シャマルの診断は、静かなものだった。
「……少し、疲れが溜まっているみたいですね」
声は穏やかで、必要以上に踏み込まない。
けれど、放っておく気配もない。
はやてはベッドの縁に腰掛けたまま、軽く肩をすくめてみせる。
「無理はしてへんつもりやけど……」
笑って言ってしまえる程度の言葉。
この部屋の空気は、まだ日常の延長にある。
シャマルは否定しなかった。
否定すれば、はやては理由を探してしまう。
理由を探せば、答えに近づいてしまう。
「そう感じているなら、今日はそれで大丈夫です」
医師としての距離。
家族としての優しさ。
その両方を、言葉の外側に置く。
「今日は早めに休みましょう。
また明日、様子を見せてください」
「うん。ありがとな」
はやては頷く。
それ以上、理由を聞こうとはしない。
信じているからだ。
自分の“家族”を。
シャマルの手が、そっと布団を整える。
それは看護でもあり、世話でもあり、──日常の手つきだった。
「何か欲しいもの、ある? 水とか」
「んー……大丈夫。今は眠い」
あくびを噛み殺す仕草まで、いつも通り。
痛みも、苦しさも、まだ見えていない。
「分かりました。では、電気を少し落としますね」
シャマルがスイッチに手を伸ばす。
灯りが柔らかく弱まると、部屋の輪郭が丸くなった。
はやては肩の力を抜いて、枕へ頭を預ける。
「シャマル……」
「はい」
呼ばれて振り返る。
はやては目を閉じたまま、小さく笑った。
「……なんか、落ち着くわ。こうしてると」
主は何も疑っていない。
疑う理由が、ここにはない。
シャマルは一拍だけ黙り、言葉を選ぶ。
「……よかった」
それだけで十分だった。
余計な慰めも、過剰な言い訳も要らない。
はやてが息を整える。
寝息に変わりかける、その境目。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉を閉める音は、できるだけ小さく。
足音も、できるだけ軽く。
廊下へ出た瞬間、シャマルはようやく息を吐いた。
胸の奥に溜めていたものが、少しだけ外へ流れる。
──まだ、壊してはいけない。
この家の“日常”を。
騎士たちは、主の部屋から距離を取った場所に集まっていた。
誰かが合図を出したわけでもない。
ただ、必要になれば自然と揃う。
それが、家族の形だった。
シャマルが最初に口を開く。
言葉は短く、余計な感情を削り落とした。
「……進行しています」
シグナムが目を伏せる。
ヴィータが舌打ちを飲み込む。
ザフィーラは一度だけ小さく息を吐いた。
主の前では言えない。
主に言わせてはいけない。
だから、ここで言う。
「今日のところは、疲労として誤魔化せます」
「次は?」
シグナムの声は低い。
問いは怒りでも責めでもなく、確認だった。
「……保証できません」
沈黙が落ちた。
誰かが言い出すのを、待っているわけではない。
ただ、決める前の時間が、そこにあった。
これまでは二人一組だった。
互いの背中を預ける形で動き、事故を減らす。
危険があれば退き、主のところへ戻る。
それは守りの形であり、同時に──まだ“日常”を守れる速度でもあった。
シグナムが言葉を切る。
「分散する」
短い言葉だった。
命令でも提案でもない。
当然のように置かれた決定。
反論は出なかった。
代わりに、理解だけが共有される。
ヴィータが腕を組む。
不満ではない。
腹立たしさは、状況に向いている。
「二人で動いてた方が楽だった。……でも、早いのは分かってる」
ザフィーラが小さく頷く。
「接触回数を減らし、露見を抑えるなら……正しい」
シャマルは目を閉じる。
その「正しい」が、どこへ繋がるかも含めて。
分散すれば、対応範囲は広がる。
蒐集効率も上がる。
だが、孤立する時間が増える。
守れるものが、減る。
それでも──選ぶ。
主のそばを空ける時間を、これ以上伸ばさないために。
シグナムが視線を走らせる。
「重点は同じだ。戦闘は最小限。
蒐集は必要な分だけ。不要な損耗は避ける」
言い方は穏やかだが、実態は切迫している。
切迫を言葉にしないのは、主のため。
そして自分たちのためでもあった。
「蒐集自体は、今の段階なら“日常の延長”だ」
シグナムが続ける。
言い聞かせるようでもあり、確認するようでもある。
日常の延長。
──まだ、そう言い切れる。
ヴィータが肩を竦める。
