空気が重かった。
湿り気を帯びた呪いが、目に見えない膜となって街の一角を覆っている。人の往来はすでになく、ただ壊れかけの建物と歪んだ路地だけが残されていた。
東堂葵は、その中心に立っていた。正面には呪霊がいる。
形は曖昧で、輪郭が定まらない。巨大だが、ただ大きいだけの存在ではない。呪力の密度が高く、周囲の空気を押し潰すような圧がある。
──強い。
少なくとも、短期決戦で仕留められる相手ではなかった。
東堂は一歩、距離を取る。
呪霊の動きは鈍いが、攻撃範囲が広い。まともに付き合えば削られる。決定打を入れるには、位置を崩す必要がある。
──ならば。
東堂の判断は早かった。ここで時間をかける意味はない。
術式を使う。
東堂葵の術式、不義遊戯。
拍手によって、呪力を持つ対象同士の位置を入れ替える。
条件は単純だが、成立した瞬間に戦況はひっくり返る。
呪霊が動く。
呪力の塊がこちらへ迫る。
東堂は一歩踏み込み、掌を合わせた。
「──不義遊戯」
パンッ、と乾いた音が鳴った。
その瞬間、世界が薄くなる。
空気の抵抗が消え、身体の輪郭が曖昧になる。
本来なら、ここで呪霊と位置が入れ替わるはずだった。──だが。
次の瞬間、東堂の身体は“前”ではなく、“上”へ引かれた。
腹の奥が強く持ち上げられる。
「……むっ?!」
足元の感触が消えた。
踏み込むはずの地面がなく、身体が宙に放り出される。
視界が反転し、光が差し込む。呪霊の気配は、ない。
入れ替わった感触も、途中で途切れている。
代わりに広がったのは、異様なほど澄んだ青空だった。
東堂葵は、空中にいた。
高い。
直感で分かる高さだ。雲よりは低いが、建物の屋上よりは遥かに高い。およそ五十メートル前後。
普通なら、思考が止まる。だが東堂の頭は止まらない。
──術式の暴走。
───先の呪霊の干渉ではない。
────他に干渉してきた“何か”がある。
「……わからんな」
口から出たのは、それだけだった。
理解できないことと、対処できないことは別だ。
東堂は即座に落下を“現象”として捉え直す。
重力が身体を引く。
風が頬を叩き、耳の奥で血が鳴る。落下は始まっている。
だが、制御不能ではない。
東堂は空中で身体をひねり、姿勢を整えた。
腕を広げることはしない。重心を落とし、衝撃を一点に集める準備をする。
視線を下へ。街が広がっていた。整然とした建物の配置。直線的な道路。ガラス張りの高層建築と、規則的に並ぶ標識。
呪術師が知る街の風景ではない。
呪いの匂いが、ほとんど感じられない。代わりに鼻を刺すのは、金属と油の匂い。そして──火薬。
銃声が聞こえた。乾いた連射音、遠くで弾ける爆発音。
だが、その音に対して、街は騒がない。人影は動いているが、逃げ惑う様子はない。
──生活音、か。常識が違う。
そう理解したところで、地面が近づく。
「むんっ!!」
腹圧を高め、背筋と脚の筋肉を一気に締め上げる。両脚を揃え、着地の一点に全てを集める。余計な力は抜く。
力みは衝撃を逃がさない。
最後の瞬間、膝をわずかに緩めた。
ドンッ!!
