またしても何も知らない狩人さん〜異能バトルよりパンチラが危ない〜 作:概ね右翼
「……ん……」
いやな目覚めだった。
ふわふわした夢の続きみたいなものじゃなくて、冷たい水の底から急に引っ張り上げられたみたいな、苦しい目覚め。
重たい瞼を開ける。
知らない天井が見えた。
黒い染み。汚れ。ひび割れ。
ぼんやりした頭でも、ここが綺麗な場所じゃないことくらいはわかった。
「……どこ……?」
声を出してみる。
でも、誰も返事をしてくれない。
自分はベッドの上に寝かされていた。病院みたいだった。だけど、病院にしては変だった。
空気が湿っている。
鼻の奥がつんとするくらい、カビ臭い。
なのに、棚には薬品瓶とか注射器とか、よくわからない道具がいっぱい並んでいる。どれも古くて、薄暗い中でぼんやり光っていた。
静かだった。
静かすぎる。
遠くで水が落ちる音だけが聞こえている。
人の気配がしない。
お母さんも、お父さんも。
看護師さんみたいな人も、誰も。
なんだか急に怖くなって、自分は起き上がろうとした。
「っ……」
腕に力を入れただけなのに、すぐ苦しくなる。
息が漏れる。
身体が重い。
自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいだった。
それでも、どうにかベッドの端に手を伸ばす。
床へ降りようとして、
「あ……」
身体が傾いた。
そのまま、ベッドごと床へ倒れる。
どん、と大きな音がした。
痛い。
でも、それより。
「……あれ……?」
床へ落ちる瞬間。
足が動いた気がした。
ちゃんと、床を踏もうとした。
「足……動いた……?」
どくん、と胸が鳴る。
勘違いかもしれない。
そう思う。
期待したら、違った時に怖いから。
だけど、自分は床に手をついて、ゆっくり身体を起こした。
お腹に力を入れる。
腰を上げる。
それから、足へ少しずつ体重を乗せる。
怖かった。
今にも崩れそうで。
でも。
「……立て、た……」
ちゃんと立っていた。
足が震えている。
膝もぐらぐらする。
だけど、自分は今、両足で床を踏んでいた。
そのことが信じられなくて、しばらく動けなかった。
立てる。
そんなことが、どうしてこんなに変なんだろう。
「いつから……?」
ぽつりと呟く。
でも、その瞬間。
もっと変なことに気付いた。
思い出せない。
何も。
お父さんの顔も。
お母さんの顔も。
家も、友達も。
何も思い出せない。
「……自分……誰……?」
名前も出てこない。
好きなものも、嫌いなものも。
何もなかった。
胸の奥がざわざわした。
怖い。
すごく怖い。
自分は落ち着かなくなって、部屋の中を見回した。
その時、椅子の上に紙があるのが見えた。
ふらふらしながら近付く。
一歩歩くだけで膝が笑う。
床はぼろぼろで、踏むたびにぎしぎし鳴った。
「っ……」
足がもつれて、壁に肩をぶつける。
痛い。
でも止まりたくなくて、どうにか椅子まで辿り着く。
紙を拾う。
そこには文字が書いてあった。
『青ざめた血を求めよ。狩りを全うする為に』
汚い字だった。
ぐちゃぐちゃで、読みにくい。
なのに、自分は読めた。
「……自分の字……」
なんとなく、そう思った。
どうしてかわからない。
でも、自分が書いた気がした。
紙を持つ手が冷たくなる。
「青ざめた血……?」
意味がわからない。
聞いたこともない言葉。
なのに、気味が悪かった。
胸の奥が変にざわざわする。
自分は慌てて紙を椅子に戻した。
こんなの、きっと変ないたずらだ。
そう思うことにした。
誰かいるはず。
ここへ自分を連れてきた誰かが。
そう考えて、自分は部屋を出た。
「あの……」
声が小さい。
うまく出ない。
廊下の先には、下へ続く長い階段があった。
