息を吸うより先に、足が前へ出る。
迷いはない。迷う理由もない。
この路地にあるのは、倒れた部下と、転がる不良と、そして──目の前の異物だけだ。
銃口が上がる。狙点は膝。次に指。
当てれば終わる。終わらせればいい。
それだけの単純さが、逆に私の呼吸を整えた。
引き金。
乾いた発砲音。
弾が空気を裂く。その線を、相手は「避けた」のではなかった。
──消えた。
パンッ。
手を叩いた音。
その瞬間、東堂葵の位置が跳ぶ。
視界の中で、高速移動ではなく“入れ替わる”。
反射で銃口を振る。
射線を置く。次に置く。さらに置く。
動きを追うのではない。次に出る場所へ先回りする。
だが、追っても追っても、こちらの読みは半拍ずつ遅れる。
──術式。
理屈が完全に組み上がる前に、身体が先に理解していく。
「音」だ。手を叩いた、その瞬間が合図。
合図のたびに、周囲に散った“駒”と入れ替わっている。
なら、潰すべきは駒。
置かれた瓦礫、小石、舞った破片。
それを撃ち抜けば、入れ替えの先が減る。
引き金、引き金。
床を抉り、壁を割り、石片を砕く。
粉塵が舞う。視界が濁る。
それでも──東堂は出てくる。
パンッ。
また、跳ぶ。
私の瞳が追いつく。
腕が追いつく。
体が勝手に射線を作る。
ほとんど反射神経だけで追っているのに、相手はそれでも逃げる。
苛立ちはない。
苛立ちに割く余白がない。
ただ、厄介だと思った。
それだけ。
東堂は、笑う。
血が口元に滲んでいるのに、笑う。
痛みを無視しているわけではない。
痛みを“材料”にしている顔だ。
──戦いを楽しむタイプ。
この街には多い。
だが、こいつは種類が違う。
パンッ。
また位置が跳び、間合いが詰まる。
拳が来る。
受ける。
肩で受け、膝で逃がし、銃床で返す。
金属の重みが骨へ響く。
反動で手首が痺れる。
それでも、拳は止まらない。
踏み込んでくる。
こちらの射線を潰しに来る。
──近い。
私の体が僅かに下がる。
下がったことに、自分で気づく。
それが嫌で、足が床を噛む。
「……まだやる?」
さっき投げた言葉が、薄い煙の中で蘇る。
相手は「もちろんだ」と答えた。
当然だろう。
この男は“当然”を歪める側だ。
私は短く息を吐き、視線を刺すように固定した。
駒の残り。
角度。
彼の手の位置。
拍手の予備動作。
──次で、終わらせる。
引き金を引く。
東堂は跳ぶ。
パンッ。
私はもう一度引く。
跳ぶ。
パンッ。
また引く。
跳ぶ。
パンッ。
まるで、打ち上げ花火の芯を撃っているみたいだ。
同じ動き。
同じ音。
同じ逃走。
同じ応酬。
なのに──
違和感が混じった。
東堂が、喋った。
「……やられっぱなしじゃ、高田ちゃんに振られるな」
ふざけた内容のはずなのに、笑いの温度が消えていた。
冗談が“仮面”になり、仮面の奥がこちらを見た。
──空気が変わる。
動きは同じだ。
位置が跳ぶ。
拳が出る。
間合いを詰める。
拍手が鳴る。
それでも、何かが違う。
“逃げ”が、薄くなった。
いままでの跳躍は「当たらないため」だった。
だが今の跳躍は「当てるため」に見える。
盤面を増やすのではなく、盤面を“閉じる”ような動き。
──恐らく短期決戦に切り替えた。
なら、こちらも短期で潰す。
私は銃を、ほんの僅かに下げた。
撃つためではない。
撃ち“切る”ための角度を作る。
"神秘"が、指先から銃へ流れ込む。
熱でも冷気でもない。
ただ、色が付く。
紫。
見えるはずのない色が、視界の縁に滲む。
それは私の中だけで発光している。
私の“神秘”が、弾丸の軌道に薄い尾を引かせた。
──レーザー。
実際は高速射撃に過ぎない。
だが、この速度と精度は、もう「線」だ。
息を止める。
心拍を落とす。
引き金を引く。
紫の線が路地を貫く。
空気が割れる。
粉塵が裂ける。
瓦礫の輪郭が瞬間だけ白く焼ける。
