未だ人知及ばぬ市街からさらに外れた冬の森。冬木市民の間ですら実在を疑われるアインツベルンの城。
曰く、空間ごと
外套を貫くほどの冬の夜気は、容赦なく切嗣の身体を蝕み、その冷気で以て何もかもを凍てつかせる。けれども戦場に在って自らを『機械』で在らんとする切嗣にとってこの冷たさは馴染み深くある種、心地よい。
さながら銃身を手に取っている時のようで、自らを切り替えるにはこれ以上とない後押しだ。日の明るさも、人の温もりも今の彼には総じて不要。
切に切に願う理想がある。望みがある。祈りがある。
此処はそれを成すための──果てなき道の果てに位置する最後の戦場。
ならば自分自身の全てを使い果たすことに否応は無いから。
「──終わらぬ連鎖を、終わらせる。それを果たし得るのが聖杯だ」
孤独な理想を口にして、無造作に胸ポケットから煙草を取りだし、火を付ける。
……争い無き世界。流血の出ない機構。悲劇無き運命。
とどのつまり『世界平和』という形の窮極系。
数多の英雄、数多の聖人君子たちが目指しながらも、その道程の過酷さに斃れ、見果てぬ夢と諦観した形こそ、衛宮切嗣が求める
女子供の理想論に過ぎないと余人は冷笑するだろう。
だが、女子供の夢すら成すのが万能の願望機たる聖杯だ。
九年前──アインツベルンに召集されたその日から衛宮切嗣はただただそれのみを追い求め、今に至るまでの人生全てを捧げて来た。
例えその道すがら、愛すべき妻を犠牲に捧げねばならぬと分かっていても──尚も捨てきれなかった理想論。
踏みつけて来た屍の数は幾つと知れず、捧げて来た犠牲は切嗣の心を風化させて来た。その日々が、その連鎖が、もうすぐ終わる。
如何に機械たらんと振舞う衛宮切嗣であっても悲願成就を前に平静でいられるはずも無く。彼は夜気に身を晒し、胡乱なままに思考する。
残り半数となった聖杯戦争の趨勢を。
“……昨夜、ロード・エルメロイが討たれた。これで残るは僕とライダー、そしてキャスターの陣営か”
それが聖杯戦争という戦いの幕が上がってから一週間と立たぬ内の情勢であった。
セイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー、古今東西から我こそはと集った英雄たち。古くは神話の伝説からも参戦するような空前絶後の戦、聖杯戦争。
その余りにも豪勢な宴は気づけば宴もたけなわの状態。
残すところは僅かに三つの陣営。聖杯戦争も佳境といった風情だ。
……恐ろしいのは。この情勢がたった一つの陣営の躍動によって成されたということか。
“『
ふらりと戦場に現れては恐るべき速度と手腕で以て事態を力業で収める様は正しく英雄。彼が解決してきた問題は数知れず、元より彼の父が医学界では偉大なる名医であったことも相まって今や一部では世界平和の象徴とさえ云われ、国際連合の重鎮にすら熱心な彼の信者がいるとさえ言われている平和の使徒。
こうして直接会いまみえる機会は無かったため、戦場の
“外様のエルメロイはともかく、遠坂、間桐、聖堂教会までもを一人で陥落させるとは確かにお上に信者が出来ても不思議じゃないな。実に人好きしそうなご都合主義じゃないか”
元来、赤十字の旗は無条件に流血を止めるための、いわばただ人を助けるための誓いである。その陣営に属するはずのものが流血を増長させる
信仰というものの厄介さは切嗣自身身に染みて理解するところだが、その力の便利さ、強さもまた切嗣は良く知っている。
古来より支配者層がそれを武器としてきたのも──思想という個人の利害を超越するモノが人々を率いる上でこの上なく強力であったからであろう。
自らの利害を度外視した協力共同体。かの英雄の存在はそれを生み出すにはあまりにも都合が良すぎた。
聖杯戦争という秘儀。人知れず繰り広げられる英雄英傑の戦場。それを、何処からともなく現れてあっという間に解決する現在進行形の伝説──。
相対するものからすれば堪ったものではないが、人々からすれば心強いものであるか。
切嗣は実感として理解する。そして理解したからこそ尚も嫌悪を深める。
「いや──そんなことはどうでもいいか」
