雨の日のことだった…とある一軒家、その灯りの付いた窓から聞こえてくるのは幸せそうな三人家族の笑い声。
娘が話すのは学校での出来事…こんなことがあったんだよ、あんなことがあったんだよと身振り手振りも含めながらキャッキャッと説明する一人娘の姿に両親は微笑みながらその話を聞いていた。
そんな幸せそうな家庭を遠くから見つめる影が一つ、ダラダラと涎を垂らしてその光景を見ていたソレはその口を邪悪に歪める。
その姿を一言で言うなら人型のバッタ、或いはバッタの怪人…緑色の体色にギチギチと音を鳴らす四肢、ギョロギョロと動く昆虫特有のその黒い瞳…虫が苦手な人物であれば即刻気持ち悪いと呼称するような見た目をソレはしていた。
バッタが音を立てて歩き出す…芳醇な獲物の匂いに連れられたバッタ妖魔とでも言うべきその異形は最早我慢ならんと眼前にある三つの獲物を貪り食うことに決めた。
重たい足音が響く、雨の音に掻き消されながらズシンっズシンっとその重さにまるで比例しない軽やかさでバッタは…バッタの妖魔は何も知らない家庭へと近づいていく。
邪魔する者は誰もいない、居たとしても最早間に合わない、このまま行けばあの家族は無惨にも食い殺される…そんな光景を幻視した時だった。
「間に…合ったぁぁっ!!」
そんな声と共に、ズシャァッと転がるようにその場に一人の人間が降り立った。
肩で息を切らしながら疲労困憊と言った様子で膝に手を乗せるその男、自らの背後へと降り立った闖入者にバッタはゆったりと振り返った。
黒い髪の男だった…短く切り揃えられた黒い髪に琥珀色の瞳、顔立ちは間違いなく整っていると言われるような顔立ちで、白い学生服のようなモノを身に纏っていた。
学ランと言うよりブレザー、今時の学校の制服と言うべきなのだろうか…兎にも角にも、そんな様相をした男がバッタの目の前に現れていた。
「あんなろ…ふざけんじゃねぇぞ、よりにもよってそれなりに遠い場所選びやがって…選ぶんならもうちょい近い場所選べや、クソが」
落ち着いてきたのだろう、呼吸の音が段々と一定のソレへと戻っていく中で男は誰に言うでもなく愚痴を吐き出していた…それが誰に対してのモノなのかは、言うまでもない。
しかしそんなことはバッタには知ったことではない…本能的に目の前の存在が自分の食事の邪魔をする存在であると察知したバッタは自らの力を脈動させる。
バッタの身体から黒い瘴気が溢れ出す…尋常ならざる気配、常人ならば理解するどころかその場に立つことさえ難しいだろう禍々しい気配…否、力の奔流を放つバッタに対して、男は静かに姿勢を変える。
構えを取った…武道のような構え、ゴクリッと唾を飲み込み、その頬に冷や汗を流した男は、傍目から見ても分かるくらいには緊張していた。
静寂は一瞬、構えを取った大凡二秒と少し…その直後にバッタは大きく足を踏み鳴らして男目掛けて飛び掛った。
凄まじい速度、踏み鳴らした地面に罅が入った…背中でギチギチと音を鳴らしていた羽根を広げて飛び立ちその速度のままに首を噛み千切ってやると開いた牙をバッタは男へと差し向ける。
バッタの脳裏にあるのは男の首を噛み千切った後の光景、息絶えた男の身体を貪り喰らい、その次にあの家族の脳髄を啜る甘美の一時…自分が負けるなんて一欠片も考えていない、そもそもそんなことを考えられるような理性も思考も持ち合わせていないバッタは本能の赴くままに男の首筋へと噛み付こうとし……その顎を、下から打ち上げられた。
響くのは肉を抉り、叩きつける音…噛み付こうとした矢先に響いてくる下からの衝撃、バッタからしてみれば唐突であったが故にバッタの脳裏は混乱状態に陥る。
理性が無くとも、考えるだけの思考が無くとも、それでも混乱するモノは混乱する…それは、生物として当然のこと。
腹部へと更に一撃が突き刺さる…抉られるような拳による一撃、息を強制的に吐かされたバッタは混乱の中、それでも本能的に後ろへと下がった。
