ギターと孤独とあと私   作:伊島蒼

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7. 嵐の中をここまできたんだ

 

 

 大粒の雨が傘を叩く。

 ライブ当日であるが運悪くも台風と重なってしまい、空の機嫌は前日からずっと悪いままだった。風に煽られて傘は何度も持っていかれそうになり、その度に柄を握る手に無駄な力が入る。

 こんな天気ではあまり多くの客入りは見込めないだろう。少し喜多ちゃんたち結束バンドが心配になる。彼女が相応の努力をしていたのを私は知っている。昼休みも、放課後も、バンドの為に時間を使っていたのを知っている。だから、こうなってしまったのは本当に残念だった。

 しかし、そうは思っていても、ライブハウスに足を運ぶのはどうにも気が重かった。

 特にあの人たちを思い出す頻度が増えてきて、喜多ちゃんと後藤さんに私自身でもわからない感情を抱いてしまっているこの頃では尚更だ。

 足元を跳ねる雨水を避けながら歩く。靴の中まで濡れてしまいそうで、自然と歩幅が小さくなる。

 それでも足は止まらない。止めたい気持ちと、行かなければならないという意識が、曖昧な均衡を保ったまま足を前へ進ませていた。

 一歩ずつ、ライブハウスに近づく度に私の心は曇っていく。この空のように雨が降ったりはしないけれど。

 ライブハウス、スターリーの看板が見えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。ネオンは雨に滲み、輪郭を失って揺れていた。まるでここに来る資格があるのかを、無言で問いかけられているみたいだった。

 入口の前で、一度だけ立ち止まる。深呼吸をしようとして湿った空気が肺に入り込み、うまくいかなくて咳き込みそうになる。傘を畳む指先が妙にかじかんで、布が思うようにまとまらない。そんな些細な不器用さが、今の私そのものに重なって、余計に情けなくなる。

 

 ──大丈夫だ。

 

 誰に向けた言葉なのかもわからないまま、心の中でそう繰り返す。彼女たちの演奏を聴きに来ただけだ。ただの観客として、当たり前の顔をして立っていればいい。それ以上でも以下でもない。

 

 ライブハウス内は、外の嵐とは切り離された別の世界が広がった。湿った匂いと機材の金属臭、かすかな照明の熱。フロアには、やはりと言うべきか、人の数が極端に少なかった。

 ホール内を見渡し、まだ誰もいないステージが目に入った。マイクスタンドとアンプ、ドラムセット。静止しているはずなのに、そこにはすでに音の気配があった。

 この場所で、喜多ちゃんは歌う。
 後藤さんは、ギターを鳴らす。

 そう思っただけで、胸の奥がざわつく。期待と、不安と、名前を付けられない感情が絡まり合って、ほどけない。けれど同時に、ここに来なければならなかった理由も、確かにこの胸の何処かにあった。

 

 

 ▽

 

 

「あっ! 莉子ちゃん、来てくれてよかった〜!」

「この子が前に言ってた?」

「そうです! 色々相談とかにも乗ってくれて──」

 

 ライブハウスに足を踏み入れてすぐ、喜多ちゃんと後藤さん、それから他のバンドメンバーも集まってきた。

 

『初めまして、藤原莉子です』

 

 スケッチブックを捲る。

 

『諸事情あって喋れませんので、筆談で失礼します』

「私はドラムの伊地知虹夏。こっちはベースの山田リョウ。よろしくね!」

「よろしく」

 

 スケッチブックの文字を見せても驚かない。

 喜多ちゃんか、後藤さんから前もって聞いていたのだろう。ありがたい気遣いだ。

 

「喜多ちゃんからよく話聞いてるよ〜」

 

 伊地知さんはそう言って、にこっと人懐っこい笑顔を向けてきた。喜多ちゃんと同様に距離の詰め方が自然で、悪意がなくて、私には少し眩しい。

 

『悪い話じゃないといいんですけど』

 

 それを誤魔化すように、冗談めかして書いてみる。

 

「全然! 一緒に遊びに行った話とかギターの練習に付き合ってくれた話とか、あとはもっと仲良くなりたい〜とか!」

「あっ! 伊地知先輩、それは内緒にしといてくださいって言ったじゃないですか〜!」

「え〜? そうだっけ〜?」

 

 可愛らしく声を上げる喜多ちゃんと、楽しそうに首を傾げながら笑う伊地知さん。心配していたわけではないが、喜多ちゃんも上手くやれているようで安心した。

 

「でもよかったよ、一人でもお客さんが来てくれて」

「本当ですよ。莉子ちゃん以外の友達もみんな来れないって言うし……台風だから仕方ないけど、ちょっと残念」

 

 喜多ちゃんはそう言って、苦笑いを浮かべた。言葉の端々に滲む落胆は隠しきれていなくて、だからこそ無理に明るく振る舞っているのがわかる。

 

『今日のライブ、楽しみにしてる』

 

 気の利いたものでも、背中を押す強さのある言葉でもない。けれど、それは今の私が送れる精一杯の励ましの言葉だった。

 

「……莉子ちゃん、ありがとね」

 

 少しだけ表情を引き締めて言った。

 やはり逆効果だっただろうか。なんて、考えたのは一瞬だけだった。彼女は両頬をぺちんと叩き、表情を揉みほぐす。

 

