使われなくなって久しいだろう、冬木の街外れにある廃工場。役目を果たし、人々の記録からも記憶からも忘れ去られ、放置された空白。
だからこそ──拠点ごと工房を爆破されたランサー陣営こと、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは此処を第二の拠点として選定したのだ。
……古臭く黴臭く埃臭いこの場所を。虚飾に濡れていたとはいえ、高級ホテルの一室からの転落振り。まるで末路を示しているようではないかと、主も従者もいない拠点で彼女は冷たい表情で笑う。
ああ、全く己はどうして。
「こんなことに付き合わされているのかしらね」
そんなことを冷然と告げる彼女の名をソラウ・ヌァザレ・ソフィアリという。時計塔を統べる一角、
ケイネスとは許嫁の関係にあり、聖杯戦争に参加することとなった由縁は彼をサポートするためである……などと。
そんな事情は正直なところ、どうでも良かった。
だってそこに、己の意志は介在していない。
否──思い返せば己の人生に意志を行使する自由など無かった。
近代においては女性の権利は開かれたものとなりつつあるが、時代に逆行して神秘を追求する時計塔はそんなものとは一切無縁だ。
未だ幅を利かすのは旧態依然とした貴族文化。能力のある一部の女性を除けば、血の素養だけが価値となる女など、政治利害を背景にした政略武器に過ぎない。
兄に魔術の素養を持っていかれたソラウもその例に洩れず、彼女の価値は名門ユリフィスと名門アーチボルトを繋ぎ、その権力を時計党内で拡大するための楔にして、アーチボルトより生じた規格外の才、ケイネスという神童の血を繋ぐための道具。
いわば家名のための胎盤に過ぎない。
決められた道程、決められた将来、決められた未来。
そして──決められた役目。
何一つ自分自身で決めた人生に何の執着を持てという。
それに気づいた瞬間、ソラウの心は冷え切った。
冷然した女帝めいた彼女の性質はそんな人生に起因するもの。
そんな事情にも察することが出来ず、彼女が疎む家名と才に鼻にかける婚約者はこんな極東にまで彼女を引っ張り出し、自らの栄光の道とやらに付き合わされている。
正に『こんなこと』だ。ケイネスが英霊を連れながら十全に力を発揮するため、魔力パスの共用などとサポート役らしいことに付き合わされているが、基本はただ見守る役。彼の持ち帰る勝利とやらを讃えるだけの置物と変わらない。
だがしかし──嗚呼、一つだけ良いことがあった。
「ランサー……」
ほうっと頬を赤らめながら、その呼び名に酔う姿は正しく恋する乙女のそれである。ケイネスに見せる冷たい無表情からは考えられない、情の熱が溶ける吐息を漏らしながら、この極東に来て唯一後悔しなかった運命の出会いを思う。
……分かっている。この一目惚れは彼の呪いに起因するものだ。
ランサー、その真名はディルムッド・オディナ。ケルト神話が誇る大英雄フィン・マックール率いるフィアナ騎士団が筆頭騎士。
『輝く顔』の異名を取る二槍使いの英傑である。
妖精より加護を賜りし彼は、生来女性を虜にする魔性の黒子を有しており、その『魔貌』は英霊となって昇華されて尚、『スキル』という形で機能している。
低ランクの、それこそ現代を生きる女魔術師でも
何故なら、初めてだったのだ。
己にすらコントロールできない情愛は、この激情は。
冷めた心を燃え上がらせる、この感情は。
正しくそれは恋に恋する乙女といった愚かさ。
ケイネスとランサーの信頼関係を現在進行形で壊していく危険すぎる毒だったが、それを気にする気など彼女にはもはやない。
望むべくことは一つだけ──ランサー。
彼の愛に抱かれること。彼の愛を手に入れること。それのみ。
その様は奇しくも神話の様相だ。彼に魅入られ、彼の破滅の原因となった
故に──。
「愛する者の帰りを待つ乙女──ふふふ、流石は音に聞こえし名門の血。その貞淑さ、正に淑女の鏡ではないか」
「……誰っ!?」
不意に生じた重い声に、ソラウは弾かれた様にして視線を向ける。見ると月明りに照らされた廃工場の暗がりから見知らぬ男が歩み出る。
苦悩を貌に刻んだような深い掘り。
一目見て、男の身分など見当がつく。
この衣装を身に纏う立場は一つしか心当たりがない。
「聖堂教会の……監督役……?」
「ふふ、その通り。初めましてソフィアリ家のご息女、私の名は言峰綺礼。聖杯戦争の監督役だ」