壁に体重を預けながら、一段ずつ降りる。
ぎし。
ぎし。
古い木が鳴る。
「はぁ……っ」
少し降りただけで息が苦しくなった。
脚が震える。
一段降りるたびに止まって、息を整えないと次へ行けない。
「……誰か……」
呼んでみる。
でも、返事はない。
階段を降り切る頃には、胸が痛くなっていた。
下にも誰もいない。
床には割れた瓶が散らばっていた。
輸血の瓶みたいだった。
黒い染みもある。
その時。
奥の暗闇から音がした。
ぐちゃ。
何か柔らかいものを潰すみたいな音。
それから、荒い息。
誰かいる。
そう思った瞬間。
自分は、息を止めていた。
助けてって言いたかったのに。
なのに身体が勝手に、「見つかったら駄目」って思ってしまった。
「……あ……」
声が震える。
足が動かない。
さっきまで立てていたのに、急に力が抜けていく。
暗闇の奥を見つめながら、自分はじっと息を呑んだ。
誰かがいた。
その事実は、本当なら嬉しいはずだった。
ひとりじゃなかった。
それだけで安心できるはずなのに、どうしてだろう。身体の震えが止まらなかった。
暗かった。
薄暗くて、奥のほうはほとんど見えない。
それでも、その“誰か”が異様に大きいことだけはわかった。
黒い。
全身が黒く塗り潰されたみたいだった。
自分より何倍も大きな身体を丸めて、床へうずくまっている。
何かをしている。
ぐちゃ、ぐちゃ、と湿った音が聞こえていた。
「……だい、じょうぶ……ですか……?」
声を出した、つもりだった。
でも、あまりにも小さくて、自分でも聞こえたか怪しかった。
臭い。
変な臭いがする。
生臭い。
鉄みたいな臭いと、腐った肉みたいな臭いが混ざっていた。
自分は恐る恐る近付く。
一歩。
また一歩。
でも、進むたびに歩幅が小さくなる。
足が勝手に止まろうとする。
「あの……」
肺の中の空気を全部押し出して、やっと声になる。
その時。
黒い塊が、ぴたりと動きを止めた。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
そいつがこちらを向いた。
「……ぁ」
声が漏れた。
人じゃなかった。
全身が毛で覆われている。
湿った黒い毛が、血でべっとり濡れていた。
顔の形もよくわからない。
ただ、口だけが異様に大きかった。
裂けるみたいに開いた口の奥へ、鋭い歯が何列も並んでいる。
その歯の隙間に、赤黒い肉片が挟まっていた。
床には、人の腕が落ちている。
指先が、まだぴくりと動いた気がした。
そいつは、人を食べていた。
ぶち、と音がする。
怪物の口から、長いものが垂れ下がる。
腸だった。
「あ……」
理解した瞬間、頭の奥が真っ白になる。
喉が引き攣る。
呼吸ができない。
「ひ……」
声にならない。
逃げなきゃ。
そう思った時には、怪物が動いていた。
床を砕くみたいな音。
黒い塊が、一瞬で目の前まで迫ってくる。
「ひっ──」
怖い。
無理。
来ないで。
視界いっぱいに、牙が広がった。
「いやっ!! や、やだぁ!! ごめ、ごめんなさ──」
最後まで言えなかった。
どん、と身体が浮く。
次の瞬間。
お腹の奥へ、何か熱いものが突き刺さった。
「あ゛ぁ゛ッッ!!?」
わからない。
何。
何これ。
痛い。
熱い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!! あ゛っ!! ぃ゛ッ!!」
息ができない。
叫びたいのに、空気が入ってこない。
怪物の爪が、お腹に刺さっていた。
なんで。
なんで入ってるの。
やだ。
やだやだやだ。
ぐり、と爪が動く。
「あ゛ッ!! ぁ゛あ゛あ゛ッ!!」
中を掻き回される。
お腹の中を。
直接。
ぐちゃぐちゃに。
「ぃや゛ぁ゛ぁ゛ッ!! やめ゛っ!! やめでぇぇ!!」
