The Rite of Depth 関連小説集 作:白銀 小虎
図書館から宿へと戻ると、いつのまにか起きていたヴィルデンが全員分の朝食―――朝食にはやや遅いかもしれないが―――を用意していた。
「おっ、先にクエスト受けてもう出てったのかと思っていたぞ?」
ヴィルデンは快活に、グランツへと尋ねる。
「いや。少し…野暮用でな…」
机の上に並ぶのは、ちょうど今顕現している6人分…いや、5人分だ。サフィラスの分はいつも通り無く、おそらくサンドイッチでも作って持って行ってやるのだろう。
昔の味が良ければよい、という料理はなりを潜め、今では普通の腕前となった朝食が並んでいる。ベーコンエッグをパンに乗せた、簡易なものだ。卵は半熟でとろりとしており、香草で食欲がそそられる。
「さっ、冷めないうちに食べよう」
ヴィルデンの声は、いつも通り明るかった。
グランツは席に着きながら、チラリとヴィルデンの表情を窺う。いつもより少し疲れているように見えるが…本人はそれを気にしている様子はない。
オルファンは父親の隣に座り、嬉しそうにパンを手に取った。
「師匠、美味しそう!」
「おう。さっ、残さずに食べろよ。」
ヴィルデンはオルファンの頭を撫でた。その仕草は、とても優しいものだった。朝食は静かに進む。
グランツは何度か口を開きかけたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。
ローレンスもまた、グランツの様子を横目で見ながら、自分の食事を続けている。
やがて、食事が終わり、ヴィルデンが立ち上がった。
「珈琲でも淹れようか。飲むやつはいるか?」
「ああ、私とローレンスにも頼む。」
グランツが答えた。
オルファンはホットミルクだな、と言いながらヴィルデンはキッチンへと向かい、慣れた手つきで珈琲を淹れ始めた。豆を挽く音が、静かな空間に響く。
グランツは何度か口を開きかけたが、やはり言葉が出ない。どう切り出すべきか、迷っていた。
その時、ローレンスが平然とした口調で言った。
「ヴィルデン殿」
「ん?何だ、ローレンス」
ヴィルデンは振り返らず、珈琲を淹れながら答えた。
「最近、睡眠時間が延びているようだが、体調は大丈夫か?」
その問いに、ヴィルデンの手が一瞬止まった。同時に、グランツもややぎょっとしたようにローレンスを見やる。
が、その発言の責任を押し付けたのは自身でもあるため、ぐっと言葉をこらえた。
「…ああ、まあな。ちょっと疲れてるだけだ」
「疲れている、か」
ローレンスは淡々と続けた。
「それは、一時的なものなのか?」
「さぁな。そのうち治るだろ…」
ヴィルデンは軽く答えたが、その声には少しだけ棘があった。
グランツが口を開いた。
「ヴィルデン。そのことについて、少し、話がある。」
「…話?」
ヴィルデンは珈琲をカップに注ぎながら答える。その口調には勢いがなく、誤魔化しているようでも薄々と避けられない会話なのであろうことには気づいている様子であった。
「その、何だ、急に改まって」
「お前の…精神の摩耗について、だ」
その言葉に、ヴィルデンの動きが完全に止まった。
しばらくの沈黙。ヴィルデンはゆっくりと振り返り、グランツを見る。
「…そうか。そりゃそうか、まあ気づくよな。」
その声は、疲れたような、どこか諦めたような響きを帯びていた。
「リーガルから聞いた。そして、サフィラスからもだ。」
グランツは立ち上がった。
「お前は…。ヴィルデン、お前はこのままでいいのか?」
ヴィルデンは深く息を吐いた。
「…そうだな…。オレは…。」
彼は珈琲をテーブルに置き、椅子に座った。
「オレは…もう、疲れた。」
その言葉は、静かだった。
「…ずっと、ずっと戦って来た。この世界にきた今だって、ずっとだ。オレは別に戦いが好きなわけじゃあない。確かに戦っていれば気が昂るだろうが、それは好きってわけじゃない。あくまで結果として、そう見えてるってだけだ。それに―――」
