the origin 異能力者の起源 – 3.72%の少女外伝 作:六位漱石斎正重
セルダンとパトリシアはジェシカを寝かしつけ、ベビーシッターを帰宅させると夕食の準備を始めた。その夜は、セルダンが料理を作った。
パトリシアはこの年21歳になっていた。少女のころ、好んで短くしていた快活そうな印象を与える暗めのサルファーイエローのショートボブは、今ではセミロングの落ち着いた髪型になった。雰囲気は年頃の若い大人の女性としてのたたずまいを見せており、小さい子供のころに現れていた険のある目つきはすっかり鳴りを潜め、今では柔和な表情が自然に顔に宿るようになっていた。
また、きらめくようなアースアイは健在で、仮に精神干渉能力が失われたとしても、その瞳の美しさは他に比肩するものがなかった。
対してセルダンだが、今年で57歳。老け込むにはまだ早いが、動作が全体的に緩慢になり、食事の量も以前に比べると大幅に減っていた。近眼に加えて老眼のダブルパンチで、眼鏡がなければもはやまともな生活はおぼつかなかったが、それでも瞳の奥にはかすかに燃えるような強い意志を宿している。
夕食の用意ができると、パトリシアとセルダンは席に着き、短い感謝の祈りを捧げた。二人とも神の存在など全く信じていなかったが、目の前に並べられている食事は人工合成物ではなく、全て
セルダンはパトリシアが料理にフォークをつけるのを見守った。彼女はしばらく料理をかみしめた後、小さくつぶやいた。
「美味しい! いつもながらパパの料理は絶品ねっ。むしろパパは心理歴史学者より料理人の方が向いているんじゃない?」
「そうだな……そういう人生もあったかもしれんな。だが、そんなお世辞を言っても何も出んよ?」
セルダンはそう言ったが、まんざらでもない表情を浮かべ、パトリシアに優しいまなざしを向けた。
「いいえ、お世辞なんかじゃないわ。私、パパの料理を食べるたびに、あの公園でのフードスタンドの食事のことを思い出すの」
「ああ、そんなこともあったな。いきなりお前が熱々の料理の中に手を突っ込むから、私はすごくびっくりしたよ」
「うふふ……まあ、そのころの私は
そう言ってパトリシアは、小さく笑った。柔らかい笑みだった。
セルダンとパトリシアは夕食を終えると、食後のコーヒーを飲みながらどちらからともなく口火を切るタイミングを見計らっていた。しばらくして最初に口を開いたのはパトリシアだった。
「パパ……今までありがとう」
目を閉じたまま、ささやくように話すパトリシアにセルダンは驚いて彼女を見つめた。
「なんだ、いきなり妙なことを言いだして……なんだかお別れをするみたいに聞こえるな」
「いいえ、そう言う意味じゃないの。今の私の本当の気持ちを伝えたかっただけ」
「それならいいが……」
そうセルダンが言うと、二人はしばらく黙り込んだ。
今度はセルダンが口を開いた。
「パット……」
「何? パパ」コーヒーカップに口をつけながらパトリシアが尋ねた。
「お前、寝不足なんじゃないのか? 目の下にひどいクマができてる。研究成果が出ないからと言って焦る必要はないんだぞ? お前はまだ若いし、『計画』開始にはまだまだ十分な時間を見込んでいる」
そう言ってセルダンは何気なくパトリシアの瞼の下に指先で触れようとしたが、パトリシアは「大丈夫」と言うと、左の手のひらを前に出してそれを制した。パトリシアは明らかに彼に触れられるのを避けている。セルダンはそれをかすかに寂しく思ったものの、もう彼女は子供ではない。ようやく正常な親離れができたんだと納得することにした。
しばらくするとパトリシアは再び口を開いた
「大丈夫よ、パパ。私ももういつまでも子供じゃないわ、これでも引き際をわきまえているつもりだし、無茶をする気もない。まかせておいて。それに……ようやく精神干渉能力者訓練プログラムの骨子が完成したの。もっともプログラムと言えるほどの代物でもないけど、とりあえずはね……」
それを聞いたセルダンは顔をほころばせ、うなずいた。
「そうか! よくやったな。だが、お前もクレアもずいぶん自分の身体に負荷がかかった事だろう。すまなかったな。そして、ありがとうパット……」
パトリシアは目を閉じるとささやくようにそれに続いた。
「いいのよ、私がパパの役に立てるのはこれくらいだし……」
「何を言うんだ、お前と生活をしてきたこの13年間、私はお前の存在に本当に助けられた……言っておくが、お前の持つ能力のことを言っているんじゃないぞ? お前がそばにいてくれるだけで私は幸せだった。お前は私の自慢の娘だよ。後は、お前には早く素敵な男性を見つけて所帯を持ってほしい。ジェシカも片親じゃ不憫だろう」
