ロクサーヌの体温が、俺の腕の中で急速に冷えていく気がした。
彼女の腹から流れ出る血が、俺の服を濡らす。
魔物の咆哮がすぐそばまで迫っている。
もう、終わりだと思った。
俺はロクサーヌを抱きしめたまま、目を閉じた。
ごめん。
本当に、ごめん。
ロクサーヌの瞳から、涙がこぼれた。
「申し訳ありません……」
彼女の声は、掠れていた。
それが最後の言葉になると思った。
その瞬間――
全ての音が、変質した。
魔物の咆哮が、悲鳴に変わる。
そして、突然、耳が痛いほどの静寂が広がった。
風も、魔物の息遣いも、何も聞こえない。
ただ、静かすぎて、耳鳴りがする。
「……こんな時に、何をしているんですか……」
ため息交じりの声が、響いた。
聞き慣れた、少し呆れたような声。
俺は目を開けた。
そこに立っていたのは、右手に槌を持ったセリーだった。
やれやれ、という態度で、腰に手を当てている。
左手の指は、土と血で汚れていた。
服も、顔も、泥だらけだ。
周りを見回す。
魔物が、いたはずの場所に、もう姿はない。
代わりに、無数のドロップ品が床に転がっている。
魔石、皮、爪、羽、牙、肉片……これまで倒してきた全ての魔物の落とし物が、まるで爆発したように散乱していた。
床に転がっていた魔物の死体は跡形もなく消え、代わりに大量のアイテムが山のように積み重なっている場所もある。
ベスタが、呆然と周囲を見渡す。
ミリアは、張り付いていた天井から、ぽんと飛び降りてきた。
小さな体が軽やかに着地し、すぐにセリーの横に駆け寄る。
ルティナは、まだ座り込んだまま、目を丸くしている。
「……セリー?」
俺は、ロクサーヌを抱えたまま、声を出した。
セリーは、軽く肩をすくめた。
「危なかったですね。もう少しで、みんな死ぬところでしたよ」
彼女は、足元の床を、槌で軽く叩いた。
そこに、割れた結晶のようなものが散らばっている。
淡い青色の、光を失った欠片。
「これが、迷宮コアです」
セリーが、淡々と説明を始めた。
「図書館の本に最深部には迷宮コアが埋まっているって書いてあったんです。迷宮の心臓みたいなものだって」
彼女は、泥だらけの手を見下ろした。
「ドワーフのスキルで、埋まっている場所が分かるんです。……私の飛ばされた場所の下に、あったんでビックリしました」
魔物の波に飲まれながら、セリーは必死に手で土を掘り進んだらしい。
壁に叩きつけられた衝撃で動けなかったはずなのに、セリーはあきらめなかったようだ。
そして、迷宮暴走のど真ん中で、コアを砕いた。
「これで、完全に迷宮は攻略されました」
セリーは、少し照れくさそうに笑った。
「みんな、無事でよかったです」
ロクサーヌが、俺の腕の中で小さく息を吐いた。
まだ、意識はある。
傷は深いが、死ぬほどじゃない。
ベスタがすぐに回復魔法をかける。
ミリアが駆け寄ってきて、セリーに抱きついた。
「セリーすごーい!」
ルティナも、ようやく立ち上がって、感嘆の声を上げる。
セリーが勉強家で、本当に良かった。
俺は、ただ、セリーを見つめていた。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
セリーは、ちょっと恥ずかしそうに目を逸らした。
「べ、別に……当然のことです」
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後日。
俺たちは、全員で王宮に呼ばれた。
皇帝ガイウス・プリンセプス・アンインペラが、玉座から立ち上がって、俺たちを迎えた。
「君たちは、この帝国の英雄だ」
皇帝の声は、重かった。
「迷宮の最深部を攻略し、暴走を止めた。……これで、何万もの命が救われた」
ハルツ公爵をはじめ、貴族たちが並んでいる。
みんな、俺たちを称賛の目で見ている。
「迷宮を討伐した者への褒美として、爵位と統括領を授与する」
皇帝が、そう宣言した。
統括領。
迷宮のあった地域一帯を、統治する権利。
伯爵位以上は確実だろう。
富も、名誉も、手に入る。
ルティナが、目を輝かせた。
「貴族ですわ!」
彼女は、小さく飛び跳ねた。
エルフの貴族として育った彼女にとって、爵位は夢のような話だろう。
だが、俺は一歩前に出て、頭を下げた。
「恐縮ですが、辞退させていただけないでしょうか」
場内が、ざわついた。
ハルツ公爵が、驚いた顔で俺を見る。
「ミチオ殿、それは……」
皇帝も、わずかに眉を上げた。
俺は、静かに続けた。
「俺は、ただの冒険者です。統治なんて、荷が重すぎます」
本当の理由は、もっとシンプルだ。
面倒くさい。
貴族の生活なんて、規則だらけで窮屈だろう。
毎日、朝から晩まで挨拶周りとか、政務とか、絶対に嫌だ。
ハルツ公爵が、困った顔で皇帝に近づき、何か耳打ちした。
皇帝は、少し考え込んでから、頷いた。
「では、爵位と統括領は取りやめとする。代わりに、金貨と特別な恩赦を与えよう」
それで、決着がついた。
帰り道。
馬車の中で、みんなが俺を見ている。
セリーは、ため息をついた。
「もったいないですよ、ミチオさま」
「統括領があったら、大きな家が建てられたのに」
ベスタも、静かに頷く。
ミリアは、魚の干物を頬張っている。
ロクサーヌが、少し胸を張って言った。
「ミチオさまが正しいのです」
ルティナだけが、ちょっと複雑そうな顔をしていた。
俺は、みんなを見て、苦笑した。
「おれは、なにも成し遂げない者だって言っただろ」
最初にこの世界に来た時、俺はそう決めた。
大それたことはしない。
ただ、穏やかに、みんなと一緒に暮らすだけ。
それで、十分だ。
ルティナが、小さく呟いた。
「……すまないな」
俺は、彼女を見て、笑った。
「貴族の生活は窮屈だから、私には王妃がふさわしいですわ」
ルティナが、フンス と鼻息荒く言い放って笑った。
「こりないなぁ」
俺も、笑った。
馬車の窓から、外の景色が流れていく。
平和な街並み。
笑顔の人々。
これで、本当に終わった。
皇帝から押し付けられた迷宮攻略は、もう終わったのだ。