これが本当の8話目です。
街の中で偶然聴いたその曲が、何故だか耳を離れなかった。足を止めて、ただなんとなく、スマホでその曲を調べてみた。そんな、何処にでもありふれた、バンドとの出会い。
それが変化したのもまた、偶然だった。
CDを買い、ライブに足を運び、時が経ってボーカルが脱退して、活動を休止して。忘れたくなくて、真似をしてギターを弾いて、なんとなく気が向いたから公園で歌ってみて──そうして、彼女と出会った。
「人の曲をつまらなそうに歌ってるんじゃねぇよ」
彼女は言った。
いきなり現れて、いきなりそんな言葉を浴びせかけて、なんて失礼な人なんだと思った。
けれど、今にして思えば、退屈そうに歌う私の方こそ失礼だったのだろう。自身を慰めるためだけの雑に鳴らしたギターも、言葉をなぞるだけの歌声も、その全てが。彼女の曲は、歌は、そうやって扱っていいものじゃなかった。
だから私はその言葉に何も返せなかった。
図星だった、というほど明確な自覚があったわけじゃない。ただ胸の奥を指でなぞられたような、妙な居心地の悪さだけが残った。弦を押さえたままの左手が、わずかに震えていたのを覚えている。
それからしばらく、彼女は公園に現れた。私もまた、公園に足を運んだ。
その度に文句受け、アドバイスを受け、時に関係の無い話をして、少しずつ音を形にしていった。
中学三年のことである。
▽
柔らかなクッションから伝わる規則的な揺れに身を任せている内に、いつの間にか眠っていたらしい。座って寝ていた所為だろう、首筋が少しだけ痛かった。
停車している電車の窓から現在地を確認する。
目的地まではまだ遠く、微かな眠気が残っていたのでもう一眠りしようかと思っていると、一つ開けて隣に座っていた老婆に声を掛けられた。
「大丈夫? 酷い顔してるわよ」
そっと右手で頬に触れる。
見ず知らずの他人に心配されるほどに酷い顔をしているのだろうか。
とはいえ、老婆の言う通りに酷い顔をしているだろうというのはなんとなく予想がついていた。ここ最近、あまり眠れていないのだ。
とりあえず返事を、と思ってスケッチブックを探すが、そういえば今日は持ってきていなかったのだった。まだ少し寝ぼけているらしい。
代わりにポケットからメモ帳を取り出して文字を書く。
『大丈夫ですよ』
「……あら、あなた」
その先を汲み取るように、私は頷いた。
「そう……喋れないのね」
驚いた様子は長く続かなかった。まるで最初からそういうものもあると知っていたかのように、自然な受け止め方だった。
発車を告げる電子音が流れ、軽い揺れと共に電車がゆっくりと動き出す。レールを擦る低い振動が足元から座席へと伝わり、窓の外の景色がゆっくりと流れ始めた。
昼下がりの車内は空いていた。数人の乗客がそれぞれスマホを眺めたり、目を閉じたりしているだけで、老婆以外の話し声はない。
老婆は私をじっと見て、それから少し身を乗り出した。
「でもねぇ、大丈夫って顔じゃないわよ、それ」
メモ帳を持つ手が、ほんの少しだけ止まる。指先に感じる紙のざらつきがやけに鮮明だった。
「年寄りってのはね、暇だから人の顔ばっかり見てるの。だからわかるのよ……疲れている子も、泣きそうな子も、ね」
含蓄のある言葉だ。
そこには余計なお世話も含まれているけれど。
私はメモ帳にペンを走らせる。
『そんなにですか?』
「ええ、随分と」
電車はゆっくりと速度を上げ、線路の継ぎ目が規則的に車体を揺らす。吊り革が小さく触れ合って、かすかな金属音を立てていた。
「今は夏休み?」
『はい。なので少しだけ遠出しようかと言って』
「いいわねぇ、若い子の遠出は」
窓の外では、強い日差しに照らされたアスファルトが白く光り、蝉の鳴き声が閉じた窓越しにもかすかに聞こえる気がした。
「行くのは親戚のお家?」
『いえ、お世話になった人に会いに行くんです』
「あら、それはまたいいわねぇ」
電車は直線の線路に入り、揺れが少しだけ穏やかになる。車内の空気は夏の匂いを含んでいて、冷房の風が時折、前髪をかすかに揺らした。
老婆は私の顔をしばらく眺めていたが、やがてふっと視線を窓の外へ移した。私もまた、同じように窓の外を眺める。
窓の外では、低い建物の屋根が連なり、その向こうに入道雲がゆっくりと広がっていた。真昼の光は強く、線路脇の草の影までくっきりと浮かび上がっている。
電車は同じ速さのまま走り続け、時折、対向列車が風を巻き込んで横を駆け抜けていった。そのたびに車体がわずかに揺れ、吊り革が小さく触れ合う。
そのまましばらく沈黙が続く。
話しかけてきたのは向こうなのに、今はもう無理に会話を続ける様子はない。ただ同じ方向を見ているだけの、奇妙に落ち着いた時間だった。
やがて車内アナウンスが次の駅名を告げる。
それを聞いて、老婆は小さく「あら」と声を上げた。
「私、ここだわ」
そう言って、膝の上に置いていたバッグを持ち上げる。立ち上がる前に、もう一度だけこちらを見た。
さっきまでと同じように、どこか人を見通すような視線だったが、その表情は先ほどよりも少しだけ柔らかい。
電車が減速し、ホームが窓の外にゆっくりと現れる。