一息付いて。
「それに、もう、十二分に生きたと思っている」
「だが…!」
グランツが言いかけたが、ヴィルデンは手を上げて制した。
「わかってるさ、何が言いたいかなんて。」
ヴィルデンはゆったりと珈琲を一口飲んで、続ける。
「だが、これはオレの人生だ。オレが決めることだ」
「お前一人の問題ではないだろう!」
グランツの声が、珍しく荒れた。
「お前がそうなってしまったら、私たちはどうすればいいんだ!どれだけ悲しむか、わかっているのか!?」
ヴィルデンは黙ってグランツを見つめた。
「オレは…もう、あの世界にいない時点で居ても居なくても変わらない存在だ。それに―――ただ肉体があるだけで、それだけでもう世界の運営はできるようにもなっている。オレが消えてなくなる前にはみんなちゃんと、解放するつもりだ。だから…」
その声は、静かで、そして確固としていた。
「これ以上、生き続ける意味も…理由もあまり感じられない。」
「意味だと!?」
グランツは拳を机に叩きつけた。
「お前が、ヴィルデン、お前がお前であるからこそ、私はお前に…お前を守るために…。我々にとってはお前が居てくれるだけでも意味があるのだ!それを…!」
二人の間に、重い空気が流れる。ローレンスは黙って二人を見守り、オルファンは不安そうに父親とグランツを交互に見ている。
その時、階段を降りてくる足音が聞こえた。
「おいおい、朝っぱらから何騒いでンだ」
リーガルだった。
緑の体毛はまだ少し寝癖がついており、白衣も適当に羽織っただけのようだ。しかし、その金色の瞳は鋭く、状況を見極めようとしていた。
「…リーガル」
ヴィルデンが名を呼んだが、リーガルは無視して言った。
「ヴィルデン。お前、本気で『終わる』つもりなのか?」
「…ああ」
「ふざけんな」
リーガルの声は、低く、そして怒りを帯びていた。
「お前には、オルファンがいるだろうが」
その言葉に、ヴィルデンは訝し気にリーガルを見る。
「オルファンはどうすんだよ。解放して、で?一人で生きてけってかぁ?」
リーガルは一歩前に出て、ヴィルデンの襟首をつかむ。
「テメェが消えたら、あの子はどうなる?またオルファンを一人ぼっちにするつもりか?」
「…オレは」
「何だ?『もう疲れちゃった~』か『終わりたいんだぁ~』か?」
リーガルの声が、震えた。
「俺様はな、親に捨てられてんだよ。都合のいいように造られて、都合よく子供として育てられて…でっ!?本当の子供が出来たとたん、まるで用が済んだとばかりに捨てられた*1さ!『お前に家の跡は継がせない』『お前はうちの血統じゃない』『ただし、家を名乗ることは許そう』ってな具合にな!」
その叫びに、部屋の空気が凍りついた。
ローレンスだけは、リーガルの告白に驚いたが―――彼はリーガルの家の事情をそこまで知らなく、まさか彼が『デザイナーズ』、ある種の神への冒涜にあたる存在だと知らなかった―――、
そもそも自分の現状を考え、神を鞍替えしているのだからそう変わらないものと思い直し、表情はすぐ落ち着いたものとなる。
「だから、わかるんだよ。そういう風にされる側の気持ちがよぉ…」
リーガルはオルファンを指差した。
「オルファンを、あいつをはっきり見て言えるか?『もう死にたいんだ』『疲れた』ってよぉ…!」
オルファンは、小さく震えていた。
ヴィルデンはオルファンを見た。
「オルファン…」
「…師匠」
「オレは…オルファン。オレはお前が一人になっても立派に旅立てるよう、育ててきたつもりだ。だから、オレが居なくなったってお前はやっていけると…そう思っている。」
オルファンの声は、か細かった。
「おいら…」
「テメェ、ふざけんなよ!この期に及んで―――!」
「おいら、パパと一緒にいたい」
拳を握り、ヴィルデンを殴りかける。高く手を振り上げたまま止まる。
その言葉に、ヴィルデンは息を呑んだ。
「おいら、パパと別れたくない」
オルファンの目から、涙が溢れた。
