the origin 異能力者の起源 – 3.72%の少女外伝 作:六位漱石斎正重
限界まで精神を痛めつけられた男は、ついに失禁して床にへたり込んでしまった。少女はそんな男の姿をやさしいまなざしで見つめ続けるのだった。
一方、男は今では少女の危険性をはっきりと自覚し、彼の心の中には少女に対する明確な殺意が芽生え始めるのだが……。
トイレの個室で失禁して汚れた下着を処分して、ズボンの汚れをなるべく落とすと、男は心の動揺を抑えようと努力した。戦場ではしばしばパニックに陥りかけたりしたし、軽い程度の失禁を何度もした。だが、彼はそういった自分のことを情けないと思ったことは一度もなかった。なぜなら彼の周りの兵士たちもみな彼と同じ状態だったからだ。
たまに神経がぶっ飛んだ、恐怖を感じないように見える者もいたが、そういった人間は虚勢を張って自分をよく見せようとする嘘つきか、神経が病んでいる者ばかりで、彼らはすぐに死者の列に並んだ。恐怖心は生存を引き寄せる重要な感情なのだ。
どうにか心の落ち着きを取り戻した男は、少女の元へ歩いて行った。彼は歩きながら考えていた。あのガキは危険すぎる。まるでタバコをふかしながら大量の弾薬のそばにいる気分だ。
彼はバリバリのリアリストで超常現象などは全く信じなかったが、事実に目をつむることもしなかった。どういう仕組みかわからないが、あの少女はある種の超能力者で、人間の心を読むことができるらしい。そして、他人の記憶を操作することも……彼は先ほど少女にされた仕打ちを思い出し、背筋が凍る感覚を覚えた。
だが、あのガキは大昔の剣豪ではない。あいつがいかな超能力者であろうが、油断しているとき、例えば風呂に入っていたり排泄しているとき、あるいは眠っているときなどには無防備になるはずだ。ならなければ
その内、男の視界に少女の姿が映った。少女は長椅子の端に座ったまま、うつむいていた。彼はそのまま歩いていき、少女の横に立った。彼はしばらくそうやって少女の傍に立ち尽くしていたが、少女が何も言わないので、彼はそのまま少女をよく観察した。
若干だが少女の頭がゆっくりと前後に揺れており、眠っているようにも見える。だが、男は慎重だった。少女はサングラスをかけているので彼女の目元は見えない。彼はよく耳を澄ませてみた。少女から小さな寝息がかすかに聞こえる。
間違いない、少女は今眠っている。男の視線の先には、白く美しくも細い少女の首筋が見える。今なら殺れる。銃器はもちろんナイフも持っていないが、これまでも素手で何人も殺してきた。こんな少女の細い首を折るのは造作もない。俺の腕がこいつの首に巻き付いた瞬間、こいつは自分が何をされたか知覚する前に絶命するだろう。
男がそう決心した瞬間、彼は猛烈な吐き気に襲われた。彼は自分がなぜ急な吐き気に襲われたか、皆目見当がつかなかったが、なんとか吐き気を抑えることに成功した。
このガキを殺ったらすぐに宇宙港へ行ってトランターを出よう。ネスト(隠れ家)に偽造した有効期限の残った身分証明書がまだ残っているはずだ。そう考え、彼は少女の首へ手を伸ばそうとした。
だが、男の目論見はあっさりと途絶えた。少女の首筋に彼の手が触れそうになった瞬間、男は再び猛烈な吐き気に襲われた。彼は普通の人同様、過去何度も吐き気に襲われ実際に吐いたこともあったが、今回の吐き気は 尋常なものではなかった。彼はたまらず嘔吐して少女の前に膝をついた。
少女は長椅子の上で完全に眠り込んでいたが、男が激しく嘔吐する音を聞いて少女は目を覚ました。男が自分の目の前で膝をつき嘔吐する姿を見て、少女は微笑んだ。残忍そのものの笑顔だった。
少女がゆっくりと口を開く。
「やっぱりね……そんな事だろうと思ったわ……」
男は込み上げてくる嘔吐感を必死に押さえつけ、吐しゃ物で汚れた口元をぬぐいながら少女を見つめた。
「お、お前……眠っていたんじゃなかったのか?」
「そうよ、私は完全に眠り込んでいたわ。あなたがどう思っているか知らないけど、私の能力は好きな時に無限に使える都合のいい能力じゃないの。すっごく疲れるんだから。私も仕事じゃなかったら誰がこんなこと……」
男は訝しげな表情でそのあとに続いた。
「だったらなぜ……」
「残念ね、私の『干渉』を受ける前だったら、何とかなったのに……」
「?」
「別にあなたに教えてあげる義理はないんだけど……まあいいわ、特別に教えてあげる。さっき私はあなたの脳に、ある条件反射を埋め込んだの。あなたが私に敵対的な行動をしようとしたり、考えたりしたらすぐに発動する条件反射。まあ、一種の『刻印』みたいなものだと思ってくれればいいわ……つまり、あなたは二度と私に
そう言って少女は笑った。その笑いはもう歪んだものではなかった。むしろ、年頃の少女の澄んだ笑いだった。
男はなんとか心を落ち着かせ、立ち上がると身だしなみを整えながら少女に尋ねた。
「俺の脳に刻印を打って、二度とお前に反逆できなくしただと? ふざけるな! じゃあ俺は一生お前の奴隷でいろっていうのか?」
それを聞いた少女は驚いた様子でそれに答えた。
「ちょっと! 人聞きの悪いことを言わないで頂戴。私はあなたに自由意志は与えてあるわ。あなたは私の奴隷になったわけじゃないし操り人形でもない。ただ、私に危害を加えることができなくなっただけ。それにそういったことを考えることもね」
