死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
中華屋の看板は半分落ちかけていて、赤いネオンだけが雨粒に滲んでいた。
店の中は油の匂いと、古い換気扇の唸り声と、湿った人間の気配で満ちている。
特区の朝は地下で終わり、昼はこういう脂で始まる。
カウンターの隅に陣取り、ジンはメニューも見ずに注文した。
「焼豚炒飯ふたつ。……片方は量少なめでいい」
ジンが言うと、店主は無言で頷いた。
会話が成立するのが、この店の数少ない長所だ。
出てきたのは、皿からはみ出しそうな茶色の山だった。
『合成肉の焼豚炒飯』。特区の貧乏人が好む、脂と化学調味料の塊だ。
肉は培養タンクで育った合成タンパク質で、噛むとゴムみたいな弾力がある。
米は古米で、油でコーティングしないと喉を通らない。
「……食え。体に悪い味がするぞ」
ジンはレンゲを突き刺し、山を崩して口に運んだ。
ガツンと来る塩気と、舌が痺れるような旨味調味料の味。
生きるのに向いてない味だが、死ぬ前には悪くない。
隣を見ると、ノアも一心不乱にレンゲを動かしていた。
少なめにしてもらったはずだが、子供の胃袋には巨大すぎる山だ。
それでも、ノアは止まらない。
リスみたいに頬を膨らませ、ゴムみたいな合成肉を真剣な顔で咀嚼している。
(……そんなに美味いか? これ)
ジンは首を傾げた。
高級な味じゃない。むしろ餌に近い。
だが、ノアは時折、隣で同じものを食べているジンを盗み見ては、また一口、嬉しそうに頬張っている。
皿をカラにしたジンがふと見ると、ノアの口の周りが油でテカテカに光っていた。
口の端に、米粒がついている。
「……食い意地だけは一人前だな」
ジンは呆れて、卓上の紙ナプキンを引き抜いた。硬い紙だ。
「じっとしてろ。油だらけだ」
無造作に手を伸ばし、ノアの口元を拭いた。
指先が触れる直前、ノアの動きが一瞬だけ止まる。
次の瞬間、目がほんの少し細くなった。猫が撫でられるのを許した時の、あの短い瞬きに似ている。
ノアは抵抗しない。
ただ、片手でテディベアを小脇に抱え直し、その耳を二度だけ弄った。
いつもの癖。いつもの合図。
ジンには「気にするな」の意味に見えた。
(……気にしてんのは俺の方かよ)
拭き終わったナプキンをジンが捨てると、ノアはまたレンゲを握り直し、残りの山に向かって突撃を再開した。
結局、ノアは完食した。
ジンはノアへ顎をしゃくった。
「……そうだ。あれも食っとけ。レイコがよこしたラムネだ」
ノアはリュックから、プラスチックのボトルを取り出した。
ノアはボトルを見ると、一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、ジンの言いつけには逆らわなかった。
蓋を開け、黄色い錠剤を一粒、口に放り込む。
カリッ、と噛み砕く音がした。
「脂まみれの飯だ。少しは中和剤になるだろ」
ジンが言うと、ノアはこくりと頷き、ボトルを大切そうにリュックへしまった。
ジンは烏龍茶という名前の茶色い水を飲み干し、勘定を済ませて店を出た。
帰り道は、腹ごなしに少し歩くことにした。
車は店の前に置いたままだ。
この辺りなら、顔馴染みの店主が見ていてくれるだろう。
商店街を抜け、ドブ川にかかる古い橋へ差し掛かる。
欄干は錆びて赤茶け、触れるとボロボロと崩れそうだ。
下を流れるのは、特区の排泄物を集めたような黒い濁流。
雨上がりで水かさが増し、ゴウゴウと低い唸りを上げて流れている。
ジンは、ふと足を止めた。
欄干に手を置き、下を覗き込む。
水は黒い。泡立ち、渦を巻き、何かを飲み込むように流れている。
水滴が落ちるたび、表面が小さく裂けてはすぐに塞がる。
(……ここから落ちたら、死体も浮かばねぇな)
ジンは欄干に胸を預けるようにもたれかかった。
黒い水面を見つめながらタバコを咥え、火のついていないそれを噛んだ。
赤烏は、点けなくても苦い。
ジンは息を吐き、背中を丸めた。
その時。
バキッ、と乾いた音がした。錆びた鉄が折れる音。
胸の下が、ほんの少し沈む。世界が一瞬だけ軽くなる。
(ああ……、ここが終点か)
ジンは、驚きもせず、ただ目を閉じた。
グイッ。
コートの裾を、猛烈な力で後ろに引かれた。
「……おっと」
ジンはバランスを崩し、欄干から離れて、よろめいた。
我に返る。
振り返ると、ノアがいた。
顔を真っ赤にして、両手でジンの裾を握りしめている。指が白くなるほどの力だ。
テディベアは地面に転がっていた。
ノアの瞳が、怒りで揺れている。
「……なんだよ。落ちたりしねぇよ」
ジンが苦笑いで誤魔化そうとした、次の瞬間。
ガッ!!
