朝の空気は、いつもと変わらなかった。
カーテン越しの光も、窓の外の音も、穏やかで、静かで。
それなのに、はやては一度だけ胸のあたりに手を当て、小さく息を整えた。
「……大丈夫や」
誰に言うでもなく、そう呟く。
実際、嘘ではなかった。
数日前よりは楽だった。
夜中に息苦しさで目が覚めることも減り、朝もきちんと起きられている。
体調が「良くなってきた」という実感は、確かにある。
だからこそ、その一瞬の違和感は言葉にしづらかった。
シャマルは、その様子を見逃さなかった。
視線を向けたのは一瞬。だが、その後の動きが、わずかに遅れる。
「無理は、なさらないでくださいね」
声は、いつも通り柔らかい。
はやてを安心させるための、よく知っている調子。
「うん。分かってる」
はやては笑って返す。
気を遣わせたくない、というより──
本当に、そこまで深刻だとは思っていないからだ。
シャマルはそれ以上、何も言わなかった。
否定もしないし、肯定もしない。
ただ、医療用の端末を手に取る回数が、少しだけ増えた。
数値は、劇的に悪化しているわけではない。
緊急搬送が必要な状態でもない。
今すぐ命に関わる段階では──まだない。
(……ですが)
心の中で続きを言いかけて、シャマルは止めた。
「まだ」という言葉は、
医師にとって最も扱いづらい。
はやての状態は安定している。
だが、それは「安全」と同義ではない。
安定しているからこそ、
次に崩れる瞬間が読めない。
「シャマル?」
視線に気づき、はやてが首を傾げる。
「何かあった?」
「いいえ」
即答だった。
迷いも、間もない。
「今日は、少し早めに休みましょう。
最近は調子が良い分、動き過ぎてしまいがちですから」
「そっかぁ……」
少し残念そうにしながらも、はやては素直に頷いた。
「でも、ほんまに最近は楽になってきてるんやで」
その言葉は、真実だった。
だからこそ、シャマルは返事をしない。
否定すれば嘘になる。
肯定すれば判断を誤る。
医師として。
そして、家族として。
「……はい」
結局、それだけを返した。
シャマルは端末を閉じないまま、しばらくその場に立っていた。
数値を確認するでもなく、新しい操作をするでもなく。
ただ、
この状態が「いつまで続くか」を計算していた。
その答えが、
そう遠くない場所にあることだけは、はっきりしていた。
◆
通信は短く終わった。
シャマルの声は、いつも通り落ち着いている。
容態の説明も、指示も、余分な言葉はない。
『……分かりました。こちらで対応します』
それで切れる。
ヴィータは、通信が途切れた後もしばらく何も言わなかった。
ハンマーの柄を握り直し、視線を落とす。
「……一緒にいられねぇな」
誰に向けた言葉でもない。
はやてが望むのは、
特別なことではない。
戦わなくてもいい。
守らなくてもいい。
ただ、
同じ場所で、同じ時間を過ごすこと。
「それでもだ」
シグナムが静かに言った。
「主を守るために、離れる時がある」
否定ではない。
だが、完全な同意でもない。
家族であることと、
常に一緒にいること。
似ているが、重ならない。
ザフィーラは何も言わず、外を見ていた。
主の気配がある方向ではなく、戻るべき場所を測るように。
誰も間違っていない。
誰も嘘はついていない。
それでも、
同じ「家族」という言葉を使いながら、
立っている場所だけが、少しずつ違っていた。
◆
「はやてちゃんね、最近ちょっと体調が良くないみたいで」
すずかは、言葉を選ぶように切り出した。
「病院に行くことも多いって聞いたの。
この前も、付き添いの人と一緒だったよ」
「付き添い?」
アリサが自然に反応する。
「うん。大人の人で、すごく落ち着いてて……
お医者さんみたいな感じの人」
すずかは少し考えてから続けた。
「それでね、その人が燐音ちゃんのことも知ってるって」
「は?」
今度はアリサが声を上げる。
「どういうことよ、それ」
「詳しくは分からないんだけど……
はやてちゃんと燐音ちゃん、友達なんだって」
なのはは、その話を黙って聞いていた。
驚きはある。
だが、違和感はない。
燐音の交友関係が広いことは、今に始まった話ではない。
「……大変そうだね」
それ以上は続けなかった。
困っている子がいる。
ただ、それだけの話だ。
話題は自然に別の方向へ流れていく。
この時点で、
誰も繋げる理由を持っていなかった。
◆
無限書庫は、今日も静かだった。
書架の奥へ進むほど、音は消えていく。
足音も、端末の操作音も、吸い込まれていく。
ユーノは立ち止まり、表示を見つめていた。
闇の書。
完成条件。
発動結果。
記録そのものは、確かに残っている。
だが、並べると噛み合わない。
完成しても、事態は終わらない。
破壊されても、記録は途切れない。
主を変え、形を変え、
同じ工程が繰り返されている。
(……単なる事故とは、言い切れない)
暴走、という言葉でも、
この挙動のすべては説明できなかった。
だが──
なぜそうなるのか。
記録からは、読み取れない。
目的も、終点も、
はっきりとした形では残されていなかった。
ユーノは、端末を閉じる。
結論は出ない。
だが、放置できる違和感でもない。
「……リンディ提督に、途中経過を」
断定はしない。
ただ、
今はまだ分からない、という事実だけを共有するために。
無限書庫は、何も答えない。
だが、その沈黙は、否定でもなかった。
世界は、まだ壊れていない。
だが──
触れただけのドミノは、確かに揺れていた。