テラを巡る旅(不本意) 作:イグノーブルガス
1096年 12月23日 研究所 エアロック
「君が賢明な判断をしたことには、ひとまず感謝を述べておこう」
金属が擦れる音がして、外側の扉がゆっくりと閉まっていく。
マッド・サイエンティストは、満足げにそれを眺めている。
善良な市民諸君。君はマッド・サイエンティストが計画通り、という顔をしているのを見て腹立たしく思わないかな?
もちろん、僕は非常に腹立たしい。
「言っておきますけど」
だから、せめて一つくらい反撃をしたかった。
具体的には、このマッド・サイエンティストの将来を憂鬱にさせる一言を告げようと、融通が利かない官僚のような表情をしながら口を開く。
「源石粉塵を清潔なラボに持ち込まないために、あそこで冷たいシャワーは浴びていただきますよ」
しかし、博士はニヤリとした表情を崩さなかった。
「部屋の側面に並ぶ、いくつかのバルブにはロシア語の札がぶら下がっているだろう?」
「ここに、”温水”と書かれた札がぶら下がっているバルブがある。これを開けば、温水と混合された温かいシャワーを浴びることができる」
「わざわざそんなものを着ているあたり、君は知らずに冷水を浴びたようだが。ロシア語も、たまには役に立つのだよ」
「オーケイ、そういうことは英語で書いておいてください」
「たった3文字でいいですから――『前方・温水・いいもの』ぐらいで」
「ああ、気が向けばそうするとしよう」
博士は服を脱ぎ、シャワーを浴びながら僕にやる気のなさそうな返事をした。
その間、僕は後ろを向いている。
マッド・サイエンティストのシャワーシーンを見たことはあるかな?
たしかに珍しい場面だが、別に見たいとも思わないので。そういうことです。
「”одежда”」
水音が止まり、博士がロシア語で何かを発言する。
すると、天井からモーターの駆動音がいくつか聞こえる。
振り返って見てみると、天井からロボットアームが出てきて、博士に着替えを渡しているところだった。
あのロボットアーム、確か何処かで――ああ、ESAのアーカイブで見たことがある。
「ヘイル・メアリー用のロボットアームを再現して、
「まさか。3人のうち1人はロシア語話者だぞ。もとよりロシア語で操作可能なコードが組み込まれているに決まっているだろう」
「これに私がした改造といえば。うっかりテラ人に触られないよう、英語と中国語のモジュールを無効化した程度のものだ」
「ああ、なるほど……」
ロシア語とウルサス語に、互換性はあんまりない。
例えるなら、USB-CとMicroUSBみたいな。(わかってもらえるかな?)
とにかく、ウルサス人が出入りしてもソフトウェアは反応しなかったに違いない。
素人に説明書を渡して説明会を開くより、パスワードや南京錠で触れないようにしたほうが手間がないと考える人もいる。博士はそのタイプだ。
「さて、話を戻そう。科学技術というものは、戦争によって進歩してきた」
そう思わないか?とマッド・サイエンティストは話を続ける。
博士はいつの間にか清潔な白衣に着替えている。ロボットアームは博士から汚染された白衣などが詰まった籠を受け取り、再び天井に戻っていった。
「我らの先祖は縄張り争いの中で骨を振るうことを覚えた。そして集落同士の闘いの中で石器を、国同士の争いで鉄器の製造方法を発明した」
「二度の世界大戦で自動車と飛行機は格段の進化を遂げ、核技術という分野が花開いた。その後の冷戦時代に人類はロケットで大気圏を飛び出し、インターネットは惑星表面を光速で繋げることになる」
「そしてペトロヴァ・クライシスでは恒星間航行技術まで手中に収めた」
「さて、次に起こる――テラとの戦争では、どれほど新しい技術が誕生すると思うかね?」
「……テラとの戦争?」
「そう、惑星同士の戦争だ」
聞き返した僕に対し、レヴィ博士は待ちきれないと言った様子で口角を上げる。
「この私が
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あれは1092年の、2月のどこかのことだったと思う。
「アヴドーチャさんに、地球のことについて授業を?」
「そうだ。これからするが――君の補佐も頼みたい」
「なにせ。私は教壇に立った経験が、かの英雄ほどあるわけではないからな」と博士は続ける。
マッド・サイエンティストが、授業をする?
