「わ~! ここが鵺野先生のアパート……!」
「狭いところだがゆっくりしていってくれ」
ぬ~べ~の部屋の中で眠っていた灰耶は、鍵の開く音と女性の声で目を覚ました。
しかし耳から入る情報を咀嚼すると、疑問が湧いてくる。
(……? ぬ~べ~が女を連れてきた……?? そんなバカな……)
ぬ~べ~のモテなさっぷりは凄まじい。筋金入りと言っていい。
灰耶は思わず訝しむ。
しかしそんな恩師に春が来たのならば、祝福してやらねばなるまい。
灰耶はなるべく二人の邪魔にならないような言葉を考えながら、玄関へ歩く。
「ぬ~べ~、ワシ、どっかに遊んでこようか……?」
灰耶はぬ〜べ〜の隣にいる女性を見て、一瞬硬直する。
女性の体からは妖気が立ち上っていた。
「おお灰耶、ただいま」
「え? 先生、この子は……」
「俺の教え子だ。霊能を制御できずに悪魔になってしまって、家に泊めている」
「そ、そう……ですか……。二人っきりじゃなかったのね………」
肩を落とす女性を見て、灰耶は事態を完全に把握した。
(ぬ、ぬ〜べ〜のやつ……妖怪に好意を持たれたからと言って、ワシをダシに断ろうとしておる……!!)
「私はゆきめ。小さい頃に鵺野先生に助けてもらってから、ずっと鵺野先生をお慕いしてるの」
「なるほどのぅ……ぬ〜べ〜も手当たり次第に色んなやつを助けとるなぁ」
冷蔵庫から食材を取り出しながら、灰耶はゆきめの身の上話を聞く。
ゆきめは最初、雪女として山神の掟に従いぬ〜べ〜を氷づけにして山へ連れて行こうとしたらしい。
しかし生徒を見捨てるわけがないぬ〜べ〜を山へ連れていくことはできず、男を氷づけにしなければ山に帰ることもできず。
最終的に、ゆきめはぬ〜べ〜と同じ町で暮らすことにしたと語る。
(……ワシと早々に出会わなくてよかったのう)
もし、ぬ〜べ〜を氷づけにするゆきめを見ていたら。
灰耶は躊躇うことなく、炎魔法でゆきめを溶かしていた。
人に危害を加える、人間のような妖怪。
それは悪魔化が進んでいる喰奴である、灰耶の将来の姿だ。
だからこそ、そんな存在を許しておくわけにはいかなかった。
(まあ、だからゆきめが初めて童守町に来たとき、ぬ〜べ〜はワシを呼ばなかったんじゃろうが)
ぬ〜べ〜は自分が命の危機に陥っても、ゆきめを殺したくなかった。
その事実を噛み締め、腹の内に秘めた殺意を底に沈める。
「今日は鍋でもしようと思ってたんじゃ。ゆきめは調理器具の使い方とかわかるんかのう」
「大丈夫、色々勉強してきたから」
灰耶が触手を伸ばし、コンロのスイッチを入れる。
瞬間、凄まじい冷気が灰耶もろともキッチンを氷づけにした。
「あ、ごめんなさい。私熱気に弱くてつい……。今日は私が冷やしソーメン作るから、任せてほしいわ!」
(……なるほど、そういう感じか………)
過剰に熱気に弱く、強烈な冷気の力を躊躇わずに振るう。
ゆきめの性質とこの後に起こる騒動を察して、灰耶は全力でゆきめと向き合う覚悟を固めた。
(はぁ……。結局、灰耶くんが私の冷やしソーメンほとんど食べちゃった………)
深夜になって、ゆきめはぬ〜べ〜に貸してもらった布団の中でやるせない気持ちになっていた。
温度を下げた部屋もお風呂も灰耶の炎で常温にされてしまった。
ぬ〜べ〜が生徒思いなのは知っているが、二人っきりで過ごせると思ったのに。
愛しい人と同じ屋根の下なのに、心の距離が遠い。
「……暮らせない……」
「!」
襖で遮られたリビングから、心を氷の槍で貫くような言葉が聞こえてきた。
ゆきめは思わず襖を細く開き、リビングで寝ているぬ〜べ〜と灰耶を覗く。
「もう一度言う。ゆきめくんとは暮らせない。……今日気づいたが、お前、冷気に弱いな?」
「お主よりタフなワシじゃぞ。ゆきめの冷気なんぞそよ風じゃ」
思っても見なかった言葉に、ゆきめは目を丸くする。
「ワシと同居できるんじゃろ? 妖怪の一人や二人くらいどーんと受け入れる度量を見せろ」
「お前は妖怪じゃないだろう!」
「ワシにもう人間の要素ねーよ」
灰耶はぬ〜べ〜の首を触手で掴みながら、淡々と喋る。
「悪魔化が侵食した【喰奴】が、人間に戻れるわけないじゃろ。【喰奴】はそういうんじゃない。お主は達成不可能な目標を掲げて、ずっとワシの世話をする気か?」
「戻る可能性は0じゃない! お前が諦めてどうする!」