「でも…でも、おい、おいらのわがままで、パパに嫌われたくない」
「オルファン…」
「だって、おいらがわがままを言ったら、パパは困っちゃうから」
オルファンは泣きじゃくりながら続けた。
「だから、おいら、何、何もきかないようにしてて…、パパが疲れてるって、わかってたから…。でも…でも、本当は…」
オルファンはヴィルデンに駆け寄り、抱きついた。
「本当は、ずっと一緒にいたいの!おいら、パパと別れたくない!!」
その叫びに、ヴィルデンの目が見開かれた。
オルファンは泣きながら、ヴィルデンに顔を埋める。
「パパ…パパ…っ」
ヴィルデンは、しばらく動けなかった。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、オルファンを抱きしめた。
「…すまない」
その声は、震えていた。
「すまない、オルファン」
ヴィルデンはオルファンを強く抱きしめた。
「オレは…お前にあまり好かれていないものだと思っていたから…だから…せめてきちんと、一人で戦えるようにと…。」
しわがれたような声で、ひとり呟く。
「お前は、こんなにも…こんなにも、オレのことを…」
「パパ…」
「愛してる、オルファン」
ヴィルデンは震える声で言った。
「愛してる。本当に、愛してる」
オルファンは泣きながら、何度も頷いた。
「おいらも…おいらも、パパのこと、大好きだから…」
二人は、しばらくそのまま抱き合っていた。
グランツとローレンス、そしてリーガルは、静かにその光景を見守っていた。
やがて、ヴィルデンは顔を上げる。
その目はひどく疲れているように見えたが、どこか穏やかな光を宿していた。
「オレは…ちゃんと父親らしくと思っていたが、何一つ…父親らしいことなんざ出来ていなかった*2んだな。」
ヴィルデンは深く息を吐いた。
「厳しくしすぎた。距離を置きすぎた。お前を、傷つけてしまった」
「そんなこと…」
「いや、そうなんだ。オレが、そうだったからだ。」
ヴィルデンはオルファンの頭を撫でた。
「だからこそ…だからこそ、か。ちゃんと責任を持たないといけないな…。」
その言葉に、グランツは静かに声をかける。
「ヴィルデン…」
「オレは、父親として、まだ何もしていない」
ヴィルデンはグランツを見た。
「オルファンと、もっと一緒にいたい。もっと、笑いたい。もっと…父親らしいことを、したい」
彼は立ち上がった。
「だから、グランツ。サフィラスの治療を…受けようと思う」
その言葉に、グランツは安堵したように微笑んだ。
「…そうか」
「ああ。オレは、このままじゃ終われないさ。」
ヴィルデンはオルファンを抱き上げた。
その時、扉が開いた。
「あれ、私の朝食はないんですか?」
サフィラスだった。
彼はきょとんとした顔で部屋を見回した。
「随分と重たい空気で…オルファン君も泣いているようですが…何かあったのでしょうか?」
その天然な発言に、一同は思わず笑ってしまった。
「サフィラス…お前、空気を読めよ…」
ヴィルデンが萎びたように、苦笑しながら言った。
サフィラスは首を傾げた。
「えーっと…、何か悪いことを言いましたか?」
「いや、何も。むしろ、タイミングは良かったかもしれないな」
ヴィルデンは笑った。
「サフィラス。お前に、頼みたいことがある」
「はい、なんでしょう?…まさか」
「治療を…。オレの精神を、直してほしい。できるか?」
サフィラスは少し驚いたように目を見開いた。
「…本当にそれでいいのです?私はてっきり、このまま『機械仕掛けの神』となることを選ぶものだと…。」
「ああ」
ヴィルデンは頷いた。そうして続ける。
「サフィラス、そもそも治療っていうのはどうやるんだ?俺はあくまでヒトとしての力の振るい方しか知らない。概念も、俺が理解できる形でしか操作したり追加したりすることができないんだ。目に見えるままにしかとらえられない、とも言えるが…。」
