シャーレの執務室は、相変わらず静かだった。
静かすぎる、と言ってもいい。銃声や爆発音が日常のこの街において、ここだけが現実から切り取られたように落ち着いている。
デスクに座る男──先生は、書類から視線を上げた。
眼鏡の奥の瞳には、慢性的な疲労が滲んでいる。
目の下には隈。
手入れの行き届いていない髪は少し跳ねているが、不思議と不潔には見えない。
清潔感と、生活感と、責任感が同時にそこにあった。
「"……入って"」
ノックの音に応じると、端末を抱えたオペレーターの生徒が入室する。
彼女の表情は、少しだけ硬かった。
「先生。市街地から、少し……変わった報告が上がっています」
“変わった”。
その一言で、先生の思考が切り替わる。
「"被害は?"」
「今のところ、重傷者はいません。ただ……不良グループ五名が制圧されています」
先生は頷いた。
制圧、という言葉の裏にあるものを、彼はよく知っている。
生徒が傷ついたかどうか、それがすべてだ。
「"制圧したのは、どこの学園?"」
「……それが」
生徒は一瞬、言葉を選んだ。
「該当する学園データがありません」
先生の指が、デスクの端で止まる。
「"学園外?"」
「はい。ですが、“外部組織”とも違います」
端末の画面が、先生の前に差し出された。
簡易的な映像。
粉塵の残る路地。倒れている生徒たち。
そして──
「"……銃を持っていない?"」
先生の声は驚きを隠せない。つい数週間前に外の世界から来た彼も、常識に染まりつつある。
「はい。目撃証言によれば、武装なし。それでいて、銃撃を回避し、近接で制圧したと」
先生は画面を見つめる。
生徒たちの倒れ方。
無駄のない動きの痕跡。
──殺していない。
──だが、手加減もしすぎていない。
そのバランスに、先生は違和感ではなく、意志を感じ取った。
「"名前は?"」
「不明です。ただ……」
生徒は次の情報を表示する。
「現場に居合わせた生徒の証言です。“銃も輪も持っていないのに、異様な圧があった”“撃てなくなった”“目を合わせるだけで、心を読まれているみたいだった”」
先生は、ゆっくりと息を吐いた。
──危険人物。
──だが、即排除すべき存在ではない。
何より。
「"……その不良たちは、生きているんだね"」
「はい。骨折や打撲はありますが、軽い怪我で命に別状はありません。それと他に...」
先生は、そこで初めて小さく笑った。
「"そっか"」
それだけで十分だった。
先生にとって、生徒を故意に傷つけない選択をした存在は、
少なくとも“敵”ではない。
「"っとごめん、遮っちゃったね。他に?"」
「はい。目撃証言の中に、少し……特徴的な発言があります」
「"発言?"」
「制圧の直前、その人物が不良たちに問いかけたそうです」
生徒は、端末のログを読み上げた。
「『お前たちは、何を思って引き金を引く』と」
先生の表情が、わずかに変わる。
問いだ。
脅しでも、命令でもない。
生徒に“選ばせる”問い。
それは、先生自身が、何度も自分に向けてきた問いでもあった。
「"……なるほど"」
先生は椅子に深く座り直した。
この街では、銃を持つことは当たり前だ。
引き金を引く理由は、軽くなりがちだ。
だからこそ、その問いは重い。
「"現在地は?"」
「最後の目撃情報では、ゲヘナ学園の方向へ向かったと」
先生は目を閉じ、ほんの一瞬だけ考える。
──接触すべきか。
──情報を集めるべきか。
答えは、もう出ていた。
「"……私が行くよ"」
生徒が目を見開く。
「先生?」
「"生徒を守るのが、私の役目だ。そのために、大人が前に出る必要があるなら、出るよ"」
自身の身体、胸の方に、先生の視線が落ちる。
そこには、“切り札”がある。
奇跡を起こせるが、
人生や時間を対価として支払う、大人のカード。
──まだだ。
──これは、生徒のための最後の手段。
「"まずは話をしよう。諸々はその後だ"」
先生は立ち上がり、コートを羽織る。
優しい表情のまま。
だが、その背中には、はっきりとした覚悟があった。
「"生徒に手を出さない相手なら……こちらも、大人として向き合う"」
シャーレの扉が、静かに閉まる。
その頃、街のどこかで。
銃声の向こうへ歩く男がいることを、先生はまだ知らない。
だが、確信していた。
──いずれ、会う。
そしてその時、
引き金よりも先に、言葉を交わすことになるだろうと。
***
街を歩いているだけで、絡まれる。
それが、この街の流儀らしかった。
東堂葵は路地を抜けながら、同じことを何度目か考えていた。
──おかしい。
先のの一戦。
拳を入れた瞬間、確かな手応えがあった。
一般的な女性なら、確実に気絶する威力。骨に響かせ、脳を揺らすつもりで打った。
だが。
倒れはした。
だが意識を失っていない。恐怖や痛みはあっても、身体は平然としていた。
──耐えた?
