砂の匂いが、喉の奥に残っていた。
乾いた風が吹くたび、細かな砂粒が舞い上がり、視界の端を薄く曇らせる。
ここは管理外世界。人の営みはない。
──だから安全。
そう判断したのは、ヴォルケンリッターだった。
だが。
砂漠の静けさは、あまりに整いすぎていた。
獣の群れが距離を取る。
そして、桃色の砲撃が残した光の残滓が、まだ空気に漂っている。
ヴィータは鉄槌を握ったまま、奥歯を噛んだ。
「……ちっ」
相手の姿は見えない。
なのに、こちらの動きを読んだような精密さで、群れを散らしてくる。
背筋に、嫌な冷たさが走る。
身構えた瞬間──
砂煙の向こうから、少女が歩いてきた。
桃色の光。
砲撃の余韻を背負ったまま、こちらへ近づいてくる。
ヴィータは、見覚えのある顔に舌打ちした。
「……お前かよ」
高町なのは。
あの時、結界の中で、自分の一撃を受け止めた少女。
なのはは足を止める。
その表情に怒りはない。
ただ、強い意志だけがある。
「大丈夫?」
最初に出た言葉が、それだった。
ヴィータの額に青筋が浮かぶ。
「はぁ!?」
だが、叫び返す前に気づく。
なのはの視線は、自分ではなく、周囲──群れや風向き、魔力の流れへ向いている。
状況を、見ている。
(この手の相手に、勢いで突っ込むと損をする)
ヴィータは短く息を吐いた。
「……へっ。
ベルカのことわざに『和平の使者は槍を持たない』ってあるんだぜ」
吐き捨てる。
なのはは首を傾げた。
「槍……?」
鉄槌を肩に担ぎ直す。
「なのにお前、でっけぇ砲撃ぶっ放してくるじゃねぇか。
和平の話する顔して、やってることが違うんだよ」
なのはは、少しだけ目を伏せた。
「……私は、話したい。
でも、止めないといけないこともある」
「じゃあ、止めてみろ」
それ以上の問答は、いらない。
鉄槌が振り下ろされ、砂が爆ぜる。
なのはは一歩も退かない。
桃色の魔力が薄い壁となり、鉄槌の圧力を受け止めた。
「……っ」
ヴィータは歯を食いしばる。
硬い。
防御が、想定よりも硬い。
前回の戦いで、
薄々とは感じていたが──
ここまでとは思っていなかった。
力で押す。
だが、押し切れない。
叩きつけても壁は割れない。
むしろ、衝撃が吸われていく。
「……面倒な相手だな」
吐き捨てるように言いながら、頭は冷えている。
(破る手は、ある)
だが、
それを通すには時間がかかる。
この相手に、
悠長な手は打てない。
判断は、早かった。
鉄槌に魔力を乗せ、地面ごと叩き割る。
「──ッ!」
衝撃波が砂漠を割り、なのはの防御を押しのける。
なのはの足が、わずかに砂へ沈む。
その隙。
ヴィータは踵を返した。
「撤退だ!」
逃げる。
それは敗北じゃない。
合理的な選択だ。
距離は、取った。
──その背に。
遥か後方で、桃色の光が収束する。
距離は、相当離れている。
精度も、合うはずがない。
(……当たるかよ)
そう判断した、次の瞬間。
衝撃。
背中から、世界が弾けた。
身体が浮き、砂に叩きつけられる。
──命中。
◆
同じ砂漠。
フェイトは、シグナムと向かい合っていた。
問答はない。
剣を構えた瞬間、互いに理解している。
──戦うしかない。
雷光が走り、赤い刃が迎え撃つ。
フェイトの動きは速く、無駄がない。
対するシグナムの剣は重く、正確だ。
火花が散り、砂が舞う。
互いに、一歩も引かない。
次の一撃が、決定打になる──
そう思った、その時。
空間が歪んだ。
何もない場所から、鎖のような魔力が伸びる。
質が違う。
この場の誰のものでもない。
「っ!?」
フェイトの身体が拘束される。
動けない。
シグナムが一歩下がり、警戒する。