ヴィルデンは真剣な表情で言った。サフィラスは困ったように腕を組む。それは、どう説明するか、という観点でだが…。
「うーんと…そうですね。説明の水準はどのくらいで求められますか?」
グランツやローレンスを見まわして、サフィラスは訊ねる。一方で、その周りは苦笑いやら眉を顰めるやらで、ありありと何があったのか推察するに困らない様子に、ヴィルデンはやや苦笑する。
「まず、サフィラスの言葉でそのまま説明してもらって構わない。」
「はい…であれば…」
ゴホン、と息をつく。
「まず、なぜ精神が摩耗してしまうのか、という根本的な問題からお話しします」
サフィラスは至宙儀を取り出した。プロジェクターのように、空間に三次元立体図を表示させる―――話によるとこんな無駄な占星術の使い方をするのは彼くらいだったらしい。
「精神というのは、四次元時空上における情報として処理できるのは、グランツやオルファン君などに説明した通りです。ただし、私たちは三次元的にしか知覚できませんから、四次元的な側面を持つ精神には直接触れることができません」
「しかし」
サフィラスは続けた。
「四次元空間にも、当然『空間的な広がり』があります。そこには、三次元では観測できない物質―――いわゆる『超物質』が存在しうる。これは、数理的に自明です」
ヴィルデンは頷いた。
「ああ、オレもそこまでは理解している。仮にその超物質が現実に干渉するならば、それは超物質の影が三次元上に表出している、ということも。」
続けて、サフィラスは至宙儀を回す。
「そして…本来その四次元空間には、霧のように小さく、細かな情報体が漂っています。それは、非常に微細で、繊細なために三次元上には影を落とすこともなく、本来私たちの知覚では捉えられません」
「しかし、その『霧』は超物質に対しては別です。僅かに―――極僅かずつですが、確かに精神の情報を毀損していく*3のです。」
サフィラスの声が、わずかに重くなった。
「三次元的な肉体の寿命を延命したとしても、四次元上の精神を保護しなければ、情報によって情報が侵食され、やがて三次元的な整合性がとれなくなり―――発狂、最終的には死に至ります。」
「それが、精神の摩耗、ということですか」
ローレンスが尋ねた。
「ええ」
サフィラスは頷いた。
「ただし、ヴィルデンの場合はたとえ発狂しても、肉体は不滅です。ですから、肉体と魂のみが残留する結果―――」
「根源っつー魂に染みついた行動を繰り返すだけの、無感情な機械になる…ってか?」
サフィラスは頷いた。
「ですから、治療の前提として、『四次元的に高度な障壁を設け、その精神情報に外部から干渉ができないように保護する』必要があります」
―――本来、そういった事象は高次の存在にとっては当然備わっている構造ですから、このようなことはあり得ないのですが、とサフィラスはため息を付くように続けた。
「障壁…か」
ヴィルデンは少し考えた。
「それは、どうやって作るつもりなんだ?」
「ああ、そこはご心配なく。私の力で如何様にも可能です」
サフィラスは微笑んだ。
「ただし、その前に、もう一つ重要な工程があります」
「何だ?」
「特定の時期における、あなたの精神情報を『照準』として設定する必要があります」
サフィラスは真剣な表情になった。
「つまり、『特定の時点のヴィルデンの精神』を保存し、それを接続するということです」
「特定の時点…」
ヴィルデンが呟いた。
「ええ。そうですね…」
サフィラスは少し考えてから、言った。
「それをするにしても、照準を作るための人生史を始めるための基点は必要です。ヴィルデン、貴方の場合―――オルファン君が死ぬこと。この事象が起きた点が、最も適切だと考えます」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
「…サフィラス殿、それは…。」
グランツが声を上げた。オルファンは、父親の腕の中で小さく震え、ヴィルデンもまた、驚いたようにサフィラスを見た。