オーケイ。化学の先生が時折、液体を光らせたり、物を燃やしたり、煙を猛烈に出したりしてマッド・サイエンティストの真似事をするのはよくあることだ。
でも、その逆は初めて見る。
「いやあ……博士が自分の時間を割いてそんな事を考えているとは」
「なに、彼女への労働の対価というものだ」
博士はいそいそと机の上を片付け、プロジェクターを設置するスペースを作った。
「過去に蓄えた資金を役に立たなかった傭兵に支払うより、過去に蓄えた知識を新しい
言わんとすることはわかるけれど。
ループスを”犬”扱いするあたり、流石博士だ。
が、一旦そこは置いておいて。僕はとても気になったことを尋ねてみる。
「初回は何についてやるんです?」
「ある北の国で起きた共産主義の勃興と破産、資本主義化と再独裁化とかですかね」
「あるいは、極東の国が周辺の列強すべてに噛みついた挙げ句に、アメリカの飼い犬にされるまでをやってもいいかもしれないな?」
レヴィ博士は皮肉を返しながらも、ノートパソコンの画面を整理している。
マッド・サイエンティストも、プロジェクターに写したくないファイルとかあるんだ。と思ったでしょ?
逆です――
思い出しちゃうから。ホラゲーよりおぞましいぞ。
そんな僕の内心など素知らぬ顔で、レヴィ博士はEXCELを立ち上げて表をいくつか作り、関数で結び付けたものをグラフ化した。
「私は歴史という過去を掘り返す学問について、全く興味を持てなかった。くだらない人物がくだらないことをして、何人死んだ、ということが羅列されているだけとしか思えないからな」
「だから、初回は地球でこれから起きる黙示録について語ることにした。彼女が
マッド・サイエンティストは、桃色の髪をしたループスが着席したのを見て照明を消した。
僕達はラップトップの画面と、プロジェクターの光に淡く照らされる。
……こうしているとあれだな。
僕達はマッド・サイエンティスト率いる悪の組織の幹部たちで、彼女はその紅一点、みたいな風景だ。
そして我らが首領、マッド・サイエンティストのレヴィ博士はプロジェクターに黒い粒粒のようなもの――とある生物の顕微鏡画像を映し出す。
この生物は、なんと言ったらいいかな。
”ああ待ってください。これはT-ウィルスではなく、とてもとても悪いエイリアンたちです”
うーん、それはそれで。ジャンルが変わらず、監督がリドリー・スコットに変わるだけか。
成り行きに任せよう。
「これはアストロファージ。いつもは、紅茶かあるいは――可哀想なことに、
「……ちょっとお待ちになってくださる?」
うーん、そうなると思ったよ。
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「随分と脱線したが、本題に戻ろう」
彼女にウルサス語にもヴィクトリア語にも存在しないであろう、『宇宙』という概念とそれに付随するいくつかの単語を共有するのに、たっぷり半日はかかった。
”ストラット・アーカイブ”……の海賊版に入っているナショナル・ジオグラフィックの美麗なCGと、議会図書館が収蔵した多数の記録映像がなければ。もっと時間がかかっていたに違いない。
「アジア圏では【
「漢字で書くとこう――星を噛むもの、という意味だね」
「悪くない翻訳だな」とマッド・サイエンティストは講義を再開した。
「実際に、星を齧る害虫のようなものだ。さて、このプロジェクターを太陽。この濁った板はアストロファージ。そしてあのスクリーンが地球だと思ってくれ」
博士はどこからか不透明なプラスチックの板を取り出し、プロジェクターのレンズの前に翳した。当然、映し出される映像は暗くなる。
「この小さな黒い微生物はあちらの”世界”の太陽を
「結果として、惑星に届く太陽光は激減する。計算では、25.5年かけて10%の太陽光が減少することになる」
博士は話しながら、プロジェクターの前に置いた板をより不透明なものに変えていく。スクリーンはどんどん暗くなっていった。
「それがどういう結末を齎すのか、これから説明しよう」
博士はプロジェクターの前からようやく板を外し、明るさを取り戻したスクリーンに公式を映し出す。