東堂は、その違和感を捨てていなかった。
だから次に絡んできた生徒に対して、東堂は少しだけ力を調整した。
それでも、結果は同じだった。
効く。
だが、意識は沈まない。
「おい」
路地の中央で、東堂は倒れた生徒を見下ろした。
三人。
全員、生きている。
呼吸も正常だ。
東堂は、しゃがみ込んで一人の胸倉を掴み、無理やり視線を合わせた。
「1つ質問だ」
低い声。
「……な、なんだよ……」
「さっきの一撃」
東堂は、自分の拳を一度だけ見た。
「普通の人間なら、重症だぞ」
生徒の目が揺れる。
「……だからなんだよ」
東堂の視線が、逃がさない。
「なぜだ」
一瞬の沈黙。
「……それ、今さら?」
生徒は困惑したように、息を整えながら答えた。
「だって……生徒だし」
東堂の眉が、わずかに動いた。
「生徒?」
「そ。あたしたち、生徒」
生徒は、頭上を指さした。
「これ、あるでしょ」
淡く光る輪。
「これがある限り、そう簡単には死なない」
東堂は、無言で聞いている。
「身体も、普通の人より頑丈なんだよ。だから……その」
生徒は、視線を逸らす。
「……あんたの拳、普通じゃないけど」
東堂は、そこでようやく理解した。
──普通の人間とは違う。
──身体の構造は同じでも、呪力と似た"なにか"で体を守っている。
だから、この街では銃が日常になる。
だから、引き金が軽くなる。
「……なるほど」
東堂は、胸倉を離し、立ち上がった。
「なら聞き直す」
生徒が、びくりとする。
「その身体で」
東堂は一歩、踏み出す。
「なぜ、拳で戦わない」
答えは、すぐには出なかった。
「…は?」
「....逆に聞くけど、なんで銃があるのに拳で戦わなきゃいけないんだよ」
「キヴォトスのトップ連中ならまだしも、私らが拳で戦っても、たかが知れてるし...」
どれも、薄い。
東堂は、それ以上聞かなかった。
拳を振るう代わりに、肩を一度だけ叩いた。
強くはない。
だが、逃げられない重さ。
「覚えておけ」
「喧嘩は素手でするもんさ」
生徒は、何も言えなかった。
東堂は背を向け、歩き出す。
──この街では。
人は簡単には死なない。
だが、だからこそ、心が先に死んでしまう。
そう考えた、その時。
「"……噂は本当みたいだね"」
路地の入口から、静かな声が届いた。
東堂が顔を上げる。
男が立っていた。
眼鏡。
疲れた表情。
だが、目は穏やかで、敵意もない。
倒れている生徒たちを見て、
それから、東堂を見る。
そして、まず生徒たちに声をかけた。
「“大丈夫?立てそうなら、ゆっくりでいいよ”」
その声に、場の空気が変わる。
命令でも、叱責でもない。
だが、誰も逆らわない。
東堂は、そこで理解した。
──こいつは、武力では無く言葉で場を制す。
東堂は、低く言った。
「…問おう」
「どんな女がタイプだ!?」
あまりにも唐突で、あまりにも真剣な声だった。
倒れていた生徒たちが、一斉に瞬きをする。
痛みで顔を歪めていた者すら、動きを止めた。
「……は?」
「なに、今の」
「この状況でそれ聞く?」
小声が重なる。
だが東堂は一切気にしない。
彼は、目の前の男だけを見ていた。
先生は、ほんの一瞬だけ言葉を探した。
困ったように眉を下げ、それから、いつものように穏やかに笑う。
「“いきなりだね……”」
場の空気が、わずかに緩んだ。
先生は、東堂から視線を逸らさない。
ふざけているのではない。
これは、この男なりの“測り方”なのだと、直感で理解していた。
「“でも……そうだな”」
少し考えてから、ゆっくりと答える。
「“一生懸命な子、かな”」
生徒たちがざわつく。
「え、それだけ?」
「普通すぎない?」
「もっとこう……ないの?」
先生は苦笑する。