ぶち。
ぶちぶち。
身体の中で、何かが切れる音がする。
怖い。
怖い怖い怖い。
怪物の顔が近い。
臭い。
腐った臭い。
血の臭い。
吐きそう。
「ぅ゛……ぇ……ッ」
爪が抜ける。
どろ、と熱いものが零れる。
お腹が熱い。
でも、変に寒い。
嫌だ。
見たくない。
なのに、目が勝手に下を向く。
「あ……」
お腹が開いていた。
赤い。
ぐちゃぐちゃ。
自分の身体なのに、知らないものみたいだった。
「ぃ……ゃ……」
だらだら何かが垂れてる。
お腹から。
自分の中から。
怪物が、それを掴む。
「あ゛……や、やだ……ッ!!」
だめ。
だめ。
それ、自分の。
怪物が口へ入れる。
ぶち。
ぐちゃ。
噛む音。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!」
身体が跳ねる。
わかる。
わかっちゃう。
自分の中を食べられてる。
噛まれてる。
飲み込まれてる。
「やだやだやだやだ!! 返してぇ!! いやぁぁぁぁッ!!」
怖い。
痛い。
苦しい。
でも動けない。
腰が抜けてる。
手も動かない。
怪物は夢中だった。
お腹へ顔を突っ込んで、ぐちゃぐちゃ食べてる。
「あ゛ッ!! ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!」
何か引っ張られる。
身体の奥から。
ずる、と。
視界が白く弾けた。
「ごぼっ──!!」
血が出る。
口から。
熱い。
苦しい。
息ができない。
「ぅ゛ぇ……ぇ゛……ッ!!」
怪物がまた抉る。
ぐちゃ。
めき。
ぶち。
全部、自分の身体の音。
「いだぃ……っ!! いたいぃ!! やだぁ!!」
もう嫌。
怖い。
助けて。
なんで。
なんで自分が。
何もしてないのに。
「ぉ、おがあ゛ざん……!!」
誰のことかわからない。
でも口から出た。
涙が止まらない。
鼻水も血もぐちゃぐちゃで、自分が何言ってるのかもわからない。
怪物がまた噛む。
ぶち。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!!」
痛い痛い痛い。
お腹の中がなくなっていく。
自分が減っていく。
怖い。
寒い。
指先が冷たい。
震えが止まらない。
「た、ずげ……っ……」
助けて。
死にたくない。
怖い。
嫌だ。
ひとりは嫌。
「やだぁ……っ!! ごわいぃ……!!」
声が出ない。
血ばっかり出る。
怪物は止まらない。
ぐちゃ。
ぐちゃ。
夢中で。
自分を食べてる。
視界が暗くなる。
音が遠い。
寒い。
痛い。
怖い。
嫌。
死にたくな──
——————————————————
目が覚めた。
冷たい。
身体の下から、じわじわと冷たさが染み込んでくる。
ぼんやりしたまま目を開けて、ようやくそれが石の冷たさだとわかった。
「──っ」
自分は跳ね起きる。
その瞬間。
あの痛みが蘇った。
「ぁ……ッ……」
反射的にお腹を抱える。
息が詰まる。
石の上へ膝をつき、そのまま身体を丸めた。
怖い。
怖い怖い怖い。
頭の中がそれだけでいっぱいになる。
お腹から手を離せなかった。
離した瞬間、また中身が零れ落ちる気がした。
触っていないと、自分の身体が壊れてしまう気がした。
「……ぅ……」
涙が出る。
でも、どうやって泣けばいいのかわからない。
声の出し方も、息の仕方も、全部ぐちゃぐちゃだった。
ただ震える。
小さくなって、自分を抱える。
もう落ちないように。
壊れないように。
その時。
何かが、自分へ触れた。
「……?」
びくりと肩が跳ねる。
けれど、それは嫌なものじゃなかった。
風みたいに曖昧じゃない。
ちゃんと“手”みたいだった。
ゆっくり。
一定の速さで。
背中を撫でてくる。