視線を上げる…視線の先に居るのは自身が喰らっているはずだった人間の姿…拳を握り締め、構えている男の姿…先程とは違うのはその男の拳が白い何かを纏っているということだけ。
それが何かをバッタの本能は知っていた…何せ自分達の天敵なのだ、知らない方がどうかしている。
人の内側に流れる力、人の魂から捻出されこの世成らざる全てを打ち果たす力…妖魔の放つ力の奔流を妖気と呼ぶのならば、その真逆に位置するであろう力の奔流。
人はその力の名を…霊力と呼んだ。
不安があった。
不安…そう、俺には不安があった…辿り着いたところで俺に何か出来るのか、間に合ったところで俺の身体はキチンと動いてくれるのか……そんな不安。
転生、憑依したと言っても結局俺は八坂徹ではない…例えその記憶を器に注がれたのだとしてそれを扱うのは結局自分自身…ならば、この世界に生まれ落ちたばかりに等しい俺には、何も出来ないのではないのか…と。
…まぁ、そんな不安は杞憂だったわけなのだが。
拳を顎へと打ちつけ、そうして打ち上がったがら空きの腹部へと拳を打ち込む…その一連の流れの中で俺は実感していた……俺は、動けるのだと。
目の前の人外、この世成らざる存在、イノチガミという作品とそこから派生して生まれた番外編全てに於いて共通の敵…それを前にしても俺は動けるのだと、戦えるのだと…俺はそう実感した。
「グギッ…ギギギギギギギギギギィィィォッ!!!」
バッタらしき妖魔が騒ぎ立てる…如何にも怒り心頭と言った様相、耳を塞ぎたくなるような騒音奇音を前に俺は思わず顔を顰めた。
「うるさいなぁ、近所迷惑でしょうが」
口から漏れ出たのは騒音に対する文句、普段の俺ならこんな状況下では間違いなくそんなことは言わない…記憶を引き出し読み取る際に、八坂徹としての部分が俺に混じってきてしまっているのかもしれない。
「…嫌だなぁ」
嫌悪感に滲んだ言葉が呟かれる、紛れもない俺という個人の本心、八坂徹という人間に近づくことへの嫌悪感が俺の中に生まれる…そんな俺の様子なんて気にも止めず、バッタの妖魔はその身体から黒い瘴気のようなものを溢れ出させる。
ドス黒い瘴気、見るだけで悍ましさを感じさせるような…そんな力の奔流が俺の頬を撫でた。
ここで、唐突ではあるが『イノチガミ』という作品の世界観について、一部説明を行わせてもらう。
『イノチガミ』という作品内に於いて、その根幹に位置するモノとして二つの力が存在する…人間の扱う力として『霊力』…そして妖魔の扱う力として『妖気』の大凡二つだ。
霊力は人間の魂から捻出される力…主に肉体の強化やら異能を使う為の動力源やら色々とあるが…分かりやすく言うなら某漫画で言うところの霊圧や呪力のようなモノと思ってくれたら分かり易い。
逆に妖気は妖魔という存在そのものから捻出される力…主にそれそのものが常人に対して猛毒として機能するような代物で、それを用いて妖魔は人を穢し、喰らい、殺す…某鬼狩り漫画で言うところの鬼の血…或いは血鬼術のようなものだと認識してもらえれば分かり易い。
今現在、バッタの放っている黒い瘴気こそがその妖気…常人が触れれば死に絶えかねない猛毒の塊、死ぬことはなくても身体全体には痺れが走り、逃げ出すことすらままならない。
そしてそれに唯一対抗出来るのが霊力を持ち、操る存在…即ちこの世界に於ける異能使い…現在の状況で言うところの…俺である。
「…ほんと…世の中辛いなぁ」
説明しといて何だが、そんか弱気な言葉が口から漏れ出た…でも仕方のないことだと思う、だって実際怖いのだから。
動けることは分かった、攻撃が通じることも分かった…しかし、実際こうして相対してみると怖いものは怖いのだと言う思考が頭を巡る、どうしてこんなことにと喚き散らしたくなる。
黒い瘴気…放たれた妖気が俺の髪を揺らす、ただ内側に存在する妖気を解き放っただけ…たったそれだけなのに間近に感じ取れてしまう程の悍ましさ、何をどうしたらそうなるのかと問い質したくなるくらいにドス黒い沼のような力の奔流…それをどうこう出来る力が俺の中にはある。