「サフィラス…それは、どういう…」
「ああ、ええと…すみません、言葉が足りませんでした」
サフィラスは慌てて付け加えた。
「『オルファン君が死ぬ』というのは、あくまで元の世界での話です。この世界のオルファン君に死んでもらうとか、そういう話ではありません」
「…元の、世界?」
「ええ。ヴィルデン、あなたは元の世界で、オルファン君を失っていますね」
でなければ、概念天使*4などにはなれないだろうというサフィラスの言葉に、ヴィルデンは静かに頷いた。
「…ああ」
「その時点、つまり『オルファン君を失った直後』のあなたの精神状態が、最も『人間らしさ』を保っていた時期だと、私は判断します」
サフィラスは静かに語った。
「それ以前では、まだ軍人としての激務に追われていましたし、ヒトとして健全な心があるかどうかといわれると、私は怪しいと言わざるをえません。しかし、それ以降ではすでに精神の摩耗が始まっていました」
「しかし、オルファンを失った直後というのは…」
グランツが言いかけたが、ヴィルデンが手を上げて制した。
「いや、グランツ。サフィラスの言う通りだ」
ヴィルデンは静かに言った。
「あの時、オレは…初めて、本当の意味で…そう。本当に、何も考えられないほどのショックを受けた憶えがある。」
彼はオルファンを抱きしめた。
「失って初めて、どれだけ大切だったかを知った。だから…確かに、喪失に対する人間性という観点なら、そのタイミングがベストであることには間違いないと思う。」
「ええ。喪失を悲しまず、知らず―――知るからこそ人は足掻く。それを忘れ去ってしまった心は、肉体としてはともかくヒトとしては落第点です。ですから、その時点のあなたの精神情報を基点とします」
サフィラスは頷いた。
「そして、その精神情報を、私のミクロコスモスで仮想運営し、そこから照準を抽出します」
「ミクロコスモス…体内宇宙、か」
ヴィルデンが呟いた。
「ええ。私の中で、あなたの人生を再現し、その特定時点における精神状態を『記録』します」
サフィラスは至宙儀を見つめた。
「そして、その精神情報を、現在のあなたの精神に『非退化で接続』します」
「非退化…?」
グランツが首を傾げた。
「ええと、つまり…計量テンソルが退化していない*5、ということです」
ヴィルデンは少し眉を顰める。
「ああ、つまり―――それだと同一ではないんじゃないのか?」
「…『ほぼ同一』と言えるであろう精神を複写することができますが、確かに懸念される通りではあります。」
サフィラスは真剣な表情で答える。
オルファンやグランツは少し困ったような空気を出す。一方でローレンスは曲がりなりにも貴族。サフィラスが行っていた、小難しい説明を思い返し…つまるところ、と続ける。
「神聖なる壁画や天井画を維持するため、聖神国の講堂では常に手作業で色を塗り、その絢爛な輝きを維持していましたが…つまるところ、維持をするという『見た目は同じ』であっても『使う材料』や、材料が生まれた年代的・背景的な情報は異なるから本質的に同一とは言えない、ということですか?」
「ええ、おおよそのニュアンスはその通りです。」
「ローレンス…理解できていたのか?アレを?」
グランツは驚いたように呟き、ローレンスは当然です!と言わんばかりの表情を見せる。逆に、と彼は続ける。
「私は、ヴィルデン殿がこの会話の内容をさほど聞き直さずに理解できているほうが驚きます。」
「おま…それは、オレをバカだと思ってたって言いたい訳か?」
「いえ―――いや、はい。」
率直にそう答えるローレンスに、ヴィルデンは微妙そうな表情を浮かべ、リーガルはこらえていた笑いを吹き出した。
「ハッ…ハハッ…!お前、それはいくら何でも…ヴィルデンに失礼すぎンだろ…。大体なぁ、『何億、何兆もループしてるから』ってだけで、トキシニアをあそこまで発展させられる訳ねぇだろ?数段飛ばしの技術や科学を、どうやって落とし込んで、十年足らずで普遍的な技術に落とし込むかなんざ」