その感触に、少しずつ震えが落ち着いていった。
怖かったはずなのに。
どうしてか、自分は安心していた。
まぶたが重くなる。
そのまま、自分はまた眠ってしまったらしい。
*
次に目を開けた時。
そこは、あの薄汚い病室じゃなかった。
「……あれ……」
自分はゆっくり身体を起こす。
知らない場所だった。
草が生えている。
石畳が続いている。
けれど、変だった。
全部がぼやけて見える。
輪郭が曖昧だった。
遠くを見ると、景色が滲んでいる。
まるで“夢“の中みたいだった。
瞬きをしたら、そのまま崩れてしまいそうな世界。
「……ゆめ……?」
呟いてから、自分は気付く。
さっきまで石の上にいたはずなのに、今は柔らかい布の上だった。
それに。
「……人形……?」
自分は、大きな人形に抱えられるみたいにして眠っていた。
綺麗な人形だった。
白い肌。
薄い色の髪。
開いたままの硝子みたいな瞳。
さっき撫でてくれていたのは、この人形なのだろうか。
そう思ったけれど、人形はぴくりとも動かない。
本当に、ただの人形みたいだった。
「ありがとう……人形さん」
自分は小さくお礼を言って、その頭をそっと撫でた。
冷たい髪だった。
でも嫌じゃなかった。
人形の膝から降りる。
裸足で石畳へ立つと、ひやりとした冷たさが足裏から身体の奥まで染み込んでくる。
「……っ」
少し驚いて周囲を見回す。
その時。
何かが動いた。
「……ぁ」
小さい。
人間、みたいだった。
でも、人間じゃない。
白い。
痩せ細っている。
顔は潰れたみたいで、目も口も溶けているみたいで、よくわからない。
「あなたは……妖精さん……?」
思わずそう聞いていた。
その小さな存在は、腰から下を水へ浸けていた。
石畳の上なのに、水がある。
白い水だった。
ぶくぶく泡立っていて、沸騰しているみたいなのに、見ているだけで冷たさが伝わってくる。
不思議で、つい指を伸ばしかける。
すると、小さな存在が慌てたように自分の指を止めた。
「……だめ?」
こくこく、と首を振る。
思っていた妖精とは違うけど、優しいのかもしれない。
そう思っていると、その存在はまた首を横に振った。
違うらしい。
それから、水の中へ沈んでいった。
「……あ」
いなくなってしまった。
どうしようかと思っていると、数秒後。
白い水の中から、今度は何人も現れた。
みんな潰れた顔。
同じ白さ。
そのうちの一人が、紙を広げてくる。
『水盆の使者』
「みず……ぼん……?」
読むのに苦戦していると、使者たちは慌てたように紙へふりがなを書き始めた。
『すいぼんのししゃ』
「……すいぼんの、ししゃ……」
そう読むと、使者たちは嬉しそうに身体を揺らした。
妖精じゃなくて、使者さんらしい。
使者さんたちは満足したみたいに、また水の中へ潜っていった。
しばらく待っていると、今度は色々なものを抱えて戻ってくる。
「……なに、それ……?」
置かれたのは、見たことのない道具だった。
杖みたいなもの。
ノコギリみたいなもの。
斧みたいなもの。
あと、鉄砲。
本で見たことはある。
でも、実物は初めてだった。
どれも大きい。
そして冷たそうだった。
使者さんたちは、自分へそれらを差し出してくる。
「え……選ぶの……?」
こくこく、と頷く。
よくわからなかった。
でも、杖は少し安心した。
まだ足がふらふらするから。
自分は恐る恐る杖を持つ。
「……おもい……」
ずっしりしていた。
金属でできているみたい。
自分には少し辛い重さだった。
次に、使者さんたちは鉄砲を差し出してくる。
大きいのと、小さいの。
どっちも怖い。
でも、小さい方を選ぶ。
それでも十分重かった。
どうにか服へ引っ掛けるように抱える。
使者さんたちは嬉しそうに頷く。
何に使うのかはわからない。