だったらもうやるしかないのだ、ここで前任の尻拭いが出来なければどのみち俺に待っているのは死の運命だけなのだ…だったらもう、泣き言なんて言ってられない。
「───『
呟く言葉と共に炎が灯る、拳を中心として灯った炎は力強く、その在り処を指し示すように周囲を照らした。
八坂徹の異能は炎を操る能力、その名前は『炎羅』…名前のカッコ良さに反して大した活躍もしていなかったこの異能を八坂徹は良く物を燃やす等の方法で使用していた…因みに燃やすのは何時だって他人の物である、主にイジメに使用していた。
今回は違う、キッチリ役目を果たしてもらう…拳に宿ったその炎ごと握り締めるように、俺は自らの拳を思い切り固めた。
妖気と霊力、瘴気と炎…互いが互いの天敵を前に立ち止まっていたほんの僅かな時間……駆け出したのは、ほぼ同時だった。
地面を踏み締め、蹴り上げる…互いに一歩を踏み込み前進した俺と妖魔、羽根を軋ませ飛び掛かるバッタの妖魔と真っ直ぐと地面を踏み締める俺…接敵するまで、時間は掛からなかった。
牙…涎を垂らして迫る異形の顔、今度こそお前を食べてやると…まるでそう言っているように感じさせるその形相を気持ち悪く思いつつ、俺は迫る牙を躱し、バッタの懐へと足を踏み出す。
そこから、下から斜めに打ち上げるように…がら空きの腹部に全体重を乗せた一撃を、俺はバッタの妖魔へと打ち込んだ。
ズガンッと響く轟音、妖魔へと突き刺さった拳は妖魔の身体をくの字へと折れ曲がらせ、その口から人とは思えぬ青い血を吐き出させるに至る…そんな妖魔へと、俺は判決を言い渡すかのように…呟いた。
「───さようなら」
瞬間、発露する炎の異能…纏わせた腕から妖魔の体内へと侵入した炎は急速にその出力を内側から上昇させ、遂には俺の目の前でそよ身体を弾けさせる。
目の前で弾け吹き飛ぶ妖魔の上半身、びちゃりっと俺の身体を覆うように降りかかる青い血液と臓器の破片であったもの…それら全てを失った足だけとなった妖魔であったものは、バランスを崩したのか力無く後へと倒れ込んだ。
雨の音が響く…拳を打ち込んだ体勢のまま静止する俺、その身体に付着した血と臓器の破片を洗い流すように、雨水が俺の身体を打ちつける…先程まで不快に思っていたそれが、今では妙に気持ち良く感じていた。
息を吐き出し構えを解く…終わったのだと、倒したのだと…そその実感が湧き上がるのと待たずに、俺は自分に腕に未だ滞在する異能の力を引っ込めた。
「……終わった」
自分で呟いて、ようやく実感が湧いてくる…俺はやったのだと、死の運命を乗り越えたのだと…そう思った、そう思えた。
やった、やったんだ、俺はやったんだ…そう叫び散らしたかった、そう喚き散らしたかった、飛び回りたかった……だけど、内側からやってくる嫌な予感がそれを許してくれなくて……そして、その予感は的中した。
「───八坂?」
背後から聞こえてきた声に俺の心中は凍えた…聞き覚えのある声だった、前世でも今回の生でも、そのどちらに於いても非常に聞き覚えのある声だった。
恐る恐るで振り向いた、どうかそんなことはあり得ないでくれと…そんな無駄な願いを思いながら……結果として、その願いは叶わなかったが。
俺の背後にいたのは二人の少年少女だった…一人は黒い髪を乱雑に後ろで縛ったような男、その手に納刀された刀を持ち、その鋭い瞳は困惑したように俺のことを見つめていた。
もう一人は藍色の長髪が特徴的な少女だった…低い背丈に整った顔立ち、すれ違えば十人中の九人は振り返るだろう整った顔立ちを持った少女は、その翡翠の瞳に疑問の感情を乗せて俺を見据えていた。
「───…嘘やん」
呟いた言葉は俺の絶望の証明だった…よりにもよってこのタイミングかよっと口から吐き出したくなるのを堪えながら、俺は引き攣った笑みを浮かべることしか出来なかった。
主人公『
オリジナル書いてる人って凄いんだなと思う毎日。