朝の空気は、まだ少し冷たかった。
目を開けた瞬間、なのはは天井を見つめる。
白い板の目地が、いつもと同じ位置にある。それだけで、少しだけ落ち着いた。
いつもなら──起き上がる前に、右手が動いていた。
枕元。机の上。
無意識に、そこにあるはずの気配を探すように。
けれど、今日の右手は布団の上で止まった。
(……もう、しばらくは出来ない)
そう理解した瞬間、胸の奥に何かが残る。
悲しい、とは言い切れない。
悔しい、とも少し違う。
ただ、そこに空白がある。
埋められていた場所が、そのまま残っている。
なのはは一度、深く息を吸った。
冷たい空気が肺に入る。
目が覚める感覚は、はっきりしていた。
布団の温もりを名残惜しく思いながら、体を起こす。
床に足をつけると、ひんやりとした感触が伝わる。
制服に袖を通し、ボタンを留める。
動作は、いつも通りだ。
鏡に映る自分の顔も、特に変わらない。
変わっていない。
それが事実だった。
机の上に視線を向ける。
レイジングハートは、そこにある。
触れようとして、止める。
今は、使えない。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのはは視線を逸らし、部屋を出た。
高町家の朝は変わらない。
母の声、食卓の匂い、テレビの音。
昨日と同じ配置が、そこにある。
その“同じ”が、ありがたい。
朝食を終え、鞄を持つ。
玄関で靴を履きながら、深呼吸を一つ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる音を背に、なのはは外へ出た。
冷たい風が頬を撫でる。
空は澄んでいて、朝の光が眩しい。
通学路を歩く。
足取りは軽くないが、止まらない。
日課だった朝の練習は、もう無い。
それを避けているわけではなかった。
ただ、手を伸ばす先に、それが無いだけだ。
学校が近づくにつれ、街の音が増えていく。
通学する子どもたちの声、自転車のベル。
その中に混ざれば、自分も“普通”に見える。
(大丈夫)
根拠はない。
けれど、言葉にすると足は前に出た。
教室に入ると、いつもの顔ぶれがある。
アリサの声。
すずかの笑顔。
机の並び。
窓から入る光。
変わらない配置が、そこにあった。
席に着き、ノートを開く。
先生の声が聞こえる。
チョークの音が黒板を擦る。
集中はできている。
それが、少しだけ落ち着かない。
休み時間。
廊下のざわめき。
誰かの笑い声。
その中に、燐音もいる。
特別な動きはない。
近づくでもなく、離れるでもない。
なのはは、それを一度視界に入れて、すぐに意識から外した。
今は、それでいい。
昼休み。
屋上に上がると、風が強かった。
扉を開けた瞬間、冷たい空気が流れ込む。
手すりに触れると、金属が冷たい。
四人で並んで弁当を広げる。
久しぶりの光景だった。
「なのはのお弁当、今日も美味しそうだね」
すずかの言葉に、なのはは小さく笑う。
「お母さんがね」
それ以上は言わない。
聞かれないし、言わなくてもいい。
アリサが話題を振る。
クラスのこと、委員会のこと。
すずかが相槌を打ち、なのはが頷く。
風が吹き、包み紙が音を立てる。
箸が弁当箱に触れる音が、やけに響いた。
会話が一瞬、途切れる。
誰も急いで埋めようとしない沈黙。
なのはは、その空白をそのまま受け取った。
燐音は黙って食事を続けている。
特別な反応はない。
それも含めて、ここにある光景だった。
(変わらない配置が、ここにある)
それだけで、十分だった。
午後の授業。
ノートは取れる。
答えも言える。
ふとした拍子に、胸の奥が冷える瞬間がある。
理由は分からない。
それでも、立ち止まるほどではなかった。
放課後。
校門を出る。
住宅街の道を歩き、夕焼けが街を染める。
分かれ道で、アリサとすずかが手を振る。
「また明日!」
「うん、またね」
二人の背中が遠ざかる。
足音が減り、やがて一人分になる。
なのはは、それを足音で理解した。
夕焼けは綺麗だった。
空が橙色に染まり、影が長く伸びる。
立ち止まり、息を吐く。
(……大丈夫)
言葉にすると、少しだけ前を向けた。
失ったものは、まだ戻らない。
それでも、日常は続いている。
母が待っている。
宿題がある。
夕飯がある。
眠って、朝が来る。
その繰り返しが、今のなのはを支えていた。
胸の奥の空白は、まだ消えない。
消えないままでも、歩ける。
なのはは小さく笑って、歩き出す。
理由は分からないまま。
分からなくても、日常は進んでいく。
夕焼けの下、
一人分の足音だけが、静かに響いていた。