でも、贈り物なのはわかった。
「……ありがとう、使者さん」
そう言うと、使者たちは満足そうに身体を揺らした。
それから。
小さな手が、自分の服を引っ張る。
「……?」
ついていく。
その先にあったのは、お墓だった。
古い墓石。
誰のものかはわからない。
使者さんたちは、自分へ手を合わせるよう促してくる。
自分も真似をした。
誰のお墓かわからないけど。
悪いことじゃないはずだから。
そう思った瞬間。
ふっと、身体から力が抜けた。
「……ぁ……」
景色が遠ざかる。
世界が滲む。
意識が、静かに沈んでいった。
——————————————————
目が覚めた。
湿った臭い。
黴と血が混ざった空気。
ぼやけた視界の先にあるのは、またあの薄汚い病院だった。
「……あ……」
夢、だったのだろうか。
あの不思議な場所も。
人形さんも。
使者さんたちも。
全部。
そう思いかけて、自分は違和感に気付く。
手の中に、重みがあった。
「……」
金属の杖。
冷たくて、重たい。
それから背中にも、ずしりとした感覚がある。
恐る恐る触れる。
鉄砲だった。
夢じゃない。
そう思った瞬間、胸の奥が変なふうに冷えた。
「……ん?」
そこで、自分はもう一つ気付く。
杖とは別に、何かを握っていた。
柔らかい。
金属みたいな色なのに、触るとぷにぷにしている。
「……なに、これ……?」
弾丸みたいな形だった。
先が尖っていて、小さい。
でも液体みたいだった。
指で押すと少し形が変わるのに、離すと元へ戻る。
不思議で、自分はしばらくそれを指で押して遊んでいた。
怖いことを、少し忘れられるくらいには。
だけど。
その時間は長く続かなかった。
奥の暗闇から。
また、あの音が聞こえた。
ぐちゃ。
ずる。
湿った何かを啜る音。
そして。
荒い息遣い。
「──っ」
全身が強張る。
臭い。
あの臭いだった。
腐った肉と血の臭い。
「ぁ……ぁっ……」
恐怖が、自分の中へ流れ込んでくる。
冷たい泥みたいに。
じわじわと。
身体の内側を埋めていく。
頭の先まで。
指先まで。
全部。
「う、ぇ……」
吐きそうだった。
でも何も出てこない。
喉だけが引き攣る。
逃げなきゃ。
そう思って、自分は階段へ向かう。
足が震える。
それでも必死に登る。
一段。
また一段。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
苦しい。
胸が痛い。
それでも止まれなかった。
ようやく病室の扉へ辿り着く。
でも。
「……あ、れ……」
扉が閉まっていた。
押しても開かない。
叩いても動かない。
「ひら、いて……」
力を込める。
でも駄目だった。
その時。
扉の向こうから、女の人の声がした。
「……あなた、どなた? 獣狩りの方、かしら?」
「……!」
人だ。
人の声。
それだけで胸が熱くなる。
「た、助けて……!」
声が裏返る。
「ごめんなさい。この扉は開けられないの」
優しい声だった。
だから余計に苦しかった。
「あ、開けてください……! お願いします……! 自分、気付いたらここにいて……! 本当に、わからなくて……!」
必死だった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、扉へ縋りつく。
でも。
「私はヨセフカ。この診療所を預かる者よ」
静かな声。
「患者さんたちを、感染の危険へ晒すわけにはいかないの……特に、外から来た人は……ごめんなさい」
「いや……!」
頭が真っ白になる。
「お願いします……助けて……! なんでもします……だから……!」
嫌だった。
置いていかれるのが。
ひとりなのが。
怖かった。
でも、返ってくるのは謝罪だけだった。
