The Rite of Depth 関連小説集 作:白銀 小虎
「サフィラスはどこにいるのだろうか」
グランツが、誰に尋ねるわけでもなくそう言うと、ローレンスが手を挙げる。
「ああ、それなら知っています。サフィラス殿は、この時間ならいつも図書館の天体室におられます。私、よく洗濯物を乾かす依頼をしているものでして…。先ほどもお願いをしていた帰りでした。」
グランツは少し意外そうな顔をした。
「洗濯物を…?」
「ええ。サフィラス殿は火の法を扱われるのがとても上手く。シワ一つなく乾かしていただけるので、非常に助かっております。」
「…なるほど」
グランツは苦笑した。
「では、行くとしよう」
三人と小さなオルファンは、図書館へと向かった。
図書館は宿から少し離れた場所にあり、古い石造りの建物だ。
中に入ると、本の匂いと静寂が広がっている。本の管理はしっかりしているようで、やや乾燥した空気の中、利用者が居ない空間は閑散としていた。
階段を上り、最上階の扉を開けると、そこには円形の部屋が広がっている。
天井はガラス張りで、空が見える。壁には星図や天球儀、おそらく占星術に使うのであろう色とりどりの宝石が並び、中央には大きな望遠鏡と机があり、その机の前に、薄青の体毛に桃色の瞳を持つ虎獣人が座っていた。
サフィラスだ。
白い法衣のような服を纏い、手にはいつもの天球儀―――彼曰く『
「おや」
サフィラスは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「グランツさん、ローレンスさん、それにオルファン君も。皆さんお揃いで、どうされましたか?」
その口調は穏やかで、慈愛に満ちていた。
グランツは一歩前に出た。
「サフィラス。お前に、聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
サフィラスは羽ペンを置き、グランツたちの方を向いて―――ああ、と思い返したかのように一言。
「ヴィルデンのことですね?」
その問いに、グランツは目を見開いた。
「…なぜ、わかる?」
「ええと、いえ。特に難しいことでは。」
サフィラスは柔らかな表情を浮かべて答えた。
「グランツが深刻そうな表情をしていましたし、最近のヴィルデンは睡眠時間が長いでしょう。直近で星の運行から考えると、ギルドから何か深刻な依頼が来たわけでもないですし、そうなると身の回りの出来事―――つまり、目下のヴィルデンに関することに限られますから。」
彼は椅子から立ち上がった。
「それで、何を聞かれたいのでしょう?」
グランツは、少し言葉を選んでから答えた。
「…ヴィルデンの睡眠時間が延びている。リーガルに聞いたところ、精神の摩耗が原因だと言われた」
「はい、その通りです」
サフィラスは穏やかに頷いた。
「精神が摩耗しているのは事実です。このまま放置すれば、最終的には感情や
その口調は優しかったが、どこか淡々としていた。その淡白さに、ローレンスは一歩踏み出してやや口調荒く訊ねる。
「それを知っていて、何もしないのですか?」
「ええ」
サフィラスは静かに答えた。
「何もしておりません」
「なぜだ?」
グランツは静かに声を上げた。
「お前なら、何か方法を知っているんだろう?リーガルからもそう聞いている。」
「ええ、方法はありますよ」
サフィラスは、まるで当然のことのように答えた。
「ただし、それを実行するかどうかは、ヴィルデン自身が決めることです」
その言葉に、グランツは息を呑んだ。
「どういう…意味だ?」
サフィラスは窓辺に歩き、空を見上げた。
「ヴィルデンは、不死を与えられています。しかし、不滅ではない。肉体的には滅びることができないのに、彼の魂や精神は有限です」
彼は至宙儀を見つめた。
「とどのつまり、永遠に生き続けることは彼にとって苦痛なのです。ですから、彼は『終わり』を受け入れている」