「”恒星から受け取る熱”=”惑星内に留まる熱+宇宙に放射する熱”。この等式が成り立つまで地球は冷える」
博士は公式の説明を終えると、プロジェクターをなだらかな丘の断面図のような形をしたグラフに差し替える。
「危機が始まった当初の平均気温を15℃として計算してみよう。地球の最終的な平衡状態での平均気温は
「温室効果ガスだけに世間は注目しがちだが、地熱と海水熱が蓄えている熱量は非常に大きい。それ故に5℃前後のラインは百年単位で続き、いわゆる全球凍結に至るまでには――」
「博士、ストップ」僕は手を上げてマッド・サイエンティストの口を封じた。
「普通の人間は地質学的スケールに生きてません。そうだなぁ……」
僕は腕を組んでしばらく考えてから、口を開く。
「火が消えた薪の上に、金属の鍋が置いてあるとする。鍋はどうなる?」
「……しばらくは暖かいでしょう。けれども、朝になれば冷水と変わらなくなりますわ」
「そう!その通り。僕達の故郷は火が消えた後、まだなんとか食べられるくらいの温度のスープの中。最初の30分はまだ食べれるけど、明け方になればすっかり冷水に近づいている」
「そのとおり」マッド・サイエンティストは、こころなしか嬉しそうに一点を指し示した。
「具体的にはアストロファージ到来から20年。平均気温が3℃下がり、12℃を割り込んだ段階で極東の国の水田は全滅する」
地球の平均気温が3℃下がると、どうなるだろう?
「わーい、夏の平均気温が27℃から23℃になったぞ。昼は37℃から34℃だ!」と喜んでいる中緯度地域のアジアの島国に暮らす皆さん――残念ながら大間違いです。
博士が解説した気候モデルの計算は、あくまでも平均気温である。
惑星全体の平均気温は、中緯度以上の地域から見るとより高い値になる。
理由は単純。地球は球体だからだ。
りんごの皮剥きを想像してほしい。
真ん中の帯は長く、上と下に近づくほど短くなる。
つまり、気温の高い低緯度地域は面積が大きい。平均気温は文字通り平均の気温なので、表面積が大きい低緯度地域に引っ張られることになる。
ここから地域ごとの気温を導き出すためには、緯度別に定められた一定の係数を乗せることで近似的な結果を得ることができる。
我らが祖国の場合は、おおよそ2を掛ければいい――つまり平均気温は6℃低下する。
夏は21℃、冬は-6℃といったところ。これはかなり深刻な値だ。
「米を例に取ると、その育成期間には20℃以上の温度が必要だ」
博士の動くペン先Pは、グラフの曲線の上を滑っていく。
「非常に面倒なプログラムを走らせてみると――中緯度地域が、稲の育成期において19℃を下回り始めるのがアストロファージ到来から20年という節目の年だ」
「より寒さに強い穀物――例えば小麦に切り替えればしばらくは持つ。確かにそういう見方もできるが、非常にうまく行っても生産量は1/2になる」
「そもそも、切り替え自体が相当な難事業になるだろうがね。気温が低下すると飽和水蒸気量が激減し、より多雨になる。今以上に湿度が高くなり、豪雨と水害が多発する地域で、湿度に弱い小麦を育てるのは苦労するだろう」
「それらの課題をクリアしたとしても、その十年後には9℃を下回って、小麦すら育たなくなる。この頃になると、人類は赤道付近でほそぼそと暮らすしかない――もちろん。その前に、最終戦争で自ら核の冬を招き、僅かな生存者が洞穴で絶滅を待っている可能性もあるがね」
アヴドーチャはペン先を回しながらしばらく考えこんでいる。
が、結局は絞り出すように、短い質問をした。
「つまり。貴方がたの”世界”は、凍りつき、飢餓の中で滅亡を迎えると?」
「そうだな。しかし……」
博士にしては珍しく、言い訳をするかのような表情と口調になった。
そりゃあ、マッド・サイエンティストといえども。あの計画にケチは中々付け難いだろう。
「試合時間が1秒でも残っているのなら、
「うまくいくとは思えないが、素晴らしい成果に違いない」
博士はどこか懐かしそうな表情を浮かべ、卓上のレゴ*1を手に取った。
「ヘイル・メアリー号。これを語るには……非常に長い時間になるな」
Q:執筆にどうしてこんなに長い時間?質問
A:タロⅡ
ヘイル・メアリー映画版あと9日で公開って嘘でしょ?