鈍い衝撃音が街に響く。
コンクリートが砕け、ひびが走り、粉塵が舞い上がった。
だが、東堂の身体は沈まない。
沈んだのは、地面の方だった。
東堂は膝を曲げた姿勢のまま、数拍その場に留まった。
視線よりも先に、音と気配で周囲を探る。
悲鳴はない。驚愕の空気も薄い。視線は集まっているが、敵意はない。
好奇心と警戒が混じった、軽い温度。
東堂はゆっくりと立ち上がり、首を鳴らした。
呪霊はいない。
呪力の濁りもない。
周囲を行き交うのは、制服姿の少女たち。年齢は十代後半。そして全員が、当たり前のように銃を携えている。これは恐らく異常ではない。
持っていない方が、むしろ異常だと身体が感じ取る。
そして、東堂は気づく。
彼女たちの頭上に、淡く光る“輪”のようなものが浮かんでいることに。
一人だけではない。
見える限り、ほぼ全員だ。形は違う。細いもの、厚いもの、装飾めいたもの。
だが、例外がない。
東堂は、そこで初めて自分を意識した。
──自分の頭上には、何もない。
東堂葵はこの世界の異分子。それが理解できた。
視界の端を、奇妙な影が横切る。
二足で歩く犬。
同じく二足歩行の喋りながら歩く猫。
機械のような外見の存在も、街に溶け込んでいる。
誰も、それを異常とは思っていない。東堂は、胸の奥で静かに結論を落とした。
ここは、自分の知る世界ではない。戦場だ。
至る所に引き金があり、人がいて、意志がある。
ならば、やることは一つだ。
東堂葵は、粉塵の中を歩き出した。
まずは、この街の“普通”を知るために。
そのために必要なのは、理屈でも情報でもない。──相棒だ。
遠くで、また銃声が鳴った。
東堂はその音に視線を向け、わずかに口角を上げた。
「ようやく、俺にも青春が訪れたらしい」
東堂葵の目には、ジェニファーローレンス顔負けの女子高生たちしか目に入ってなかった。
乾いた銃声が、もう一度、街のどこかで弾けた。
反響の仕方からして、近い。建物に囲まれた一角だろう。
東堂葵は、その音の方向へ歩き出した。
走らない。
急がない。
今は速さよりも、街の空気を掴むことが重要だった。
通りを進むにつれて、周囲の視線が増えていく。
好奇心、警戒、値踏み。だが、恐怖は少ない。
銃を携えた少女たちは、東堂を「危険」ではなく「変わり者」として見ている。
銃を持たない。
頭上に輪がない。
それでいて、さっきの着地で地面を砕いた。
──強さの方向が違う。
彼女らはそう判断していた。
路地に入る。
表通りよりも少し暗く、人通りが減る。
だが、完全に人気がないわけではない。遠くで誰かが笑い、金属音が響く。
その時だった。
背後で、足音が増えた。
一人ではない。
複数。
距離を保ちつつ、東堂の歩調に合わせている。
──つけてきている。東堂は振り返らない。
振り返る必要がない。
角を曲がった先で、通りが少しだけ広くなる。
建物の影が濃く、視界が狭まる。
そこで、前方に人影が現れた。
少女が三人。
制服を着崩し、腰や太腿に銃を提げている。
表情は軽い。だが、目は笑っていない。
後ろの足音が止まる。
包囲された。
東堂は、ようやく足を止めた。
「おい」
前に出てきた少女が、顎をしゃくる。
「そこのアンタ。さっき、派手に落ちてきたよな」
東堂は黙っている。
「銃、持ってない。それに……」
少女の視線が、東堂の頭上をなぞる。
「ヘイローもない」
その言い方に、断定が混じった。
"ヘイローを持つ者"この街では、それが“条件”なのだ。
後ろから、別の声がかかる。
「迷子?それとも観光?」
くすくすと笑い声が漏れる。
だが、その笑いは軽いだけで、無邪気ではない。
東堂はゆっくりと振り返り、後方の少女たちにも視線を配った。
五人。
全員が銃を携えている。
構えは雑だが、撃つことへの躊躇は薄い。
──金品目当て。
──だが、殺しは想定していない。
そう判断する。
「ここら辺さ」
最初の少女が、軽い調子で続ける。
「変なやつが一人で歩くと、いろいろ持ってかれるんだよね」
銃口が、わずかに上がる。
脅しだ。
だが、引き金に指はかかっている。
東堂は、ようやく口を開いた。
「用件はそれだけか」
低い声だった。
怒りも威圧もない。
ただ、平坦だ。
少女たちが一瞬、間を取る。
「……は?」
「ちょっと余裕じゃない?」
後ろの一人が、面白がるように言う。
「これ、見えてる?それとも、見えないフリ?」
東堂は答えない。
代わりに、ゆっくりと一歩、前に出た。
距離が縮まる。
銃口が揃う。
「動くな」
声が強まる。
東堂は止まらなかった。
──ここだ。
東堂は、その場で腰を落とした。
戦う姿勢ではない。
踏み込める姿勢だ。
少女たちの空気が、わずかに変わる。
冗談の温度が下がり、緊張が混じる。
東堂は静かに、問いを投げた。
「お前たちは」