そこに立っていたのは、仮面を被った男だった。
「蒐集しろ。
──足の悪い主の為だろう?」
低い声。
その一言で、シグナムは理解する。
主の存在を、知っている。
(第三者、か)
だが、迷わない。
剣を振るうのではなく、魔力を一点に集める。
蒐集。
フェイトのリンカーコアが削られる。
それでも、消失はしない。
──削られるだけ。
シグナムは一歩退き、
男のいた場所へ向けて剣を振り抜いた。
刃は空を裂く。
だが、そこにはもう何もいない。
残ったのは、冷えた空気だけ。
「ヴィータ、ザフィーラ。
撤退する」
通信が飛ぶ。
◆
ザフィーラは、獣の姿のまま、砂漠を駆けていた。
原生生物は、数が多い。
それでも、本来なら脅威ではない。
だが今は違う。
蒐集のために動けば動くほど、こちらの動きは目立つ。
そして──
目の前に立つ存在が、さらに目立った。
ザフィーラは、感情のこもらない声で告げる。
「邪魔をするな」
金髪の使い魔が、拳を握り、息を荒げて立っている。
「フェイトに手を出したの、あんたたちでしょ!」
アルフは怒りを隠さない。
ザフィーラは、構えた。
「退け。
我らは主に仕える」
「そんなの、間違ってる!」
アルフが一歩踏み込む。
「使い魔は、主と一緒に歩くもんだよ!
ただ命令を聞くだけじゃない!
主が苦しんでたら、止めるのも──守るのも、使い魔でしょ!」
その言葉に、ザフィーラの瞳が細くなる。
「使い魔とは主に付き従う物。
我らはそれを守護獣と呼ぶのだ」
淡々とした声。
だが、そこには譲れない芯がある。
アルフは唇を噛み、拳を握り直す。
「そんなの……主の気持ちも分かんない、ただの道具じゃん!」
「道具ではない。
役割だ」
ザフィーラは一歩も退かない。
次の瞬間、二人は同時に動いた。
アルフの拳が風を切り、ザフィーラの爪が砂を裂く。
互いに実力差はある。
ザフィーラの方が強い。
だが、アルフは退かない。
退けない。
──主と共に歩むために。
その時。
アルフの胸が、嫌な音を立てた。
遠く。
フェイトの魔力が、急激に落ちた。
蒐集。
アルフは瞬間的に理解する。
「……フェイト?!」
その一瞬。
アルフの動きが止まった。
大きな隙。
ザフィーラは迷わない。
爪が、アルフの腹へ叩き込まれる。
「っ……!」
衝撃。
アルフの身体が吹き飛び、砂に落ちる。
意識が遠のく。
最後に聞こえたのは、ザフィーラの低い声だった。
「……主に付き従う。
それが我らの道だ」
ザフィーラは、通信を受ける。
『撤退する』
シグナムの声。
ザフィーラは一度だけ、倒れたアルフを見下ろした。
そこに勝者の誇りはない。
ただ、役割を果たした冷たさだけ。
そして、踵を返す。
砂漠の風が、すべての痕跡を飲み込んでいく。
◆
──遅れて。
なのはは、自分の一撃の結果を見ていた。
ヴィータは倒れていない。
致命傷もない。
「……?」
確かに、当てた。
距離も、角度も、間違っていない。
なのに。
空気が歪み、
桃色とは別の層が、ほどけるように消えていく。
(……防がれた?)
理解した瞬間──
別の拘束が来た。
硬い束が四肢を絡め取り、身体を縫い止める。
「っ……!」
管理局のものじゃない。
フェイトを縛ったものとも、違う。
視線の先で、ヴィータが立ち上がる。
無傷ではない。
だが、動ける。
ヴィータは一瞬だけ空を睨み、
そのまま、退いた。
なのはは追えない。
拘束が、身体を許さなかった。
そして、ようやく理解する。
結界がないこと。
援護が届かないこと。
それが偶然ではないこと。
戦場は、三つに割れたのではない。
──割られたのだ。