切嗣の理想に反する幻想への反感を吐き出す紫煙と共に切り捨てる。相対することとなる敵への感情論など今は不要。考えるべきはそれを如何にして討つかの一点である。
“個人の好感はともかくとしてその手腕は認めざるを得ない。こと戦場を治める腕力に関して言えば恐らく古今東西に語り継がれる英雄たちに引けを取らないものがある”
セイバーやランサーと打ち合えるだろう個人の武技に、常軌を逸した魔力保有量など鮮烈な部分にばかり目を取られるが、切嗣は既にあの英雄の真の恐ろしさに気づいている。
それは進軍速度。誰もが躊躇う筈の第一歩をあの英雄は恐ろしい速度で即決している。
“戦場において最も重要な
カルキという存在はあまりに行動が早すぎるが故、常に仕掛ける側にあるのだ。間桐は奇襲に近い形で崩壊させられ、遠坂もまた先に強襲されたがために崩壊した。聖堂教会に至っては報告を聞く限り、恐らく備える暇すらなく瓦解させられたことだろう。
少なくとも戦場帰りの切嗣には分かる。
何故なら戦場において最も尊ばれるのは臆病であることだから。
敵が何をしてくるかわからない状況で、サーヴァントという強大な手札が相手の下にあると理解した上で、各々がそれぞれの思惑で繰り広げる都市ゲリラ戦──正しく一つの判断違いが命取りとなる見えぬ霧の中で繰り広げられる戦場は、それ故慎重さを要求される舞台である。
勝ちを目指すなら情報収集は常に必須。確実さを尊ぶならば策はそれこそ十重二十重に。どの陣営も本来であればその様に備えるのが王道だ。
だというのに彼は違う。彼は常に敵陣営に真正面から踏み入り、当たり前のように粉砕し、さらに止まらずこれを繰り返す。
なんて悪夢のようなご都合主義。これでは備えもへったくれも無い。
真の王道とはこれを言うのだと、悍ましいほどに証明している。
“捕捉された段階で「終わる」なんて。無茶苦茶にも程がある。きっとアインツベルンの堅牢な城を眼前に構えても同じようにするんだろうな”
間桐、遠坂がどのようにして敗れたか、切嗣は既に調査できる範囲での調査は終えている。その上での所感を語るのであれば……恐らく彼は同じように振舞うだろうことが簡単に予見できる。
きっと例の光の剣で以て堂々と門を蹴破り、切嗣の仕掛けた無数の罠を真正面から突破した上で、騎士王と相対し、これを破るのだろう。
無論、切嗣とて簡単に罠を越えられるなどと悲観はしていないし、認め難いとはいえあの騎士王がそう容易く敗走するなど夢にも思わない。
だが──その夢にも思わない事象を今日まで続けて来たのがあの英雄だ。
ゆえに切嗣はそれを『起こる事』と想定した上で尚考えを深める。
“……要は仕留めるつもりならさらに策を要しなければならないというだけだ。果断即決で有名な獅子心王にせよ、ナポレオンにせよ、決して常勝不敗だったわけじゃあない”
英雄としての本質は恐らく今回の聖杯戦争で言うところのライダーに通じるものがある。要はアレは卓越した個人戦力を有する即断の戦術家なのだ。
自らが武に卓越しているため戦場での感が恐ろしく冴えわたり、反射と思考が同期しているいわば、戦場の天才とでも評するべき存在。
直感的に起こした行動がそのまま最適解に繋がる厄介な手合いである。だが、切嗣とて百戦錬磨。そういった理不尽と相対する方法の一つや二つ当然のように備えている。
“あの手の手合いに先手は取れない。でも一度受け切ってしまえばその先は対等の読み合いだ”
正しく破城槌が如き第一手。これまでの敵はこれで一瞬のうちに崩壊してきたが、逆に言えば敵として対した時、何より致命的なのはこの一手のみ。来ると備え、何とか第一手を受け切った後は……純粋なる戦場の駆け引きだ。
“それなら、こちらにも芽はある。既に敵の情報は調べ尽くした。キャスターの宝具も聖堂教会の監視を通して観測済み。対してこちらの情報は割れていない部分の方が圧倒的に多い筈だ。そこを、突く”
全盛期を過ごした戦場からは十年近く離れ、既に切嗣の名は界隈から廃れつつあるという。その
現代でどれほど調べ尽くしたところで現役と過去とでは情報の寸断は多く、彼は切嗣がどういった功績を積んできたかを調べられても、それよりの詳細を暴くには至ってない筈だ。
