「へぇ、こういうのもあるのね。ライトノベルって莉子ちゃんが読んでるようなのしかないと思ってたわ」
喜多ちゃんは手に取ったまま、ぱらぱらとページを捲る。文字を追うというより、雰囲気を確かめるような仕草だった。
「……うん、買ってみる」
ニコニコと、いや、どちらかと言えばニヤニヤとしながら言う。その表情が妙に引っかかって、私は思わず眉を顰めた。
『なに、その顔』
「え、私変な顔してた?」
『ニヤニヤしてた』
まあ、そんな顔をしていても可愛いのだが。
「だって、あんまり自分の好きな物とかを教えてくれない莉子ちゃんがおすすめしてくれた本だもの」
喜多ちゃんは本を胸に抱え直して、もう一度表紙を眺める。本の内容よりも、所有することそのものを楽しんでいるような仕草だ。
「ね、これ読み終わったら話そうよ」
『感想会?』
「うん。映画とかドラマもそうなんだけど、私、感想会とかするのが好きなのよ。小説とかあんまり読まないから、ちょっと時間が掛かっちゃうかもしれないけど……だめ?」
そう首を傾げられてしまえば、抵抗なんて最初から出来るはずもない。最近気付いたことだが、私はどうやら彼女に可愛い顔でお願いされることに弱いらしい。私が暑い中外に出るのもこれが理由だ。
『私ももう一度読むから、感想会やろっか』
「やった」
即座に返ってきた小さなガッツポーズ。こんなことで喜ばれると、なんだか調子が狂ってしまう。
『時間は気にしなくていいから、喜多ちゃんのペースで読んでね』
「うん、絶対に読むから」
やたらと気合が入っているような言い方だ。
思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、私は曖昧に頷いた。
「あ、でも、途中で眠くなったりしたらちゃんと寝るからね?」
『それは宣言しなくていいよ』
くすっと笑う彼女は、やはり何処か浮き足立っていて。
たった一冊の本だ。なんの変哲もないライトノベルだ。それなのに、おすすめしただけでこんなにも機嫌が良くなるのかわからない。
わからないが、彼女が楽しそうでいてくれるなら、それでいいと自分に言い聞かせるように思った。
▽
ガチャンと鳴るドアの音。暗い部屋。
私の部屋は相変わらず静かで、一人分の呼吸だけがある。
外ではあんなに人の声があって、色があって、音があったのに。ドア一枚隔てただけで、世界はこんなにも簡単に切り替わる。
ようやく独りにも慣れてきたところだったのに、最近ではまた人との関わりを得てしまった。
良いことなのか、悪いことなのか。それはわからないけれど、ただ、独りで居るのが寂しくなってしまうのは考えものだった。
最近の自分はどうにもおかしい。
精神的に安定しないというか、常に後ろ向きになっているというか、とにかく、面倒くさくて鬱陶しい人間になっている。私はそんな人間ではなかったはずなのに。
人と過ごす時間なんて、もう必要ないと思っていた。
人と関われば、また期待してしまう。
期待すれば、失う可能性が生まれる。
それを繰り返して、私はここに辿り着き、そうして、独りで完結する毎日をようやく受け入れられるようになったはずだった。なのに、一度入り込んだ温度は、簡単には抜けてくれない。
胸の奥に残ったままの、その温度が厄介だった。熱いわけでも、痛いわけでもない。ただ、無視しようとすると存在を主張してくる、そんな曖昧なもの。溜め息を溢しても、それは消えてくれなかった。
──初ライブの日が決まったの。
少し弾んだ調子で、けれど何処か不安を隠し切れないような表情で、彼女が言った言葉を思い出す。
対して、私はどんな顔をしていただろうか。驚いたふりをしたのか、素直に笑ったのか。思い出そうとしても、肝心なところだけが酷く曖昧だ。
すぐ側に放り投げていたスケッチブックをパラパラと捲ってその文字が書かれたページを開く。私の書いた返事だ。
少しだけ力の入った字だった。努めて丁寧に書こうとした結果か、無意識的に筆圧が強くなっている。後から見返すと、感情は案外こういうところに滲むものだ。
『初ライブ楽しみにしてるね』
それは期待と励ましを込めた言葉だったけれど、それが今になって引っ掛かる。
楽しみにしている。
本当だ。それに嘘は無い。
けれど……そう。あの時に書いたのは、私自身の言葉というより、求められている返事だったのではないか。そう思うと、途端に文字が白々しく見えてくる。
独りでいるのが寂しく思い、けれど彼女と話していると自分でもわからない感情に支配される。
私は何を恐れているのだろう。
また独りになることか。大切な物が増えてしまうことか。それとも、何かに期待することか。
答えが出ないまま、視線を落とし、文字を指で摸る。
その文字が、スケッチブックの紙よりも更に薄っぺらく感じて。けれどその感情の正体はわからなくて。
──うん、絶対に聴きに来てね!
そう言った喜多ちゃんの幸せそうな表情が。声色が。状況が。
何故だろう。
少し、嫌だ。