「……本当にごめんなさい。どうか私を恨まないで」
小さな窓の割れ目から、白い液体の入った瓶が差し出される。
「これくらいしか、できないの……あなたの無事を祈っています」
「ま、待って……!」
返事はない。
静かだった。
「ぅ……ぁ……っ……」
涙が止まらない。
声を抑えようとしても無理だった。
静かな病院に、自分の泣き声だけが響く。
だから。
気付いてしまった。
ぎし。
ぎし。
後ろから音がする。
ゆっくり。
ゆっくり。
階段を登ってくる。
「──っ」
振り返る。
いた。
黒い毛。
裂けた口。
何列も並んだ牙。
怪物だった。
低い唸り声を漏らしながら、自分を見上げている。
「ヨセフカさん!! 助けてぇ!!」
叫ぶ。
でも。
返事はなかった。
その大声へ反応するみたいに、怪物が跳ねる。
「いやぁっ!!」
自分は避けようとして。
足を踏み外した。
視界が回る。
身体が階段を転がり落ちる。
「ぁ゛っ──!!」
痛い。
背中を打つ。
肩を打つ。
鉄砲と杖が手から離れて飛んでいく。
床へ叩きつけられた瞬間、肺から空気が全部抜けた。
「か、はっ……」
息ができない。
立てない。
そこへ。
怪物が飛びかかってくる。
「っ!!」
どうにか横へ転がる。
直後、怪物が棚へ激突した。
木片が飛び散る。
腰が抜けていた。
立ち上がれない。
涙で視界が滲む。
その時、近くに鉄砲が落ちているのが見えた。
自分は這うようにして掴む。
「ぁ……ぁ……」
両手で持つ。
重い。
腕が震える。
怪物がこちらを見る。
裂けた口が、笑ったみたいに見えた。
駄目だ。
避けられない。
怪物が大口を開いて飛びかかってくる。
「ああああああああッ!!」
叫びながら。
引き金を引いた。
──バン!!
耳が壊れそうな音。
火花。
衝撃。
怪物の身体が大きく揺れた。
怯む。
体勢が崩れる。
でも止まらない。
怪物はそのまま自分へ倒れ込んでくる。
「ぃ──」
自分は反射的に鉄砲を捨てる。
そして。
近くに落ちていた杖を掴んだ。
ただ、前へ向ける。
それだけだった。
怪物が、そのまま突っ込んでくる。
次の瞬間。
杖が、怪物の喉へ深く突き刺さっていた。
「ギャァアアアアアッ!!」
怪物が叫ぶ。
血が飛ぶ。
熱い液体が顔へかかる。
怪物は暴れた。
のたうつ。
振り回される。
でも、自分は必死に杖を握り続けた。
「ぁ……ぁああ……!!」
離したら死ぬ。
それだけだった。
怪物が暴れるたび、杖はさらに深く喉を抉っていく。
肉を裂く感触。
骨を削る感触。
ぐちゃぐちゃの音。
やがて。
怪物の動きが止まった。
どさり、と重い音を立てて倒れる。
「……ぁ……」
静かになる。
自分はその場に座り込んだ。
何が起きたのかわからない。
でも。
自分が、殺した。
その事実だけは理解できた。
「ぅ……っ……」
涙が止まらない。
どうして泣いているのか、自分でもわからない。
怖いからか。
苦しいからか。
それとも。
怪物でも、生き物を殺したからなのか。
わからない。
何も。
でも。
自分は立ち上がる。
足が震えても。
涙で前が見えなくても。
うずくまらない。
銃を拾う。
病院の門を開く。
外へ出る。
夕方だった。
空は赤黒い。
雲が、生き物みたいに蠢いている。
街は腐っていた。
外なのに、空気が淀んでいる。
腐臭が肺いっぱいへ入り込んでくる。
青ざめた血を求める。
自分にはそれを求めないといけない。
何故かはわからない。
わからない。
ただ、獣を狩らないといけない気がする。
仕込み杖を握り締め、獣狩りの短銃に水銀弾を詰める。
片手で持つには、自分では苦しい。だけど、獣を狩らないといけない。
そう思う。
そう思わないといけない。
獣狩りの夜が始まる。
貴方は狩人なのだから。
愛しい私の子 早くあなたを抱きしめたい