くじらぐも 作:タマアリアマナシムナゲアリ
廊下の角を曲がったところで、足を止めた。
「私と一緒にG1目指しませんか!?」
少し離れた場所で、新人トレーナーが声をかけていた。
言葉がハキハキとしていて、廊下に声が響き渡る。
そんな様子を見て、廊下にいるウマ娘達がクスクス笑う。
声をかけられたウマ娘は、一瞬困ったように視線を彷徨わせた。
「……ごめんなさい」
トレーナーは肩をガックリと落とした。
「そう、ですよね。突然すみませんでした」
でも彼女はすぐに引き下がらなかった。
「もし差し支えなければ……理由だけ、聞いてもいいでしょうか」
ウマ娘は、少し考えてから答える。
「実績、かな」
「……ありがとうございます」
深く、丁寧に頭を下げる。
角度も、間も、きっちりしていた。
次の廊下でも、似たやり取りがあった。
断られて、立ち止まり、言葉を受け取る。そのたびに、彼女は相手の目を見ていた。
誰も引き留めない。
誰も振り向かない。
彼女だけが、立ち止まっていた。
しばらくして、彼女はトレーナー室の方へ向かった。
その背中を、一定の距離を保ったまま、視線が追っていた。
歩調は、急いでもいなければ、投げやりでもない。
ただ、次へ向かっているだけだった。
+++
「是非お願いします!」
勢いのままに返事をしてしまった。
廊下にまで、自分の声が響き渡る。
少し遅れて、その音が恥ずかしくなった。
「あ……えっと」
勢いだけで返事をしてしまったが、落ち着いて考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
「……本当に、いいの?」
問いかけると、彼女は小さく首を傾げた。
「何がですか?」
「私、まだ新人だし、実績もないし……正直、頼りないと思う」
今さら取り繕っても仕方がない。
だから、思っていることをそのまま口にした。
「担当になるってことは、簡単な話じゃない。途中で変えることも、簡単じゃないんだよ」
彼女は黙って聞いている。
表情は変わらない。
「レースの結果も、進路も……全部、一緒に背負うことになる」
一拍置いて、言葉を選ぶ。
「それでも本当に私が君のトレーナーでいいのか……ちゃんと考えてほしい……」
短い沈黙。
廊下の向こうで、誰かの足音がした。
「……考えました」
「それでも、お願いしたいです」
言い切りだった。
迷いを探そうとして、やめた。
そこにあるのは、ただの事実のように見えたからだ。
「……分かった」
胸の奥で、何かが静かに決まる。
「じゃあ、改めて――私は、彩雲理恵子。これからよろしくね……えっと?」
彼女は、ほんの少しだけ頷いた。
「私は、モービィディック。モービィでもディックでもいいですよ?これからよろしくお願いします。トレーナーさん」
「それじゃあ…モービィで……」
名前を名乗り合ったあと、短い沈黙が落ちた。
契約が結ばれた、という実感は、まだない。
ただ、さっきまで一人だった廊下に、二人分の気配がある。
「……えっと」
先に言葉を探したのは、私の方だった。
「じゃあ、その……まずは、たづなさんに報告かな」
口にしてから、自分で現実を思い出す。
トレーナーとウマ娘。
それは、感情だけで決まる関係じゃない。
「はい」
モービィは、短く頷いた。
当然のことのような返事だった。
「でも今日は、もう遅いし……」
続けようとして、言葉が途切れる。
“これから”の話を、どこまでしていいのか分からない。
「また、明日でいいです」
彼女が、そう言った。
逃げでも、遠慮でもない。
ただ、区切りをつけるような声だった。
「明日、改めて話しましょう」
そう言って、彼女は一歩下がる。
「これから、よろしくお願いします、トレーナーさん」
もう一度だけ、そう頭を下げてから、廊下を歩いていった。
その背中を見送りながら、私はようやく息を吐く。
——担当を持った。
その事実が、遅れて胸に落ちてきた。
+++
私は家に帰るため、校門を潜ろうとする。
心なしか今日はいつもより足取りが軽い気がする。
「彩雲さん」
名前を呼ばれて、足が止まる。
一瞬だけ、鼓動が跳ねた。
振り返ると、そこにはたづなさんが立っていた。
タイミングが良すぎる……もしかして、私のことを待ち伏せていたのかな?そんな憶測が、頭の中に生まれる。
「今日は少し、帰るのが遅いですね」
怒られる、と思った瞬間には、もう口が勝手に動いていた。
「えと、実は……」
私の言葉はたづなさんに遮られる。
「大丈夫、もう知っていますよ」
「え?」
少し、戸惑う。
私はまだ、モービィとの話を誰にもしていない。
「……知っているんですか?」
思わず、聞き返していた。
「はい」
たづなさんは、いつも通りの笑顔で頷く。
「モービィディックさんから聞きましたよ。トレーナー決めたって」
胸の奥で、ふわついていたものが、すっと形を変える。
「詳しい話は、担当契約の書類を提出するときで大丈夫です」
それは、配慮というより業務連絡だった。
「今日は、もう遅いですから」
帰りを促すように、たづなさんは一歩だけ道を空ける。
「……はい」
返事は短くなった。
さっきまでの熱が足元に戻ってきた気がした。