老婆は通路に出て、吊り革を軽く掴みながら立った。扉が開く直前、ふと思い出したようにこちらを振り返る。
「顔を見れば事情がわかるなんてことはないけどね……でも、もう少しだけでも明るい顔をした方がいいわよ」
そんな言葉を残して、老婆は去っていった。
▽
夢でも見ているように、どこかふわつく。まるで水の中に身を沈めているような、曖昧な重力に弄ばれているような、そんな感覚。歩くたびに足元が少しだけ頼りなく、地面を踏む感覚がわずかに遅れて伝わってくる。
どうにも体調がよろしくなかった。やはり寝不足が祟っているのだろう。昨夜の睡眠時間を思い返すと、まともに眠れたのは、ほんの数十分程度だった気がする。
電車から降りた後は徒歩で目的地まで向かう。行くのは二度目だが、慣れ親しんだ場所ではないので、地図アプリに頼りながら。
改札を抜けた瞬間、むっとした熱気が全身を包む。
駅構内の冷房とはまるで別の世界だ。真夏の空気は重く、じっとしているだけでも体力を奪っていく。蝉の鳴き声が途切れることなく響いていて、それが余計に暑さを強調しているように思えた。
舗装された道は陽射しを反射して白く眩しく、遠くの景色がわずかに揺らいで見えた。家々の軒先には風鈴が吊るされているところもあり、風が吹くたびに涼しげな音が鳴る。
ゆっくりと歩いた。
まだ日は高く、駅からそう離れていない場所なので急ぐ理由もないのだが、そうしている理由はそれだけでもない。その場所に向かうまでの時間を無意識に引き延ばしているのだと、自分でもわかっていた。たとえ、これが二度目であろうと。
取り出したままのスマートフォンに視線を移し、もう一度目的地を確認する。赤いピンが指し示すその場所は、住宅街を少し歩いた先で、既に遠くに見えている。もう確認する必要もないと、スマートフォンをポケットにしまった。
道は緩やかに真っ直ぐ続いていた。
両側には同じような高さの家が並び、塀越しに庭木の葉が揺れている。どこかの家の軒先では洗濯物が風に揺れていて、白いシャツが夏の光を受けて眩しく見えた。
遠くで犬が一度だけ吠え、すぐにまた静かになる。何処からか聴こえる蝉の声だけが、途切れることなく降り注いでいた。
世界は何も変わらない顔で、いつもの夏を続けている。
私の胸の奥に沈んでいるものなど関係ないかのように。
自然と歩幅は小さく、足取りは慎重に、その道を進む。けれど、目的地はもう目の前だった。
立ち止まる。
なんの変哲もない住宅街の交差点。私の目的地は、ここだった。
「…………」
お久しぶりです、先輩。
そう、口先だけで呟いた。
▽
私は気づいてしまった。
あの日、喜多ちゃんの、後藤さんの、結束バンドの見た日に。彼女たちに向けていた、抱え込んでいた、あの醜く濁った感情の正体を。
あれは嫉妬だった。
言葉にすることもなく、認めたくなくて、ただ気づかない振りをしていたもの。
天候には恵まれず、観客も少なく、演奏も完璧とは言えなかったけれど、それでも。あの瞬間、ステージの上に立っていた彼女たちは確かに輝いていた。
それがどうにも眩しくて、それがどこまでも羨ましくて、それが──どうしようもなく私の心を蝕んでいた。
何故、あそこにいるのが私じゃないのだろう。自分でも驚くほど自然に、その考えが浮かんできた。次の瞬間には、そんなことを考えた自分が嫌になった。
私がここまで足を運んだのは、それが理由だ。
相談というわけでも、懺悔というわけでもないけれど。それでも、ここに来なければいけないと、そう感じた。
あの人ならきっと、何を難しい顔をしているんだと、そう言ってくれると思ったから。
けれど現実は厳しい。
住宅街の静かな交差点には、相変わらず蝉の声だけが降り注いでいる。遠くで車の走る音がかすかに聞こえて、それもすぐに消えた。
私はただ一点を見つめる。アスファルトは白く照らされ、ただ静かに熱を帯びているだけで、もう、痕跡も何も無いそこに。
もう取り戻せない過去に縋って、馬鹿みたいだ。
何処までも自分の所為でしかないのに。全て、私が行動した結果だ。自分の感情に嘘をついて曖昧に身を任せていた結果だ。その結果が、これだ。
こんなにも妬ましくて、こんなにも愚かしくて、そんな自分が嫌いで。だから、私は思ってしまう。
──叶うのならば私も一緒に死にたかった。
終わるのならば彼女と共にありたかった。
意味の無い人生。けれどほんのひと時だけ意味を見出せたあの瞬間に、こんな感情を抱く前に。終わらせるべきだったんだ。
なのに私は、私一人で、私独りだけが。無駄に長々と、無意味に延々と生き延びてしまった。
だから、私は死んでしまいたかった。生きることを、放棄したかった。
けれど、どれだけそう思っても自ら死は選ばない。選べない。
彼女との、バンドメンバーたちとの短い記憶が、目を瞑れば蘇る美しい思い出が、私の四肢に絡みつくからだ。それを呪いと呼びたくはなかった。
ゆっくりと、言葉を模るように、しかし口に出せずに問いかける。
──私は一体、どうすればいいんですか?
死人に口無し。
彼女は何も語らない。そもそもここにはいないのだから。
故に、この感情も、この感傷も──ただの私の独り言だ。