白い壁に囲まれた医療区画は、静かだった。
ベッドに横たわる高町なのはは、すでに意識を取り戻している。
呼吸は安定し、顔色も悪くない。
見た目だけなら、
昨夜の激しい戦闘を思わせるものは、何一つ残っていなかった。
白衣姿の医療官が端末を操作しながら、穏やかに口を開く。
「身体的な損傷はありません。
魔力回路にも、致命的な異常は見られませんでした」
なのはは、ほっと息をつく。
「じゃあ……もう大丈夫、なんですね」
医療官は即答せず、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「日常生活に戻ること自体は、問題ありません」
その言い方に、ユーノがわずかに視線を動かす。
フェイトも、黙って続きを待っていた。
「ただし」
医療官は、画面を切り替える。
「リンカーコアに、減少が確認されています」
なのはは、首を傾げた。
「リンカー……コア?」
「魔力を生み出す中枢です。
通常は、使いすぎても時間とともに回復します」
一拍置き、続ける。
「ですが今回は、外部から直接干渉された痕跡がある。
消耗というより、“削られた”状態に近いですね」
なのはは、少し考え込むように視線を落とした。
「……それって、どういう……」
言葉を探すなのはの方を見て、ユーノが口を開く。
「今すぐ困ることはないよ。
学校生活も、普通に送れる」
なのはが顔を上げる。
「でも──」
「元通りになるかは、まだ分からない。
だから、しばらく様子を見る必要があるってことだ」
なのはは、数秒黙ってから、静かに頷いた。
「……分かりました」
理解した上で、受け入れた声だった。
「学校は……行ってもいいですか?」
医療官は端末を確認し、答える。
「激しい運動と魔法の使用は禁止。
それ以外は、特に制限はありません」
なのはは、にこっと笑った。
「ありがとうございます」
フェイトは、その笑顔を見ながら、
胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
◆
高町家の玄関は、いつもと変わらない音を立てて閉まった。
「ただいまー」
自分の声が、少しだけ広く響いた気がした。
「おかえり、なのは」
母の桃子が、キッチンから顔を出す。
「昨日は、すずかちゃんの家に泊まったんだっけ?」
「うん。ちょっと遅くなっちゃって」
それ以上、何も聞かれない。
それでいい。
なのはは自分の部屋に戻り、鞄を置いた。
ベッドに腰を下ろし、深く息をつく。
体は軽い。
違和感も、痛みもない。
──元気。
そう判断してから、
机の上に置かれたものに、ふと目が留まった。
レイジングハート。
そこにある。
けれど、いつもの気配はない。
「……今は、使えないんだっけ」
手を伸ばしかけて、止める。
触れても、
あの小さな返事は返ってこなかった。
「……ま、いっか」
独り言のように呟き、
それ以上は考えなかった。
考えなくていい。
そういうことにしておく。
週明け。
校門をくぐると、聞き慣れた声が飛んでくる。
「なのは!」
アリサが手を振り、すずかが隣で微笑む。
「おはよう。もう平気?」
「うん。全然大丈夫だよ」
即答できるくらいには、
本当に問題なかった。
授業を受け、ノートを取り、
昼休みに他愛ない話をする。
笑う。
頷く。
走れる。
息も切れない。
何も困らない。
それなのに。
ふとした拍子に、
手が何かを探すように宙を彷徨った。
何を探しているのか、分からない。
なのはは小さく首を振り、
何事もなかったように歩き出す。
夕方。
家に帰る前、なのはは足を止めた。
住宅街の向こう、
空がゆっくりと橙色に染まっていく。
風が吹き、髪が揺れる。
誰もいない。
声をかけてくる人もいない。
「……大丈夫、だよね」
誰に向けた言葉でもなかった。
今日一日、何も起きなかった。
困ることも、痛むところもない。
ちゃんと、普通だった。
それなのに。
胸の奥に残る、
何かを置き忘れたような感覚だけが、消えない。
「……ま、いっか」
そう言って、なのはは歩き出す。
理由は分からないまま。
分からなくても、日常は進んでいく。
夕焼けの下、
一人分の足音だけが、静かに響いていた。
◆
アースラの一室は、落ち着いた静けさに包まれていた。
ホログラムに映るのは、地上の住宅街。
その中の一つ──高町なのはの現在位置。
「身体データに異常はありません」
医療官の報告に、リンディ提督は穏やかに頷く。
「ええ、見たところ元気そうね」
だが、画面から目は逸らさない。
「ただし……」
医療官が続ける。
「精神面に、わずかな落ち込みが見られます。
本人に自覚はありませんが」
リンディは、小さく息をついた。
「そう……」
フェイトは、画面を見つめたまま動かなかった。
笑っている。
歩いている。
けれど、どこか遠い。
「無理をしている、というほどではないわね」
リンディが静かに言う。
「でも、“平気なふり”をしているわけでもない」
ユーノが腕を組む。
「予定では、もう少し様子を見る段取りでしたが……」
リンディは、少しだけ首を傾けた。
「予定は、あくまで予定よ」
そして、穏やかな口調のまま告げる。
「前倒ししましょう」
フェイトが顔を上げる。
「……いいんですか?」
リンディは微笑んだ。
「ええ。
あの子から魔法を取り上げなかった理由、覚えているでしょう?」
フェイトは、黙って頷く。
「力があるからでも、
危険だからでもない」
リンディは画面のなのはを見つめる。
「それでも前に進もうとする子だから、よ」
一拍置き、続ける。
「日常に戻ることは、逃げじゃないわ」
フェイトの表情が、わずかに和らいだ。
「……じゃあ」
リンディは、軽く頷く。
「行ってきなさい。
今度は“戦うため”じゃなくて」
フェイトは、はっきりと答えた。
「はい」
その声には、確かな決意があった。