通常なら、これで終わる。
跳べない。
避けられない。
入れ替えで逃げる前に、線が先に届く。
──届くはずだった。
東堂が、動かない。
拍手を、打たない。
彼は真正面から──その紫の線を受けた。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
紫の軌跡が、東堂の体を斜め一線になぞる。
胴。肩。腹。胸。
光の残滓が、布を焦がし、皮膚を裂いた。
血が、遅れて飛ぶ。
赤が空気に混じる。
──倒れる。
そう思った。
思ったのに。
東堂は、倒れていない。
膝は折れていない。
視線が落ちていない。
呼吸は荒いが、芯が折れていない。
まるで、壁だ。
術式を使わずに、受けた。
受けた上で、前へ出る。
その瞬間、私の中に「理解できない」という感覚が生まれた。
ほんの一瞬。
戦闘の現場であってはいけない空白。
東堂の口が動く。
「……ほらな」
低い。
笑っていない。
ただ、確信だけがある。
次の瞬間。
視界が、歪んだ。
東堂の拳が来る。
さっきまでの拳と同じ軌道。
同じ踏み込み。
同じ角度。
なのに──
拳の“質量”が違う。
空気が圧縮され、音が遅れて追いつく。
拳が振るわれた瞬間、路地の粉塵が一方向に吸い寄せられた。
衝撃が来る前に、骨が鳴る予感がした。
──避ける。
身体が命令する。
だが、間に合わない。
「黒閃!!」
拳が当たった。
胸の奥が、潰れる。
呼吸が抜ける。
胃が浮く。
視界が跳ねる。
黒い閃光が、遅れて見えた。
闇のように濃い“線”が、拳の軌跡にまとわりつく。
一瞬。
瞬きより短いのに、脳がその瞬間を引き伸ばして記憶した。
──黒閃。
男の言葉が浮かぶ。
理解より先に、身体が答えを出した。
──まずい
床が近づく。
背中が、地面に叩きつけられる。
視界が真上を向き、粉塵が雪みたいに落ちてくる。
音が遠い。
ヘイローが、揺れる。
揺れるだけで済んでいるのが、不思議なくらいだ。
私は息を吸おうとして、吸えない。
胸が痛いのではない。
胸が“動かない”。
ダウン。
私は初めて、この路地で「倒された」という事実を受け取った。
視界の端に、東堂が立っている。
体に紫の焼け跡を横一線に刻んだまま。
それでも、立っている。
彼の呼吸が荒い。
だが、目は澄んでいる。
そして彼は短く、言う。
「フィナーレ、だな」
私は歯を食いしばり、床に手を立てた。
立ち上がるためではない。
“立ち上がれる”ことを、相手に見せるために。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
胸の奥がまだ痺れている。
だが、意識は切れていない。
粉塵の中で、視線が交差する。
東堂葵は、倒れない。
そして私は、初めて倒れた。
それだけで、この戦いの温度が一段上がるのが分かった。
***
あの黒閃の手応えが、まだ拳に残っている。骨に伝わる反動ではない。もっと奥、血管の内側を走る電流みたいな熱だ。呼吸のたびに、世界の輪郭が一段くっきりする。
東堂葵は、口の端から垂れた血を舌で拭った。
紫の線が身体を斜めに走った焼け跡は、痛い。普通に痛い。痛いのに、笑いが消えない。痛みが「ノイズ」ではなく「情報」になっている。痛みの位置がわかるということは、身体の状態を把握できるということだ。
黒閃。
たった一撃で、風景が変わった。
拳を握るだけで、指先から先に空気が逃げるのがわかる。
踏み込む前に、地面の反発が先に感じ取れる。
視界は点で追うのをやめ、面で広がる。
──いまなら、成れる。
体が、頭より先に確信している。
「俺は今、術式のステージを一段上げた」
ヒナは起き上がろうとしていた。床に指を立て、体を引き上げる。呼吸が乱れているのに、目は死んでいない。さっきのダウンは、終わりじゃない。むしろ、火がついた顔だ。