それを理解出来て、実践もできるだけの頭があるなんざ、どう考えても地頭が良い以外に説明付かねぇだろ、と笑ってつづけた。
その言葉に、ローレンスは少し気まずそうに咳払いをした。
「そ、それは―――確かにそうかもしれませんが…」
「まあまあ、よく言われるからな。」
ヴィルデンは苦笑しながら手を振った。
「確かにオレは、専門的な数学用語とかは正直覚えてない。だが、概念的にはきちんと理解できてるつもりだ」
彼はサフィラスを見た。
「サフィラス。お前の説明はわかった。『ほぼ同一』だが、表面的には、ということだな」
「ええ、その通りです」
サフィラスは頷いた。
「正直な話、表面的に同じようにふるまえ、記憶も保持されている―――であるならば、私はそれが『同一である』と言えると考えています。」
「…いわゆる『
ヴィルデンは少し考え込んだ。
そして、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「…待て。サフィラス、お前は接続……即ち『上書き』と言ったな」
「ええ」
「それは…違うんじゃないか?」
その言葉に、サフィラスは首を傾げた。
「と、言いますと?」
ヴィルデンは腕を組み、言葉を選びながら続けた。
「例えば…そうだな。イメージとしては『割れたグラス』だな。」
「割れたグラス、ですか?」
「ああ」
ヴィルデンは頷いた。
「グラスが割れた場合でも、その形を覚えてさえいれば、例えば別の材質で継ぐことでまた使えるようにはなるだろ?俺の精神も、同じようにできないだろうか?」
サフィラスは少し考え、話を続ける。
「…その発想は、ありませんでした」
サフィラスは小さく息を吸い、言葉を選ぶように続けた。
「今回の場合、特定の時間座標を基点として、そこから派生していった情報変化、という話になります。ですから…誤解を恐れずに言うと、結晶構造を持つ物体を想定してください。外周側、すなわち表層に相当する部分―――これは人格の輪郭ですが―――ここは保護され、不変の境界条件として扱います」
至宙儀から、格子状の構造が投影される。
「変動しているのは内部です。経験、記憶、選択……そういった内的要素のみが変化する。重要なのは、この外周が同一である限り、内部が取り得る変化の仕方には強い制約がかかるという点です」
サフィラスは格子の縁をなぞった。
「境界が同じである以上、内部の変化は完全に自由ではありません。たとえ異なる経験―――目に見えない内側の情報が違っていたとしても、その変化は必ず外周、つまり人間性の輪郭から影響を受けます。だからこそ、内部構造は推測可能なのです」
一度、言葉を切る。
「この考え方は、物質における非透明な結晶構造に似ています。外形や格子が固定されている場合、内部には経年による歪みや欠陥が生じ得ますが―――それらは、結晶としての制約から『入り得る欠陥の種類』が限られる」
「であれば、同じ表層、同じ境界条件を持つ別の位相…今回で言えば、別の歴史を歩んだヴィルデンから、破損している内部要素だけを選び、局所的に接続することは理にかなっています」
サフィラスは静かに続ける。
「全体を置き換える必要はなく、欠損した近傍と同型な情報構造を、整合条件を崩さない形で貼り継ぐ。それは複製ではなく、あくまで補強ということ」
少し間を置いて。
「比喩でなく、トポロジー的にも同様のことが言えます。重要なのは、連続性と同値関係です。外周―――すなわち境界条件が保たれている限り、内部が多少異なっていても、少なくとも『つながり方』という意味では同じ位相型として扱える」
「境界が同じなら、内部は自由には振る舞えません。欠損が局所的で、変化が連続である限り―――内部の一部を、同型な局所構造で貼り継ぐことは数理的に正当化されます」
「いわば、破れた布に当て布をするようなものです。全体を作り替えるのではなく、破断しつつある近傍だけを支える。私が言う『共変性を保つ』とは、この境界での整合を崩さないという意味になります」