「しかし…!」
グランツが言いかけたが、サフィラスは穏やかに手を上げた。
「グランツさん。あなたは、ヴィルデンを救いたいのでしょう?」
「当然だ」
「それは、あなたの願いです」
サフィラスはグランツを見た。その桃色の瞳には、深い慈愛があった。
「しかし、ヴィルデン自身の願いは、違うかもしれません」
「…それは、どういう……。」
サフィラスは静かに言葉を選ぶ。
「端的に、ヴィルデンは疲れているのです。本能的にも、意識的にも休息を求めているのです。ずっと眠って、このまま目覚めることがないのであれば、役割はもう終わったのだと、そう思っていてもおかしくはありません。」
「それは…死ぬことと同じではないですか!」
ローレンスが責めるように言った。
「ええ、ある意味では」
サフィラスは頷いた。
「しかし、彼にとってそれは『解放』なのかもしれません」
その言葉に、グランツは拳を握りしめた。
「お前は…それでいいのか?ヴィルデンが消えることを、ただ見ているだけでいいのか?」
サフィラスは、少し寂しそうに微笑んだ。
「いいわけがありません」
その声には、わずかな感情が滲んでいた。
「ヴィルデンがいなくなれば、私は寂しいです。とても、とても寂しい」
彼は空を見上げた。
「でも、それは私の感情です。ヴィルデンの選択とは、関係ありません」
グランツは深く息を吐いた。
「…サフィラス。教えてくれ。精神の摩耗を止める方法とは、何だ?」
彼は机に戻り、静かに至宙儀を手に取った。
「私のミクロコスモス…私の内なる宇宙*2で、ヴィルデンと同じ歴史を仮想運営します」
「仮想…運営?」
「ええ。私の中で、ヴィルデンの人生を再現するのです。そして、特定のタイミング…例えば、彼が最も『人間らしかった』時の精神情報を抽出します」
サフィラスが至宙儀を空に浮かべると、天文室にあった種々の宝石がそれを中心に回りだす。
ホログラムのような煌めきの軌道上をその宝石がゆったりと回転していき…彼が魔法を使うときに、よく見かけた光景だ。
グランツは過去に説明されていた話を思い出す―――これは私たちがかつて生きていた星の恒星系であるらしい―――そんな宙域を再現したからなのか、あたりは少し暗くなり、見えないはずの星々が、至宙儀を中心に薄く煌めき始める。
「その精神情報を、現在のヴィルデンの魂に『張り付ける』。四次元的に固定することで、その精神を保つことができます」
「つまり…その、どういうことだ?」
グランツが困惑した表情で尋ねた。
「ああ、ええと」
サフィラスは少し考えた。
「過去から派生した、別のヴィルデンの『精神』を、今のヴィルデンに上書きする、というイメージでしょうか」
「上書き…それでは、今のヴィルデンは消えてしまうのではないか?」
「いいえ、消えるわけではありません」
サフィラスは首を振った。
「より正確に言えば、ヴィルデンの精神を、時空計量*3を内包した高次元多様体*4として定義された空間上の一つの近傍領域*5として扱い、現在の精神と照応する過去の特定時点近傍*6の高次的構造を、現在の精神に該当する近傍領域へ共変性*7を保ったまま接続*8するので…」
グランツの表情が、完全に困惑に染まった。
ローレンスも首を傾げている。
「ええと、つまりですね」
サフィラスは言い直した。
「精神は四次元空間上の情報量として処理できるのですが…、共変性を保ったまま、計量テンソル*9的に非退化*10であるならば、それは論理的には同一であると言えます。ですので、構造を崩さないように精神情報をそのまま接続すればよいということです。」
「サフィラス殿」
ローレンスが頭を押さえた。
「申し訳ないが、もう少し…その、…例えば我らが教義を説明しているときのような―――平易な言葉で説明してくれないだろうか」
「ええと…、申し訳ありません」
サフィラスは苦笑した。