東堂は、路地の空気を吸い込む。粉塵が肺に刺さる。苦い。だが、妙に澄んでいる。矛盾しているみたいだが、いまの東堂にはそれがわかる。
「……この場所は空気が澄んでいる」
自分の声が、路地に落ちる。
誰に言ったわけでもない独り言が、なぜか言葉になった。
「……まさに俺の心だ」
術式を“広げる”ため内心を言葉にする。
東堂は、両手を開いた。
拍手のための形ではない。
放つための形だ。
呪力を、外へ。
呪術廻戦の世界みたいに、空気中に濃い呪いが漂っているわけじゃない。だからこそ、逆にやりやすい。混じり気が少ない。自分の呪力を「空気に染み込ませる」抵抗が小さい。
呼気と一緒に、呪力を押し出した。
目に見えない膜が、路地の壁から壁へ、床から空へ、薄く広がっていく。
粉塵の粒が、わずかに“浮き方”を変えた。
煙が、筋を引いた。
ヒナの眉が、ほんの少しだけ動く。
「...何をしたの」
声は低い。まだ胸が痛むはずなのに、問いの芯がぶれない。
東堂は答えず、笑う代わりに息を吐いた。
呪力が空気に馴染む。
馴染むというより、空気を“自分のもの”にする感覚。
そして──至る所に、小さな溜まりが生まれる。
瓦礫。石片。粉塵の渦。壁の欠け。床の裂け目。
そこだけではない。
何もない場所、ただの空間にも、呪力が“引っかかる”。
見えない水たまりだ。
踏めば沈み、蹴れば跳ねる。
そういう足場が、路地のあちこちに生まれていく。
東堂は、自分の術式の「対象」を理解し直した。
いままでは、呪力を載せた“駒”が必要だった。
だが、いまは違う。
空気そのものが、駒になっている。
東堂は指を鳴らすように、小さく手を打った。
パンッ。
身体が入れ替わる。
瓦礫でも石でもない。
ただの空間、呪力が溜まった“点”と位置が入れ替わる。
ヒナの瞳が、ほんの一瞬だけ見開かれた。
「……っ」
その反応だけで十分だ。
「読めない」が一瞬でも挟まれば、勝ち筋は太る。
東堂は、着地しない。
次の入れ替えで、また場所を変える。
パンッ。
パンッ。
拍手の音が、路地に反響する。
今までの拍手は「逃げるため」だった。
いまの拍手は「囲うため」だ。
ヒナは銃を上げた。さっきの紫の線。あれがもう一度当たれば、東堂の体は本当に裂ける。しかしヒナは撃てない。
殺してしまうからだ。
ヒナは引き金にかけた指を、わずかに緩めた。
撃てば当たる。
当たれば、終わる。
だが終わり方が、任務の形をしていない。
紫の線は「制圧」ではない。
「処理」だ。
東堂は、その一瞬の迷いを見逃さない。
パンッ。
空気がまた入れ替わる
東堂の姿が、瓦礫の横から、粉塵の中、そして何もない空間へと次々に入れ替わる。
ヒナは歯を噛む。
撃てない。
だが、撃たなければ追いつけない。
東堂は踏み込む。
拳が来る。
ヒナは銃身で受け、反動で距離を作り、床を蹴って位置を変える。
東堂の拳が、壁を抉る。
粉塵が爆ぜ、視界が白む。
ヒナはその中を撃ち抜く。
銃弾が、煙を裂く。
東堂は拍手を打たず、身体を捻る。
線が肩をかすめるが傷はつかない。
「…効かん!」
東堂は止まらない。
止まる理由がない。
拳。
膝。
肩。
面で叩くような打撃。
ヒナの体から鈍い音が重なる。
しかし、どちらも決定打に届かない。
だが、どちらも削られている。
粉塵の中で、二人の影が絡み合う。
東堂は空気を盤面として使い、
ヒナは射線を線ではなく“束”で置く。
互いの動きが、互いを潰しきれない。
──拮抗。
東堂は息を吐きながら、笑った。
「お前、名はなんという」
ヒナは答えない。
その代わり、銃口をわずかに上げる。
紫の光が、また宿りかける。
そのときだった。
東堂の腰の通信機が、短く震えた。
「……ちっ」
直後、ヒナの耳元でも、別の通信が鳴る。
東堂の方が、先に出た。
「何の用だ」
怒気の含んだ声で通信機に話す。
