魔法少女リリカルなのは  隣を歩く人   作:維伶@供養中

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3 名前のない距離

 小学校の入学式は、燐音にとって特別な意味を持たなかった。

 

 式辞。  整列。  拍手。

 

 いずれも、既存の社会制度において想定された手続きの一つに過ぎない。個人の意思や適性とは無関係に進行し、時間が来れば終了する。そういう性質の行事だと、燐音は理解していた。

 

 校舎は新しく、塗装の剥離や構造的欠陥は見当たらない。廊下は広く、動線も単純だ。人の流れを滞らせない設計になっている。教室の配置も合理的で、避難経路の確保も想定されている。

 

 環境としての評価は、悪くない。

 

 過剰な装飾や非効率な構造が少ない点は、好ましい。

 

 ◆

 

 入学式から、少し時間が経っていた。

 

 教室の中で、燐音は自分の席に座り、特にすることもなく周囲を観測していた。机や椅子の高さは適正範囲内。視界を遮る障害物もない。人の数は多いが、密度は許容範囲だ。

 

 話し声は絶えない。  だが、その多くは燐音の周囲を避けるように流れていく。

 

 燐音が不愛想であること。  返答が短く、会話が成立しにくいこと。

 

 それらは事実であり、本人も把握している。修正の必要性は感じていなかった。現時点での目的は、円滑な人間関係の構築ではない。

 

(孤児院より、静かだ)

 

 あの場所は常に音が多い。足音、呼び声、泣き声、笑い声。感情の起伏が、そのまま騒音として空間に残る。

 

 それに比べれば、この教室は秩序があり、雑音も制御されている。教師という管理者が存在し、一定のルールが機能している。

 

 少なくとも、警戒レベルを引き上げる要素は見当たらなかった。

 

 ◆

 

「高町なのはです。よろしくね」

 

 その言葉は、入学式の喧騒の中で交わされた、いくつもある挨拶の一つに過ぎなかった。

 

 声量は平均的。距離も近すぎず遠すぎない。特筆すべき点はない。

 

 それでも、その声は燐音の内部記録に残った。

 

 理由は不明だ。  感情的な揺らぎも、警告も検出されていない。

 

 拒絶しても、距離を取っても、  彼女は声をかけるのをやめなかった。

 

 その継続性だけが、わずかに異質だった。

 

 ◆

 

 それから、なのはは繰り返し燐音に声をかけた。

 

 最初は偶然だと判断した。  二度目は、気まぐれだと分類した。  三度目で、意図的だと理解する。

 

(……あきらめの悪い子)

 

 評価は下さない。  好意とも敵意とも断定しない。

 

 燐音は否定しなかった。  拒絶もしなかった。

 

 ただ、深く関わらない。

 

 最低限の応答のみを返し、それ以上の情報を渡さない。距離を保ち、観測対象として扱う。

 

 そうしているうちに、教室の空気は、少しずつ変化していった。

 

 なのはと燐音を、同一の集団として認識する視線が増え始める。

 

 ◆

 

 昼休みの終わり頃。

 

 隣のクラスの前方から、通常とは異なる音が届いた。

 

 高い声。  反発する声。  感情による振幅。

 

「……喧嘩?」

 

 誰かの呟きが、状況を言語化する。

 

 燐音は立ち上がらない。  関与の必要はない。

 

(幼少個体間の衝突は、致命的結果に至らない)

 

 この環境は、十分に管理されている。教師という抑止力が機能しており、事態が長期化する可能性は低い。

 

 予測通り、教師の足音が近づき、騒ぎは短時間で収束した。

 

 ◆

 

 放課後。

 

 燐音は教師から頼まれ、配布物の整理を行っていた。紙の枚数を揃え、順番に並べる。内容は単純で、特別な技能を必要としない。

 

 効率は良くないが、拒否する理由も存在しない。  従うことで、余計な注目を避けられる。

 

 作業を終え、教室へ戻る。

 

 その途中で、燐音は足を止めた。

 

 ──人の気配が残っている。

 

 教室の奥。  窓際の席。

 

 机に伏せたまま動かない、小さな背中。

 

(高町なのは)

 

 個体識別は即座に完了する。

 

 なのはは泣いていた。  声は出していないが、肩の微細な振動がそれを示している。

 

 原因の推測は可能だった。  昼に発生した衝突。  対象は、アリサ・バニングス。

 

 燐音は一歩、距離を取ったまま停止する。

 

(回避可能)

 

 見なかったことにして退室すれば、この事象は観測対象から外れる。合理的な選択だ。

 

 だが、行動に移るまでに、わずかな遅延が生じた。

 

 理由は特定できない。  ただ、視界に映る光景が処理を阻害している。

 

(……既視感に近い) (照合対象は未定義)

 

 不要な連想を切り捨て、燐音は歩み寄った。

 

 ◆

 

「……何をしている」

 

 なのはの肩が小さく跳ねる。

 

 顔を上げると、涙で濡れた目が燐音を捉えた。

 

「あ……燐音ちゃん」

 

 声は不安定だが、意識は保たれている。

 

 燐音は慰めの言葉を検索しない。  共感の表現も、選択肢に含めない。

 

 必要なのは、事実の確認だ。

 

「泣いて、どうする」

 

 なのはは言葉に詰まる。

 

「……悔しくて」

 

 燐音は続きを促さない。  沈黙を維持する。

 

「悔しくて、その次は」

 

 なのはは視線を伏せ、言葉を探したが、見つからなかった。

 

 燐音は状況を再評価する。

 

 この場で必要なのは解決ではない。  是非の判断でもない。

 

 ──否定しないこと。 ──急がせないこと。

 

 それだけで十分だと結論づける。

 

「高町は」

 

 なのはが顔を上げる。

 

「多分だけど」

 

 一度、間を置く。

 

「前を向けると思う」

 

 それは断定ではない。  指示でも、期待でもない。

 

 ただの予測。

 

 なのははしばらく燐音を見つめ、やがて小さく息を吸った。

 

「……ちゃんと?」

 

「そう」

 

 燐音はそれ以上、言葉を足さなかった。

 

 ◆

 

 しばらくして、なのはは目元を拭った。

 

 完全に泣き止んだわけではない。  だが、呼吸は安定している。

 

「……ありがとう」

 

 なのはの言葉に、燐音は首を振る。

 

「礼を言われる理由はない」

 

 それは事実だった。

 

 燐音はただ、観測対象から逸脱した行動を選択したに過ぎない。

 

「もう、帰る?」

 

「そうする」

 

 燐音は踵を返す。

 

 背後から、なのはの声が届いた。

 

「燐音ちゃんって、変だよね」

 

 燐音は立ち止まらない。

 

「知っている」

 

 短く答え、教室を出た。

 

 ◆

 

 帰り道。

 

 夕暮れの空を視界に入れながら、燐音は内部処理を行う。

 

(非合理)

 

 本来、関与は不要だった。

 

 だが、不快ではない。  危険性も検出されない。

 

 ただ、一つの発言が記録として残っている。

 

 ──高町は前を向ける。

 

 その意味も、影響も、現時点では不明だ。

 

 知る必要はない。  少なくとも、今は。

 

 それでも、その言葉は──

 

 静かに、確実に、  内部記録に残存していた。

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