一瞬、間。
「何を思って、引き金を引く」
路地が静まり返る。
少女たちの表情が揺れた。
笑いが止まり、視線が散る。
「……なにそれ」
「意味わかんない」
誰かが強がって言う。
だが、全員ではない。
一人、言葉を失っている少女がいた。
銃を持つ手が、わずかに震えている。
──測れる。
目的は浅い。
覚悟も薄い。
だが、恐怖に押されれば引き金は引ける。
東堂は、視線をその少女に向けた。
「金か」
答えはない。
「それとも、暇つぶしか」
少女の呼吸が早くなる。
後ろから、焦れた声が飛ぶ。
「もういいでしょ!さっさと──」
その言葉が終わる前に、銃声が鳴った。
引き金を引いたのは、震えていた少女だった。
反射。
恐怖に押され、思考より先に指が動いた。
弾丸が、東堂へ向かって一直線に飛ぶ。
──遅い。
その瞬間、東堂はすでに動いていた。
弾丸が空気を裂く音が、東堂の耳をかすめた。
銃口が跳ね上がる。
反動処理が甘い。
狙いは胸──だが、引き金を引いた瞬間、すでに照準はずれている。
東堂は一歩、踏み込んだ。
弾丸が肩の横を抜ける。
風圧だけが皮膚を撫で、コンクリートに火花が散った。
少女たちの顔色が変わる。
「避け──」
誰かが叫びかけた、その声が終わる前に、東堂の足が地面を蹴っていた。
近い。
銃の間合いは「距離」だ。
だが距離が潰れた瞬間、銃はただの重りになる。
東堂は撃った少女の懐へ、一気に入った。
肘。
叩きつけるのではない。押し込む。
肋骨の隙間に衝撃が潜り込み、呼吸を奪う。
「──っ!」
少女の身体がくの字に折れ、そのまま後ろへ吹き飛ぶ。
だが、地面に倒れる前に、別の銃声が鳴った。
後方。
二発。
連射。
東堂は振り返らない。
身体を低く沈め、前転するように滑り込む。
弾丸が頭上を通り、壁を削る。
東堂は転がりながら、落ちていた空き缶を踏み潰した。
乾いた金属音が響く。
その音に反応して、三人目の少女が引き金を引く。
──音に釣られた。
東堂は前転の終わりに、足を突き出した。
低い回し蹴り。
脛を打たれ、少女の体勢が崩れる。
銃が手から離れ、路地の奥へ滑っていった。
「くそっ!」
叫びと同時に、残りの二人が距離を取る。
銃口が揃い、躊躇が消える。
──学習は早い。
──だが、遅い。
東堂は一瞬だけ、動きを止めた。
止まったのではない。
“見せた”のだ。
撃てば当たる、と思わせる距離。
だが、その距離は、東堂が最も得意とする距離でもある。
「撃つなら──」
低く、通る声。
「覚悟を決めろ」
一瞬の静寂。
そして、四発。
今度は散弾のように広がる。
狙いはバラけているが、逃げ場を潰す意図はある。
東堂は、正面へ踏み出した。
弾丸が腕を掠める。
皮膚が裂け、血が滲む。
だが、止まらない。
踏み込み、肩を当て、体重を預ける。
銃を構えていた少女が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
コンクリートが鳴り、少女は崩れ落ちた。
残る一人。
最初に撃った少女だ。
銃はまだ握っている。
だが、指が動かない。
東堂は、ゆっくりと近づいた。
一歩。
また一歩。
少女の呼吸が荒くなる。
「……来るな」
声が震えている。
東堂は止まらない。
「……来るなって言ってるでしょ!」
引き金に力が入る。
だが、引けない。
東堂は、少女の正面で足を止めた。
距離、一メートル。
「答えは出たな」
少女が、唇を噛む。
「……なにが」
「お前は、撃ちたくない」
東堂の声は、淡々としていた。
責めるでも、諭すでもない。
「金のためでも、暇つぶしでもない。ただ……周りが撃つから、撃った」
少女の目から、力が抜けた。
「……うるさい」
銃が、地面に落ちる。
乾いた音。
東堂は、それを拾わなかった。
振り返り、倒れている他の少女たちを見る。
全員、生きている。
骨折はあるだろうが、致命傷はない。
東堂は、首を鳴らした。
「今日は運が良かったな」
少女たちが、何も言えずに東堂を見る。
「引き金を引く理由が、まだ軽い」
それだけ言って、背を向けた。
路地の出口へ向かって歩き出す。
背後で、誰かが呟いた。
「……なんなの、あいつ……」
東堂は答えない。
答える必要がない。
遠くで、また銃声が鳴った。
今度は、先ほどよりも多い。
東堂の歩みが、わずかに速くなる。
──次は、もう少し“覚悟のある奴ら”か。
口角が、わずかに上がった。
東堂葵は、銃声の方へ向かっていった。
その背中には、銃も、輪もない。
だが、路地に残された少女たちは、確かに感じていた。
あれは、あっち側の類の人間だと。
相棒(ブラザー) 作者はホシノ推し
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