パトリシアは黙ったままそれには答えなかった。
部屋の中にはしばらくゆったりとした時間が流れたが、パトリシアは思い立ったように席を立つと、セルダンに向かって声をかけた。
「料理はパパが作ったから、私が食器を洗うわ」
「いいのか? ……疲れているんじゃないのか?」
「大丈夫よ、このくらい。それに食器を洗うって言ったって、食器洗浄機に汚れた食器をセットするくらいだしね……」
パトリシアはそう言って微笑んだ。
セルダンはキッチンにつながっている居間の部分のソファに腰を下ろして、しばらくの間、学術論文が表示された手元の携帯電子ボードを眺めていたが、背後のキッチンで突然食器の割れる音がして彼は振り向いた。
そこで目にしたものにセルダンは驚愕した。パトリシアは床に倒れていた。彼は慌ててパトリシアのもとに駆け寄ると、上半身を抱き上げ必死に彼女に呼び掛けたが返事はなかった。セルダンは顔面蒼白になりながら震える手で小型端末を握りしめ、救急車両を呼び出した。
パトリシアは『財団』付属の病院に収容され、即座に精密検査と治療が開始された。セルダンは医師に呼び出され、パトリシアの現状についての説明を受けていた。
「それでパトリシアの容体はどうなんだ?」
「はい、セルダン博士には大変申し上げにくいことですが、全てを肉親の方に説明するのが医者の責務です。ご容赦ください」
それを聞いたセルダンはかすかにイライラしながらそれに答えた。
「前口上は必要ない。隠し事なしですべてを教えてくれ」
「わかりました。パトリシアさんの容体ですが、今すぐに命の危険があるわけではありませんが、予断を許さない状態です。ただ、肉体的にはやや安定しています」
「そ、そうか……」
それを聞くとセルダンは力が抜けたように椅子の中にへたり込み、大きく息を吐き出した。
「ですが、現在のところ外部刺激に反応がほとんどなく、いつ目が覚めるか予測できません」
医師のその言葉にセルダンは血相を変えて大声を出した。
「まさか、不治の病気なのではあるまいな!」
「いえ、違うと思います。病気と言うより、長年投与し続けてきた薬物の影響ではないかと考えられます」
「薬物? ……投与していたものは、全て私が認可した薬物なんだろう?」
「いえ、すみません。訓練プログラムに関して私は直接関知していないので、彼女がどんな薬物を投与していたかの情報を今の私は持っていません。現在、『財団』の訓練チームに問い合わせて、パトリシアさんたちが自分たちに投与していた薬物の情報を送るよう要請しています」
「……」
「さらに……」
「まだあるのか!」
そう言ってセルダンは目をむいた。
「パトリシアさんの左目ですが、現在視野の1/3が失われています。右目は半分以上見えないはずです」
「なんだと! 失明したっていうのかっ!」
そう言ってセルダンは椅子から立ち上がると医師を睨みつけた。医師は、患者の関係者から詰め寄られたりなじられたりするのは日常茶飯事らしく、たいして驚いた様子もなく冷静そのものの様子でセルダンに対応した。
「博士、まずは落ち着いて最後まで私の話を聞いてください」
セルダンはしぶしぶ椅子に座りなおした。
「……わかったよ、ちゃんと話は聞くさ」
素直に椅子に座ったセルダンを医師は黙って見つめた。そして、あれほど冷静沈着に見えるハリ・セルダン博士であっても、やはり身内の不幸に関しては冷静を保つのは難しいのだなと、彼はどこかずれた感想を抱いた。
「視力に関しては、今の段階で正確な判断はできません。一時的なものかも知れませんし、経過を見てみない事には。ただ年齢に比して血圧が高すぎます」
「血圧が? いくつなんだ?」
「上限が220です」そう、医師はきっぱり言った。
「なんだって! 220だと? まるで老人並みの血圧じゃないか、ふざけるのはよせっ! あの子はまだ21歳だぞ! 体型だってむしろ痩せすぎなくらいだ。一体どうなってるんだ?」
「この理由が食生活によるものでないとしたら、やはり原因は薬物によるものだと考えられます」
「……」
「薬物の影響で毛細血管がダメージを受けたのかもしれません。部位にもよりますが、毛細血管が損傷すると四肢の先や目に影響が出ることが多いんです。視野が幾分失われているのはそれが原因なのかもしれませんね。いずれにせよ現在は、降圧剤投与と経過観察以外の手が打てません。博士には最悪のことがあることもお気に留めておいてください。パトリシアさんの意識が回復したらお呼び致しますので、博士はいったん自宅に戻ってください。博士がここにいても何の役にも立ちません」