そもそも参加表明からして電撃的なもの。恐らくは仕事に取り組むまで、そう用意も無く参じていると考えられる。であれば尚の事、孤立を誇ったアインツベルンと、彼らが雇った暗殺者の詳細など調べる時間は無いだろう。
押し付けられる優位があるとすればこれしかない。
そしてもう一つ、今の切嗣には手札となるカードが転がり込んできた。
“今にして思えばライダーとの同盟は好手だったかもしれないな。昨日の今日で結ばれた盟約を、彼は知る余地が無いだろう”
先日の一幕──突然来訪したライダーからの提案は切嗣にとって青天の霹靂だったが、此処に来てアレが功を奏すとは分からないものだと切嗣は嘯く。
カルキが明らかに御三家を狙い撃ちにしている振る舞いからしてカルキの方針は見て取れる。その上で未だアインツベルンに落雷が及ばないのは、まず間違いなくこちらを捕捉しきれていないからだろう。
そう見せかけている、という線もぬぐい切れぬがこれまでの方針からして計略を好む手合いで無いことは容易に見て取れる。
恐らくは召喚したキャスターのものであろう、新都で見かけるホムンクルスや山狩りするホムンクルスを敢えて見せつけるようにしているのは、危機感を煽って、こちらの行動を縛るだけではなく、怖れから行動を起こすことを扇動してのことだろう。
波立たぬ湖面では魚を負うのは困難だが、逃げ出した魚影を負うのは容易である。
切嗣もまたこの手の挑発は自らも行うため、意図など容易く見抜けられる。
「そちらがそのつもりなら、御望み通り乗ってやる。ただし……あくまで釣り人は僕だ」
吸い終わった煙草を吐き捨て、靴で残り火を踏みしめる。
来るなら来いと──万全の構えで守勢に立つ。
だがこの時──全く別の獲物が糸に掛かるなどと。
切嗣は全く想定していなかった。
それはカルキを評価していたが故の陥穽。今まで一夜のうちに必ず敵を脱落させてきたカルキの手腕を信じていたが故の、ロード・エルメロイ絶命の知らせのみで状況を判断した彼のミス。
だからこそ切嗣は今宵邂逅することとなる。
自らの理想が破綻する──悪夢のような、その瞬間に。
× × ×
「アイリスフィール……」
眠れる仮初の主の横に、騎士は静かに控えていた。
豪奢なベットに寝かされる白き貴人、アイリスフィール・フォン・アインツベルン。千年を数える錬金術の大家、名門アインツベルンに生まれた令嬢は目を閉じたまま、目覚めない。
呼吸は止まっているのではないかと錯覚するほど浅く、その手を取ってみれば脈打つ音がなんとか細いことか。
死に瀕する病人としか形容できないほどの弱りようを、サーヴァント・セイバー、アルトリアは痛まし気に見ることしか出来ない。
……彼女がこうなってしまったのは一昨日の夜。話に聞くところバーサーカー、アーチャー、アサシンが相次いで脱落した遠坂邸での死闘が終わったのとほぼ同時刻のこと。
突然の貧血に倒れるようにして、アイリスフィールは意識を喪失し、以降そのまま目覚めることは無い。
切嗣やその助手を名乗る舞弥を問いただしたところで前者はだんまりのまま、後者は首を振るだけだった。……特に前者の反応に驚きようがない辺り、恐らくこの事態は予見されていた事態なのだろう。
魔術師、アインツベルンの令嬢、ホムンクルス──魔道に長けているわけではないセイバーだが、自らの育ての師が魔術師であったこともあり、魔道に対する見地はそれなりにある。
だからこそ、聖杯戦争という儀式の反動が何らかの形で跳ね返ってきているだろうことは直感的に理解できるものの──容体不明というのは心に優しくない。
たとえ儀式終了後には別離にある定めだとしても、共に過ごせば情の一つや二つ、湧くというもの。非情な主と比べ、セイバーはそこまで非情に徹していない。
いずれ損なわれる関係だからと軽視するような人でなしの性格を彼女はしていないのだ。
「聖杯戦争の負荷が貴女に降り注いでいるというのならば一刻も早くこの戦いを終わらせます。なのでアイリスフィール。どうか安心してください。騎士として、貴女を必ず無事のままご息女の下に帰しますので」