「だからそういうんじゃないじゃろうが! ……ゆきめと過ごしたくないんであれば、種族がどうとかではなくてゆきめ個人のことが好きじゃないからであって欲しいぞ」
ぬ〜べ〜と灰耶はだんだんと感情的になっていき、最終的に取っ組み合いを始める。ゆきめが覗き見ていることに気づかないくらいに激しく。
だからゆきめは、二人のことをずっと見ていた。
「はぁあああぁぁあっ……!」
「えいっ…………!」
気合いの入った声と共に、部屋に熱波が吹き荒れる。
一度寝たら何がなんでも起きないぬ〜べ〜も、この熱波にはたまらず起き上がった。
「のわっ?! は、灰耶か……?! 朝っぱらから何をしてんだ?!」
寝ぼけた顔でぬ〜べ〜がキッチンを見ると、ゆきめと灰耶がくたびれ果てて床に座っていた。
「あ、鵺野先生、おはようございます……。灰耶くんに頼んで、私が作った朝ごはんを解凍してもらってました……」
「ゆきめの冷気が料理中に片っ端から凍らせてしまうから、ワシも炎を全開にせざるを得なかったぞ。音を立ててしまってすまんの」
ゆきめが指を刺したテーブルの先には、一枚の目玉焼きが置かれていた。
「さ、食べてください、先生………」
ぬ〜べ〜はまず、じっくりと目玉焼きの表面を見た。
焦げ目がしっかりついており、黄身は中まで固くなっている。昨日の冷えに冷えた料理ではないらしい。
箸でつまむ。
口に運ぶ。
塩が効いた、普通の卵の味が口の中に広がった。
「……美味い」
ゆきめと灰耶の顔が、ぱあっと明るくなった。
「やったわ! やったわ灰耶くん……!!」
「うォ——ッッワシに抱きつくのはちょっとコンプラ的にアレじゃ!!」
「何言ってるのかわからないけど……本当にありがとう! 灰耶くんがいなかったら、きっと鵺野先生に美味しいって言って貰えなかったわ!!」
灰耶は触手でゆきめを追い返そうとするが、ゆきめは構わず灰耶を抱きしめた。
抱擁しながら、ゆきめはぬ〜べ〜に笑みを向ける。
「私、頑張ります。もっと人間に歩み寄れるように! 恋を応援してもらえるって、こんなにパワーが出るものなのね……!」
「……灰耶、今日は一緒に給食を食べないか?」
「ワシはお留守番してるから」
これからの展開を察したぬ〜べ〜を、灰耶がばっさり切り捨てる。
ゆきめの猛アタックは、ぬ〜べ〜が学校に行く最中も続けられた。
夕方、ゆきめの着物を抱いて帰ってきたぬ〜べ〜に、灰耶はかける言葉を見つけられなかった。
「お、俺、俺が……氷づけにされてやれば良かった。山に、帰らせるべきだった………」
ゆきめは火事のあった家に取り残されていた女の子を救助しに行って、女の子を助けた後、熱で溶けてしまったのだとぬ〜べ〜は泣きながら語る。
自分がゆきめに早く寄り添っていれば、こんなことにはならなかったのだと。
灰耶はぬ〜べ〜にハンカチを渡しながら、頭の中でゆきめの存在をどうでもいいものの箱に入れた。
灰耶は手に入らないものに執着しない。
悪魔になったことで会えなくなった両親も、友達も、見れなくなったテレビ番組も、全てがどうでもいい。
手に入らなくなった途端に価値を感じないのだ。
しばらくはゆきめの話題を避け、ゆきめをゆっくり忘れていくことに灰耶は決めた。
とにかくキッチンで食事を作ろうと、コンロに火をつける。
「あーっ! 今日も私がご飯作るつもりだったのに!」
瞬間、窓から雪だるまが部屋の中に飛び込み、泣いていたぬ〜べ〜を押しつぶす。
雪だるまの顔がバコッと割れ、ゆきめが中から顔を出した。
「あ、鵺野先生ごめんなさい! 急いでたから轢いちゃったわ」
「……ぬ〜べ〜の話に聞いていた限りだと、お主は溶けたんじゃなかったっけ」
「そんなことないわよ? 冷凍食品のトラックが近くにあったからなんとか無事だったの」
ゆきめは平然とした様子で、灰耶に言葉を返す。
雪だるまの下敷きになっていたぬ〜べ〜が、唖然とした顔で這い出てくる。
「も、もっと早く……言って……くれ……」
「先生……! もしかして心配してくださったんですか?!」
ぬ〜べ〜に抱きつくゆきめを見て、灰耶の脳内にあるどうでもいいものの箱がひっくり返される。
驚き、喜び、さっきまで抱いていた無関心。
ゆきめに対するさまざまな気持ちがごちゃ混ぜになりながらも灰耶はなんとか言葉を放り出した。
「……これは……アレじゃな……腹立たしいな。今は……」
死んだと思っていたやつが生き返ると驚きすぎてムカつく。
灰耶は自分の新しい一面を発見した。