1 雪の中に落ちる
ある雪の日のことだった。
海鳴市の外れ。住宅地と工業区の境目にあたる路地裏に、一人の少女が現れた。
降り積もる雪は一様に白く、音を吸い込むように静かだった。その中で、ひとつだけ異質な色があった。少女の胸元に下がる、紫色の透明なペンダント。宝石ともガラスとも判別のつかないそれは、淡く光を反射しながら、少女がここに“現れた”という事実だけを主張している。
腰まで伸びた艶のある黒髪。幼い体躯に対して不釣り合いなほど整った顔立ち。身にまとう白いワンピースは擦り切れ、裾は裂け、ところどころに黒い汚れが残っていた。
少女の名前は、まだこの世界には存在しない。
人類の新たなる隣人として。
共存の象徴として。
理解者として。
そう在ることを期待され、
設計され、
送り出された存在。
だが今の彼女には、その役割を語る言葉も、それを自覚する余力も残されていなかった。
転移の影響で意識は既に朦朧としている。それでも少女──否、“彼女”は、必死に周囲へ意識を向け、残された感覚を総動員して状況を把握しようとする。
(追手の気配は……ない)
視覚、聴覚、嗅覚。得られる情報は断片的だが、危険の兆候は検出されない。
(博士は、上手くやったらしい)
胸元のペンダントに、無意識のうちに指先が触れた。
(異世界への転移装置、か。理論を聞いた時は正気を疑ったが……)
白い研究室。積み重ねられた理論。笑みとも狂気とも取れる表情。
(……やはり、頭脳は本物だった)
その評価だけが、今も揺らがない。
視界に入る建物や道路、遠くから聞こえてくる人の声。それらを断片的につなぎ合わせ、彼女はこの世界の文明水準を推測する。
(元の世界より技術力は低い。だが、社会構造は安定している。人類種が支配的……)
標識。使用されている文字体系。耳に届く会話。
(日本列島語派に属する言語体系に酷似している……?)
可能性が浮かぶ。
(異世界ではなく、過去の時代……)
そこまで思考を巡らせたところで、限界が訪れた。
膝から力が抜け、視界が傾く。
(……この身体は、脆いな)
倒れ込みながら、自分の手を見る。
(これが、人の身体……)
小さく、力も弱い。設計段階で想定していた通りだが、実感として受け入れるには時間が足りない。
(共存の前に、生き延びなければ意味がない)
その思考を最後に、彼女の意識は静かに途切れた。
──────────
「おい! 大丈夫か!」
遠くで誰かの声がする。
だが、その呼びかけに応える余力は、もう残っていなかった。
──────────
次に意識を取り戻した時、彼女は自分が横になっていることを理解した。
薄く目を開ける。視界を満たす白。
(天井……医療機関特有の匂い……)
身体は動かさず、呼吸と瞬きだけを最低限に抑えながら、周囲の状況を探る。
(点滴。心拍モニタ。この世界の医療水準は、想定より高い)
生存していること。拘束されていないこと。その二点を確認する。
(少なくとも、実験施設ではない)
判断を終えた直後、廊下から足音が近づいた。
ノック。
「入りますよ」
扉が開き、女性が顔を覗かせる。少女と目が合うと、彼女はほっとしたように表情を緩めた。
「目が覚めたのね。安心して。ここは安全な場所よ」
そう告げて、女性はすぐに部屋を出て行った。
(……安全、か)
その言葉を反芻する。
安全とは、少なくとも今すぐ命を奪われない状態を指す。それ以上でも、それ以下でもない。
(さて……これが、この世界での最初の対話になる)
思考を切り替え、今後の対応を組み立てる。
(年齢は……この身体なら六、七歳程度。高度な質問はされないはず)
(名前は……)
そこで、思考が一瞬だけ滞った。
(元の名前は使えない。発音も概念も、この世界には不自然だ)
では、どうするか。
(偽名が必要だ)
候補をいくつか思い浮かべ、即座に却下していく。
その時、医師が部屋に入ってきた。
年配の男性医師と、その後ろに立つ二人。路地裏で自分を発見した夫婦だと、彼女は理解する。
「目が覚めたようだね。気分はどうかな?」
問いかけに、彼女は短く頷いた。
質問は簡潔で、年齢に配慮されたものだった。そして最後に、避けられない問いが投げかけられる。
「名前を教えてくれるかな?」
(来た、か)
一瞬の逡巡。
そして彼女は、口を開いた。
「……りんね」
医師はその名を繰り返し、書類に書き留める。
(識別番号として呼ばれていた名だが……違和感はない、はずだ)
周囲の反応を観察する。問題はなさそうだった。
少女──りんねは、内心で判断を下す。
──────────
その後の出来事は、淡々と過ぎていった。
眠り、目覚め、質問に答え、食事を摂る。
環境は変わったが、行動の選択肢は少ない。指示に従い、求められた反応を返すだけで、時間は消費されていく。
翌日、りんねは一人の少女と引き合わされた。
「なぁなぁ、名前は?」
「……りんね」
距離の近い、元気な少女だった。初対面にもかかわらず、一歩目から間合いを詰めてくる。
八神はやてと名乗り、椅子に腰掛けるなり、途切れることなく話し始めた。
学校のこと。孤児院のこと。好きな食べ物と、苦手なもの。
話題は散漫で、脈絡も薄い。だが、その分だけ情報量は多い。
(……処理量が多い)
りんねは相槌だけを返し、聞き流すように耳を傾ける。
一時間近くが経った頃、はやてはふと、思い出したように言った。
「なぁ、りんねちゃん」
呼ばれ、視線を向ける。
「そのさ……名前なんやけど」
少しだけ、間が空いた。
「“八神”でもええけど、うちはさ」
「はやて、って呼んでほしいんよ」
理由の説明はない。強制でも、条件でもない。ただの要望だった。
りんねは、即答しなかった。
(呼称の変更)
(……意味が定義されていない)
名前で呼ぶことに、どのような社会的意味が付随するのか。距離、序列、親密度──いずれも、この時点では対応表が存在しない。
(判断材料が不足している)
否定する根拠も、承諾を避ける理由も、見当たらなかった。
「……分かった」
はやては一瞬きょとんとし、すぐに表情を明るくする。
「ほんま!? やった!」
「はやて」
呼んでみる。
音の構成に問題はない。内部処理にも、異常は発生しない。
「えへへ」
満足そうに笑い、はやてはまた話を続けた。
(反応が大きい)
(だが、その理由は不明)
それ以上、掘り下げることはしなかった。
──────────
やがて、身元不明という結論と共に、りんねの今後の生活が話し合われた。
引き取り先として提示されたのは、孤児院だった。
安全で、管理され、生活が保証される場所。
合理的な選択肢だ。
りんねは短く頷く。
「……お願いします」
──────────
以降、りんねは孤児院で生活することになった。
想像していた静かな建物とは異なり、そこには年齢も性格もばらばらな子どもたちが行き交い、廊下には足音と声が絶えなかった。
朝は決まった時間に起こされ、顔を洗い、並んで食事を取る。
その一つひとつは合理的で、理解しやすい規則だった。
ただし、「一緒に」という概念だけは、最後まで曖昧なままだった。
子どもたちは気軽に話しかけ、距離を詰め、理由もなく笑い、怒り、泣いている。
りんねはそれを否定も肯定もせず、求められた返答を返し、必要な行動を取った。
夜、与えられた寝床で天井を見つめながら、胸元のペンダントに指先で触れる。
ここに敵意はない。命を脅かす存在も、追手もいない。
それだけは確かだった。
そうして、りんねは静かに、生き延びていた。