「凄く誤解を招いてしまうかもしれませんが…。つまり、過去の1点までは同じ人物なのですから、そこから派生した同一の人物同士の精神は、たとえ別の歴史を歩んだとしてもその基底情報…即ち、
「…つまり、精神的には同じ人ではないのか?」
「それが、難しいところなのです」
サフィラスは少し困ったように言った。
「哲学的には、同一人物と言えます。しかし、数理的には…微妙*11なのです」
彼は至宙儀を見つめた。
「私たちが生きているこの宇宙は、ある種物理的ではなく数理的に解釈するほうがたびたび正しいことが多いのです。」
「例えば、この星系模倣の魔法―――占星術師としては基本中の基本ですが―――などは代表的なもので、それぞれの宝石が惑星であり…運行が完全に一致してるならば…、これは私たちの惑星系と同じと言えるようになる。これが照応の基本です。」
この時、宝石がより惑星に照応する種類の物、より希少なものであれば、照応度合いはより高くなります、と続ける。
「星の運行を疑似的に計算し、その計算から星系が壊れないように…その莫大なエネルギーをすこしばかりちょろまかす。そして、その運行の力…即ち星そのもののエネルギーは神秘総体であるからして、様々な軌跡を起こし得る力の源泉となる。これが占星術の概要であり、本質です。」
そこまで言って、サフィラスが指を振ると、今まで浮かんでいた大きめの宝石はゆっくりと机の上に収まり…今度は別の小さな宝石が空にキラキラと浮かび始める。
「そして…この時、物理的―――ヴィルデンのいた国の言葉を借りるなら魔法物理学ですね―――に等しいといえる状態であるからこそ、この魔法は成立しますが、では数理的にはどうでしょうか?運行が同じ?物理的に同質と言える?…本当に?オルファン君。あなたはどう思いますか?」
突然話を振られたオルファン。えっ?と反応し、困ったように眉を垂らして、考え始める。
「え、えっと……わ、わかんないけど…。でも、同じだから、サフィラスは魔法が使えるんだろ?なら…その、数学的?にも同じじゃないのか…?えっと…」
タジタジな反応に、サフィラスはふっと笑って冗談めかしたかのように言う。グランツは何ともなしに、オルファンの頭を撫でる。
「すみません、冗談が過ぎましたね。つまり、数理的には同一でないのです。例えば―――」
先ほどまで至宙儀を中心とした星系は、小さな宝石に置き換わってからどんどんと中央に集まり―――今度は金剛石のような煌めきが、空間一杯に広がり始める。
「これは―――素晴らしい技術ですね。創世を成した神の視点のようで―――」
「あながち間違いではないかもしれませんね。私たちは本来この視覚を得ることはできませんから。」
ローレンスは感嘆する。
彼の使う魔法は確かに言葉を失うくらい美しいものが多かったが、これはひと際に―――魅せるための魔法であるのだろう。
かつて遭遇した神秘体験も褪せてしまうような美しさに、思わず声を漏らす。
「今再現しているのは、私たちの星からおよそ100光年…光が100年かけて進む距離の範囲を照応しています。」
「…100光年?サフィラス殿の国はそこまで天文学が発達していたのですか?」
「逆です。あなた方の星が、発達した天文学を喪失したのです。」
でなければ、超文明時代と呼称した頃に宇宙進出などできるはずもないでしょうとサフィラスは続けた。
「このように、局所的に切り出すだけなのであれば確かに数理的に正しいのかもしれません。でも、その周辺空間は?目に見えていない『内部構造』は?周辺の数理的空間の歪みは…?なによりも、サイズは?数字だけで言うのであればここまで違いますし、切り出す範囲を変えただけでここまで変化が出る物なのです。だからこそ、同一であるかという問いには、私は答えを返せません。」
サフィラスが手を掲げると、空間に散在していた宝石が集まり…至宙儀はゆっくりと机の上に落ちる。さっと宝石箱へ道具を戻してサフィラスは続けた。