それを聞いたセルダンは立ち上がると、一つ小さなため息をついて医師を睨んだ。
「……言いたい放題言いおって」
「私はそれで信頼を得て当院にて勤務させていただいております」
医師はそう平然と言い放った。
薄暗い病室でパトリシアは目に包帯を当てられ、目隠しをされたような状態でベッドに横たわっていた。暗い病室はそこにいるだけで気分が沈んでくるが、パトリシアは目に障害を負っているために、それはどうしても必要な措置だった。
パトリシアは三日三晩こんこんと眠り続け、その翌朝にようやく目を覚ました。彼女は自分の視界が包帯で遮られているのに気づいたが、それと同時に包帯に覆われた自分の目がほとんど光を感じないのに彼女は気づいた。
パトリシアはどうしたものか判断に困った様子で、そのままベッドに横たわっていたが、その内、誰かが部屋に入って来る気配を彼女は感じた。
セルダンは静かに病室の扉を開くと、ゆっくりと室内に入った。だが、彼はパトリシアに声をかけるのを躊躇した。いったい何を言えばいいんだ? 今回のことは大変だったなとでもいうのか? 彼は困惑し、そのままずっと口をつぐんでいた。
病室に入ってきた人物が誰なのかパトリシアにはすぐにわかった。病室に入ってきたセルダンが黙ったままだったので、パトリシアは自分の方から声をかけた。
「パパでしょ? 来てくれたのね、ありがとう」
それを聞いたセルダンは慌ててパトリシアの枕元に駆け寄って、彼女に声をかけた。
「お前のためなら私はいつだって駆けつけるさ。お前は無茶をしすぎだよ、パット。ちょうどいい機会だ、ここでゆっくり休むといい。ジェシカのことは私に任せておけ」
「ジェシカか……あ! そういえばジェシカのことだけど」
「ん?」
「あの子、ようやくパパのことをおじいちゃんって呼ぶことを理解したみたい。まったくもう、4歳になったっていうのに、理解が遅いんだから」
「まあ、そう言うな。お前にとっては私は
セルダンはそう言って小さく笑った。
「でも、ジェシカは他の子に比べて発達の度合いが遅い気がするのよ。もしかするとADHD(注意欠如・多動症)とか、何かの発達障害を抱えてるんじゃないかなって……私、それが心配なの」
そう不安げに話すパトリシアにセルダンは優しく言い聞かせるかのように答えた。
「どうして他人の子供と比較するんだ? ジェシカはジェシカだ。発達が遅かろうが早かろうが、心身ともに健康に育ってくれれば十分じゃないか。それに私が普段のジェシカを見ている限りでは、中々見るべき才能を持っているように見えるぞ。特に数字の処理については目を見張るものがある。それにあの輝くようなアースアイ、お前と同じ瞳だ。あの子は確かにお前の子だよ」
そう言ってセルダンは微笑んだが、パトリシアの声は弾まなかった。
「あの子が赤ちゃんの頃から私は何度かあの子の脳をスキャンしてるけど、いまだに『手』が出てくる気配がない。もう4歳になるというのに……」
それを聞いたセルダンは顔を曇らせるとそのあとに続いた。
「そんなに焦る必要はないんじゃないか? まだ小さいんだ、好きにさせてやれば……」
そう言いかけたセルダンの話の途中で、すぐにパトリシアは割り込んだ。
「時間が十分にあるわけじゃないわ! あの子は普通の子として生きることはできないし、普通の子であることを期待されていない。健康に成長すればいいというわけにはいかないのよっ! あの子には自分の使命を自覚させる必要がある。だから小さいころから何度もくどいほどあの子に伝えていることがあるの」
セルダンは、急に声の大きさを強めたパトリシアに驚いて、彼女に優しく語りかけた。病人を興奮させて容体を悪化させるのを避けたかったという理由もある。
「わかったよ、私はジェシカの育て方についてお前に異議を唱えているわけじゃない。だが、結局は何ごともほどほどが一番なんだよ。無理は続かない、それだけは覚えておいてくれ」
「ええ……」
それっきり病室は沈黙の闇に包まれた。しばらくしてからその沈黙の闇を破ったのは外部からの刺激によるものだった。パトリシアが病院に担ぎ込まれたと知って、『財団』や『組織』のメンバー及び関係者、ジェシカを連れてやってきたクレア達が、パトリシアの病室にかわるがわるやってきて、一時暗い病室に華やかな春の季節が訪れたかのように見えた。
パトリシアも相手の顔が見えないものの、無理のない範囲で上半身を起こし、和やかに彼らと会話を楽しんでいた。病室を訪れた人々は、彼らが想像していたよりはるかに元気なパトリシアの姿を見て安堵したが、彼らにとってそれがパトリシアと会った最後の姿となった……。