言峰。それは確かにケイネスから聞いていた聖杯戦争における監督役だ。しかし厳密に言えばその立場は言峰瑠正という壮年の神父のものだったはずだ。
苗字から察するに血縁者なのは間違いなかろうが、そもそもなぜそのような人物がこんなところに。
詳しい聖杯戦争の情勢には知識を与えられていないソラウは軽く混乱するが、その内心を知ったようにして綺礼と名乗った男は薄く笑みを浮かべながら状況を明かした。
「まず驚かせてしまったことを謝罪しましょう。何しろ、こちらも色々と想定外でしてね。本来であれば、此度の聖杯戦争に関して、正式な監督役は父のものでありますが、今は私が代行しているのですよ。そして、それが此処に赴いた理由でもある」
「想定外? 代行?」
立て続けに知らぬ事情を吹き込まれて困惑するが、大まかにはソラウにも理解できた。要は聖堂教会側で何らかのトラブルが起きたため、今はこの男が代行を務めているということだろう。
状況を理解し、同時にソラウは眦を決して神父に向き合う。
「……事情はなんとなく理解しました。ですが、聖杯戦争に挑む魔術師の工房にアポイントメントも無しに踏み入るなど宣戦布告と同義です。この無礼に対してどのように説明をつけるつもりでして?」
「何、一つ取引をしようという提案に上がったまでのこと。無礼については、その内容で納得していただけると思うが」
言いながら綺礼は見せつけるように片腕をソラウに見えるよう掲げる。すわ何かの力の行使かと身構えるソラウを傍目に綺礼は腕の袖を捲り上げる。
次の瞬間、目に飛び込んできた光景にソラウは息を飲んだ。
──令呪。
聖杯に呼び出された英霊を従える証。三つ限りの強制命令権。
それが、神父の腕に夥しい数が刻まれている。
……そういえば聞いたことがある。聖杯戦争の監督役は歴代マスターたちから未使用の令呪を回収し、蓄え、情勢によってそれを放出すると。
つまり綺礼の腕に刻まれた令呪こそ、監督役の証であり、監督役の持つ特権そのもの。そして目の前の神父はこれを取引の内容と言い切った。
──ソラウの中にあった敵愾心が急速に失せていく。
何のつもりかは知らないが、この時点で彼女は神父に価値を見た。
彼女が微笑を浮かべると、神父もまた微笑を浮かべた。
「どうやら、ご納得は戴けたようですね」
「ええ。少なくとも話を聞く価値はあると判断しました。……それで取引とは?」
「ふむ。取引……というよりも厳密には依頼に当たる。私がこの役を務めるに至ったイレギュラー……キャスターとそのマスターの排斥を依頼したい」
「キャスター陣営の排斥ですって?」
「ええ」
思わぬ内容にソラウの眉が怪訝そうに吊り上がる。
綺礼はそれに淡々と答えていった。
「つい先刻の、明朝の出来事ですが。中立を誇る聖堂教会にキャスター陣営が攻め込んできましてね。知っての通り、教会は不戦地帯。本来であれば此処を巻き込むことは協会も認めぬ反則でありますが……」
「……成程、協定を破りをしてきたのね?」
「その通り。狙いは恐らく」
「令呪ね」
「…………」
ソラウの言葉を肯定するように神父は無言のまま笑みを讃える。聖杯戦争の本筋とは無縁にある聖堂教会を襲う意味は少ない。
彼らはその役割として聖杯戦争の脱落者を保護する立場にあるため、残敵掃討という意味で追撃する選択もあろうが、今のところ聖杯戦争から脱落したのはソラウが把握する限り、アーチャーの陣営とバーサーカーの陣営のみだ。
どちらもつい数時間前までは此処に滞在していたケイネスと共に推移を見ているから理解できる。そしてそのどちらも状況からしてキャスター陣営に討伐されたはずだ。
何せ、強襲されたのは魔術師にとって後のない工房そのもの。どちらも本拠地を陥落させられた以上、教会の庇護が間に合うとは思えない。
その上で敵の居ない中立地帯を襲う動機があるとすれば──令呪の他に考えられまい。
「ふん、大胆不敵ねキャスターの陣営は。ケイネスに負けず劣らず自信家ですこと」
「それがルールの枠組みに収まるものであれば、私としても静観するのみでしたが、ルール破りも辞さないとあれば話は別だ」
「つまり……誅罰を下したいといったところかしら」
如何にも
「戦争にもルールはある。神秘秘匿の観点からも、教会を更地に変えてしまうような越権行為も過度な破壊行為も看過できない。よって、代行ではありますが、監督役の判断としてキャスター陣営を聖杯戦争の進行を妨げる敵と見なす他ない」