「“うん。普通でいいんだ”」
東堂は、腕を組んだ。
答えは軽い、軽薄。だが東堂は諦めない。
「……ほう」
東堂は、一歩だけ前に出た。
「胸は?」
一瞬、空気が凍る。
「ちょっ……!」
「先生!?」
だが先生は、慌てなかった。
「”……大きさじゃないよ”」
即答だった。
「“大事なのは、その人が自分をどう大切にしているか、だから”」
東堂は、眉をひそめる。
東堂葵は、そこで初めて、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまらん答えだ」
そう言いながらも、声には怒りがこもっていた。
東堂葵は先生を真っ直ぐに見据え、睨んだ。
「お前が術師なら半殺しにしていたところだ」
その言葉に、生徒たちが息を呑む。
東堂は、そこで話題を切り替えた。
「が、見るに一般人...呪力もさほど無い」
東堂の言葉は、刃のように鋭かった。
敵意ではない。値踏みだ。
先生は、その視線を真正面から受け止める。
逃げない。逸らさない。だが、力で返そうともしない。
「“術師...?よく分からないけど、私は戦えないよ”」
あっさりとした肯定だった。
その場にいた生徒たちが、思わずざわめく。
東堂の眉が、わずかに上がる。
「……ほう」
意外そうでもあり、納得したようでもある声。
「ならば聞こう」
東堂は一歩、踏み込んだ。
距離が縮まる。威圧が増す。
「この街で、どうやって生き残っている」
先生は少し考え、それから静かに答えた。
「“生徒に、守ってもらってる”」
一瞬、空気が止まった。
生徒たちが息を呑む。
その答えは、あまりにも率直で、あまりにも無防備だった。
東堂は、すぐには返さなかった。
──強さを誇らない。
──弱さを隠さない。
その態度に、東堂は違和感と同時に、わずかな興味を覚える。
「……立場を理解しているな」
「“うん、だからこそ必要な時は前に立つ”」
東堂の口元が、わずかに歪んだ。
「守られる側が、前に立つか」
「“必要ならね”」
先生は、倒れている生徒たちを一瞥する。
「“誰かが代わりに殴られるなら、それが大人の仕事だと思ってる”」
東堂は、鼻で息を吐いた。
「……甘い」
だが、その声には、完全な否定は含まれていなかった。
「甘いが……嫌いではない」
生徒たちが、驚いたように東堂を見る。
先生は、少しだけ微笑んだ。
「“ありがとう。でも、君のやり方も否定しないよ”」
東堂の目が、鋭く光る。
「俺のやり方は、殴るぞ」
「“知ってる”」
即答だった。
「“でも、君は殺さない”」
その一言で、東堂の動きが止まった。
──見抜かれている。
──観察されている。
東堂は、しばらく先生を見つめ、それから低く笑った。
「……面白い」
拳の男は、ようやく名乗る気になった。
「俺は東堂葵だ」
先生は、ゆっくりと頷く。
「“私は先生。この街で、生徒を預かっている”」
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。
殴り合いは起きない。
だが、理解もまだ遠い。
それでも。
この街で初めて、東堂葵は思った。
──こいつは、殴る価値のない男だ。
先生は、静かに言った。
「“よかったら、シャーレに来ない?話したいことがたくさんある”」
東堂は、少しだけ考えた。
そして、肩をすくめる。
「ふっ……暇つぶしにはなりそうだな」
路地に、再び銃声が響く。
だが、二人はもう振り返らなかった。
拳と、言葉。
違う武器を持つ者同士が、
同じ方向を向き始めていた。
相棒(ブラザー) 作者はホシノ推し
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