「ちょっと不安だし、お客さんが少ないのもショックだけど……莉子ちゃんが楽しみにしてくれるなら、それで良いよね」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 私はスケッチブックを持ち上げて、何か返そうとして──結局言葉は書かずに、ただ小さく頷いた。それで十分だと、今は思えたから。

 

「……よし」

 

 喜多ちゃんはそう言って、軽く肩を回す。


 無理に明るく振る舞っているわけでも、全部吹っ切れたわけでもない。それでも、さっきよりほんの少しだけ前を向けている表情だった。

 丁度、その時のこと。

 

「ぼっちちゃんきたよぉ〜」

 

 場違いなほど間延びした声が、ライブハウスの入口から転がり込んできた。

 振り向くと、階段を降りてくる影が一つ。足取りはふらふら、手すりに軽く体重を預けながら、どうにかバランスを取っている。

 若干呂律の回っていない声。危うい調子で階段を降りてくる姿。絵に描いたような酔っ払いだった。

 私は一歩、身を隠すように下がる。その行動が無意味だとわかっていたれけど、身体は反射的に動いてしまった。

 

「帰れ酔っ払い」

 

 奥のカウンターから少し目つきの悪い女性が現れて、その酔っ払い……廣井さんに向かって切り捨てるように言った。

 

「えぇ〜、ひど〜い!」

「……えっと、店長さんの知り合いなんですか?」

「私の大学の時の後輩なんだよ」

 

 後藤さんに店長さんと呼ばれた女性は額に手を当てながら小さくため息を吐いた。

 

「で、なんでお前いるんだよ」

「ぼっちちゃんのライブを観にきたんですよぉ」

「なに、お前ぼっちちゃん目当てで来たの?」

 

 その質問に答える前に、廣井さんの視線は私を捉える。反射的に逸らすが、手遅れだった。

 

「あれ? りこちゃんもいるじゃん! ひさしぶり〜」

「聞けよ……お前この子とも知り合いなの?」

「この子、FOLTでもたまにライブやってたんですよ。ね〜?」

 

 厄介な人に出会ってしまった。いや、別に廣井さんのことは嫌いではないけれど。それでも、やっぱりバンド関係の知り合いに会うのは少し気まずい。特に今は。

 

『お久しぶりです』

「……あー、元気にしてた?」

『はい。廣井さんも元気そうでよかったです』

「まぁ私にはこれがあるからねぇ」

 

 手に持ったカップ酒を揺らす。

 少しだけ羨ましくもある。けれど同時に良かったとも。

 今の私に酒があったら廣井さんと同じようになっていたかもしれない。流石にあんな醜態を晒すのはちょっと、いや、かなり嫌だ。

 

「ね〜ね〜、今日のライブの打ち上げするよね? 居酒屋もう決めた?」

 

 私たちの間に流れた若干の気まずい空気を払拭するように廣井さんは店長の方に向き直った。酔っ払い故のだる絡みにも見えるが、これは廣井さんの優しさだろう。

 

 その後も後藤さんのファンらしき人が来たり、ちらほらとではあるが他のお客さんが入り出したので、私は輪を外れて壁沿いに立っていた。

 

「……オンエア、好きだった」

「…………」

「だから会えて嬉しい」

 

 いつの間にか隣に立っていた山田さんがぼそりと言った。

 NOW ON AIR。略してオンエア。私の所属していたバンドの名前だ。

 少しだけ、私のことを知っていたことに驚く。

 喜多ちゃんも後藤さんも、私がバンドを組んでいたことは知っているけれど、気を使ってくれているのか、それ以上は踏み込んでこない。

 それに、私が活動していたのはたったの一年未満だ。ボーカルを交代して、あの人がいなくなるまでの一年未満。その間にドラマの主題歌なんかもやったが、露出はそこまで多くはなかった。だから全く気づかれていないと思っていた。

 ……いや、別に不思議でもないか。一応メジャーバンドだったし、そりゃあ知っている人は知っているだろう。

 

『ありがとう』

 

 私が返したのは感謝の言葉だった。

 気が付かれない方が良かったとは思うけれど、しかし、私たちのバンドを憶えていてくれる人がいるのはやはり嬉しい。

 

「……ん」

『他のみんなも私たちのバンドのこと知ってるかな?』

「流石にバンドのことは知ってると思う。でもたぶん気づいてないかな」

『これ以上気を使わせたくないから、秘密にしてほしいな』

「ん、わかった」

 

 短くそう返して、山田さんはそれ以上踏み込んでこなかった。詮索もしないし、慰めもしない。ただ事実として受け取って、そこで止めていてくれる。その距離感がとてもありがたかった。

 

「リョウ! そろそろ行くよ!」

 

 伊地知さんの呼ぶ声。山田さんは壁から背を離し、そちらへ向かう。その背を見送っていると、入れ替わるように喜多ちゃんがこちらへ小走りで寄ってきた。

 

「莉子ちゃん! 私、頑張るから!」

 

 真っ直ぐで、キラキラとしたその瞳を何故だか見ていられなくて、そっと視線を逸らしながら、私はスケッチブックに文字を書く。

 

『頑張って』

「うん!」

 

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