小学校の入学式は、燐音にとって特別な意味を持たなかった。
式辞。 整列。 拍手。
いずれも、既存の社会制度において想定された手続きの一つに過ぎない。個人の意思や適性とは無関係に進行し、時間が来れば終了する。そういう性質の行事だと、燐音は理解していた。
校舎は新しく、塗装の剥離や構造的欠陥は見当たらない。廊下は広く、動線も単純だ。人の流れを滞らせない設計になっている。教室の配置も合理的で、避難経路の確保も想定されている。
環境としての評価は、悪くない。
過剰な装飾や非効率な構造が少ない点は、好ましい。
◆
入学式から、少し時間が経っていた。
教室の中で、燐音は自分の席に座り、特にすることもなく周囲を観測していた。机や椅子の高さは適正範囲内。視界を遮る障害物もない。人の数は多いが、密度は許容範囲だ。
話し声は絶えない。 だが、その多くは燐音の周囲を避けるように流れていく。
燐音が不愛想であること。 返答が短く、会話が成立しにくいこと。
それらは事実であり、本人も把握している。修正の必要性は感じていなかった。現時点での目的は、円滑な人間関係の構築ではない。
(孤児院より、静かだ)
あの場所は常に音が多い。足音、呼び声、泣き声、笑い声。感情の起伏が、そのまま騒音として空間に残る。
それに比べれば、この教室は秩序があり、雑音も制御されている。教師という管理者が存在し、一定のルールが機能している。
少なくとも、警戒レベルを引き上げる要素は見当たらなかった。
◆
「高町なのはです。よろしくね」
その言葉は、入学式の喧騒の中で交わされた、いくつもある挨拶の一つに過ぎなかった。
声量は平均的。距離も近すぎず遠すぎない。特筆すべき点はない。
それでも、その声は燐音の内部記録に残った。
理由は不明だ。 感情的な揺らぎも、警告も検出されていない。
拒絶しても、距離を取っても、 彼女は声をかけるのをやめなかった。
その継続性だけが、わずかに異質だった。
◆
それから、なのはは繰り返し燐音に声をかけた。
最初は偶然だと判断した。 二度目は、気まぐれだと分類した。 三度目で、意図的だと理解する。
(……あきらめの悪い子)
評価は下さない。 好意とも敵意とも断定しない。
燐音は否定しなかった。 拒絶もしなかった。
ただ、深く関わらない。
最低限の応答のみを返し、それ以上の情報を渡さない。距離を保ち、観測対象として扱う。
そうしているうちに、教室の空気は、少しずつ変化していった。
なのはと燐音を、同一の集団として認識する視線が増え始める。
◆
昼休みの終わり頃。
隣のクラスの前方から、通常とは異なる音が届いた。
高い声。 反発する声。 感情による振幅。
「……喧嘩?」
誰かの呟きが、状況を言語化する。
燐音は立ち上がらない。 関与の必要はない。
(幼少個体間の衝突は、致命的結果に至らない)
この環境は、十分に管理されている。教師という抑止力が機能しており、事態が長期化する可能性は低い。
予測通り、教師の足音が近づき、騒ぎは短時間で収束した。
◆
放課後。
燐音は教師から頼まれ、配布物の整理を行っていた。紙の枚数を揃え、順番に並べる。内容は単純で、特別な技能を必要としない。
効率は良くないが、拒否する理由も存在しない。 従うことで、余計な注目を避けられる。
作業を終え、教室へ戻る。
その途中で、燐音は足を止めた。
──人の気配が残っている。
教室の奥。 窓際の席。
机に伏せたまま動かない、小さな背中。
(高町なのは)
個体識別は即座に完了する。
なのはは泣いていた。 声は出していないが、肩の微細な振動がそれを示している。
原因の推測は可能だった。 昼に発生した衝突。 対象は、アリサ・バニングス。
燐音は一歩、距離を取ったまま停止する。
(回避可能)
見なかったことにして退室すれば、この事象は観測対象から外れる。合理的な選択だ。
だが、行動に移るまでに、わずかな遅延が生じた。
理由は特定できない。 ただ、視界に映る光景が処理を阻害している。
(……既視感に近い) (照合対象は未定義)
不要な連想を切り捨て、燐音は歩み寄った。
◆
「……何をしている」
なのはの肩が小さく跳ねる。
顔を上げると、涙で濡れた目が燐音を捉えた。
「あ……燐音ちゃん」
声は不安定だが、意識は保たれている。
燐音は慰めの言葉を検索しない。 共感の表現も、選択肢に含めない。
必要なのは、事実の確認だ。
「泣いて、どうする」
なのはは言葉に詰まる。
「……悔しくて」
燐音は続きを促さない。 沈黙を維持する。
「悔しくて、その次は」
なのはは視線を伏せ、言葉を探したが、見つからなかった。
燐音は状況を再評価する。
この場で必要なのは解決ではない。 是非の判断でもない。
──否定しないこと。 ──急がせないこと。
それだけで十分だと結論づける。
「高町は」
なのはが顔を上げる。
「多分だけど」
一度、間を置く。
「前を向けると思う」
それは断定ではない。 指示でも、期待でもない。
ただの予測。
なのははしばらく燐音を見つめ、やがて小さく息を吸った。
「……ちゃんと?」
「そう」
燐音はそれ以上、言葉を足さなかった。
◆
しばらくして、なのはは目元を拭った。
完全に泣き止んだわけではない。 だが、呼吸は安定している。
「……ありがとう」
なのはの言葉に、燐音は首を振る。
「礼を言われる理由はない」
それは事実だった。
燐音はただ、観測対象から逸脱した行動を選択したに過ぎない。
「もう、帰る?」
「そうする」
燐音は踵を返す。
背後から、なのはの声が届いた。
「燐音ちゃんって、変だよね」
燐音は立ち止まらない。
「知っている」
短く答え、教室を出た。
◆
帰り道。
夕暮れの空を視界に入れながら、燐音は内部処理を行う。
(非合理)
本来、関与は不要だった。
だが、不快ではない。 危険性も検出されない。
ただ、一つの発言が記録として残っている。
──高町は前を向ける。
その意味も、影響も、現時点では不明だ。
知る必要はない。 少なくとも、今は。
それでも、その言葉は──
静かに、確実に、 内部記録に残存していた。