「俺には頭の中で考える自由すら与えられないのか?」
「私に向ける敵意に関してはね」少女はすましてそう答えた。
男はしばらく黙っていたが、再び口を開いた。
「俺はいつになったら
「私があなたの脳に『干渉』した場所は、こういった変化に対して決定的かつ不可逆的な変化を及ぼす場所なの。私があなたの脳に刻んだ『刻印』は、常に私の脳波とリンクしている」
「……」
「だから……あなたが死ぬか、私が死ぬまであなたは解放されない……残念だけどね」
それを聞いた男は思わず目をむいて少女を睨みつけたが、再び猛烈な吐き気に襲われ姿勢を崩した。少女はそれを見てクスクス笑いながら言った。
「ほらほら言ってるそばからそんなになっちゃって。面従腹背は無駄な行為よ? ……まあいいわ、そうやって痛い目に会いながら学習していきなさいな」
男はやっとのことで息を整えると再び少女に話しかけた。
「お前は若い。俺はお前が死ぬのを待ってはいられないし、かといって自殺する気も毛頭ない。だから……お前の
「へぇー、覚悟を決めたんだ? もっともそれ以外に方法なんてないけどね」
「ただし!」
「ただし?」
「俺に報酬をよこせ」
「報酬? お金ってこと?」
そう言って少女は不思議がった。なぜなら男は『財団』から提示されたかなりの報酬でリクルートされた人物だったからだ。金に困るような派手な生活をしているのだろうか、と彼女は訝しんだ。
男は少女から目を離し、まっすぐ正面を向いたまま彼女の疑問に答えた。
「金じゃない……」
「お金じゃなかったら何よ?」
「お前は俺の記憶を操れる。ずいぶんひどい目にあわされたが、それは体験済みだ」
「だから?」と少女
「だったら、俺の記憶を消すこともできるな?」
少女は首をかしげてわずかの時間考え込んだ後、それに答えた。
「ええ、まあ……」
「いつの日か……」
「?」
「いつの日か、俺の頭の中にある忌まわしい記憶を消す、と約束しろ」
それを聞いた少女は男の横顔をまじまじと見上げるとしばらくの間黙った。
再び少女が口を開いた。
「私は脳の構造について多少の知識を持っているけど、脳外科医には到底及ばないわ」
「……」
「あなたが消したいと思っている記憶は、軍関係の多方面の知識や技能と結びついている。だから……その記憶を消せば、それに関連する知識や技能も一緒に失われるかもしれない。私の『干渉』能力は、ピンポイントの精度を持っているわけじゃないから……」
それを聞いた男は黙ったままだったので、そのまま少女は話を続けた。
「それに、軍隊では悲惨なことばっかり経験したわけじゃなかったはずよ。楽しい思い出だってあったでしょ? 戦友のことも……それらも全部なくなっちゃうかもしれないのよ? それでもいいの?」
「かまわない……眠れない夜に終止符を打ちたいんだ……」
そうささやくように言った男の目からは、次々と涙がこぼれ落ちた。
「……」
二人はそのまましばらく黙り込んだ。
サングラスで目元が隠れているとはいえ、自分の涙を年端もいかない少女に見せるのが気恥ずかしかったのか、男はその場を去って売店で飲み物を2つ買うと、少女の元に戻ってきた。男はそのうちの一つを少女に差し出した。
少女は差し出された飲み物を受け取ってストローに口をつけると、思わず顔をしかめた。彼女は飲み物が入ったその容器を見て不機嫌な表情になった。
「普通、女の子には……最初に何が飲みたいかって聞かない?」
「いちいち文句言うなっ! 俺のおごりなんだから黙って飲め」
少女はそれを聞くと、ムスっとした表情で再びストローに口をつけた。
「で、約束するのか、しないのかどっちなんだ?」そう言って男は少女を見つめた。
「何をよ?」
「俺の頭の中から忌まわしい記憶を消すことだっ!」
それを聞いた少女はしばらく黙り込んだ。
少女のその沈黙に耐えきれず男が再び口を開こうとしたとき、少女は答えた。
「……考えとく」
そう言って、少女は再びストローに口をつけて飲み物を吸った。
「まあ、これはお前の命綱みたいなもんだからな、お前が簡単には手放さないのはわかってる。それに俺の記憶を消したら、俺はお前の手下として役に立たなくなるしな……」
「……」
「だが、忘れるな? お前が約束を守らなかったら、俺はお前を必ず殺……」
男はそう言いかけて再び嘔吐した。
少女はそれを見てクスクス笑った。もう少女は残忍な表情を浮かべてはおらず、そこにはあどけない顔をした一人の15歳の少女がいるだけだった。
「まあ、あなたの働き方次第ね。期待してるわ」
そう少女が言うと、男は吐き出した飲み物で汚れた口元をぬぐいながら、自信にあふれた表情でそれに答えた。
「まかせろ、俺はプロだ。やるべき仕事は必ずやり遂げる」
展望台広場の巨大な天然樹の周りの長椅子に座っている少女と、そのそばに立っている男がそろってストローから飲み物を吸っている。それは、はたから見れば父娘のようでもあり、年の離れた兄妹のようにも見えた。
彼らに関心を払う者は誰一人おらず、周囲の人々はみな思い思いの時間を過ごしていた。少女と男にとって今日も長い一日になりそうだった。