鈍い衝撃が、ジンの右の
ノアが、厚底の運動靴で思い切り蹴ったのだ。
「いっ……!?」
ジンは思わず
地味に痛い。弁慶の泣き所だ。
しかも、この厚底靴を選んだのは自分だ。因果応報にしては早すぎる。
「お前な、蹴ることはないだろ!」
ジンが抗議しても、ノアは睨みつけたまま動かない。
そして、地面のテディベアを拾い上げると、その首を両手で強く絞め上げる仕草を見せた。
「死ぬな」という警告か、それとも「死のうとしたら殺す」という脅迫か。
「……分かった。分かったから、その物騒な手つきをやめろ」
ジンは降参し、欄干に背を向けた。
タバコに火を点ける。紫煙が、川風に流されていく。
「……最近、ツイてるよな。俺は」
ジンは煙と共に、独り言を吐き出した。
「地雷は不発。鉄扉は腐ってる。敵はドジ。おまけに、こんなガキに蹴られて目が覚める。……俺が強いんじゃねぇ。運がいいだけだ」
そう思うことで、生き延びてしまった事実を正当化している。
だが、ジンは知っている。運なんてものは、カジノのルーレットと同じだ。
いつか必ず、赤か黒のどちらかに偏り、最後には胴元にすべて巻き上げられる。
「だがな、ノア。運ってのは、いつか尽きるもんだ」
ジンはノアを見下ろした。
ノアは、テディベアの首を絞める手を緩め、じっとジンを見上げている。
「だから笑うんだ。余裕ぶって、ニヤニヤしてな。そうすりゃ、運の女神も『こいつはまだ余裕があるな』って勘違いして、少しは長く居座ってくれるかもしれん」
ジンは自嘲気味に笑い、ノアの頭に手を置いた。
「……お前も、俺の運が尽きる前にどっか行けよ。巻き込まれるぞ」
本心だった。
いつか、
その時、隣にいるのがこの小さな子供だというのは、あまりに寝覚めが悪い。
だが、ノアは動かなかった。
代わりに、ジンの手を――頭に乗せられた大きくて無骨な手を、自分の両手で下から包み込むように握り返した。
冷たい小さな手。だが、握る力は痛いほど強かった。
ノアはジンを真っ直ぐに見つめていた。
ジンはその視線の強さに、少しだけ居心地の悪さを感じて目を逸らした。
「……しつけぇな。俺の運を食う気か」
ジンは手を振りほどくことはせず、そのまま歩き出した。
ノアはジンの手を握ったまま、テディベアをもう片方の手で引きずりながらついてくる。
*
同じ頃。
特区の東端にある巨大なゲート、『特区検問所』。
普段は賄賂まみれの自警団が欠伸をしているだけの場所だが、今の空気は凍りついていた。
雨に濡れたアスファルトの上に、三台の黒塗りのセダンが整然と停まっている。
排熱を感じさせないボンネット。泥一つついていない、完璧に磨き上げられた高級
特区のボロ車とは、存在としての格が違う。
車から降り立ったのは、揃いのダークスーツを着た男たちだった。
五人。全員が長身で、サングラスをかけ、無駄のない動きで整列している。
その中心にいる男が、検問所の衛兵にIDカードを提示した。
「……つ、通過許可証……!? それにこのエンブレムは……!」
衛兵の声が裏返った。
カードに刻まれているのは、特区を管理し、支配する巨大企業『アーカーシャ』の特務部門の紋章。
「き、企業の『回収班』……!? なぜこんな掃き溜めに……」
衛兵が青ざめて後ずさる。
『回収班』。それは都市伝説のような存在だ。
企業にとって都合の悪い「ゴミ」を、法の手続きなしで迅速に焼却処分する掃除屋たち。
彼らが動く時、必ず誰かが消える。
リーダー格の男は、衛兵など最初からそこに存在しないかのように無視し、手元の携帯端末を操作した。
特区にはない、最新鋭の折りたたみ式デバイスだ。
画面には、特区の地図が表示されている。その中心部、旧市街のエリアで、赤い光点が明滅していた。
「……シグナル確認。座標固定」
男の口調は、業務連絡のように抑揚がなかった。
サングラスの奥の目は、獲物を見つけた喜びなどなく、ただのタスクを確認する事務的な光を帯びている。
端末の表示には、短いコードが浮かんでいた。
708。
男は端末をパタリと折り畳んで懐にしまい、特区の奥――ジンとノアがいる旧市街の方角を見据えた。
「
男はそこで一拍置き、冷ややかに付け足した。
「……ただし、障害物の排除に制限は設けない」
黒い男たちが一斉に車に乗り込む。
ヒュン、と耳鳴りのような電子音が響いた。高性能モーターの駆動音だ。
振動ひとつなく、滑るようにセダンが動き出す。
これまでのチンピラやゴロツキとは違う。
明確な殺意と、組織的な暴力が、静かに特区へと侵入を開始した。