「日常って言う割に、面倒は増えてるけどな」
冗談に見せた言葉。
だが誰も笑わない。
シャマルは、言葉を選びながら告げる。
「……主は、まだ何も気づいていません。
だから……気づかせないでください」
命令ではない。
お願いでもない。
ただの確認だ。
ザフィーラが短く答えた。
「当然だ」
シグナムは一拍置き、静かに頷く。
「我々が背負う。主には背負わせない」
それが騎士の誓いであり、家族の約束だった。
ヴィータは言葉を返さず、拳を握る。
握った拳の中で、苛立ちが形を変える。
──守るためなら、何でもする。
その「何でも」が、少しずつ日常を侵し始めていることを。
この時点では、まだ、誰も口にしない。
◆
管理外世界。
乾いた風が吹き抜ける。
荒れた大地に砂が薄く積もり、空の色は淡い。
ここには都市がない。
監視の目も薄い。
──だから選ぶ。
選ばされている、という感覚を。
ヴィータは、まだ言葉にしない。
小さく舌打ちし、ハンマーの柄を握り直した。
原生生物の群れが蠢く。
一体一体は大したことはない。
それは、数字としては分かっている。
だが──
「……ちっ」
ハンマーを振るう。
叩き潰す。
跳び退く。
終わらない。
敵が強いわけじゃない。
ただ数が多い。
そして、地形が悪い。
砂に足を取られるほどではない。
だが、踏み込みの感触が鈍い。
着地の瞬間、ほんのわずかにズレる。
そのズレが、積み重なる。
「前より、面倒くさくなってんだよ……」
独り言。
誰にも聞かせない声。
以前なら、二人で動いていた。
片方が潰し、片方が拾う。
蒐集は短く終わり、主のもとへ戻れた。
効率は上がっている。
数字上は、確実に。
それでも──
肌感覚が、追いつかない。
孤立している時間が増える。
背中を預ける相手がいない。
その事実が、戦闘の合間に、じわじわ効いてくる。
ヴィータは跳躍する。
空中でハンマーを振りかぶり、落とす。
砂が弾け、視界が白く濁った。
次の一体。
その次の一体。
「……ったく!」
叩いて、叩いて、叩く。
単純な作業に見えるのが、余計に腹立たしい。
蒐集のため。
主のため。
分かっている。
分かっているからこそ、苛立ちは外へ向けられない。
向けられない苛立ちは、手数になる。
手数は疲労になる。
疲労は判断を鈍らせる。
──最悪だ。
「ッ!」
横から突っ込んできた個体を、反射で打ち返す。
砂が舞う。
また視界が白くなる。
砂煙の向こうに、影がいくつも揺れる。
まだいる。
まだ終わらない。
ヴィータは歯を噛み締めた。
「……時間、食いすぎだろ」
口に出した瞬間、自分で分かる。
“時間”を意識した時点で、余裕が削れている。
主の顔がよぎる。
寝息。
笑顔。
信じきった目。
──信じてるんじゃねぇよ。
言えない言葉が、喉の奥で燃える。
だから潰す。
だから拾う。
だから終わらせる。
ヴィータは地面を蹴り、群れの中心へ踏み込んだ。
砂が巻き上がる。
視界が削られる。
その瞬間──
精密すぎる魔力反応。
桃色の光が走る。
眩しい、ではない。
派手でもない。
ただ──
速く、正確で、迷いがない。
巻き込まない。
外さない。
逃げ場だけを、正確に塞ぐ軌道。
「……なっ」
反射的に身構える。
だが攻撃は当たらない。
当てる気が、最初からない。
狙っているのは、敵でも自分でもない。
──空間そのもの。
砂煙が、さらに濃く広がった。
視界が遮られる。
白い。
何も見えない。
なのに──分かる。
この距離。
この位置。
この“待つ”感覚。
濃い砂ぼこりの向こうに、何かがいる。
姿は見えない。
輪郭も掴めない。
だが──
逃げてもいない。
「……誰だよ」
返事はない。
砂が舞い、音だけが遅れて届く。
自分の呼吸。
遠くの砂の擦れる音。
原生生物の気配が、いつの間にか薄れている。
消えた?
逃げた?
違う。
──追い払われた。
ヴィータは理解し、奥歯を噛み締める。
こっちは蒐集の途中だ。
邪魔される理由がない。
なのに、邪魔されている。
──管理局か?
一瞬よぎる。
だが、決めつけるには早い。
ここにいる。
ここに割り込める。
それでいて、殺す気配がない。
それが、余計に不気味だった。
砂の向こうに向けて、ハンマーを構える。
見えない相手に向き合う。
見えないまま、距離を測る。
それでも──
確かに、向き合っている。
ヴィータは、一歩も退かなかった。