「その敵を討て、と。そういうことでしょう? そして報酬として……」
「──令呪を。ふふ、理解が早くて実に助かる」
捲り上げた袖を元に戻しながら腕を下げると、綺礼はそのまま些かわざとらしく周りを見渡しながらソラウに問うた。
「それで、ランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルト殿はどちらにいらっしゃるのかな?」
「ケイネスは今は不在です。ランサーを連れ立って偵察にと」
「ほう。行き違いとなってしまいましたか。これは残念。令呪を取引にしたやり取りともなれば、それはサーヴァントを率いるマスターの役目だ。となれば、先に別のマスターにも話を持ち込むべきか」
「──……マスターの」
神父の言葉に釣られ、不意にソラウは自らの手の甲を見る。染み一つとしてない、白魚のような肌色。朱色の印はそこにはない。
サポート役としてランサーに魔力を分けている立場のソラウだが、サーヴァントとの繋がりを示す刻印は、今もケイネスのみに刻まれている。
「……言峰神父、一つ質問をさせていただいても構わないかしら?」
「えぇ。こちらは取引に応じていただくために訪れた立場だ。疑問があるならば応えましょう」
ソラウが声を掛けると綺礼は如何にも人の良い笑みで応じる。それに少しだけ逡巡したのち、決意を込めた貌でソラウは問いを投げた。
「その令呪は……協力者の手にも譲れるものなのかしら?」
「……──無論」
笑みを深くしながら綺礼は疑問に答えた。
「マスターとなる者に聖杯が与える三角の令呪は聖杯そのものによる決定ですが、監督役の持つ令呪は我々、監督役が必要に応じて付与するもの。その対象は基本的にはマスターになりますが、マスターとその関係者が望むのであれば第三者に譲り渡すことも可能です。尤も、未契約の令呪ならば使い道などそうありませぬが──」
「それならっ……それなら、私にも、令呪を──」
神父の言葉に思わず、ソラウは目を輝かせる。
令呪。ランサーとの契約の証。
ケイネスが独占するその権限を己も手に入れることが出来る。それは紛れもなくソラウにとっては朗報だ。元より魔力提供の契約は交わしているのだ。
あとは令呪さえ手に入るならばそれは英霊との本契約と何ら変わりはない。ケイネスと同じマスターに……ランサーのマスターも同然だ。
だがそこまで考えてはたとその表情が曇る。令呪を用いた再契約、或いは正規契約には英霊側からの応じる声が必要となる。
果たして己の証に対して、あの忠義の騎士が応じてくれるのか。その懸念を思うと、ソラウはキュッと胸を引き締められるような感覚に陥った。
そんな僅かな不安を認めたのか。人心に長けた神父らしく、綺礼は黙り込んだ令嬢に対して語り掛けた。
「どうしましたかな?」
「…………」
「……ふむ。詳しい事情は知りませんが、どうやら貴女は令呪を求めているようだ。ランサーのマスターとは別に、貴女もまた願うものがあるといったところですかな?」
「私は……」
ある。願いはある。それは聖杯に捧げるというよりも、彼に捧げるべきものであるが。ソラウにも令呪を手にしてこの戦いに望むだけの衝動が発生したのだ。
それは裏切りにも等しい不義不徳の類であるが、嗚呼、それすらももはや燃え上がるための燃料に過ぎない。
あの人が欲しい──自分でも制御できないこの情動を無くしたくない、手放したくない。心のままに、感情に身を預けたい。
その、許されない感情を。
「──奇跡を欲するのなら、汝自らの力を以って、最強を証明せよ」
「────」
「聖杯戦争とは他者に譲れぬ願いを懸けた戦いだ。……君に、他に譲れぬ願いがあるというのならば私は聖杯戦争の監督役としてそれを祝福しよう。さて……改めて問おう、君の心は何を望む? ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ」
いつの間にか、それは本来の取引とは異なる問いかけにすり替わっていることにソラウは終ぞ気づかなかった。
……恋は盲目。先の悲劇を知る神父はそれを誰よりも熟知している。
何故ならば、知るが故の来訪だ。
ソラウが口を開く──回答に、神父は嗤った。
「──受け賜った。では君に権利を授けよう。ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。その心のままに、突き進むと良い」