「肉体は本来、この三次元的空間に対して魂を収める器としての役割を果たします。魂は、本来目的をもって三次元空間に干渉するため、より高次の存在における意志の影であり…いわば中継端末です。言ってしまえば、紙とペンのようなものですね。私たちという”平面からすると”上位次元の存在が、平面上に情報を残すときにはペンを使う、というイメージです。そして、精神というのは魂と肉体、そしてその活動により肉付けられる人間性そのものであり…性格や記憶、つまりこの空間上におけるその一個人を形成する情報要素です。」
サフィラスは続ける。
「精神情報を接続…即ち、今のヴィルデンに『張り付ける』と言いましたが、それは完全なコピーではありません。あくまで、『同じような見た目の状態』を作り出すだけですから」
「では…」
「ヴィルデンは、『ヴィルデンらしさ』を保ったまま生き続けることができます。しかし、厳密に言えば、それは『今のヴィルデン』とは少し違う存在になるかもしれません」
サフィラスは静かに語った。
「次元が違うので適切かはわかりませんが、船の部品を一つずつ交換していった時、全てのパーツが元と違うものに置き換わったとしても、それは元の船と同じ船なのか、という問題に似ています」
グランツは、しばらく考え込んだ。
「…それでも、ヴィルデンはヴィルデンなのか?」
「ええ、私はそう思います」
サフィラスは穏やかに微笑んだ。
「少なくとも、あなた方から見れば、彼は変わらずヴィルデンでしょう」
「なら…」
「ただし」
サフィラスは付け加えた。
「ただし、それは彼が望めば、の話です」
グランツは、サフィラスをまっすぐ見た。
「お前は…ヴィルデンに、それを提案したのか?」
「いいえ」
サフィラスは首を振った。
「彼から聞かれない限り、私から言うつもりはありません」
「なぜだ!」
「それは、彼自身の選択を奪うことになるからです」
サフィラスは静かに答えた。
「私が『助けられますよ』と言えば、彼は断りづらくなる。それは、本当の選択ではありません。なにより―――今のままでは、私たちというある種不老不滅である存在を、機械仕掛けとして永劫に自身へ縛り付けることとなりますし、それなりの追い目だって感じてしまうはずです。」
彼は窓の外を見た。
「ヴィルデンは、自分で選ぶべきです。『終わる』か、『続ける』か」
グランツは、深く息を吐いた。
「…わかった。ならば、私が彼に話す。私はこのまま終わらせたいとは思わないからな。」
「それがよろしいでしょう」
サフィラスは頷いた。
「私は、ヒトの身を持っていたとしても真の意味でヒト足り得ないですから…。もし彼に心変わりを促したいのであれば、あなた達がするのが良いのでしょう」
ふぅ、と一息。サフィラスはグランツを見て、続けざまに言う。
「ただし、グランツ」
「何だ?」
「ヴィルデンが『終わる』ことを選んでも、責めないでください」
サフィラスの声は、優しかった。
「それも、彼の自由なんですから」
グランツは、黙って頷いた。
サフィラスは再び微笑み、至宙儀を手に机へ戻った。
「では、何か他に何かあれば…私は大体ここに居ますので。」
その背中は、どこか寂しげに見えた。
グランツとローレンスは、しばらくその姿を見つめていた。
小さなオルファンが、グランツの服を引っ張った。
「グランツ…パパは、どうしたいのかな…」
その問いに、グランツは優しく頭を撫でた。
「わからない。だが、それはヴィルデンが決めることで…同時にお前にはわがままを言う権利だってある」
オルファンは不安そうに、グランツを見上げた。
「ああは言ったが、私はヴィルデンが泣き言を言ったら手が出てしまうかもしれないとは思っているぞ?」
グランツはそう笑って、立ち上がった。
「さあ、行こうヴィルデンと話をする時が来たようだ」