自らに言い聞かせるようにしてセイバーは眠れる彼女に誓いを口にする。
瞼の裏に過ぎるのは開戦前夜に見た冬の森の幸福。
アイリスフィール、切嗣、イリヤ……戦場からは遠い優しい世界。
彼女たちが理想を叶え、あの場所に帰すまでが自らの役目。なればこそ騎士王として必ずやそれを成し遂げるのだと、セイバーは奮起した。
そして──その直後、佳境で止まっていた戦場の時間が動くことを察する。
「……ッ!?」
弾かれるようにして顔を上げる。アインツベルンの城に異変は無い。
空気の異変は遥か彼方。
城を囲うようにしてある森の中から。
荒れ狂う、それでいて堂々とした魔力の波動を感じる。
「……サーヴァント、ですが」
気配に覚えがないとセイバーは怪訝そうに眉を顰める。
ライダーのような雷光の如き鮮烈さ。
キャスターのような調和された底知れぬ雰囲気。
いずれの英霊にもこの気配は該当しない。
そして何より再戦を誓ったランサー──その峻烈なる気配からも程遠い。強いて言うならバーサーカーの放つ狂気を内向きにしたような。
そんな堪え切れない激情が外に漏れ出ているような度し難い気配。
「いいえ──なんであれ、訪問の知らせも無く城の庭に土足で踏み入るのであれば敵には違いありませんね」
魔力を紡ぎ、セイバーは一瞬のうちに戦装束を着込む。
或いはライダーのような例もあるが故、何某かの共闘を提案しに来たことも考え得るが……明らかに正気とは程遠い気配からしてその可能性は極めて低い。
彼方と気配を脅威と断じてセイバーは一度だけ、アイリスフィールの顔色を伺ったのち──部屋を辞して、風のように敵へと駆けた。
──そうして相対した敵は見知った顔の見知らぬ誰かであった。
「な……に……ッ?」
「──おお、来たか! 我が宿敵セイバーよ!」
その青年は一見して依然の偉丈夫と変わらないように見えた。鍛え上げられた精悍な出で立ち。隙の無い立ち振る舞いに、自信に満ちた力強い雰囲気。
だが──淀んでいた。
眼光に浮かぶは明らかに正気ではなく、どす黒い情欲。甲冑の上から葉脈のように広がる線は不気味に脈動し、戦場にあって男は片腕に女を抱いている。
まるで男としての在り方を品も無く喧伝する破落戸のように。
勇敢なる騎士は、その勇姿を堕している。
「その様、貴君は……一体……!?」
「はは、驚くのも無理はない。何故なら俺はようやく愛の何たるかを知り、そして生まれ変わったのだから! なあ……
「ええ。そうねランサー、今の貴方はとっても魅力的よ……」
そういって傍らに抱く見知らぬ女性に
愛を囁き、思うがままに振舞うその姿は以前の彼にあまりにも似ても似つかない。まるでよく似た別人であるかのごとく。
だが、色に濡れた女性が囁く呼び名は紛れもなくセイバーの知る騎士の名である。
……我知らず、一歩セイバーは下がった。
それは野卑の如き振る舞いを嫌悪したからでも、清廉を剥いだ先に在る薄汚れた振る舞いを拒絶したからでもない。
正気とは思えぬ情に染まった容態と、その手に握る見知らぬ『剣』を見て取り、相対する敵が未知の存在であることを確信したからに他ならない。
「……貴公に何があったか、その是非は敢えて問わぬ。だがランサー、ここは我が主アインツベルンが領地である。そこに土足で踏み入るということは即ち──」
「宣戦布告に相違ない──か? その通りだ。セイバーよ! 俺は彼女の願いを、望みを! そして俺の勇姿を見せつけるために此処に在る!」
言ってランサー──であった騎士は傍らの女を手放すと一歩前に踏み出し、その手に以前見た朱の槍、『
「さあ! 今こそ騎士の約定を遂げよう! このディルムット・オディナ! フィン・マックールなぞ及びもつかぬフィアナ騎士団が最強の勇士であることをお見せしよう!」
「……──ランサー、貴方は……!」
「ははははははははは! あの器の小さい男が妬んだ我が雄姿に──貴女もまた酔いしれるがいい騎士王!」
斯くして望まぬ形で望まれた再戦が始まる。
眼前には正気を逸したかつての勇士。
その狂態に歯噛みしながらもセイバーは剣を振るって敵の迎撃に移行した。