通信の向こうから、聞き慣れた声。
『"ごめん東堂、今すぐその戦闘を辞めて欲しい"』
「言わなかったか?邪魔をしたら殺す、と」
『...?聞いてないよ』
東堂は舌打ちする代わりに、頭を掻いた。
「なら言い忘れだ、しかし!お前のせいでシラケたぞ」
『今戦ってる相手はもうやる気は無いみたいだよ?』
東堂が見るとヒナも通信を取っていた。
「…なに、アコ」
耳元の小型端末から、早口の声。
『ヒナ委員長!今すぐ戦闘を中止してください!連邦生徒会から指示が来てます!」
「理由は」
『ヒナ委員長が戦闘してる相手が...その、シャーレ?と言う行政組織のメンバーみたいで...とにかく!即刻帰ってきてください!」
ヒナは、ほんの数秒、目を閉じた。
再び開いたとき、視線は東堂に向いていた。
東堂も、通信を切ったところだった。
「続きといこうか!」
東堂の声は、まだ戦場の熱を帯びていた。
拳を軽く鳴らし、空気に滲ませた呪力が、微かに波打つ。
だが、ヒナは銃を下ろした。
「私は帰る。もう戦う理由が無い」
短い言葉。
だが、その中に迷いはなかった。
東堂は一瞬だけ目を細める。
「理由なら、目の前にあるだろ」
「任務は終わった。それに……上から止められた」
ヒナの視線は、東堂ではなく、路地の外の空に向いている。
もう戦場を“場”として見ていない目だ。
東堂は、舌で歯の裏をなぞった。
「命令に従うようには見えんがな」
「そう?」
沈黙が落ちる。
粉塵が、ゆっくりと地面に沈んでいく。
東堂の周囲に漂っていた呪力の溜まりが、少しずつ薄れていく。
空気が、彼のものではなく“ただの空気”に戻っていく。
「……ちっ」
小さな舌打ち。
「いいところだったんだがな。正直、お前とはもう一度条件なしで殴り合いたい」
ヒナは答えなかった。
だが、背を向ける直前、ほんの一瞬だけ振り返る。
「次に会う時は、容赦はしない」
それは予告でも、脅しでもなかった。
ただの、事実の提示だった。
東堂は笑う。
「それでいい」
ヒナは眉をわずかにひそめる。
「…」
ヒナはそれ以上、何も言わなかった。
踵を返し、風紀委員たちのいる方へ歩き出す。
足取りはまだ少し重い。
黒閃の痕が、確実に身体に残っている。
だが、背中はまっすぐだった。
東堂は、その背中を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
「…タイプを聞き忘れたな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
腰の通信機が、もう一度短く鳴った。
「……なんだ」
『"東堂、帰ったら話したいことがある"』
「...先の、ああいうやり方は好かんとだけ言っておく」
「仕方なかった、は言い訳か...ごめんね東堂。返ったらまた」
そこで通信が切れる。
勝敗は、つかなかった。
だが、互いの中に、確かな「相手の輪郭」だけは刻まれた。
それで十分だと、東堂は思った。
相棒(ブラザー) 作者はホシノ推し
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ホシノ
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ヒナ
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ネル
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アリス
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ミカ
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