そして、静かに結ぶ。
「ただし――この方法が保証するのは、悪化の停止に近い。飛躍的な刷新ではなく、あくまで最小限の補修です。それで良いのですか?」
「ああ、構わない。オレは、今のオレでも十分に満足しているし、何より―――」
抱きしめているオルファンの頭を撫でる。オルファンは気持ちよさそうに、それを受け入れていた。一方で、リーガルは眉間にしわを寄せたまま、腕を組んでいる。グランツとローレンスは…ローレンスが大枠のみをグランツに説明しているようだ。
そんな景色を眺めて、ふっと笑いを浮かべた。
「今のままがいいと、オレは思ってる」
彼は顔を上げた。ふぅ、とサフィラスは続ける。
「ヴィルデン。あなたは、世界の運営や管理をしていただけあって、本質を見抜くのが上手ですね」
「まあ、長く生きてきたからな」
ヴィルデンは笑った。
「それで、できるのか?」
「ええ、できます」
サフィラスは頷いた。
「ただし…」
彼は真剣な表情になった。
「本当に、精神を固定してしまってよいのですか?」
「どういう意味だ?」
「精神を固定するということは、今のあなたの『人間性』を永遠に保つということです」
サフィラスは静かに語った。
「それは、ある意味で『成長を止める』ということでもあり―――ヒトを止めると、そうとらえることも可能です。」
「…」
「あなたは、これから先、どれだけ時間が経っても、本当の意味で今のままの『あなた』でいることになります。それでも、よろしいのですか?」
ヴィルデンは、少し考えた。そして、オルファンを見た。
オルファンは、不安そうに父親を見上げている。ヴィルデンは微笑んだ。
「ああ、構わない」
「よろしいのですか?」
「今のオレは…オルファンを愛している。家族を大切に思っている。仲間を信頼している」
ヴィルデンはグランツたちを見た。
「それが、永遠に続くのなら…まあ、それも、幸せなことだからな」
サフィラスは、穏やかに微笑んだ。
「…わかりました」
彼は至宙儀を手に、部屋の中央に立った。
「では、始めましょう」
「…この場でですか?準備などは…?」
ローレンスは困惑するが、サフィラスは「ああ」とつぶやく。
「すみません。今行うことは、ヴィルデンの人生史を複写し、再演するだけです。なので、精神の補修はもう少し後になります。なので、その時になったらまた声をかけさせていただくことになるかと。」
サフィラスは目を閉じ、深く息を吸った。
「これより、星々の奇跡を借り受け、神の御業を再現しましょう」
至宙儀が、淡い光を放ち始めた。
「位相、運命、魂魄…繋ぐ星辰、照応により、その実態は我が手中に」
部屋中に、宝石が浮かび上がった。
「星よ、輝け。
サフィラスの声が、部屋中に響いた。
「天翔、星雲。顫動、極点。其、示されるは星の瞬き。煌めきこそはこの手にあり。さすれば理となり法となりて。」
光が、一瞬、眩く輝くと、浮かんでいた種々の宝石は力なく落ちていく。そして、至宙儀の中心に強く輝く光の玉が出来―――、それがサフィラスに吸い込まれていった。
そして、静寂。
ヴィルデンは、目を開けた。
「…これで、終わりか?」
「ええ。ひとまずは。仮想運営が終わり次第、また伺わせていただきますね。」
「…すまないな、色々と騒ぎを起こしてしまって」
ヴィルデンは力なくそうつぶやく。グランツとローレンスは顔を見合わせ、肩をすくめた。
リーガルはケッと一言だけ呟き、机の上の朝食だけ持って自室へと戻っていく。
頭をボリボリと掻きながらも、その背中は心配事が無くなったかのように伸びており―――その連れ去られていく朝食を眺めて、サフィラスは気が抜けたように一言。
「それで、私の朝食は…?」
その言葉に、一同はまた笑った。願わくば、今が今後も続いていくことを願うばかりだ。グランツは、ヴィルデンとオルファンを見て、静かに微笑んだ。